1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #191 不遇な人を優先すると共..
2024-02-25 57:54

#191 不遇な人を優先すると共倒れ?リバタリアンから見た正義

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:06
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回はロールズの正義論というところを見てきたんですけれども、今回はその後、どういうふうに正義というものが語られてきたかというところをもっと見ていくという話でした。
そうですね、はい。ちょっとだけ今回から聞いたよという方もいらっしゃるかもしれないので、まとめつつ説明をさせていただくと、
当時1900年代、中盤から後半くらいのアメリカとかでいくと、いわゆる公理主義という最大多数の幸福を目指すが故に少数を切り捨てかせないぞみたいな、
そういう思想というのが結構一般的でしたと、そこに対してそれを乗り越えつつ、学問的に倫理とか正しいとは何かということを捉えようと。
それまで倫理とか正義というと、いわゆる真善美みたいな、ちょっと抽象的な概念として、それこそ善の偉大みたいな形を遠いところにあるようなものとして扱うことが多かったんですけど、
そうじゃなくて、この社会にとって相応しい正義とは何かみたいな、実社会とか実生活について適応できる正義とは何かみたいな形で議論ができる状況に押し進めたのが、このロールズの正義論ですよみたいな話をさせていただきましたと。
はいはいはい。素人からすると哲学と倫理って同じ引き出しに入ってるんだけれども、意外とそこが違うよって話なんだよね。あくまで一般論的な抽象的な話、正義とは何かみたいな、正義のイデアとは何かの話に行きがちで、自分の話をするとあなたの8かでしょって言われがちな哲学と、
倫理もそういうイメージはあったんだけども、実はもっと社会でどう使うか、かなりテクニカルなというか、実践的な学問ではある感じなんだね。
そうですそうですそうです。倫理観とか言っちゃうとそれぞれのことっぽく言うんだけど、世の中的な倫理でいくとそこから政治をどうする、法律をどうする、あるいは経済をどうするみたいな話になってくるから、それでかなり厳粋に適応できる学問というか考え方ですよと。
もちろんロールズの邪性議論が良いか悪いかとかいろいろな人がいるんですけれども、議論の場を提供しようとか、そこからいろんな議論ができるようになっているという意味では、すごく多くの影響を与えた人だよねというところが認められている方かなと思っています。
今回兄貴が言ってくれた通りで、いわゆるロールズの議論に対してどんな批判があったのかとか、どういうふうにロールズ自身も反論しながら、正義についての考え方が広がっていくのかをお伝えしていきたいなと。
03:19
そういうところをある種考えていくことで、正義というもの自体に知れるというのもそうなんですけど、僕らは正義とか正しさとかって常識みたいになっちゃってるじゃないですか。
一般常識的なところね。
だから正義自体を疑うとか、それについて考えたいことってあんまりないんじゃないかな、日々過ごしていると思うので。
確かにそうだね。既にできた法律とかそういう制度を指して正義って言ってるかもしれない。
そうだよね、そうそうそう。だからね、ちょっと言ったかもだけど、赤信号を当てるのは悪だと言ったときに、それってなんで?とか、それって本当なの?みたいな話っていうのを疑えたりとか考えたりできるじゃないですか。
ロールズの言った正義論みたいなものをマクロ正義みたいな話だとすると、今の個人が赤信号を守るかどうかはミクロ正義みたいな、そういうのも必要な気がしてきた。
その任意の概念が出てくると。
個人にとってとかってももちろん出てくるし、まさにそういう話を考えていくことが正義についてとか、そういうひとつのテーマについて深掘ることにもつながるし、
そういうことをある種考えてきたとか議論をしてきた人たちはこんなにいたんだみたいなことを知るだけでも楽しいって思ってくださるのが、そういう鉄アジアのリスナーさんなんじゃないかとかでもちょっと思ったりするので。
勝手な期待として。
いらっしゃるので、そういうことをお伝えしていきたいなと思っております。
今回ちょっと前回、名前だけ出させていただいたんですけれども、中正雅樹さんっていう、これは日本のいわゆる学者さんなんだけれども、
この方が書いた、現代哲学の最前線という本があるんですよ。
これは2020年に出ていて、この方は金沢大学の法学類というところの教授の方らしいんですけど、
この本自体が正義とか、あとは心の哲学といわれるような分野とか、あとは新しい実際論とか、いろんなテーマ、5つぐらいテーマを取り上げて、
どういう議論があるかというのをまとめた本があるんですけど、
この中で正義という中で、ロールズとか、この方は次回なんですけど、サンデルさんとかを取り上げて、
どんな議論があったかというところを言っているので、結構この本に参考にして、今回とか次回の話をしていこうかなと思っております。
06:06
この本自体はいろんなテーマを使っていて面白いので、今後も参照することがあるかなと思って名前を挙げさせていただきましたという感じです。
では早速どんな批判、ロールズに対してあったのかというのを見ていくんですけど、
前回ロールズは結構分かりやすいよねって言っていたんだけど、2つの原理、正義には、いわゆる基本的な自由というのが平等にみんな持っていますよねという原理と、
その中でもとはいえ実際には不平等な格差というのが出ちゃうから、
その格差もいわゆる公正な競争とかの下で起きたものは良しというか、ある種受け入れましょうとか、
でもその中であまりにも不遇な人とか、知りたげられている人、あるいは人々がいたらそれはちゃんと救いましょうねみたいなことが原理として出てくるという話をしたと思います。
ある種、それを批判して突き崩せればロールズの議論って間違ってるって言えるよねっていう話なんだけど、
ここで攻撃されるのが、いわゆる2つ目の原理に含まれていた不遇な人の生活を改善することが必要だ、正義だっていう話なんですよね。
これ普通に考えたら何の問題もないというか、それって絶対大事じゃんとかなると思うんですよ。
ただ極端な例を考えると、これを本当にそのまま素朴に社会全体に適応していいんだっけってことが出てきますよという話なんですよね。
批判とかって極端なケースとかを想定して、結構お前の議論に罠があるみたいなことがあるんで、
それはまさに実際にやってましょうって話なんだけど、実際にこの本っていうのは正義論じゃなくて現代哲学の最前線っていう本に書かれた事例なんだけど、
例えばある社会、これも本当にモデルとして想定してほしいんだけど、ある社会に治る見込みがなくて、
普通の意味での幸福を経験することができない人がいたとしましょう。
はいはい、藤野病、藤野病。
藤野病とかね。でも実際こういう方って当然今の現代の世界にもいると思うんだけど、
いう時にこのロールズの正義と当てはめると、例えばいわゆる科学技術とか医療技術の進歩とか、
社会が発展することによって、いわゆる藤野病の人の病気が治らないとすると、
社会の方が発展していくからどんどんどんどんみんな豊かになっていきます。
でもその藤野病におかされている人が一生、いわゆる人生ってのは良くならないと仮に想定した時に格差がどんどん広がっちゃうじゃないですか。
09:02
おお、なるほどね。その通りではあるかな。
そうそうそう。できると要は、本当なら不平等っていうのは自制しなきゃいけない。それはできません。
そうなると要は、社会の発展っていうのは否定されるべきだみたいな風な結論になっちゃうよねっていう風な批判があるんですよね。
なんか辺理屈っぽいけど、まあそうだね。
辺理屈っぽいけど。でもよくあるじゃないですか。過去にもそういう辺理屈っぽいけど、色々やってみたら確かにそうだよねっていうことってあるじゃないですか。
まあまあまあ。
僕もやっぱり程度問題だし、こうやってええ感じにやったらええじゃないかって思わせたくないんだけど、
学問的な厳密さみたいなことを考えた時に、やっぱりそういう事例を考えられるとすると、
ロールズの議論って間違ってるんじゃないとか、穴があるんじゃないかとかっていう風な批判はできるよねという感じなんですね。
まあそうだね。
近しいような例というか批判もあって、これもちょっと極端なんだけど、仮に社会はあるんだけど、社会に3人の人間しかいませんと。
1人は医者、2人が病人で、病人はAさんとBさんとするんだけど、どっちも結核にかかってますと。
どっちも結核なんだけど、さらにひどいことにBさんは巻きがにもかかっていますと。
ただね、結核に効果がある薬が出たんだけど、これ1人分しかありませんよと。
で、お医者さんはどっちを救いますかって話なんだよね。
これね、例えばロールズの不遇な人の生活を改善しましょうということを考えた場合には、結核だしかつ巻きがんでもあるBさんを救うべきだという風な結論になっちゃうんだよね。
でも普通に考えたらさ、Bさんは巻きがんでもあるわけだから、結核が治ってもあるし、すぐに亡くなってしまう可能性があるよと。
そうしたら、やっぱりAさんに結核を治す薬は使うべきじゃないかっていう風な議論があるんだよね。
まあそうだね。じゃないとお医者さん1人になっちゃうからね、すぐね。2人とも急で。
社会で考えると、2人生き延びるか1人になるかの違い。
で、まさにこれが1人それぞれの考え方じゃなくて、いわゆる社会全体のことを考えると、いわゆるBさんを救うべきっていうのはロールズ的な考え方が出てきますと。
逆に、Aさんの方を救った方がいいじゃないかと。やっぱりまさにね、2人死んで1人になるよりは、仮に1人亡くなったかもしれないけど、2人生き残った方がいいよねと考えると、これって結構効率的な原理なんだよね。
12:01
社会が全体の幸福を目指しましょうと。その代わりBさんという人がめちゃめちゃ不幸ですみたいなね。
そうね、平気になってもらいましょうとね。
これってどっちが正義なのかみたいな話って結構難しいじゃないでしょうかという話なんだよね。
これでも感覚的にはどっちがいい悪いっていうか、そもそもそのふうに切り捨てること自体が正義っぽくなくないみたいな話は個人的にはあるんだけど、
学問的にいわゆる原理とか主義主張があったときに、それを適用したときに実際どこまでの説得力があるんでしたっけとか、
やっぱり社会全体を本当に適用しようと考えたときに、それってやっぱりやり切れるんでしたっけっていうことはやっぱり考えなきゃいけないっていうのはあると思うんだよね。
仮に公理主義を批判したとすると、同じような偏理屈っぽいことで批判してたりとかいうこともあり得て、
現実社会で何かあったってこともあるかもしれないけれども、
同じことをこのロールズの正理論に適用したとすると、同じようにこれをやってた結果、社会全体で見たら結局全滅じゃんみたいなことになり得ない、なり得るでしょということだよね。
これって極端な話じゃんっていうふうにお伝えしたかもですけれども、
実際に世の中においても、例えばコロナのワクチンの話なんてまさにこれだと思ってて、
僕らは日本に生まれてて、ワクチンを反対派の人もいるのであれなんですけど、
やっぱり少なくとも望めば、しかもほぼ無料だったよね。無料でワクチンを打つっていうことができたわけだよね。
でもそれは当然、いわゆるワクチンを作ってる会社があり、そこに払えるお金があり、
そこでワクチンを安全に届けるっていう物流が整っているっていろんなことがあった中で初めて、僕らそれを享受したわけなんだけど、
当然世の中にそういう環境がないとか、いわゆる払えるお金がなくてワクチンを手に入れられなかったっていうような人たちもいるわけですよね、逆に言うと。
という時にワクチン、限られたワクチンの配分をどうすべきかっていうのは、まさにこの正義とか平等とかっていう問題が現れてくる場面なんですよね。
だからやっぱりそこに対して、別に常に考えろとは言わないけれども、やっぱり本当に何が正しいのかとか、
どういうふうな意思決定が行われて僕らの元にワクチンが届いたのかみたいなことを考えるということは結構大事というか、
やっぱりちゃんと物事を考えて生きていくというか、捉えて生きていくみたいな中では結構大事なスタンスじゃないかなとかは思ったりするんですよね。
15:05
はい、なるほど。確かにそう極端なことが起こったじゃんって話だね。
実際に起こったじゃんっていう。やっぱりそこを個人の感覚で好き嫌いとかで言うよりも、やっぱりちゃんと世の中的な原理とか、
どういうふうなロジックで行われてるんだっけとかっていうところにある種目線を向けてくれるというか、
そういうふうな議論というのがまさにこの3人だけの世界っていうところからも出てくるんじゃないかと思ったりするんですよね。
やっぱり僕らは無意識的に正義というのを捉えちゃうので、
当然ワクチンというものを英霊企業が作ったんだからお金が払えるところを買うべきだみたいなのっていうのも、
すごい実は暴力的な正義だったりするじゃないですか。
まあそうだね。
そういうのはやっぱり無意識的にそういうふうな発想をしちゃうので、それをちゃんと可視化してあげようとか、
ちゃんと見えるように議論の場に引きずり出してあげましょうみたいなことが結構大事だなと思っています。
そういうふうなところなんですよね。
なるほど。確かにお金がある経済的に豊かな国が買うべきだ、買ってもいいじゃんみたいなのって、
さっきの例で言うと欠格だけみたいな人で、お金がない人は欠格プラス巻き金みたいな。
たとえとしたらずれてるけれども、同じことだって話だよね。
そう、構造としては一緒だよね。
巻き金の人が見捨てられても仕方がないっていうのはかなり暴論というか、
なんだけどそこをちゃんと救うことによって、仮に飢餓の問題で亡くなる可能性もあるじゃないか、
そんな人たちに貴重なワクチンを使うべきなのかっていう観論があることも想像できるじゃないですか。
やっぱりその点は割り切れないというか、その中でいろんなことをちゃんと考える人っていうのは結構大事。
確かにそうだね。それは世界規模の分配もだし、
いざ日本に入ってきて日本の中の分配も、高齢者からなのか子供からなのか。
子供は重症化しなかったから今回はみたいになったけど。
それも分からない段階でどうするかみたいなね。
そうそうそう。だからね、結構意外とそういう問題って、
コロナはすごく危機的な状況だったからわかりやすく出たっていうのはあるけれども、
もうちょっと日々の状況でもあるかなと思うんですよね。
そんな感じで批判というか、お前のロールズの議論どなんやねんっていう人たちがいたんだけれども、
ロールズは当然返答というか、そういったことに対して回答というか自分の考えを述べてるんだけど、
結構かなり穏やかな話なんですよ。
18:01
一言で言うと、そんな極端な状況を考えなさんなみたいな話で。
ああ、そう言っちゃったんだ。
それをそのまま言ってるわけじゃないんだけれども、
これも結構僕は難しいと思ってるんだけれども、
ロールズが言うには、そんな極端な場面、
要は一人の人間の命と世界全体というものを対立させるんじゃなくて、
あくまでも普通の人が集まって、いわゆる社会を作っていくんだと。
そういうところの状況を考えたときに、
前回言ったような無知のデールとか厳守状態というものを立てていって、
こういったものを進めていくんだよみたいな。
だからあるいは極端に不具合な人とかってことじゃなくて、
あくまでも性別とか能力とか、
そういうグラデーションが避けられない中で社会を営んでいく。
そういうところにあたって、
この世の中である種、自分というものがどこへ生きていくのか。
自分というのは人々かな。
どこへ生きていくのかとか、
ある種の人々が協力して社会というものを作っていかなきゃいけないと。
そういうふうな前提があったときに、
どうしたら個人の自由とか幸福というものを実現しつつ、
社会全体にも好影響を与えるような原理を作れるかと考えているだけなのであって、
あくまでもそういう、めちゃめちゃ不具合な人とめちゃめちゃ豊かな人というものが、
ある種想定しているもの。
想定したものではないというか、
極端な議論にだけ引きずられて、
自分の論というものは別に無価値になるものじゃないよみたいな話をしていく。
なるほどね。
最初、そんな極端な状況を考えなというのは問題の先送りというか、
正面から答えていないなって一瞬思ったんだけれども、
ロールズ視点でいうとそういうことじゃなくて、
ロールズの正義論みたいなものが、
改めて実装されたとすると、
その価値観の中で生きている人々だったりとか、
行政とか法律みたいなものは、
そういう極端な人もうまく包み込むように人々が協力し合って、
社会を営んでいくでしょうよっていう、ある意味ちょっと期待を込めているみたいな。
そういう感じなのかな?
そうだね。
ある種、もちろんそういった不遇なこととか、
救わない人はいるかもしれないけれども、
やっぱり自然というか、社会全体が発展していく中で、
ある種良い状態に落ち着いていくよねとか、
そういう人たちにも救いの手が差し伸ばれるような、
発展というものがあり得るよねっていうふうな考え方なんだよね。
ちょっと楽観主義とも言えるかもしれないし、
でもやっぱりそういうふうにしていかないと結局、
物事に進まないというか、
21:01
ゼロか1かじゃないよねみたいな。
その反対意見を言った人の代案を聞かせてくださいってなっちゃうもんね。
やっぱりこの倫理が社会と接続される、
ある意味具体的な技術論だとすると、
反論に答える中で何もやらないというのが、
もしかすると一番最悪な手かもしれないという、
課題がある中で対策しないという。
さっき言うと、構成物質をどっちに打とうか迷っているうちに、
2人とも死ぬみたいな。
どっちか打たないとダメでしょみたいな話で言うと、
あなたはBさんに打つんですか?
どうせ負けが死ぬのに。
反論している人が第4人目の人がいたとして、
その人のせいで2人とも死ぬかもしれないっていうね。
そうだね。
あなたはどっちだと思うんですか?
どっちですか?って言えよっていうのは思うよね。
そうだね、そうそうそう。
やっぱりこれがね、前回もちょっと言ったけれども、
哲学とか、そもそも正義と何かっていう場でいくと、
別にそういう議論で全然いいんだけど、
やっぱり現実の社会においては、
それだと物足りないというか、
やっぱりちゃんと現実的に、
この場を課題解決できるような議論をしてくれよ、
みたいな話でもなるだろうから。
いろんな意味のリミットがあるだろうからね。
そうそうそう。
どっちが言い悪いっていうよりは、
やっぱりその問題とか向き合っているものによって、
どっちの方が有効かとかね、
どっちの考え方の方が自分に適切かっていうのがあると思うので。
まあそうだね、
外の社会的な状況あたり、
その課題によっても違うだろうしね。
そうそうそうそう。
もちろん原理的なね、
正義の話はしてるんだろうけれども、
とはいえも。
そうですそうです。
まずやっぱりね、
正義っていうものはやっぱりいろんなレイヤーがある。
ある種、そもそも正義とはっていうレイヤーもあれば、
この世の中においてとか、
僕らが社会において大事にすべき正義とはっていうところが違うから、
そういうところも切り分けて考えていかないとね、
っていう感じではあるので。
そんな風に言うとさ、
やっぱりちょっといい話というか、
確かにロールズの言うこともわかるよねってなると思うんですけど、
とはいえね、
実はこうした考えは面白くは思わないというか、
もう許せないロールズみたいな人もいたんですよと、
いるんですよと。
まあまあそれもわからなくはないよね、
そんな楽観すぎ、
それこそコロナを発射して、
いざって時が来たらどうすんだよっていうね、
人はいるだろうからね。
そうそうそう。
言うのもそうだし、
あとはどっちかっていうと、
世の中がいい感じに落ち着いていくぜみたいな話。
どっちかっていうと、
24:00
まさに平等とか均衡が保たれてるって話だと思うんだけれども、
いわゆる世の中的にリバタリアンと言われる人たち、
自由市場主義者とかって日本語で言うらしいんだけど、
彼らっていうのは要は個人の自由っていうのが何よりも大事だと。
要は兄貴がさっき言ってくれたみたいに、
例えば経済活動の自由で、
稼げば稼いだほど自分のものだと、
要は税金なんて払ってらんねえみたいな、
タックスヘイブンに逃げまくるぜみたいな人たち、
っていうのも言っているわけなんですよね。
もう俺の手柄だっていうね。
そうそうそうです。
ここで自由と平等の対立みたいなのが出てきますと、
自由と平等って両立するのはめちゃめちゃ難しいじゃないですか。
ある種このリバタリアン、自由市場主義者みたいな人から言わせると、
自分の能力、さっきロールズは要は自分の幸福を目指す中で、
世の中にもある種貢献をしていって、
世の中が良くなっていけばみんなハッピーじゃんみたいなことを言ったと思うんですけど、
違うのと、自分の能力は自分のものなんだと。
社会のものじゃねえんだみたいな話があって、
当然それによって得られたお金とか財産とか地位とか名誉とかっていうのは、
自分だけのものなんだぜと。
それを社会の絆とか不遇の人への配慮みたいなね、
その綺麗事で取り上げようなんてゴンゴ道断だぜみたいな。
そういう激しい人たち、激しいっていうか、
そういうものが正義だぜって人も当然いるわけなんですよね。
人々の絆なんて理想主義すぎないと。
そうそうそうそう。
お花畑めみたいなね、頭の中。
お花畑そうそう。
国家とか社会による自由の侵害だみたいな。
そういうこともあって。
ちょっと汚い口調で話したんで、
イメージ悪くなってたかもしれないんですけど。
これイメージ操作です完全にね。
そうそうイメージ操作です。
僕はあんまりそういう人はちょっとなんだろうな、
個人的にはあんまり好きじゃないというか、
言ってもその能力も社会があって発揮できるもんじゃないかとかって思っちゃうんですけど。
日本だと特にね、そういう出る杭的な、
悪い意味でも出る杭みたいになっちゃう。
叩かれるからね。
だからなんだろうな、
やっぱりもうちょっとそういうようなこと考えた方が良くないとかって思っちゃうんだけど、
でもやっぱりさ、
それってやっぱり一つのすごい価値観としては、
すごい素朴なとこから出てくる価値観だと思うし、
だからこそ強力だし、
やっぱりこの自由っていうものを考えるときに、
避けても取れない発想とか立場だなと思うんですよね。
だから前回もちょっと言ったけどさ、
27:00
多くの人、もしかしたら9割ぐらいの人が自分に会ったら怖いから、
多少の不便さというか、
上手くいったときに取られるのは嫌だとかって思うかもしれないけど、
やっぱり誰かが支えてくれるとか、
法的な制度が支えてくれたり、
安心だぜみたいな話はあると思うんですよ。
それがお前は甘いんだと、
ただお前の能力が足りないだけで、
自分でよく稼いで、
一生分の賃金を得ればそれでいいじゃないかって言われたら、
まあまあそりゃそうですけどねみたいな感じになっちゃうなって思うんですよね。
だからやっぱり自分には能力があるから、
それだけの利益とか得る権利があるっていうのは、
特にやっぱり日本だと、
あんまり大プラに言う人は少ないかもしれないけれども、
やっぱり大金少なからね、
そういう風な発想って個々人の中にもあるんじゃないかと思うんですよね。
これはどうしても価値観的な話になっちゃうんだけども、
ある種、昔に遡ってみると、
今でもそうなんだけど、
特定の人とか集団って多くの富っていうのを所有してるじゃないかと。
よく言われる、
世の中の1%の人が世の中の富の何十%を持ってるみたいな話とかもあると思うんですけど、
それがむしろ事実なのであって、
ある種そういった事実の上にも国家とか社会ってのはできてるわけだから、
ロールズみたいに原初状態とか考えて、
なんとなく社会ってこういうのがいいよねとか、
平等ってのが大事だよねっていう風な発想っていうところから社会を捉える。
だからそもそも間違いだとか、
それは歴史的な経緯とか、
世の中の実情ってのが本当は見えてないような議論なんじゃないかみたいな。
そういう風なある種形で反論する人たちもいるわけなんですよね。
これがいわゆるリバタリアの人たちというか、
ある種権利とか財産が再配分される世の中の富豪な人にとって、
ある種平等になるように分配されるっていうのは、
結構歴史的なとか人間の根本的なところからすると、
なんかおかしいよねみたいな。
そういう風な発想で批判する人たちもいますというような感じなんですよね。
今日も兄貴としてどっちの、
吉橋みたいな話と議論の上手さ、悪さ、下手さみたいなのがあると思うんですけど、
どうですかね。
どうなんだろうね。
やっぱりこれってかみ合ってないんだろうなっていうのは思うよね、そもそも。
正義、吉橋みたいな話をしていた時にね。
例えばこのリバタリアが良い悪いかは知らないけれども、
30:03
例えば経済活動というか、
自分たちで稼いだ富は自分のもの、自分だけのものっていう時の、
実はその前提で見落としがちなことってあると思って、
こうやって例えると、
めちゃくちゃサッカーが上手かったたまたまみたいなのと同じことで、
めちゃくちゃビジネスの才能がたまたまあった人が、
今の資本主義の世の中で、
いわゆる一番大事な金とか、
そういったものの成果が出しやすいっていうだけであって、
じゃあその仕組みを作った人たちとか、
仕組みを運営させている何かみたいなものだったりとか、
ただ生きているっていう意味で言うと、
ひねれば水道が出るとか、
トイレの水が流れてくれるとか、
電気がつくとか、
そういった最低限のインフラみたいなもの、あと食料ね、
そういったものへの配慮がちょっと足りてないように個人的には感じるんだよね。
そういう手柄100%自分っていう人に対しては。
本当にそういうんだったら、
そういった文明を全部、
ソロの森じゃないけれども、
全部手放して、
本当に未開のとこに行って、
水から、食料から、
全部作れよって思うかな、
という極端な主張する人に対しては。
だからそういう、
自分が生きているのも、
お金を稼いだとして、成功も、
お互い様周りのおかげ、
というのはある程度は必要だとは思うのに、
それが例えば税金という形で取られたりとか、
それが再配分されるみたいな、
これもある程度、
今の、
例えば自分ビジネスで得た宝100%のもので言うと、
インフラはずれるから、
例えば法人税とか所得税みたいなもので言うと、
タックセーブに逃げるみたいなもので言うと、
自分が自由に機械の平等を与えてもらっているんだ、
という恩恵だよね。
例えばさっきのサッカーで言うと、
サッカーボールを作ってくれている人がいる。
サッカーのルールを制定してくれている人がいる。
サッカーのルールをきちんと平等な形で改善し続けて、
それを監視し続けてくれている人たち、審判もいる。
それを応援してくれる監修もいる。
33:00
サポーターもいるみたいなところを、
全部抜きにしている。
そういうものへの感謝としての税金の考え方は、
あってもいいのかなとは思うんだけどね。
それが、55%はおかしいでしょ、と。
税の利益の55%はおかしいでしょ、と。
せめて30%でしょ、みたいなのが分かるんだけれども、
そういうのをすっとばして、
自由で俺の100%だなら、みたいなのがおかしい。
だから、ある程度の問題なのかなとは思うんだけどね。
そうだね。
ありがとうございます。
ごめん。
ちょっと経済の話に引きつけちゃったけど。
まさにこの辺りは経済とかサービスの話に近くて、
僕らは結構音権派だと思うから、
世の中はグラデーションでしょって僕も思いやすいと思うんだけど、
やっぱりこれが、いわゆる時と場合によれば、
当然いろんな話があって、
例えば、いわゆる官か民かみたいな、
民営化するか国が運営するかみたいな話とかってあるじゃないですか。
郵便とかもそうだったし、電気、鉄道全部そうだったと思うんだけど、
いわゆる官がやる、行政がやるっていうのはどちらかというと、
平等とか均一みたいな方が強い話だよね。
いわゆるどの、日本なら日本全国どの地域でも、
同じような品質のサービスを届けましょうみたいな話だと思うんだけど、
やっぱりそうすると当然ね、今特に郵便とかではそう思うけど、
やっぱり人が多い地域とか少ない地域で、
当然その多い方では足りないし、
人が多い方ではサービスが足りないし、
人が少ない方ではサービスが過剰だしみたいな話だったりとか、
それで民営化しましょうとかってなると、
結局は人が少ない過剰地域だとあるし回っていかないから、
あるし郵便局なくなっちゃうみたいな話になってくるわけだよね。
ローセンバスとかね。
ローセンバス、あ、そう、さっきのやるとこ。
そうそうそうそう。
そういうふうになった時に、やっぱりこう、
それっていわゆる民営化するってことはちょっとリバタリアン的というか、
いわゆるこのサービスっていうものにも、
提供する側にも受ける側にも、やっぱりそういう、
経済的な法則が働いてしまうっていうのがあった時に、
そんなサービスを受けられないところに住んでるお前が悪いとかって
いうふうな発想をする人はちょっとリバタリアン的というか、
でもそういう発想って世の中にもあるはあると思うんですよね。
その場に放り込まれたらそう思わざるを得ないというか、
そうしないと生きていけないからね。
質の悪いサービスとか、もしくはめちゃくちゃ高い金額に
36:04
甘んじるかって話だよね、いざいった時に。
でもやっぱりそれは、いろんな生活とか歴史とかいろんなものがある中で
政策しなきゃいけないから難しい問題なんだけど、
かといって、行政に戻して全員が高い税金を払うのがいいかって言うと
そうでもないみたいな、そこのグラデーションというかバランスの中で
僕らは物事を考えたりとか、実際の世の中で生きているかなと思うので、
例えばハイエクとかフリードマンという経済学者の人たちがいると思うんだけど、
こういう人たちの話っていうのがさっきの本の中に出てくるんですよね。
あんま詳しくないから経済学辞典持ってこないといけないけど、
こっちは哲学思想じゃなくて経済学辞典持ってこないといけないけど。
はいはいはい。
正義の問題って今言ったみたいな、いわゆる経済の話とか、
いわゆるサービスをどういうふうに提供するかみたいな話って
かなり関わってくるんだよね。
僕とかの意見はどっちかというと、
あんまり極端な議論というよりは、
うまいことグラデーションを取ってやっていきましょうというほうが
馴染むかなとは思うんだけど、
やっぱり聞いている方からすると、
いわゆる地方の路線橋なんてありえないと、
困るからうまくやってくれるような組織とか仕組みのほうがいいんだ
という方もおられるだろうし、
そういう時にその議論をちゃんと受け止めつつ、
何が正しい、正義なんだっけとか、
世の中的にはどういうふうな議論を進めていくと
これが成り立つんだっけということに、
ロールズの正義論とかそこから出てくるような
いろんな議論とか、
時間とかというものは生きてくるというような感じなんですよね。
かなりそうな具体的な正義の、思ったより具体的な正義の話をしてるね。
そうなんです。
でも逆に言うとやっぱり、
何が正しいかがないと、
結局はそれこそそれぞれの主義主張のぶつけ合いというか、
何も折り合うところがないようになっちゃうので、
逆に言うと、何が正しいかっていうのは知らないと、
なんとなく泣き寝入りしちゃうというか、
それっておかしいでしょっていうふうに
やっぱり説得力を持って言えない?
感覚だけで判断すると危ない部分もあるっていうね。
自分が困るからやめてくれみたいな話になっちゃうけど、
39:01
やっぱりこれは世の中的に間違っているとか、
これはあまりにも不当であるから、
こういう考え方をしないと間違った結論に至ってしまうねみたいなことを
ちゃんと言えるかどうか。
もしかすると身を助ける場面もあるかもしれないなと思うんだよね。
まあそうはね、確かに。
ここは日本話みたいな話だったけれども、
それとその感覚、
全体がこうだからこうなっててみたいな、
そういう論議的な部分は弱いかもしれないよね。
何となく長いものに巻かれてみたいな感じはあるかもしれないからね。
隣の人も大丈夫って言ってるんだよみたいな感じで言われちゃうとさ、
隣の人が言ってるのはいいかとかってやっぱりなっちゃうと思うんだけど。
自分って悪い…なんだ?
出る杭自分みたいな。
そうそうそうそう。
不都合がね、生じてるのにね。
別にね、出る杭であることとか自分の主義思想をすることは
僕はすごく素敵なことだとは思うんだけど、
やっぱりね、それがひとりよがりなものなのか、
やっぱり世の中的にこうね、いて共有し得るものなのかってやっぱ違うと思うし、
やっぱりできることなら世の中的に共有できる状態で、
やっぱり自分の考えっていうのはいいと思うとか、
自分の考えの方がより良い方向に向かうと思うみたいなことはやっぱり言えるといいよなとは、
僕自身のこととしても思うんだよね。
まあそうだね、そこそこ自分の頭で考えるって話だね。
その議員の言葉のね。
今回がついに出てきたけれども、
正義ってここまで今回ね、いろいろ具体的な話をしてくれてるけれども、
やっぱり何となく法律で決まってる。
だから青信号は進んでいいけど赤信号は止まれっていう。
ここに関して赤信号で止まることが正義みたいなさ。
本当はその何らかのこのロールズみたいな正義論みたいな、
8巻から生まれた法律っていうものがあるんだけど、
その法律を正義だと見出しちゃって、
まあその長いものだよね。
法律なんて長いものの最大のものだと思うんだけど。
長いね。
それにまかえてるだけだったりとか、
もしくはもう個人的なね、
いや急いでんだから、赤信号の行かないと遅れちゃうじゃんって個人的な。
だから赤信号を守るとか、意味ねえしとかってただ反論する。
やっぱちょっとずれてる可能性というか、
あまり建設主義じゃないよねっていうところの前提みたいな感じがする。
絶対みたいな感じがするね、今回の方が。
そうだね、そうそうそう。
これちょっとダサダンっぽくなっちゃうんだけど、
世の中に置き換えるとまだいいんだけど、
会社の中のルールとかさ、
学校でもいいんだけど、
42:00
そういう正義とかあるじゃない。
よく会社って黙認みたいな話だと思うんだけど、
ルールにはちょっと違反してるかもしれないけど、
別に大きな問題じゃないからいいよみたいな。
副業禁止っていう会社があったときに、
ちょこちょこやってて、
別に仕事に影響しないんだったら、
例えばお目こぼしもできようみたいな話が、
昔とかあったと思うんだけど、
今はもうちょっと副業禁止は禁止だし、
できることはできるっていう風に結構制度化してると思うんだけど、
でもそれがやっぱり黙認したらよかったけど、
それでみんながやるようになって、
会社回らなくなりましたって言われたら、
さらに禁止って迷惑にしなきゃいけないみたいな。
結構そういうなんだろうな、
いわゆる安城、安城やってよって今いるのかね。
え、何それ。
え、安城、いい感じにやってよみたいなさ、
安城っていう言葉があるの知ってる。
あー、はいはいはいはい。
僕も上の方に言われて初めて知ったんだけどさ、その言葉を。
結構そういう風にルールはルールとしてあるんだけれども、
正義は正義なんだけれども、
何かこう黙認できるというか、
うまくやってくれたらいいよみたいな、
結構そういう曖昧なところってやっぱ、
これ日本だけなのかなどうなんだろう。
でもやっぱ会社とかでもあると思うんですよね。
だから何だろうね、その辺のより現実にいくと、
正義の問題っていうよりは何て言うのかな、
やっぱ調和の問題にもなってくるのかなって思ったんだよね。
伝わるかな、この感覚。
いや、いまいち伝わってない。
伝わってない?
何て言うのかな、
赤信号みたいな話でもさ、
急いでるから渡って何が悪いみたいに、
言わなきゃいいじゃんみたいな話ってあるじゃん。
要はこっそり黙って渡ってくれてるで事故も起きてないし、
誰も困ってないならまあまあ何も言わないけど、
でもなんか赤信号を守ってる奴はアホだみたいなことを言い出したら、
さすがにちょっと反論すづらえないみたいなさ。
なんかそういうことって世の中にいっぱいあるよなって思ったんだよね。
あれ、あんまり伝わってないぞ。
どういうこと?
何て言うのかな。
今回さ、その正義がテーマじゃない?
だから正義っていうのは何かとか、
正義というものはどう適応するかって話してるんだけれども、
すごい身も蓋も入れない言い方をすると、
それだけじゃ、それだけで僕らは生きてないよねって話はしたいだけなんだけど、
やっぱり要はな、
前回言ったかどうか申し訳ないけどやっぱり正義、
何が正義で何が悪かって言うと、
スタンス自体が結構何だろうな、
すごい二言論的だし、
結構断罪的じゃないですか。
それは正しいとかそれは間違ってるみたいな。
45:01
そういうふうに言わなければ、
言わないことで上手くいってることが世の中にいっぱいあるよなって思って。
ある種、これは正義とかこれは悪とかって言わないことで、
グレーゾーンの中で上手くやってるよね、みんなみたいなことってあるよなって思って。
ああ、さっきの不良だったりね。
そう、不良だったりとか、
赤信号とかも本当はダメじゃん、やっぱり止まんなきゃいけないけど、
多分みんな1回くらいは赤信号渡ったことはあるよねと。
それでも世の中が回ってるのは、
別に法律とか正義っていうものだけじゃなくって、
違う調和みたいな論理というか、
そういうのが働く場があるから回ってるんだなっていうことで、
正義っていうものと調和っていうものを、
もうちょっと違う軸に取られるんじゃないかというふうに思ったんだよね。
なるほど、調和って表現するんだ、それ。
調和って表現する。
だって正義って言うと、正義を守らない人は悪だっていうふうにすぐ排除になっちゃうじゃない。
とか、正義っていうものを明確に定めようと思うと、
結局はそういうなあなあな世界とかに全部メスを入れなきゃいけないじゃない。
結構いわゆる軍隊的な規律的な社会というか組織になっちゃうと思うんだよね。
人と人が調和してるというよりは、
ただルールのもとにつながれているというか、
縛ってる。
そう、縛ってる。
そういう環境だと、逆に調和って生まれないんじゃないかなとか、
っていうことを想像したんだよね。
確かに今言いながら思ったけど、ちょっと突拍子もない接続というか、
連想だったかもしれない。
それこそ自分の価値観とか感想を今言ってしまったんですけど。
回答的には面白い、興味深いところなのかな。
面白いと思うんだよなあ。
みんな正義正義って、今回正義がテーマだからさ、
正義とは何かとか、それはおかしいとかっていうのをリバタリアンの方とか、
リベラルの方とかバンバン言い合ってると思うんだけど、
別にさ、ある種そういう原理原則も大事だけど、
でも現状をうまく回したらよくね?みたいな発想っていうのもあるわけじゃない?
やっとちょっと言いたいことは分かってきた気がするけど、
分かってきた?
今回のロールズの話とちょっと似てる気がして、
多分これもまたグラデーションというかさ、
社会契約説が出てきて、公理主義が出てきて、
48:01
またロールズが社会契約説っぽい感じを出してきたのと、
すごい今の流行っての感覚が似てるなと思って、
いわゆる思考実験的な話だったりとか、
昔実際そうだったかもしれないけど、
実際そうだったから、例えば信号がない状態を原初状態として考えると、
そこで車が出てきますと、
そうすると絶対ぶつかったり事故がめっちゃ起こる、
だから絶対信号は必要だと。
間違いない。
じゃあ仮にありとあらゆる交差点に信号を設置した結果、
無駄に待つ交差点とかが出てきて、
絶対ここは来ないでしょ。
行った方がほぼ99%みんな早く目的に着くでしょ、少し。
みんな何この不幸せな交差点みたいなものがあった時に、
連鎖にやっていったがゆえの不都合さと縛られるみたいな、
非効率みたいなものが絶対に生まれると。
その非効率部分っていうものを、
だから正義で非効率になった部分っていうものに、
はやと見るとこの調和っていうものを、
正義と調和の分配量だったりっていうものをきちんとやっていくと、
より正義のもとに迷惑をこむっていうか、
非効率をこむっていう人たちっていうものがもっと効率になることで、
いわゆる人一人一人にとっても、社会全体にとっても、
そのちっちゃいちっちゃいマイナスかける0.1みたいなものが、
かける0.1ぐらいには転じて、
より良い社会になるんじゃないかっていう可能性をはやとは感じているというような風に捉えたかな。
そう考えると、調和2.0というか、
一回転した後の正義の後の話。
ルールがちゃんとあったとか、正義があった上での話だね。
分かる気がする、それは。
確かに確かにそうだね。
具体的に場面としてはよくあるじゃないですか、
会社でもルール作りましたとかさ、こういう仕組みでやっていきましょうとかって言うんだけど、
最後のところは運用で何とか現場でカバーしてみたいなさ、
あった時に、やっぱり現場でいい感じにカバーしてが言えない世界はそれぞれきついよねって思うんだよね。
全部間際にしてって言われる厳しさ。
そうですそうです。
だからこれはもちろん、どの立場で語れるかに全然違っていて、
51:02
国のことを考える人がやっぱりそのぐらい細かく考えてほしいよねとも思ったりもするし、
でも国の人が全部市町村単位のあらゆることを考える方はそれは無理だよねとも思うし、
会社でもそうで、例えば経営企画の人がいた時に、
経営企画の人がいろいろルール作ると、いわゆる事業部の人は不満が溜まるみたいなさ、
やっぱりそういうものって世の中のあちこちで起きてるじゃない。
そうね、全体最適と部分最適のトレードオブみたいな。
圧力みたいなね、本社はダメだっていう現場と、現場やってくれって本社みたいなさ。
あった時に、やっぱりそこに正義だけじゃなくて調和ってものを加えると、
上手く保管できる、兄貴が言ってくれた通り、不都合とか不合理的な部分が解消しやすくなるんじゃないかなって思ったんだよね、確かに。
なるほど、はいはいはい。
そんなこと言ってる人いるのかな?調べてみようかなと思うけど。
まあいるんじゃないかな。
ね、いそうだよね。
まあそれこそが対話というかさ、調和というか対話だよね。
まあそうね、対話に近いかな。
すごく感覚は似てると思うので。
さっきの部署間の喧嘩って、
たぶんやっぱりお互い全体最適っていう視点と、それを判断するための情報だったりとか、
何かが欠けてるんだよね。
そうだね、大体ね。
文化なのか情報なのかが足りてなくて、
たぶんその文化部分だよね、少なくとも一番本当の部分だよね。
今回正義ってそもそもなんだってみたいなところをきちんと共有した上で、
その上に例えば赤信号が当たらないというルールがあるんだなっていう、
そこまでは最低限共有してれば、
赤信号守るなんてバカ出てるって言った人と、
いや、赤信号なのに当たるなんてアホだろっていう人のすれ違いが終わって対話が可能になると。
たぶんその可能性を早いとは調和というふうに表現してるんだろうなって。
確かにその通りですね。
そうするとやっぱり調和超大事っていうふうに共感はできたかな。
全く分かんなかったけど。
ありがとうございます。紙砕いて解きほぐしていただいてありがとうございます。
もう無理だと思った。また伝わらなかったと思った。ありがとうございます。
でも本当に言いたいことはそういうことです。
そう考えるとかなり根本的な話を早いとはしてるね。
そうなんだねと思った。言われて。
ありがとうございます。これね、話をしてるとありがたいですね。
54:02
最後の最後のミスコミュニケーションというか。
久々に起きましたけど大事だからありがたいですね。
自分が話すことで対応してくれるからこうやって自分に気づけるっていうね。
最近お便り欲しいって言ってないからか、実はお便り全然届いてないじゃないですか。
ちょっとここで改めて、今の僕とか兄貴の会話を聞いてぜひ思ったことがあれば。
私には伝わったよとか全然分からなかったとかですね。
そういうのもあればまたいただければ嬉しいなと。
お便りフォームのURLが説明文に書いてるので。
よかったらいただきたいというのをあえて伝えてみました。
そうですね。
そういうこともいただければ嬉しいなというところで。
それちょっとだいぶ長くなっちゃったんですけれども。
今回ですね、ロールズの正義論というのを前回出てきた中で批判として、
ロールズの原理自体を批判してもちょっと極端だけども批判しましょうという話と、
そもそも平等とか均等っていうことが違うんだみたいな話というところの意見を見てきたんですけれども。
ちょっと続きます。
次ね、いよいよマイケル・サンデルさんという教授ですね。
この人は日本でこれから正義の話をしようという本で有名になったぐらいの人というか、
この人がめちゃめちゃすごいというよりは名前聞いたことありますよねぐらいの感じなんですけど、
こういういわゆるロールズとかから来る議論の中で正義について考えた人なんですよね。
まあ倫理学者なのね。
そうそうそう。そうですそうです。
ちょっとサンデルさんがどんなことを主張したのとか、
こういう議論の流れの中でいうとどういうことを考えた人なのというところを次回お伝えをして、
またちょっと違った意味でも正義の捉え方というものが出てくるかなと思うので、
次回も引き続きお話ししていきたいなと思っているというような感じでございます。
わかりました。
やっぱりこの倫理だから特にかもしれないけれども、
この答えのない話をするっていうのはそれぞれ楽しいね。
それをちゃんと前提揃えた上で対話にもっていくみたいな最後の話をする。
やっぱり人間の価値観、それこそ感情と価値観が出やすいところだから、
逆に言うとだからこそちゃんと前提を整えてお互いに対話ができると、
あ、そんな考え方もあったんだとか、
あるいは自分ってこんな風に実は考えたんだっていうのが自分で気づくみたいなね。
まあそうだね。考えさせられてたんだって話だよね。
法律に従ってただけだったなとか、
法律に全部反発してただけだったなみたいな。
そうそうそう。
法律じゃなくてもさっきの会社の中田文化でも学校でもいいけど、
57:00
法則に全部逆らってました。
結局根っこが同じじゃんみたいなね。
あったりするんで、
それこそテスアップ対話というか、
やっぱりみんなでディスカッションすると面白いテーマかもしれないね。
ロールズの話があったんだとか、
スプラティスは実はこうやってたんだとかね。
教授はこう言ってたんだみたいなね。
そこがあるとまた土台が揃うっていう話になるんだろうなと思うので。
そんなことも思いながら、今回ちょっと長かったんですけども、
以上でございます。
また次回は有名人のサンデル教授ということで楽しみにしていきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
57:54

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