むらた
さあ始まりました、なんでも倫理ラジオです。このポッドキャストは、動物と倫理と哲学のメディア、エースがお送りします。
進行は私、むらたです。よろしくお願いしまーす。 今回は、今年の2月1日に開催された動物倫理の学会、動物倫理かいぎの創立記念イベントでの発表を
登壇者の方にご紹介いただこうというシリーズ、第3弾です。 今回はですね、東京農工大学で研究されている仲間礼さんをお迎えしています。よろしくお願いします。
こんにちは、よろしくお願いします。 聞き役としてASメンバーからは、ちはるさんに来てもらってます。
はい、よろしくお願いします。 今、ASメンバーからはとか言っちゃいましたが、みんなエースメンバーです。
動物倫理かいぎ2月で、ちはるさん一緒に聞きに行きましたね。
ちはる
うん、行きましたね。行った時こう、みなさんの発表もちろん楽しかったんですけど、
礼さんの発表、特になんかわかりやすくて、なんかずっと楽しかった記憶があります。
嬉しい。 そう、だからもう一回ね、今回改めてお話聞けるのが楽しみです。
むらた
はい、私もすごく楽しみにしてきました。ということで、はい、今日は3人でお送りします。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
では、早速、礼さんに発表内容をご紹介していただくんですが、
まず、ご自身の普段のご研究について、軽くご紹介いただけますでしょうか。
仲間 礼
はい、先ほど紹介のところでも言っていただいたんですけれども、東京農工大学というところの今、博士課程で、
専門は動物倫理だったり環境倫理と呼ばれる分野の研究しています。
もともと関心あったのは野生動物の管理とかなんですけれども、
今、博士論文でやっているのは、そういった具体的なテーマというよりは、どういう理論が一番合理的かなとか、一番良い法律とか作れるのかなという理論的な部分に焦点を当てた研究をしています。
むらた
なるほど、最初から動物倫理ではなく、割と現場っぽいところからスタートだったんですね。
仲間 礼
そうですね、その辺が今日の発表にもちょっと関係してくる。
むらた
ということで、では発表の内容の方にお聞きしていきたいと思いますが、
今回のテーマが、「動物好きと動物倫理の微妙な(?)関係ということですが、このテーマを選ばれた理由についてお伺いできますでしょうか。
仲間 礼
はい、さっきもちょっと述べたんですけれども、少し長くなってしまうんですけれども、関係することなのでちょっと長めに話します。
僕のこの勉強の経歴っていうところなんですけども、もともとは全然倫理というか哲学とは全然関係なくて、
興味があったのは動物の生態を調べることだったり、自分の好きな自然、海とか森とかを守ることに興味があって、そうしたことを広く学べそうな今の大学を受験の時は選びました。
なので、学部の3、4年生ぐらいまではそういった勉強をしていたので、区分というと理系の勉強をしていました。
ただ野生動物管理だったり生態系保全という科目をとっているうちに、こうした学問だったり研究ってどういう理由でされているんだろうというところが気になっていて、
大雑把に言うと、例えば増えすぎた動物だったり外来種を駆除することを管理って呼んだり、
あとは生態を、動物の生態を知るためにその動物を捕まえたりもしてたんですけれども、そういったことの必要性というか正当性っていうのがどうやって説明されるんだろうなっていうのが素朴な疑問として抱くようになりました。
で、僕がこういうことを思うってことは先生たちに聞けばさらさら答えてくれるものだろうと思ってたんですけれども、先生に質問しても、あとは教科書的な本を読んでも、
それを任されている感じというか納得のいく回答が、得られなくて首尾一貫した回答っていうのがなかったので、
あれ結局なんだろう、こっちの都合のいいように知りたいこととかやりたいことやってて、
まあその何だろう、罪滅ぼし的な感じで、動物福祉にも気を遣ってこういう研究してますよみたいなことしか書かれてなかったんで、
正直言うとそこスルーされているところに幻滅してしまった節があって、
自分がやりたいって考えてたその自然守ったりとか動物捕まえたりすることになんか大義名分がなくなったっていうか、
っていう感覚になって、その胸を張ってこの勉強したいって思えなくなったっていうことがなんだろう、学部3、4年の時にありました。
で、まあこういう話してたんで、先生たちとか同級生にもなんかこいつ青くせえなみたいな思われたと思うんですけれども、
そういう状況の時に、今も所属している研究室、うちの大学では多分唯一の人文学というか哲学系の研究室なんですけれども、
その指導教員の先生がそうした問題意識を大事にして、自分の立ち止まりたいところで好きなだけ立ち止まって考えていいよって言ってくれたので、
これまでの理系っていう枠組みの勉強じゃなくて、そういうところを深く考えていい哲学系の研究室に所属して、
動物倫理を勉強していくっていう道に入っていったっていうのが、まず僕の経歴としてあります。
むらた
なるほど。最初はもう理系のそっち側で始めたけど、疑問を持つようになったら全然何も答えてくれなかったっていう。
そもそもそこを倫理学とかとつながってないんだなっていう、ちょっと驚きもありますけど、そうなんですね。
仲間 礼
そっか、この発表テーマにした理由ですね。この発表テーマを選んだのはまたいくつか理由があるんですけれども、
まず動物倫理かいぎっていう会の趣旨を考えた時に、2月に開いた会議には広くいろんな人に来てもらうっていうのがあったんで、
まずは専門用語をバンバン使ったり、複雑な概念とか理論が出てくる話はなるべく避けようっていうのがありました。
で、他の登壇者の皆さんとミーティングとかしてたんですけれども、
その他の登壇者のメンツとかを見た時に、全くヨイショをするわけではなく、本当に客観的に見て、皆さん優秀な方々、頭のキレキレの方々ばっかだったので、
もうかっこいい、The研究みたいな話はこの人たちに任せてれば大丈夫だと思って、
だったらこの会の趣旨とか考えても、自分がずっと哲学やってたわけじゃなくて、ちょっとこういう変遷があったっていうところも絡めた方が、
会議だったり出席している皆さんのためになるんじゃないかなって考えて、
テーマ「動物好きと動物倫理の微妙な(?)関係」っていうこの研究っていうよりは、どうやって対話を進めていけばいいか、見解が合わない人たち同士でもどうやって考えたり話し進めていけばいいかっていうところをテーマに決めたっていう理由があります。
むらた
本当にこの会の動物倫理かいぎの趣旨、ちょっと今振り返って見返してみたんですけど、一文目が、「動物倫理かいぎは、人間と人間以外の動物たちのより良い関係を、多様な実践と学問に身を投じる人々の対話によって追い求めるための学会です。」と
あって。来ていただいた参加者の皆さんも、動物倫理とか哲学が専門の方ばかりじゃなくて、きっと環境系だったり、動物と実際に対面して関わる人たちだったり、いろんな方がいたと思うので、
第1回にふさわしいテーマだったんじゃないかなと思います。
ちはる
本当にそう思います。私も礼さんのその切り口があったおかげで、みんな対話ってのは大事、誰にとっても大事なことだし、本当に倫理学とか重いテーマに捉えがちなところがあると思うんですけど、
そういったところも気にせずスッと話に入っていけたなって思いました。
むらた
ということで、いざその中身に入っていきたいと思いますが、
まずこの発表の流れというか、ご紹介いただけますか?
仲間 礼
この発表の流れとしては3つぐらいのパートに分かれていまして、発表の分量としても前半が結構長かったんですけれども、それぞれ見ていくと、
一つ目が、そもそも動物倫理、タイトルにも出てるし、会議の名前にも入ってる動物倫理っていうのが何なのか、どういう考えをしているのかっていうところを簡単に紹介するっていうパートです。
会議の発表順で言うと、僕は2番目で、前の発表でも動物倫理っていうものの説明をされていて、
ただそれはカントっていう哲学者の理論、義務論っていう理論に基づいた動物倫理っていう切り口だったので、
僕はその倫理学の中でももう一つ主流の理論とされている、功利主義っていう考え方に基づいた動物倫理についてこの最初の部分でお話ししました。
2つ目のパートでは、ここで紹介したような動物倫理の考え方が一見すると仲良くできそうな動物好きであったり、自然好きの人たちの立場と衝突してしまうことがあるということを指摘しています。
この中ではこうした見解の不一致をさらに2つに分けて、動物倫理が甘すぎるってされるケースと、反対に動物倫理ってちょっと厳しすぎるんじゃないですかと指摘されるようなケースを2つに分けて、1つずつ、2つずつぐらいかな、紹介しました。
最後のパートでは、こうした衝突がそもそも何で生じてしまうのかっていう原因を考えた上で、じゃあどういった対話を目指していこうかといったところの提案をしています。大きな流れとしてはこんな感じだったかなと思います。
仲間 礼
今説明したこの功利主義に基づいた動物倫理っていうのを考えるときに、普通の動物を守りたいだとかその純粋に行為で考えていらっしゃる方が何か引っかかるポイント、引っかかることが多いのかなっていうポイントとしては、動物倫理って名前ついてますけども結構冷たいことも言うことのある理論でして、
その倫理学の理論として着目したい特徴というのは、こうした考え方が事実と論理っていうのをだけを大事にして動物への配慮を導いているっていうところが特徴として言えるのかなと思っていて、
初めからこの功利主義的な動物倫理っていうのは、動物を守るっていうところからスタートしているっていうよりは、私たちが捨てることのできない原則だったり、大原則、誰もが認めるようなところを組み合わせていくと動物への配慮も導かれるだよねって合理的に考えるとそうなりますよねっていうスタンスなので、そこはちょっと動物愛護とかとは違うのかなっていうところが挙げられます。
むらた
この後の動物倫理が厳しすぎると批判されるっていうところにつながってくるところですかね。
仲間 礼
そうですね、まさにその通りです。
むらた
はい、ということでその動物倫理が批判されるケースについてお聞きしていきたいと思いますが、
まず動物倫理が甘すぎるのではとされるケース、こちらいかがでしょうか。
仲間 礼
はい、ありがとうございます。
動物倫理が批判されるケースの中で一つ目の動物倫理の考え方って甘すぎるんじゃないかっていうことで、これは実際僕も何度も言われたような話題になりますけれども、
この発表で取り上げたのはこうした批判は、例えば自然環境であったり生態系、あとは種とか群れとか比較的大きなもの、
抽象的であったり大きなものが問題になる場面で多く向けられるような批判になります。
ここでその中でも具体的に取り上げたのは外来種問題でして、ここで論点になるのは、例えば固有種は守るべきなのか、同時に外来種は排除すべきなのか、
あとは数が少なくなることによってその種の価値っていうのはどんどん上昇していくものなのかっていった論点が古典的な論点かなと思っています。
発表では具体的に議論になったケースを紹介していて、これは日本ザルと台湾ザルの交雑問題ですね。
これはもう抜粋なんですけど、下北半島だったり和歌山県などの地域で日本ザルと台湾ザルの交雑が確認されたことがあります。
この問題に対して遺伝的な撹乱だったり、それによる生態系の撹乱の防止、また日本ザルという種の保存などを目的にして台湾ザルの駆除が行われました。
この事例をモデルケースにして考えてみると、先ほど紹介したような動物倫理の視座に基づくと、在来種、日本に固有の種だったり在来種だったり希少種、
あるいは種の存続そのものには特別な価値があるとは考えません。
なので台湾ザルを駆除するときには、動物倫理の側はそれが在来種だからとか、日本ザルが在来種だからという理由よりももっと強い理由を求めることになります。
なので動物倫理の側がこの駆除をするべきだという意見に対して投げかける疑問としては、「純血性にどうして価値があるのか?」であったり、
そもそも駆除すべき種だったり維持すべき生態系というのはどういう線引きで決めているのかということだったり、
あとは、生態系バランスに大きな影響がないと仮定するなら、在来種が外来種に置き換わったり駆除することそのものには全然問題ないんじゃないですかと問うことになります。
今は日本ザルと台湾ザルの駆除について見たんですけれども、他にも例えばトキなどの多大な努力や資金で維持されている動物だったり、
品種改良された愛玩動物などの維持についても、わりと動物倫理はそれってそんなにお金かけたり頑張って努力して維持する必要があるのかというふうに問うことになります。
これらの見解をまとめると、幸福や権利の主体である個体というものに着目する動物倫理は、
今の環境であったり、今あるシステムを無批判に肯定することがないのと同様に、種の存続自体もさほど問題視することはありません。
なので各個体が幸せかどうかは重要ですけれども、この種をずっと維持すべきだとは考えないということになります。
これが功利主義とか動物倫理の見解に、おおよその見解になると思います。
ただ、こういう動物倫理の見解は、保全管理学だったり生態系保全をされている方々から見れば、とても悠長な呑気な甘いものに映るものでして、
私が実際にそういった研究会で言われたこととしては、外来種問題がテーマのシンポジウムですと、
本来ならそこで伸び伸び生きていたはずの外来種が入ってきたことによって数が減っちゃっている在来の生き物を救うのは普通に考えて私たちの務めでしょうと、
なんでそんな細かいことにこだわってそうした在来の動物を助けないんですかというふうに言われたことがありますね。
で、もう一つ言うと、競技動物、例えば競馬とかでサラブレッドとかはすごい管理されて作り出されていると思うんですけれども、他にも愛玩動物、
チワワとかブルドッグとかは体に負担がかかるように作られているけど、人間から見たらかわいいみたいな動物についても、
確かにそういう病気になりやすいとか体に負担がかかるとかいう問題はあるけれども、こうやって私たちが作っちゃった人間の活動によって生み出されたんだから、
もうそれをそのまま管理したり維持していく責任が当然あるでしょうというふうに言われたこともあります。
むらた
いやー、なるほど、動物倫理的には野生動物とか好きなように自由にさせておけばいい、人間は介入しない方がいいっていうそんな感じだけれど、
生態保全とか動物をどう管理するかみたいなところに焦点を当てている側からは、そんなほっといちゃダメでしょ、ちゃんと管理しないとっていう批判が向けられるということなんですね。
仲間 礼
そうですね、もちろん数が増えすぎちゃって、明らかに生態系全体にダメージが変わってしまってるとかいう場面だったら、功利主義でも何らかの介入は必要だっていう可能性は全然あるんですけれども、
在来種だからとか可愛いからとかそういったもので選別するのは当然理由にはならないとか、あとはそんなに幸福の度合いが変わらないんだったら、そういう介入する方がいいんじゃないかっていうことは多分意見の総意としてあることですね。
むらた
なるほど、動物倫理としては、そんな在来種を守る理由があるんだったら、ちゃんと言ってみなさいよみたいな感じになるわけですかね。
仲間 礼
そうですね、だからどっちもちゃんと動物のことを考えてるはずなのに、片方から見ると、「なんでこんな結論になっちゃってんだ、この人たちは」みたいなので、平行線たどるっていうことはよくありましたね。
むらた
なるほど、これが甘すぎるとされるケースでした。
では、逆に動物倫理が厳しすぎるんじゃないかと批判されるケース、こちらはいかがでしょうか。
仲間 礼
はい、そうですね、今度は動物倫理が厳しいとされるケースで、この批判が向けられるのは、さっき功利主義に基づいた動物倫理を紹介する時にも述べたように、
動物倫理、倫理学という学問の性質上、事実と論理に基づいて合理的に考えていきましょうというのがあるので、
こうした批判が向けられるのは、動物倫理がどんな行為が不正なのかといった、ちょっと細かいところを突き詰めて考えるときに向けられやすい批判だと僕は考えています。
より詳しく今のところを言うと、倫理学というのは様々な道徳的な概念だったり論点というのを、
そもそもそれってっていうふうに、そもそもの部分まで遡って細かく考察するっていう特徴があります。
具体的には、幸福とは何なんでしょうか。具体的に幸福って何を指しているんでしょうかとか、
危害だったり義務とか権利って普通に使っている言葉があるけれども、それって実際何を指しているんだというか、
あとは、すごく変に思われるかもしれないんですけれども、殺すことって常に本当に不正な行為なんでしょうかというような議論も真剣にされているので、
こうしたところが倫理学の特徴というか、そもそもまで遡っているっていうのがよく現れているところかなと感じます。
で、そうですね、特に動物倫理っていう名前にそぐわなそうな議論としては、
死の概念を持たない存在を苦しませずに殺すことができるんだったら、その行為は別に悪くないんじゃないですかっていう議論は結構昔からありまして、
これとかってもう全然倫理学っぽくない、殺すことが悪くなくなる場面考えてみましょうみたいな感じなので、
なんでそんなこと考えるんだっていうふうになると思うんですよね。
これを動物の問題に当てはめると、ちょっとこれは細かい話なのでスルーしていただいてもいいんですけれども、
仮定として思考実験のような感じで幸せな幸福な家畜を生み出すことができたとしたら、
その家畜、そんな幸せな家畜を私たちが食べ続ける行為の方が畜産だったり肉食をやめることよりも道徳的に良いのではないかという議論がありまして、
その理由としては単純に家庭によって家畜は幸せだという仮定が置かれているので、
家畜の幸福プラス人間の味覚的満足により畜産がない世界線よりも幸福の総量は多くなるじゃないかという議論がありまして、
こうしたこの今述べたような議論は結構良い線行ってると私自身は思うんですけれども、最終的には否定されると考えています。
ただちょっとテクニカルな議論にもなってくるので、今回はこの議論には深入りせずに、こういう普通に考えたら変じゃないかって思われるような議論が真面目に検討されているということをここでは紹介します。
で、こうしたトピックが動物倫理において真剣に論じられるのは、合理的に考えるとどういう結論が導かれるのかっていうところを重視している学問だからと言えます。
ただこうした姿勢は、本当に良心的な動物擁護、動物愛護の立場から非常に評判が悪いものでして、先ほどから言っているように、「こんなことが話し合われているという時点で全く倫理的じゃない学問ですね」、
「動物倫理って言ってるのにどういう場面だったら殺していいかっていう話をしている、だったらもう動物倫理と名乗るにふさわしくない」という指摘も結構私自身受けてきました。
先ほどは「動物倫理悠長だね」、「甘いね」って言われたんですけれども、今度はなんでそんなことまで細かく考えるんだと、動物の味方じゃないじゃないかっていうふうな批判になります。
仲間 礼
これについては本当にありきたりな提案で、それができれば理想的だよということなんですけれども、
僕が自分のゼミや研究会などでも大切にしているのは、こういうちょっといろんな価値観だったりいろんな立場からの意見がある問題については、
まずは最初から結論を求めるのではなくて、時間をかけてそれぞれの立場、一人一人の方がその問題に向き合うときに大事にしているものだったり出発点というのを全員分確認するという作業を怠らないというのが、
最初のステップだけどその後の議論も左右するような超大事なステップだと考えてます。
具体的に言うと、先ほどは動物倫理と保全管理、あとは動物愛護という3つの立場を想定してましたけれども、
その立場に沿って考えると、聞ける質問としては、まずあなたは何に対して危機感を抱えているんですかとか、
いろんな懸念事項があるなら、どのような優先順位、何が一番解決したいことか、何が一番問題だと考えているか、またそれはなぜですかというふうに聞くことができると思います。
また研究であっても、活動であっても、そうしたあなたの活動だったり理念を支えているもの、
人によっては幼少期のバックグラウンドが関係しているかもしれないですし、研究所を揺るがせにはできない信念があるかもしれないですし、
そうしたあなたの活動を支えているものは何ですかというようないろんな質問の仕方ができると考えています。
ここを今言ったのはとても普通なことなんですけれども、実際私が研究活動を進めて、いろんなゼミだったりシンポジウムに出席した経験から言うと、
はっきり言うと動物問題、動物に関する問題を議論する場のほとんどで、こうした共有できていなくて、
単純に言い合いだったり、それとは反対にお互い、なるほどねというだけの会になってしまっているという印象があります。
よくあるのは、すぐに人と動物が共生するにはどうすればいいと思いますかという超大きいテーマを掲げてそれに切り込んでいったり、
あるいは隠れた前提、それぞれが大事にしている前提というのは明らかにしないまま、
かなり論争的な、今増えている何々をどう駆除すべきですかね、みたいな論争的なトピックを切り込んでいくので、
よくても浅い議論に終止して平行線のまま時間切れを迎えるというパターン。
お互いにあいつら本当に分かっていないなと思いながら帰るというのが本当にたくさんあるなというふうに経験としてはあります。
こうした確認作業を行わずに議論にどんどん進んでいくことは、私ちょっとよく使うたとえなんですけれども、
それぞれ違うルールを採用した上で試合、ゲームをし合っているようなものだなというふうに考えていて、
各々が何か大事にしている前提だったり出発点があると思うんですけれども、
そうした自分がとっても重要だと考えていること、守るべきものというものに相手から疑問を投げかけられてしまうと、
この人こんなことも分からないんだ、話にならないなというふうに殻に閉じこもってしまうことがあると思うんですよね。
ただ相手には相手で別の出発点や背景があるはずなので、議論を始める最初の段階でそこを共有しないと、
そのまま最後に至るまで議論がかみ合わないということになると思うので、結論としては最初に述べたように、
それぞれが大事にしていることを本当に時間かけて丁寧に確認していこうよということになります。
私の今回の発表をまとめるなら、こういうところに落ち着いてしまいますけれども、本当にこれが重要だと考えています。
むらた
本当に実感のこもった言葉でしたけれども、違うルールの下で試合をしちゃってるって結構やばいですよね。
ゲーム終わって、なんかあっち、なんか違う動きしてたなとか、なんかあいつズルなことやってたなみたいになったら、もうどうしようもないですよね。
仲間 礼
そうですね。
むらた
だからそういうことがないように、そもそもどんなルールを採用しているのか、あなたは何を大切にしているのか話し合うのだったら、
どのルールがそもそも妥当なのかっていうところ、なんでそれを大切にすべきかっていうところから確認しないといけないということですね。
仲間 礼
そうですね。まさにその通りで、相手の大事にしているものとか出発点を確認するっていうのは、全員がそこに納得していこうって言ってるわけではなくて、
まず相手がどういうのを根底に置いてるかっていうのを知ることで、知った状態だったら納得できないなら、そこを視点にして揺さぶることもできると思うんですね。
あなたこういうこと言ってるけど、その後続いているのって一貫しなくないですかとか、これとこれ両立しなくないですかみたいなのもできるんで、
この共有しようっていうのは、みんな納得しようって意味ではなくて、まずお互いの支えているものを知るってなると議論も白熱したものにはなるかもしれないんですけれども、
すれ違いではなくなるというか、表面的なものでもないし、ちゃんとしたいいバトルになるみたいなイメージでいますね。
むらた
なるほど。ルールをすり合わせていくっていうところまでいかなくとも、どのルールであなたたちはやってて、
あなたのそのルールだったら、それはちょっと違うかもよっていうことも言えるようになるっていう、確かに発見でした。
そうですね。
ちはる
確かにルールブックの存在って全然気にしてなかったなって思います。
シンポジウムとかゼミとかって短い時間だし、この時間内で本題を話したいからいきなり大きなテーマに入るっていうのは確かにそうだなと思うし、
参加している側からしたらきっとシンポジウムとかパンフレットはみんな同じの持ってるけど、ルールブックは配られないし、
みんながどんなルールブック持ってるか一緒かなんて、見えてこないとこだなってハッとしました。
むらた
動物っていうトピックで集まった人たちってことで、なんか一つのものに集まった感じがしちゃいますけど、
全然アプローチの仕方が違って、礼さんが理系の分野から哲学、倫理学の方に来たっていうことがあったように、
動物に対してもいろんな分野から考えることがアプローチができるわけだから、ルールが違うこともそれありますよっていうことですよね。
仲間 礼
そうですね。
むらた
これは生かしていかなければ、実践に移していかなければいかないことだなと思いますね。
むらた
礼さん、逆にちゃんとうまく議論できたよ、ルール確認できたよっていうこともありましたか?
仲間 礼
そうですね。ちはるさんがさっきおっしゃってたように、一回の限られた時間だと結論出したりとか大きなテーマ行きたくなるみたいなのを本当にめっちゃ感じてて、
例えば自分が司会任されたゼミだったり研究会とかでも、なんかそういうことしたくなるんですけれども、
振り返ってみてうまくいったなって思うのは、やっぱりいくつか共通している要素があって、
まずはもう単純に何回か話し合う、議論する会が、例えば半年とかもう確保されているとか、まとまった時間が取れるっていうのは共通してたなっていうのがあって、
なのでそうですね、一番いいのとかは、まさに大学での自主ゼミとかは、最初動物園と水族館の是非みたいなテーマだったんですけれども、
これあれですね、うまくいった事例ですね、なんですけれども、最初本選んだ時点でみんな結構考えがバチバチに違ってて、
例えばエンリッチメントどうするかっていう立場だったら、エンリッチメントをどのように改善していきますかみたいなテーマの時に、
いやそもそもエンリッチとか言う前に自分その園館施設、動物園とか水族館とか認めてないんで、みたいなのから始まって、
ちょっと不穏な、そのテーマには移りたくないですよ、みたいなのもあったんですけれども、
そこでその時は何回だったかな、5、6回ぐらい確保されてたんで、
じゃあまず全員その動物園水族館っていうものにどういうスタンスで望んでるか共有しようっていうことになって、
その本を選んだ人はもう自分がちっちゃい頃から動物園水族館に触れて、
その都会、東京、生まれ東京育ちだったけれども自然との触れ合う場があったからこういうのは絶対必要だって考えてますっていうから、
でもそういう経験って動物、犠牲にしてまでやることじゃないと思うんですよね、みたいなのも全員が、
ただのその強い意見じゃなくて自分との経験絡めて、ここは妥協できるけどここは妥協できないみたいなのを、
お互いが多分その最初の回はそれで終わったんじゃないかな、全員がどういうスタンスでやってますっていうのを共有するだけの回を作ったのが、
逆に時間かけたからこそ後半はいい議論、もちろん一つの結論に落ち着くことはなかったんですけれども、
相手が何を前提にしているかがわかるから議論もすごいスムーズに進むっていう経験はありましたね。
むらた
いやー、そうですよね、議論って思ったより時間かかるしかけないといけないんだよなって今思いましたね。
仲間 礼
まあ難しいですよね、そもそもそんな何回も取れるかとか。
むらた
いやそうですよね、あれもこれも話したいし、それぞれ話したいトピック持ってきてたりして、
こればっかり時間割くわけにもなーっていう気持ちになっちゃうのもわかるし、多分そうしてきたところはあって、
でもそう、まあなんでもかんでもどんどん次、次と言ってしまうと、
自分が言いたいこと伝わってないなーとか、あっちが言ってることわかんないけど、
仲間 礼
そうですね。
むらた
そうだ、これ発表聞いたのは2月で、
その時点でちはるさんすごく感銘を受けてたなって、
隣で見て。
ちはる
そうですね、隣でニコニコしてた気がします。
むらた
ちょっとその発表受けて、
日常生活戻っていろいろ見てみて、
発見とかやってみたけどとか何かありました?
ちはる
そうですね。
お話聞いてて、
どのところも印象に残ってるんですけど、
前提、出発点をまず確認する作業を怠らないっていうのは、
本当にいろんな日常生活で使える有効な視点だなと思って、
ASでもちょっと前に読書会で話題に出たんですけど、
例えば食事を複数人で集まってする時に、
よくアレルギーありますか?とかは聞くけれど、
それに加えて食べられないものありますか?って聞く人、
いるよね、素敵だよねって話が出てたんですよ。
で、私は結構、
なんかこの、恥ずかしいんですけど、
自分が食べれるものがあるかどうかっていうのに意識がいっちゃうあまり、
相手にそういう確認ってしてきてなかったなって、
学生の時とかしてなかったなって思ったんですよ。
そういうのもこう、前提っちゃ前提じゃないですか?
ご飯をする前の、
それとかはこう、しようって思ったりとか、
ありました。
あと、私のこれ体験談なんですけど、
倫理学が甘すぎると言われるケースのとこで、
外来種問題とかって出た時に、
あの経験近いかもって思ったことがあって、
アートの展示をギャラリーに見に行くことがあって、
その内容が生死の循環をテーマにして、
展示内容は、死んだ魚を額縁に入れて、
そこにパイプみたいなのつけて、
壁に展示をして、
その足元には実際に生きた魚が、
生存に入れられてるっていうのがあったんですよ。
それ、
見た時に怖いですよね。
なんか、私はアート、人間のその分野に、
人間以外の動物をまず使うっていうのに反対の立場
だし、ちょっとこの生きた魚の管理方法も危ないなって思ったんですよ。
誰かつまづいて、こけて生存に入ってもおかしくないみたいな。
っていうのがあった時に、
一応そのギャラリーに問い合わせをしたんですよね。
ここのアニマルウェルフェアとかが言われてる時に、
生きた魚、死んだ魚、当時こう、
生き物を使うっていうのはこう、なんか、
良く思えなかったっていうのと、
管理方法ちょっと危ないなと思いましたみたいな。
した時に、
なんか、ギャラリー側から返事来たんですけど、
それが、
「この使われた魚は、
特定外来種なんです」ってことと、
「川とか釣り場に置いてある、
外来種回収ボックスから、
生きた状態ではないものを許可を得て、
入手して使用しました」
っていう風に言われて、
ここで私は、
私は種とか生きてる、死んでる問わず、
生き物を使うことを問題視していたけれど、
相手はその、
外来種だから、死んでいるから、
いいんですみたいに私は聞こえて、
そこで実際に、
会話ができなかった話が通じなかったって、
わーってなっちゃったんですよ。
でも、これを礼さんの話聞いて、
私がちゃんと前提を確認していたら、
これとは違った会話というか、
できたんじゃないのかなって思ったんです。
どういうことかというと、
実際その、
相手の前提は、
分かってたっていうか、分かってたんですよね。
まず、アートの場なので、
第一優先にしていることは、
アーティストが何を表現したいかを表現できること。
で、あと会場に一応その、
外来種っていう説明もあったので、
環境、
闇雲にどの魚でもいいとか思ってなくて、
環境のことを考えて、
外来種を選んでいるっていうのも分かってたので、
もう一回戻って、
ギャラリー側に話を聞くことができるんだったら、
展示に行きましたって、
アーティストの精神の循環っていうのを表現したくて、
こういう展示をしているっていうこととか、
環境のこととか、
生態保全を考えて、
どの魚でもいいとかじゃなく、
外来種を選んで展示されてたっていうことも、
理解しましたって、
理解してますっても、
動物自体、
種とか問わず動物を使用するのは、
こういうアニマルウェルフェアとかあるし、
どうなんですかねとか、
生き物を使わなくても、
人間で表現とか、
他の映像を使ったりとかで、
できたんじゃないでしょうかみたいな、
聞き方を私ができていれば、
きっとこの外来種だからとか、
死んでるからとか、
アーティストの意向でとか、
返事じゃなくて、
一回目のターンで、
そういう生き物自体を使うことには考えてなかったですとか、
こういう考えがありますとか、
もっと聞きたいことが聞けたんだろうなって思いました。
むらた
めっちゃ今の話、学びになりました。
なるほど、確かに。
前提を確認するっていう、
礼さんの発表からの学びもそうですけど、
その確認の中で、
「こっちはあなたのことをこう理解してますよ」
「ここまでは同じ段階にいますよ」っていうのを、
伝えることで、
あっち側も、
あ、なるほど、
それは分かってもらえてるんだ、
そこは共感できてるんだ、
その上で、また次の、
またその先の話を、
そもそもの話をしてるんだなっていうところが、
分かってもらえたら、
議論も建設的なものになるし、
お互いどっちも歩み寄っていきながら、
で、その上でこっちの意見もぶつけながらっていうのが、
ちはる
本当にそう、なんか前提確認大事だなって、
もう、身に沁みました。
むらた
いやー本当ですね。
本当に。
動物のことでも、
動物以外のことでも、
結構できてないことばっかりなんじゃないかっていう気がするので、
生かしていきたいなと思いますね。
という感じで、
もう一個ありました。
すごいこのお話聞いて思ったのは、
礼さんの発表の中だと、
動物倫理とそれ以外の動物に関わる学問分野、
学問分野との衝突、
すれ違いみたいなところでしたけど、
これ動物倫理とか、
動物を解放する活動に身を投じている人同士の中でも、
やっていかないといけないことだろうなと思って、
前回綿引さんにお越しいただいて、
お話聞いたんですけど、
効果的に動物のためになる活動をしていくにあたって、
廃絶主義と新福祉主義、畜産業をそもそも最初から廃絶することを目指していくのか、
今いる畜産動物の状況を改善することも行っていくべきなのかという対立について話を伺って、
その2つが足を引っ張り合ってたらことは進まないよっていうことだったんですけど、
まさにここでも前提を確認していく必要があるんだろうなという、
ただ足を引っ張らないでやっていきましょうじゃなくて、
それぞれの活動を頑張っていくでもいいとは思うんですけど、
より良いアプローチを考えるとしたら、
そっちの立場が何を考えてて、だから福祉も改善しないといけないと思ってるんですっていうことができるようになっていくんだろうなと思いました。
非常に動物倫理かいぎ、そういう意味でいろんな発表者の皆さんのお話が絡み合って、
とても勉強になる回だったなぁと改めて思いますという感じで。