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2025-11-03 38:10

# 32-2 理性だけじゃない!情感豊かなカントを探る――動物倫理への4つのアプローチ(早稲田大学 中村 涼さん、北海道大学 清水 颯さん)

今年2月1日に開催された、動物倫理かいぎ創立記念イベントの発表内容を、登壇者ご本人にシェアしていただくシリーズ!

第四弾のゲストは、早稲田大学の中村涼さんと北海道大学の清水颯さん。

お二人はカント研究を下敷きに、中村さんは環境倫理、清水さんは人と人以外との関係に取り組んでこられました。


今回は共同発表の内容から発展して、これまでのご研究や関心、動物倫理におけるカント義務論のアプローチなどについてお話しいただきました。

お二人は異なるきっかけからカント研究を始めたそうですが、

「めちゃくちゃ理性!」だけじゃない「情感豊かなカント」への関心は重なっているとのこと。

清水さん注目の、これまでの見方を覆すカント義務論へのアプローチも聴きどころです。


次回は、カントの生きた時代を踏まえて現代の動物実験や畜産を問い直していくこと、お二人の研究の展望から見えてくる理論研究の意義についてお話ししていきます。


ご意見・ご感想は@animotethicsをメンションの上ご投稿ください!投稿のシェアもぜひよろしくお願いいたします。


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中村さんのきっかけ / 「永遠平和」への憧れ / 自然に囲まれて育った / 自己自身に対する義務と動物を大切にすること / 清水さんのご研究 / カントは「理性、理性!」だけだったのか? / 人と人以外(動物やAI)との関係 / 何か満足を感じながら義務やるぞ / 感情に注目すれば何か言えるのではないか / 違う理論から同じ結論に辿り着く / カント義務論から動物倫理への4つのアプローチ / ニコ・ミュラーがラディカルで面白い / 自己自身に対する義務からのアプローチに繋がる?


各種リンク

動物倫理かいぎ:


中村涼さんResearchmap


清水颯さんResearchmap


中村涼(2024)「『自然物に関する義務』再考 ― カント義務論に見る環境倫理の可能性 ―」『フィロソフィア』第111号、pp.93–105.


清水颯(2025)「動物倫理への新たなカント的アプローチ――Kantianism for Animals の論点とその評価」『応用倫理―理論と実践の架橋―』

サマリー

エピソードでは、カントの義務論に基づく動物倫理について苦しみながらも満足感を伴う義務の遂行に焦点が当てられています。中村さんと清水さんは、それぞれの研究テーマを通じて、理性のみならず情感豊かなカント像と人間以外との関係についてのアプローチを探求しています。このエピソードでは、カントの倫理学を通じて感情と動物倫理について考察されています。特に、理性と感情の関係や動物に対する間接的または直接的な義務についての議論が展開されています。本エピソードでは、カントの動物倫理に関する新たなアプローチが探求され、特に義務の理解とその内容が動物への振る舞いに及ぼす影響についての討論が行われています。

義務の探求
中村 涼
苦しいだけじゃないカント。苦しい部分もあるんだけど、何か満足を感じながら義務やるぞってところを興味があって研究して。
清水 颯
いろんな理論的な立場を取りながら我々の倫理実践を考えていくってことができるのが一番僕は理想かなっていうふうに思ってるので。
むらた
あれなんで配慮する対象も理性的じゃないといけないんだっていうのがちょっと気になったところだったんですが。
清水 颯
義務っていうのは理性的な存在者だからそこに向かうじゃなくて、我々が自分の中で義務を作ってる。
むらた
では前回までは動物倫理かいぎでのご発表を早稲田大学の中村涼(すず)さん、北海道大学の清水颯(はやて)さんにご紹介いただきました。
今回も引き続きそのお二人とASから、コットンさんと進行私村田の4人でお送りしていきます。よろしくお願いします。
ということで前回はカントの義務論によると、人間以外の動物に対する義務はないということ。
むらた
代わりに人間の尊厳品格を貶めないために動物に関する義務、動物のためではないけど、
動物を残酷に扱ってはいけないよっていうことも生じてくるということを確認しました。
動物に対する義務っていうのが言えないのでちょっと物足りないのかなという気もしたけれども、
実はその品位っていうところから、この社会で動物の苦しみが隠されているっていうことは品位を下げないように、
嫌な都合の悪いことを見ないようにしてるんじゃないか、共感能力をそうやって下げていっているんじゃないかっていうので、
ちょっと希望も見出せるようなお話をお聞きしました。
ここからもう少し掘り下げていきたいんですが、
むらた
その踏み台としてお二人それぞれがされている研究についてお聞きしていきたいなと思います。
中村さんの研究
むらた
じゃあまず中村さんから伺いたいんですが、研究のテーマどういったことに取り組まれてきましたか。
中村 涼
私はずっと長くカント内在的な、カントはここで何を言っているのか、
要はカントのテキストを分析して解釈するという研究をかなり長くしてきました。
ではここ数年ですね、動物倫理、今日というか前回から引き続いてお話ししているような動物倫理とか、
自然環境倫理、環境倫理の中の一分野ですけど、自然環境倫理学なども最近はやっています、テーマとしては。
むらた
そうした研究テーマを選んだきっかけとか動機っていうのはどういったところでしょうか。
中村 涼
なんか改めて何がきっかけだったって、行為論的にも難しいんですけど、
パッと思いつくのは、中学高校の頃に哲学の入門書を読んだときに、
まずカントがめちゃめちゃかっこよく思えたってことがきっかけですね。
特にカントは前半でも少しお話ししましたが、永遠平和っていう理念を掲げて、
それには人間、たどり着けなくても邁進していかなきゃいけないっていうことを言っているわけですよ。
でもこの私の子供時代も今もそうですけれど、世界中では戦争が起こって、
最近なんか戦略的に、経済学的にも法学的にも文化人類学的にも、
戦争のある種の意義みたいなことが語られているかと思うんですけど、政治的にもそうですし。
でもカント哲学の中では、戦争というものを根絶するということを大真面目に主張できるっていうことが、
私にはかっこよく映って、当時は。
実際勉強してみると、永遠平和っていうのは、
すごいリアルな実現可能性を持って私たちの目の前にあるわけじゃなくて、
遠い遠い理念だったっていうのは、実際学んでみて初めて知って、ちょっとしょんぼりしちゃったんですけど、
前半でもお話ししたように、大真面目に永遠平和。
この世界に生きてたら、戦争のない時代を暮らしたこともないし、世界中で戦争が起こってるし、東アジアだってなんだか一触即発な感じ。
なのに、その現実を離れて、その永遠平和っていう理念を引き詰めることができるっていうのが、私にはかっこよく映って、
それからずっと、カントと環境倫理勉強できる大学ってあるのかなって調べて、早稲田に入って勉強しています。
むらた
カントはそういうかっこいいな、永遠平和かっこいいなっていうところだったっていうことですけど、環境倫理も割と最初から取り組みたいと思っていたことなんですか?
中村 涼
そうですね。マイクが機能していないときにお話ししたんですけど、北海道の田舎町出身で、かなり自然豊か。
かつ自然豊かでありながら農村地帯でもありますので、大自然のすぐ横に人間の手が入った植物たち、農作物ですけど、農作地帯が広がっているところで育ちましたので、
自然環境との関わり方とか農業のあり方みたいなことには、昔から関心があったっていうか、むしろこの環境をいかに大事にすべきかっていう価値観の中で育ってきた部分がありますので、すごく興味がありました。
むらた
子供の頃からの現体験が今の研究にまで引き継がれているっていうのが素敵だなと。
中村 涼
ありがとうございます。ほとんどちょっと天皇チックっていうか、田舎育ちだとこういう風になるのかなって思うところもあって、町の歌があるんですけど、私が生まれ育った町のテーマソングみたいな。
テーマソングって言うとちょっとポップですけど、合唱曲としてそのうちの町の小学校で歌われている曲があるんですけど、かなり上手く作ったなっていう曲で素敵なんですけど、歌ってて気持ちいいんですけど、その合唱曲の終わりのフレーズが
いつまでもこのままで残したいこの丘をなんですよね。守りたいだったか残したいだかちょっとあれですけど、6年間くらい歌わされてきましたので、私が先なのか、町の教育が先なのか分からないですけど、感心はございました。
むらた
そこから動物倫理、自然環境倫理をやられてきたということですが、これまでどういった論文を書かれてきたんでしょうか。
中村 涼
カントの論文をずっと書いてたんですけど、ここ1,2年、やっとカントを発展させて動物倫理、環境倫理論じてみようかなと思ったのが最近なので、私が書いた論文としては、動物倫理、環境倫理に関して書いた論文としては、前半でお話ししたような内容を踏まえて、
その上に、じゃあ自己自身に対する義務として、動物を大切に扱ってどういうことなのっていうのを少し深めた論文を書いたりしています。
清水さんのアプローチ
清水 颯
さっき読んでました。
中村 涼
やだー。
むらた
なんてタイトルの論文ですか。
中村 涼
何だったかな。
清水 颯
自然物に対する義務、再考。カント義務論に見る環境倫理の可能性ですね。
中村 涼
後半は清水さんが喋るって聞いてたんですけど。
むらた
じゃあそれを読んでもらえばわかるということで。
実はこんな質問しておきながら、私もそれ読ませていただいたんですが、まとめのところで、自然物への態度を人間主体としての尊厳や義務の問題として語り直す端緒になるっていうのが書かれてて、
なるほどなぁと思ったんですよね。
中村 涼
ありがとうございます。
むらた
動物の話するときに、あなたがそれやったら動物がこういうふうに苦しむんですよっていう、動物がこういう苦痛を味わうんですよっていう、動物中心で言うことが多いかなと思うんですけど、
それだと別に動物の苦しみは私に関係ないですけど、みたいなのもありそうですけど、逆に尊厳とかあなたの品格っていうところであなたは自分を律する努力を怠ってるんじゃないですかって言うと、また反応も変わってきそうだなというか、
どっちでも逆切れされる可能性は多いにあるんですけど、いろんなアプローチとして、なるほどなぁと読んでおりました。
中村 涼
ありがとうございます。私以上にちゃんとまとめていただいて、そういう切り口を動物倫理の中では提示できたらいいなと思って書いた本でした。
清水 颯
素晴らしい本です。
むらた
ということなので、皆さんも興味があればチェックしていただけるといいなと思います。
ということで、続いて清水さんにも伺っていきたいんですが、清水さんのご研究テーマは何でしょうか。
清水 颯
カントですっていうのが一言目になるんですけど、その中でもそれこそ前半の話の中盤ですかね、で、あっためちゃくちゃ理性って話があったと思うんですけど、
むらた
僕は割とそれに対して、そうじゃない仕方でカントを描きたいっていうのが中心的なモチベーションでして、
清水 颯
つまり理性によって、最前半の話では理性によって我々を義務で縛り付けるわけですよね。
めちゃくちゃきついと思います。僕は最初、いわゆるカントとか入門書とか大学の授業とかで読んだときに、
清水 颯
そういうのを見て、よくある反応でしょうけど、きついな厳しいな嫌だなっていうのがあったんで、
そうじゃない仕方でカントを描けないかっていうことで、義務をそれこそ縛られてるんだけど、
清水 颯
それは本当にどれだけ苦しいってやってるのか、もしくはそんなことないのかっていうふうな仕方で義務を果たすみたいなものに対して、
本当に理性の縛りだけじゃなくて、感情でちょっとそれによって気分が上がったりとか、幸福に近いような状態になれるとか、
清水 颯
すっごく平たく言ったらめちゃくちゃ辛い労働の後ってちょっとやり切った感があるとか、そういうのもあると思うんですけど、
そういったところから、本当に理性、理性言ってるカントって理性、理性だけだったんだろうっていうのをカント研究としてはずっと大学生のときから、
僕は筑波大学ってところにいたので、北海道大学は大学院からなんですけど、そこでやっていて、
清水 颯
同時に最近はロボット倫理とかAI倫理、皆さんご存知、人工知能ですけど、それに対する関係性について結構興味持っていて、
清水 颯
実はそこからちょっと発生して、人間以外の関係性について考えたときに、ベースになるのが動物倫理だったんですね。
清水 颯
やっぱり動物に対する関係のほうが蓄積があまりにも多かった、環境もそうですけど。
それだったので、割と僕は結構動物倫理とかにちょっと入ってきたのはだいぶ後半、割ともうここ2年ぐらいの話なんですけど、
そういう仕方で広く言ったら、人間と人間以外の関係性について、我々はどういうふうに考えるべきなのか、考えているのかっていうところを、
カントから考えるっていうことをやって、最近はカントを全く使わずに、自分オリジナルの見解を出したいなと思っていて、
清水 颯
カント以外のこともやっていますっていうのが今の一応研究テーマになっています。
むらた
なるほど。そのカントがすごい厳しい、辛いものじゃないっていう、そういう面もあるっていう、
なんか驚きですね。感情が現れてくるようなところもあるんですね。
清水 颯
はい、なんかそれは前半でも取り上げた人類の経済学という著作の中で述べられていて、他の著作でもちょいちょいとあるんですけど、
清水 颯
それについて深めようと。ちょうどこのまま、なんでこれをやろうと思ったかって動機のところも合わせてしゃべろうかなと思うんですけど、
大学の時にやっぱり基本的に触れるカントとか入門書とか読むと、基本的に触れるカントは基本的には理性だし厳しいし、
なんかそういうものだったんですけど、たまたま筑波大学っていうところはカントの授業がすごく多いところだったので、
週4、5はカントの演習があるみたいな感じで、好きとか嫌いとか言ってられないっていう状況だったんですけど、
それでカントのテキストを読んでみると、これは結構よくある話だと思うんですね。
清水 颯
哲学者研究やってる人ってよくあると思うんですけど、教科書とか入門書とか講義とかで聞いてるめちゃくちゃシンプルカントと、
清水 颯
読んでみると全然めちゃくちゃ言ってるじゃん、いろんなことみたいなところってあると思って、
清水 颯
そのギャップを、たまたまカントっていうのがカントだったからカントやってるっていうのはそれまでなんですけど、
それで今カントの中でも理性、理性じゃない姿ってものを描けないかなっていうところで、
清水 颯
そういう感じで、割りとこだからこれは僕はカントが好きで、カントがかっこいいと思ってっていうことはあまりなく、
清水 颯
研究としてなんか面白いことないかなって思ったときに、たまたま環境の功も奏して
カントといわゆるいわゆるカントと本当のカントのギャップをうまく感じる環境にあって、
清水 颯
それが好奇心を借り立てていって今に至るっていう感じになってますね。
むらた
なるほど、まったく入り口の違うお二人が来ていただいたということになるんですね。
清水 颯
僕も北海道出身ですけど。
中村 涼
私たち二人とも北海道出身ですけど、確かに切り口今喋ったのは全然違ったんですけど、
私も今清水さんがおっしゃったような苦しいだけじゃないカント。
苦しい部分もあるんだけど、義務を遂行するときに難しくないんですけど、
言ってしまえば快活に、何か満足を感じながら義務をやるぞってところを私も興味があって研究してて、
それがきっかけで、意外とそのカントでこういうことを研究してる人も業界には少ないし、
同年代だと思っていなかったので、同じようなことを研究してたのがきっかけで一応、
なんですか?仲良くなったんですか?お友達になったんですか?意気投合ですか?
清水 颯
そういうことになります。
中村 涼
ので今こうやって一緒にやらせてもらっているという事情はあります。
むらた
素敵ですね。
中村 涼
棒読み、棒読み。
むらた
いやいやいや。
心の豊かさというか、情感豊かなカントの哲学みたいなお話でしたが、
その人間と人間以外との関係について論じるところにもそうしたカント像みたいなのは関わってきてるんですか?
清水 颯
これ結構本当に難しいところなんですけど、関わってきているとは思うんですね。大きく言えば。
感情と理性の関係
ただやっぱり一番ポイントになるところは、感情の側面を我々は持っているわけじゃないですか。
清水 颯
これは持っているか持っていないか持つべきか持つべきじゃないかじゃなくて、持っているわけなんですね。
それで理性、だから我々は理性で縛らなきゃいけないというふうにわざわざ縛りプレイしなきゃいけなくなってくるわけですね。いいことをするためには。
なので感情ってどう考えても我々はいろんなことをするときに、良くも悪くもついて回ってくると思うんですね。
さっきも言ったように、さっきというか前半で言ったように、理性によって縛るという仕方では我々は人間、カントの言うところの理性的な存在者以外に対する倫理的な世界って開かれていかないわけだと思うんですけど。
清水 颯
動物であれば、さっきもちょっとだけ前半で言いましたけど、心を持っているというふうに言ってたりと感情、欲求があるとか言ってたりとかすると。
一方で自然環境とかロボットとかもそうですけど、こいつらは感情とかは、そいつら自体にはないわけですけど、やっぱり自然の中で我々は感情なんか働くわけじゃないですか。
清水 颯
気持ちいいなと思ったりするわけですよね。
例えば最近AIめちゃくちゃ進歩しすぎていて、LLM、ラージランゲージモデル、竹下さんが、のことをよく知っている方が多いかもしれないですけど。
清水 颯
よく聞いているかもしれませんが、いわゆるAIの大規模言語モデルっていうやつですね。
清水 颯
それの最近チャットGPTのモデルが上がったんですね。
その時にいわゆるバージョンアップをしたわけなんですけど、バージョンアップによってものすごい理性的になったんです、ある意味では、AIが。
それでそれに対して我々ユーザーの反応として、前のバージョンを返せよっていうのがあったわけですね。
その方がよかったよみたいなことを寄り添ってくれたことがあったわけですね。
こういう仕方で我々は人間関係はもちろんのことですけど、カントのフレームワークでは人間関係は理性で縛り合えるっていう。
理性で縛り合えるってキモいですけど、そういう関係性を築けるわけですね。
清水 颯
ただ一方でそうではないものに対しても、何らかそういう感情的なもしくは何かしら心的に影響があるわけですよね。
いろんな関係の中で。なのでそういう理性だけに着目しているカント倫理学もしくは倫理学、哲学一般において、
清水 颯
人間と境界が惹かれてしまうような存在に対する何かしらの倫理的な配慮なり世界なり開かれないけど
清水 颯
やっぱり感情ってものが我々の倫理とか、もっと広く言うと人生それ自体に関わってくるっていうところに着目すると、
清水 颯
いろいろと言えることが増えてくるわけですね。
そういうことは共感を損ねるとかさっきの話もそうですし、もっと言ったらAIに感情がないってことになってるけど、
清水 颯
もしかしたら何かあるのかもしれないし、分かんないけど。そういう仕方で議論の仕方が増えるので、
カントが言った義務をするときに嫌々、しんどいしんどいじゃなくて、いい感じにやってますってことがそれ自体がポンとそこに応用できるかって言ったらちょっと難しいんですけど、
少なくともこういう感情ってものを我々は持っていて、
それによって我々の行動とか考え方とか倫理みたいなものってのがすごいぐねぐねぐねぐね変わっていくってところを紐解くために、
清水 颯
紐解くというかそれを使って人間以外との関係性ってものを考えうるので、
清水 颯
かつそれで理性理性って言ってたと思われてるカントってことを使うことによって、
清水 颯
いわゆる驚きを持って迎え入れられるっていうところに僕はこう、何でしょうね、快感を覚えるわけですよね。
ああ、そんなこと言ってたんだ、いや俺は知ってたんだぜみたいなことを言いたいっていう。
そういうとこちょっとだけありながらっていう感じですね。
動物に対する間接義務
むらた
なるほど。確かにチャットGPTに悩み相談してる人とか全然いるし、すごい褒めてくれるんだとかあるし、
そうですよね、いろんなところに自分たちの感情の反応だったりとか、
むらた
動物に理性がなかったとしても感情がそこにあるとか、感情も理性もないかもしれないロボットにも、
私たちは感情的に嬉しいとか大事とか感じるっていうところで、そこから言えるんじゃないかっていう。
清水 颯
そうですね。少なくとも理性だけの結びつきだったら絶対言えない世界なわけですよね。
それに対してそうじゃない仕方で言える隙が生まれてくるということですね。
これもっと言ったら、カント使わない方がよっぽどいいじゃんっていうのはよくある反応なんですね。
だってカントは言ってるから、実はカントもこんなことって言われ、私は迂回していくわけですけど、
もうちょっと感情とかを一々するタイプの人物とかだったら、ポンっていけるじゃないですか。
それは僕は言われたら、その通りです。でもカントからでもこういうことが言えるっていうことで、
いろんな立場の多様性を生みたいなっていうところもあるので、
清水 颯
だからこれ、僕が動物とかロボットとかに対する関係性をカントの観点から論じていくときに、
結論は実は他の理論を使っても同じものになるっていうのは結構あるんですね。
清水 颯
それで僕はいいと思っているんですよね。むしろそのほうがいいとさえ思っていて、
どの理論でもこういく。例えば、物を盗んだらいけないっていうのを否定する倫理があったら怖いじゃないですか。
全部根拠が違ってもそこに行くわけですよね。
なので、そういういろんなスタンスを理論的な立場を取りながら、
清水 颯
我々の倫理実践を考えていくってことができるのが一番僕は理想かなっていうふうに思っているので、
清水 颯
だからあえてカントを使っているっていうのもちょっとだけある。
むらた
いいですね。いろんな理論から一つの結論、同じものが導けるよねっていうので、
むらた
その結論も受け入れられやすくなりそうだし、カントの知らない面を見られて単純に面白い、楽しいっていうのもあるんだなというふうに思いました。
むらた
ありがとうございます。ここまでお二人それぞれのご研究について少しお話し聞いてまいりましたが、
むらた
ここからもうちょっと広げて動物倫理におけるカント義務論の位置づけといった全体のことを整理しながらお聞きしていきたいと思います。
むらた
はい。そうですね、まずお二人のご発表の中だと、間接義務、動物に関する義務、動物のためじゃないけど、人間のためだけど動物に危害を与えてはいけないとか、そういうことが言えるっていうことでしたが、
むらた
この後で直接義務っていうのは無理なんですかっていうのを聞きたいんですけど、まず間接義務のアプローチについて、今のところどのくらい強く擁護できそうなんですかね。
清水 颯
はい。擁護できるっていうところが何を意味するのかによってちょっと変わってはくるんですけど、つまり間接義務っていうことがどういうものなのかっていうのはそれなりのコンセンサスは取れているわけですね。
清水 颯
だけど、この間接義務が動物倫理にとって嬉しいものなのかっていうところはちょっとやっぱり微妙なところに。分けてしゃべると、まずやっぱり間接義務っていうものはそれなりにちょっと分かれますけど、いや、これはもういけないよって言ってる雰囲気では少なくともカント業界内部ではないんですね。
清水 颯
何人かやっぱり間接義務ってものを取り上げて、これで動物なり非ヒト動物だけじゃない環境とか、ロボットとかも実は言ってる人がカント読んでいないと思われる人ですけどいたりとかするんですが、結構います。
清水 颯
この一派に僕は中村さんもいると思っているんですけど、日本だったら正直中村さんと僕ぐらいしかカントと動物倫理っていうのをやってるとって、少なくとも見えてきてないので、日本だったらあれなんですけど海外の文脈だと、それこそ今年の5月にプリンストンで動物と環境倫理について、今カント研究は何が云々なんじゃろうみたいな、
清水 颯
カンファレンスがあって、そこで何人か中村さんと僕が見たことがある名前がポンポンポンって並んでて、僕と一緒に論文書いてるニコ・ミュラーって人もそこにいたんですけど、その中でやっぱり…。整理しますね。
むらた
4つぐらい派閥が多分あって、①間接義務をそのまま使っていくっていうタイプですね。と、②間接義務を工夫して使っていくっていうパターンですね。で、さっきおっしゃったけど、③直接義務、動物に対する義務があるんだっていうことを、カントっぽくやっていくっていうスタイルの人。
清水 颯
で、最後に、いや、④動物に対する直接義務もあるんだっていうふうに、カントを頑張ってうねうねしながらやっていくタイプって大きく分けて4つぐらいいると思っていて、どれが強いかっていうのはちょっと僕は今判定はできないですけど、それぞれに人がいるっていうことは確かですね。
中村さんと清水さんはそれぞれどこの立場になるんですかね。
清水 颯
僕は、ゆらゆらしているんですけど、ハイブリットで行きたいんですけどほんとはねどっちも上手く使おうよって言いたいんですけど、一応、間接義務はそのままでは使えないので中村さんのキャンプにはいなくて。で、工夫して使うっていうのもあんまり意味なくないって当時は思ってたので、さっき前半で喋った感じだとちょっとここにも今可能性を見出して初めてますけど、いなくて。で、直接義務も、ニコはやっぱその動物に対する義務、前半の話だと
人間に対する義務と同じ仕方で動物に対する義務はないっていう話だったと思うんですね。だけど一方で、いわゆる直接義務っていうのを取っていると思われている論者、クリスティン・コースガードとかいるんですけど、彼女らは実はそういう話はしていなくて、人間に対する義務とは別の仕方の義務が動物に対する義務を取っている。
清水 颯
とは別の仕方の義務が動物に対して生まれてくるっていうふうに言っていて、その点ちょっとカントからピュンと離れていくってところがあるんですね。これは面白いなと思ってます。ただ、理論としては面白いんですけど、やっぱりどこまでカントを使ったアプローチとして有効なのかっていうのはちょっと面倒くさくなってくるかなっていう。批判は来るでしょうと。
で、最後にカントから同じ人間に対する義務と同じ仕方で動物に対する義務だって言える可能性あるじゃんっていうものがあって、これが一番ラディカルだと、一番やばいことを言ってると思うんですね。だって、最初に我々が否定したことを言ってるわけですよね。
というか、普通に読んだらこの路線ないんですよ。だけど、それを言ってたのが、さっきもちょこっと出てきたスイスのバーゼル大学にいるニコ・ミュラーさんて人で、僕も今一緒に論文を書いている方ですけど、彼がそれを頑張ろうとしていて、僕は頑張ってこれを取れないかなってずっと考えていて、取れない取れない、やっぱ取れないってずっと言ってるタイプです。
直接義務の可能性
むらた
ミュラーさんのそのラディカルなアプローチは?
清水 颯
これは非常にラディカルというか、非常に新しいんですけど、僕の知っている限り、僕の理解できている限り、かつ今思い出せる限りなんですけど、肝は今まで義務がどこに向かっているか、つまり対する義務ですから、動物に向かって我々は何かするべきなのかっていう、この義務の向かい方ですかね。義務の矢印みたいなものを、これがどうやって生まれているのか。
我々の前回の話だと、理性的な存在から生まれてるっていう話でしたね。でもミュラーはそれを批判するんですね。つまり、これ結構カントの中ではある意味常識的な話なわけですけど、そうじゃないって言っていて、つまり尊厳とか理性みたいなものから義務の拘束性、それから義務を受け取る、前半で言ったような話。
これは別にそういう話じゃないっていうふうに言って、全く違う仕方で義務が生まれてくるのをやろうとしたときに、彼が注目するのが、それこそ幸福とか、あとは尊重、リスペクトするっていう態度の問題に入ってきて、我々が、これもすんごいざっくり言いますけど、彼の議論めちゃくちゃ難しいし、僕も多分それをそのまま喋ると自分でも理解できないので、
かなりバッと喋ると、簡単に言ったら我々は義務っていうのは理性的な存在者だからそこに向かうじゃなくて、我々が自分の中で義務を作ってるんですね。どうやって作ってるかって言ったら、他者っていうかこの世界にいる存在しているものの幸福を促進するっていうこと。
そしてそれに対して、恣意的に、いやそれはよくないって言ったりとか、そういう相手の品位を下げるような、いわゆる配慮に欠けた振る舞いっていうのを禁止するっていう態度を世界に対して持っている。
世界というか、他者に対して開いているっていう、この自分のいわゆる生き方を規定するっていう義務だと。生き方を義務で縛っていて、そうすると動物もカントが言っているように、我々がもう既に知っているように、感情なり欲求なり、もしくは自分の幸福ってものをおそらく持っているだろうと。
清水 颯
かつ、我々が動物に対して、動物は人間よりもヒエラルキーが下の存在で、どうしてもいいんだっていうふうに偉ぶることっていうのは、我々がそういうあり方をとってはいけない。ちょっと中村さんの話と近いかもしれないですけど、そういう仕方で動物に対する振る舞いっていうのは、我々の義務に従っているというあり方から、
清水 颯
その意味で直接出てくるという話をしていて、ちょっと矢印をいじる。というか、今までの議論で言ってた直接性というか、この矢印ってものは確かにないんだけど、なくったって別にいいと。それはカントの本丸の義務の話じゃないから、それはいいっていうふうに、まずカントの本丸を全否定すると、そこから本が始まっていくので、その意味ですごくラディカルなんですね。
で、これが僕はすごい気に入ってる、なんでしょうね、その議論がうまくいってるから気に入ったよりかは、その議論がうまくいってるかわからないけど、すごいなと思って。見たことないわ、この議論の仕方と思って、すんごく惹かれて。それで彼にコンタクト取って、実際にスイスまで行って2回ぐらいちょっと会ってるんですけど。
その報告として、動物倫理に対する新たなカント的アプローチっていう名前で、ニコ・ミュラーのアプローチを紹介したっていう論文というか報告が出ています。
で、あと彼の本のレビュー書評を竹下さんと2人で書いている。それも同じものから出てるんですけど、そちらを読みいただければ分かるというふうに断言はできないんですけども、一応書きましたということを一言添えておきます。
むらた
そうですね。面白いですね。確かに前半聞いていて、義務が生まれてくるのが自分が理性的存在で自分を縛ることができるからっていうのをおっしゃっていたと思うんですけど、それ聞いたときにあれなんで配慮する対象も理性的じゃないといけないんだっていうのが
むらた
ちょっと気になったところだったんですが、今のだと相手が理性的とか関係なくだから理性的な存在から要求されて自分が何か義務が生じるっていうのじゃなくて、なんか最初から自分が理性的に振る舞えるから、そこから頑張って自分の生き方を考えて
むらた
そこで動物についても対してもなのかちょっと分からないんですけど、まつわる義務が出てくるっていうのはなんかいいじゃん、いいじゃんっていう
清水 颯
村田さんがおっしゃったついてってのが結構ポイントで、義務の内容、我々が動物に対して義務を負ってないよ、だってあいつらは理性もないし、なんか義務果たさないじゃんっていうものに対して、それすっごい形式的な話ですね、そもそも義務の対象になる能力とかは持ってるか持ってないかっていうふうに二分して仕分けるみたいなすごい形式的にポイポイってやってる感じですけど
清水 颯
我々が果たす義務っていう、我々が負っている義務の内容の中に動物についての振る舞いが入ってくるだろうっていうところで、それを彼はやってるんですけど、これ面白いのが結構間接義務の中でも自己自身に対する義務を強く、それこそ中村さんが取ったようなアプローチと意外と近いと僕は多分思っているんですね
で、なんでこういうことが起きるかっていうと、そもそもいわゆる動物に関する義務っていうものの理解が、すごいざっくり言うと中村さんが自己に対する義務の違反として動物への振る舞い扱い方っていうふうにやってると思うんですけど、意外ともっとラフに読まれると、動物に対して残虐なことをしたら、その残虐な性格が乗り移って人間にもひどいことするじゃんとか
動物に対してひどいことをしたら、苦しむ存在が苦しんでワーッとなってるのに、それをすごい鈍感になって、人間に対しても傷つくようなことを言ってもフンとしてるみたいな。そういう動物に対して悪いことをしたら、人間に対しても悪いことをするよ、みたいなものすごいラフな話として取られると
清水 颯
こういうものをいわゆる間接義務っていうふうなラベリングしたときに、カントをそこまで読まないとそういうふうな理解が多分共有されてるんですけど、それに対してそもそも義務の方向って何なのかっていうところから問い直したのが彼の仕事なので、意外と良きところで中村さんとかが取ってるような議論とか、自己自身に対する義務の違反ってそもそも何なのか、品位を下げるって何なのかっていうところをひも解いていったら、
清水 颯
僕のさっきの話もそうですけど、意外とゴール地点が似てくるのかもしれないってところに、ちょっと面白さを感じているところですね。
義務の内容とその影響
むらた
面白いですね。アプローチが違ってもちょっとまた合流してくるっていう。その、中村さんが割と近い、その間接義務そのまま持ってくるアプローチだとどうですか。
むらた
話はまだ続きますが、この続きは次回にお送りします。またお会いしましょう。
38:10

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