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2025-10-13 51:08

# 32-1「動物に対する義務はある?ーカントに学ぶ動物と私たちの関係」中村 涼さん 清水 颯さん —— 理性と品格、人間のあるべき姿が照らし出すもの

今年2月1日に開催された、動物倫理かいぎ創立記念イベントの発表内容を、登壇者ご本人にシェアしていただくシリーズ!第四弾のゲストは、早稲田大学の中村涼さんと北海道大学の清水颯さん。


哲学・倫理学の大家カントの義務論では、現代の動物の扱いについて何と言えるのか、共同発表の内容をお話しいただきました!

カントは、義務の直接の対象は人間だけとしながら、動物を残虐に扱ってはいけないとも論じています。果たしてその心は?


そして当日のご発表にはなかった、カント義務論から着想を得た動物と人間の現代の関係の新しい見方(希望…!)についてもお話しいただきました。

ぜひ最後までお聴きください。


次回後半ではご発表内容をもとに、お二人のご研究内容や、カント義務論と動物倫理の関係などを深掘りしていきます。


ご意見・ご感想は@animotethicsをメンションの上ご投稿ください!投稿のシェアもぜひよろしくお願いいたします。



最近の動物倫理かいぎの活動 / カントってどんな人? / 「義務を負う」とは? / カントは熱い理想主義者 / 「動物に対する義務はない」!? / 理性を持った存在だけが義務を課せる / 動物をモノとみなす / 動物を残虐に扱うことは人間の品格を貶める / 理性ってそんなに信頼できるのか / カントは現代の動物実験の歯止めにはならなさそう / 動物倫理にとって物足りないけど意味はある / カント的なロジックをひっくり返してみたら…→希望?


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各種リンク

動物倫理かいぎ:

中村涼さんResearchmap

清水颯さんResearchmap

ASのポッドキャスト「#24-2 ヴィーガンになるべきか?:三大理論を学んで工場畜産を評価してみよう」

応用倫理

CHAIN(北海道大学人間知×脳×AI研究教育センター)

サマリー

このエピソードでは、カントの哲学を通じて動物への義務について考察している。特に、動物との関係性や倫理的義務がどのように再評価されるべきかが議論されている。カントの倫理学を通じて、動物に対する人間の義務や関係について考察し、理性に基づく義務の概念が動物にどのように適用されるのか、また動物を残酷に扱うことが自己に対する義務違反とどのように結びつくのかを探っている。動物実験や生産環境の問題が話題となる中で、動物への不必要な苦痛を避ける義務が強調されている。現代の人間の品格と尊厳を通じて、動物の扱いについて再考することの重要性が述べられている。カントの視点を通じて、動物に対する倫理的義務について考察し、理性と品格が人間のあるべき姿を照らし出す様子を探っている。

動物倫理かいぎの発表
むらた
さあ始まりました、なんでも倫理ラジオです。このポッドキャストは、動物と倫理と哲学のメディア、ASがお送りします。進行は私、村田です。よろしくお願いしまーす。
よろしくお願いしまーす。
はい、今回は今年の2月1日に開催された動物倫理の学会、動物倫理かいぎの創立記念イベントでの発表を登壇者の方に紹介していただこうというシリーズ、第4弾になります。
今回は会議で共同発表された早稲田大学の中村涼(すず)さん、北海道大学の清水颯(はやて)さんにお越しいただいています。よろしくお願いします。
中村 涼
よろしくお願いしまーす。よろしくお願いします。
むらた
はい、そしてもう一方、ASからコットンさんにも来ていただいています。お願いします。よろしくお願いします。
はい、コットンさんと2人は初対面ということで。
清水 颯
初めまして。
コットン
実は会場にいたんですけどね、挨拶してなくて。
中村 涼
どおりで初めて会った気がしないと思いました。
コットン
いやいや、本当にすみません。
むらた
綿引さんは動物倫理かいぎでご発表されていましたもんね、御兄弟の。
コットン
そうですね、なので2人と綿引は、綿引はというか、知り合いだと思うんですけれども。
中村 涼
御兄弟なんですか?
コットン
はい、そういう設定です。
中村 涼
あ、そうなんですね。知らなかった。どちらがお兄さんはなんですか?
コットン
そこはまだ決めておりません。
中村 涼
あ、そうなんですね。
むらた
ということで、今日はこの4人でお送りしたいと思います。
はい、私も中村さん、清水さんとお話しさせていただくのは初めてなんですが、
動物倫理かいぎは私もご発表を聞かせていただいて、とても引き込まれる、ちょっとキャッチーさもあるようなお話で印象深かった記憶です。
中村 涼
ありがとうございます。キャッチーさあったかな。
むらた
あったかい雰囲気で、いいなと思ってました。
中村さんは動物倫理かいぎの実行委員長ですかね。
中村 涼
はい、運営委員長させていただいております。
むらた
最近は動物倫理かいぎは何かイベントとかされてましたっけ?
中村 涼
はい、定期的にいくつかイベントさせていただいてまして、
先月の7月ですと、例えばオンラインでミニ会議を開催させていただきまして、
京都大学から児玉聡先生、動物倫理を研究されている先生をゲストとしてお呼びしまして、
動物倫理界隈では皆さんご存知のピーターシンガー、動物の解放と新・動物の解放という新しい版の翻訳が最近出たものになりますので、
それについてお話をいただきました。
公開がちょっと間に合うかはわからないですけれど、間に合わないだろうな。
あまりオフィシャルすぎないような会員向けのイベントも最近準備しておりまして、
テスト的にですね、今週ですよね、コットンさん。
コットン
明日ですね。
清水 颯
明日ですね。
中村 涼
あら、明日。
明日です。
収録日の明日にですね、テスト的に、
動物倫理研究者と話そうナイト、夜の井戸端会議と題しまして、逆ですね。
動物倫理かいぎ、夜の井戸端会議、動物倫理研究者と話そうナイトと銘打ちまして、
動物倫理研究者をお迎えしてどういうふうに研究してるんですかとか、
ちょっと学会とかでは聞きづらいような、基礎的な質問とかを受け付けたりですね。
あるいは何で動物倫理をやろうと思ってるんですかとか、学問と、
あとアクティビズムとどういうふうに具体的な実践と学問を結びつけてるんですかっていう質問を
受け付けながら、動物倫理かいぎの会員の皆さんと、
カジュアルにオフィシャル、オフィシャルじゃない形でカジュアルにお話ししようっていう
催しをやる予定でございます。
むらた
めちゃめちゃ素敵ですね。
動物倫理かいぎの最初のイベントと言い、
格式ばらない。学問業界にいない人もウェルカムな雰囲気が。
中村 涼
おっしゃってくださったことが動物倫理かいぎの理念としておりますので、
もっともっと学問的な会議を催していきたいと思ってますし、
もっともっとカジュアルな会議も催していきたいと思っておりますので、
ぜひ気軽に皆さんご参加いただけると嬉しいです。
むらた
はい、皆さんぜひご参加いただければと思います。
ぜひチェックしてくださいということで、
早速今回の内容に入っていきたいと思います。
今回は前後半に分けまして、前半ではお二人の共同発表のご紹介をしていただいて、
次回の後半ではご発表の中心だったカント義務論と動物倫理のお話を深掘りしたり、
お二人それぞれのご研究、最近どういったこと、これまでどういったことをされてきたのかお聞きしていきたいと思います。
カントの義務概念
むらた
よろしくお願いします。
中村 涼
よろしくお願いします。
清水 颯
お願いします。
むらた
では早速ですが、今回の発表の内容についてお聞きしていきたいと思います。
まずご発表のタイトルですが、
動物に対する義務はある?カントに学ぶ動物と私たちの関係ですね。
このご発表ですが、まず動物に対する義務はある?っていう問いを噛み砕いていくところから始まっていたかと思いますが、いかがでしょうか。
中村 涼
はいそうですね、まず義務っていう言葉は日常的に使う方ももしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、
私は大学で哲学コースに入る前は日常的に使う言葉ではなかったんですね。
なのでまず義務とは何かっていう共通理解を会場と共有することから始めたと思います。
むらた
そもそも義務を負うとはっていうところからですね。
中村 涼
なんか義務って皆さん、義務があるとか義務を負っているっていう言葉で何となくイメージすることはあると思うんですけど、
それって哲学的にっていうか概念的に正確に理解するとしたらどんなことなんだろうっていうことを一緒に理解していきたくて、
一口に言ってしまえば、カント的な義務を負っているとか義務があるっていう言葉は何かこの私がこうするべきだっていうことに拘束されている、
縛られているっていう意識が何か義務を負っているとか、私は義務を持っているっていう言葉の本質なんだよっていう話をしました。
例えば今私がコットンさんのことがすごくなんか気に食わないことがあって、コットンさんに手を出したくなっちゃったとするじゃないですか。
でも私はいやいやコットンさんにそんなことすべきじゃないって思ってその手を下ろすわけですよ。
その時のこんなことするべきじゃないって私の手と私の頭を縛る意識が義務なんだよって話を最初にいたしました。
今コットンさん、コットンさんって実は人間なんですけれども、分かりやすいコットンさんにそんなことすべきじゃないっていうことは分かりやすいと思うんですけど、
じゃあワンちゃんに対してそういう自分を縛る意識ってあるんですか?
なんかありそうな気がする。じゃあ街を行くカラスやネズミに対してはあるんですか?どうだろう。
あるいは最近北海道を騒がせているヒグマたちに対して何か私たちがこの手をぐって抑える。
好きにしていいっていうわけじゃないよね。ていう自分を抑える何か義務みたいなものがあるんだろうかっていう問いからこの発表が始まったかと思います。
むらた
今回のご発表の内容だと、動物に対しても義務を負っているっていうのを言えたらいいなっていう出発点ですかね。
中村 涼
言えたらいいなというか、なんか普通に生きてたら言えそうな気がするんだけれど、私と清水さんが研究しているカントっていう哲学者、カントって哲学者を一応倫理学、我々動物倫理かいぎで発表したわけですから、ある種倫理学の上に私たちの思想を築いているわけですが、
カントといえば倫理学の中でもかなり大きい柱を持っていると、我々カント研究者が言うとちょっと迷惑がわしいですけど、客観的に見てもカント倫理学といえば倫理学の王道だと言いすぎかな。
言っても過言ではないような哲学者がその思想に基づいて動物に対する義務って語れるんだろうか。そもそも義務って概念自体がカントが非常に大事にして、彼の思想の中心に据えた概念ですので、じゃあカントさん、あなたが使っている義務で動物に対する義務語れるんですか?っていう問いがこの発表の中核にあったかなと思います。
むらた
はい、ということでまずカントがどういう人だったかっていうのを伺ってもいいでしょうか。
中村 涼
カントという哲学者はですね、フルネーム、イマヌエル・カントと申しまして、18世紀のプロイセン王国、現在のドイツに生きた哲学者でございます。
生年月日は1724年の4月22日生まれ、1804年の2月12日没になります。
彼の哲学的功績として知られているのは、著書名、純粋理性批判とか、その後に続く実践理性批判など、その後に判断力批判という本も続くんですが、この3つを合わせて三批判書と呼ばれておりまして、明治以降日本で西洋哲学が受容されて以降、哲学をやるといえばイマヌエル・カントだと。
思われていたほど哲学史、あるいは倫理学史の中でかなりプレゼンスがあるというか、存在感を放っている哲学者であります。
例えばですね、どういう思想が我々の社会に影響しているかって言いますと、私たちドイツ基本法とか国連憲章にも書かれているのかな、人間の尊厳っていう言葉とかを基礎付けた哲学者として知られていますし、現在は国際連合ですが、戦争が始まる前は国際連盟という組織だったかと思います。
そのような諸国が協力して世界の平和状態を維持していこうという国際組織の構想を行った哲学者としても知られています。
むらた
この国際連合の構想がカントによるものだっていうのも有名ですよね。結構正しさとか理想を追求するような人だったんですかね。
中村 涼
そうですね、一般的にはどちらかというと、カントは国際連盟の思想を打ち出した時もそうなんですけど、例えば何のために国際連盟を構想したかというと、永遠平和という理念を実現するための機関として構想していたわけなんですね。
永遠平和というのは一つの理念なんですよ。理念というのは我々人類が完全に実現できないとしても、その実現をずっとずっと頑張って目指さなきゃいけない。そこに向かっていくべき理想なんですね。
そこを見るとカントは他にも理念という言葉を使って、私たちが何をずっと目指して頑張らなきゃいけないのかっていうのを語り続けた人ですので、そういう側面を見れば先ほど村田さんがおっしゃったような理想主義というか理想を掲げる人だったと言って良いと思います。
本とか読んでるとそこに痺れる憧れる状態に私はよくなります。
むらた
そんな理想主義者の永遠平和を掲げるカントですが、動物について何か言ってるんですか。
中村 涼
カントの動物についての記述というのは多いとは言えないんですけれど、言っている箇所がいくつかございます。
その中でも私たちが発表で取り上げたものが、人倫の形而上学っていう本の中の一節なんですね。
どこからお話しすればいいのか。ここで引用をつらつら言っても仕方ないかなと思うので、適宜まとめていくんですけれど。
まず人倫の形而上学っていう本はですね、カント、義務について語るよってさっき申し上げたじゃないですか。
じゃあどういう義務が具体的にどういう対象に生じるのかということを体系的にまとめた本が人倫の形而上学という本だと言って良いと思います。
その一節にですね、カントが動物に対する義務ということを取り上げている一節がございまして、
簡単に言ってしまうとですね、我々動物倫理かいぎ公立記念イベントトップバッターだったわけなんですが、そこに書かれていたことっていうのは動物に対する義務はないよっていうことを
書かれていたっていうことを取り上げてしまったんですね。ちょっと不穏な始まり方をしてしまいました。
そんな動物に対する義務はないよ、終わりってなるとさすがに、じゃあ解散解散、カント終わり終わりってなってしまうことですので、
少し我々はせっかくカントを研究していますので、カントの思想に立ち入って動物に対する義務はないけど、我々動物に対してどういう関わり方をするべきなのか、
どこまで語れるんだろうっていうことを探究したのが今回の発表だったんですね。
さっきの動物に対する義務はないよっていう発言、カントの発言の背景を少し説明させていただきますと、そもそも先ほどから
登場させている義務っていう言葉、何かをするべきだとか、こういうことすべきではないという形で私たちを拘束する意識なんですけど、
どうしてそういう何かをするべきだとか何かをするべきではないっていう義務の意識が私を拘束するかっていうと、
そういう拘束、自分を拘束できるのはカントの言葉で言うと理性的存在者、理性的存在だけだって言うんですね。
何で理性的存在が私を拘束することができるのかっていうと、私たち感覚とか本能を持っててお腹空いたとか眠いとかいう本能とか欲求を持っていると思うんですけど、
いやいや、そういう感覚や本能を思うままに追求するべきじゃないよっていう形で感覚や本能をギュッっていう風に規制するっていうか、
強制する働きがカント理性にあると考えていたんですね。
これを先ほど言った言葉ですけど、一言で言ってしまえば、理性だけが我々を拘束できる。
理性に基づいて我々は義務意識っていう何か拘束されている、こうするべきだっていう意識を持つっていうことに多分カント的にはなるんだと思います。
カントの倫理学と動物
中村 涼
そうするとですね、我々を義務という形で拘束するものは理性を持った存在だけだっていうことになるんですね。
むらた
理性を持った存在だけが自分を拘束できるって。
中村 涼
そういうことですまさに。
じゃあ動物はどうなんだっていう話になりまして、カントの18世紀プロイセン的スキームで言うと、人間はどうやら理性を持っていそうだし、
持ち得る存在として特徴づけられている。
けれど、人間以外の動物、非ヒト動物とか言われる存在たちは、カントの視点やスキームでは、理性を持っていない被造物として捉えられていたんですね。
そうなると、人間以外の動物たちが私たちを義務づけることはないという構造になってしまうわけです。
むらた
なるほど。
中村 涼
それがカントの倫理学の基本的なスキームでして、先ほどの理性を持っている存在をカントは人格、パーソンと呼びまして、理性を持っていないもの、
例えばここにあるスマホとかペットボトルとか、そういうもの、あるいはカントに従えば動物も人間以外のものを物件、カタカナのモノという形で私たちは表現しましたけど、
人格、理性を持った人格に対して理性を持たないものという倫文法を用いて、人間と動物の境目を理性を持っているか持たないかという形できっぱり線を引いてしまった人として知られているんですね。
ですので、私たちが何かを義務づけることができるのは、自分を含めた人格だけ。
それに対して動物とかペットボトルとかパソコンとかのもの、物件は私たちを何も義務づけることはできないというふうにカントは彼の哲学の中で考えていたというふうに理解できるかなと思います。
むらた
いやー、動物とペットボトルとパソコンがもう一括りにされちゃうっていうのがちょっとびっくりですけど、そうするとカントに基づいて動物を大切にすべきだみたいに言うのはちょっと残念できませんっていうことになってしまうんでしょうか。
中村 涼
なりそうですよね、このままだと。でもカントにも一応一筋の光があるんじゃないかっていうのが私たちの発表の後半部分でして、カントは一応動物に対する私たちの行動を規制する、何か縛る、批判的に拘束するようなことを言ってるところがありまして、
動物に対する人間の義務
中村 涼
それが先ほども挙げた人倫の形而上学って本の中にございます。そういうふうに、いやいや理性的存在、人間しか人間を縛ることはできませんよって言っておきながら、こういうふうに述べています。
エヘンエヘン。動物を暴力的にまた同時に残酷に取り扱うことは、自分自身に対する人間の義務に対して遥かに応対から対立しているって言っているんですね。ちょっと堅い言葉だったんですけど、何を言ってるかというと、動物を残酷に扱ってはいけないという主張が出てきます。
あれあれ、動物って人間を義務付けないんじゃなかったの?ってなりますが、どうやら動物が人間を義務付けているからではなくて、どうやら人間に対する義務、人間の中でもさらに自分自身に対する義務として動物を残酷に扱ったらいけないと言っているようなんです。
これをですね、もっともっと簡単に噛み砕くとすれば、動物を残虐に扱っていけないということは、何か動物に対して義務違反をしているわけじゃなくて、もし私が動物に残酷なことをすると、私に対する義務違反をしているってことになるんですね。
なので、動物に悪いことをしているっていうよりも、動物を残酷に扱って私自身に何か悪いことをしているんじゃないの?っていう主張なんです。
むらた
なるほど。動物を思いやった結果とかではない?
中村 涼
そうですね、端的に言ってしまえばそうなってしまいます。
むらた
人間、自分に対して悪いことをしているっていうのは、もうちょっと具体的に言うとどういった意味なんですかね?
中村 涼
そうですね。私たちって、この例えが正確かどうか、後で清水さんにも。清水さんに何でも聞けばいいと思うんですけど、私たちって日常的に例えば物を乱暴に扱う人のことどう思いますか?
むらた
ちょっと怖い。
中村 涼
怖いですよね。
むらた
嫌なことされそう。
中村 涼
うん、なんか嫌なことされそうですよね。なんかちょっと品位に欠けてると思いませんか?
うんうん。
ちょっと強い言葉だったかもしれないですけど、そういうふうに物を乱暴に。
乱暴にっていうのは、やる必要ないのに暴力性を発揮して扱うっていうことは、人間としてのある種の品格を貶めているという点で、カントはそれが悪である、悪性を持っているっていうふうにみなしているんですね。
ここの論証本当はもうちょっと難しいんですけど、基本的にはそういうふうに理解できるかなと思います。
理性っていうのは、できるだけ無駄なことをしない、余計なことをすることなく目的を実現するための能力でもありますので、そんな不必要な形で物を乱暴に扱ったり、
痛がる動物を残虐に扱ったり、壊れるかもしれないのに物を乱暴に扱うっていうことは不合理なわけですよ。
不合理っていうのは理性に反している、日本語でもその通りですので、そんな不合理性をわざわざ発揮するってことは、自分の理性性を傷つけている、理性をまともに使っていないという点で責めを負う理由になるんですね。
むらた
なるほど。最初その人間は理性的存在だから大切にするみたいな話があったので、理性を結構大事にするっていうのがカントの考え方なんですかね。
中村 涼
おっしゃる通りです。本当に村田さんがおっしゃった通りなんですけど、あえて一言申し添えるなら結構、大事にするのではなくてめちゃめちゃ一番大事にしているんじゃないかなって私は読んでて思いますね。清水さんは違うかもしれないけど。
清水 颯
いや僕もそう思いますよ。理性めちゃくちゃ大事。ただまあ一個あれですよね、ここで言ってる理性って本当にそんな信頼をおけるんだろうかって我々は思っちゃうところではありますよね。
だってそれこそ今中村さんがおっしゃったように、無駄なく例えば目的に対して何かを遂行できる、何かできるっていう時に、じゃあそれ本当に非ヒト動物できてないんですかって言われたら結構クエスチョンだと思うし、逆にそれに全部の人間ができてるんですか、これまたクエスチョンだと思うし、そもそも理性が、なんで我々が理性があるって思われてるのかっていう、実は進化の過程でみたいな話もあったりすると思うので。
なんかそのカントが理性、理性って言ってる時の理性が額面どおりに我々の言葉で受け取ると、もしかしたらちょっとこう、何言ってんだよって思ったりする人も結構いる。
これが一部カントがあんまり受け入れられないような、倫理学学んでる人の中でも、ちょっとカントがあんまり好きじゃなれないなっていう一つの原因を作ってるように思うところはありますね。
中村 涼
おっしゃる通りですね。
実際カント以降の哲学史は、これもカント研究者がカントを過大評価してるってもしかしたら言われるかもしれないんですけど、その550年はカントが打ち立てた理性という本丸を批判する作業に費やされてきたといっても過言ではないんじゃないかなと思います。
理論哲学の分野でも、実践哲学の分野でもそうなのかなと思っています。
むらた
ということで、めちゃめちゃ理性を大切にしているゆえに、ちょっと動物まで配慮の対象にできていない人間の理性のために、動物は適当にというか残酷に扱われたりしてはいけないっていう、そういう論法で。
中村 涼
おっしゃる通りです。
それをカントは先ほど、人格だけが我々を義務付けるって言った時の義務はある人格、自分とか他人の人格に対する義務であると言われたのに対して、今村田さんがおっしゃってくださったような自分の尊厳、人間としての尊厳を傷つけないために動物に優しくするっていうのは一種の間接的な義務でありまして、
動物を扱う方法について
中村 涼
それをカントは何々に関する義務というふうに呼びならわしております。
ですのでカントの哲学の中には、動物に対する義務はあるって我々タイトルで問いましたけど、対する義務はどうやらない、残念ながら。
でも関する義務はあるっていうのが我々の発表の一つの結論になるかなと思います。
むらた
そうするとこの動物に関する義務っていうところからは、具体的に動物はどういうふうに扱うべきだ、扱わないべきだっていうふうになるんでしょうか。
中村 涼
そうですね、先ほど不必要な仕方で傷つけたりしてはいけない。できるだけ無駄なく動物を、カントにとってみれば動物は物ですので、無駄なく利用しなければいけないっていうのが基本的なスタンスになります。
現代の我々だとおそらく話は変わってくるんですが、カントの18世紀的、ドイツ的な、プロイセン的な観点で言えば、おそらく馬の利用とか牛の利用っていうのは人間の生活に不可欠だったわけですよね。
そういう時に馬とか牛に多分働いてもらっていた。働いてもらわないと多分たくさん死んじゃう人間が。救急車とか当然ないですし、コンバインもないわけですから。
馬や牛にある程度働いてもらわないと当時の生活は成り立たなかったわけですけど、その時にもおそらく体とか心にあまり負担をかけないような仕方で働いてもらう。
不必要に苦しみを持続させない形で働いてもらう。あるいは現代もそうですけど、当時からプロイセンは肉食が行われていた国ですので、そういう家畜動物も屠殺の仕方としては苦痛なく素早く殺すべきだし、いたずらに痛みを長引かせるべきではないというふうにカント的には考えられたと思います。
実際にカントは実験動物とか馬とか犬が人間のために奉仕するっていう場面を想定して人倫の形而上学では書いていまして、実験動物の場合も何か人間の単なる知的好奇心を満たすためだけに。
ここちょっと後で清水さんに補足してもらいたいんですけど、まず平たく言ってしまえば明確な目的なく動物の腹を生きたまま開いたりすることは動物実験としては良くない義務違反だというふうに述べています。
好奇心を満たすためだけに苦痛をたくさん与えてみようみたいな動物実験は良くないですよね。
でも差し迫った目的、ガンの治療とか当時はあまりなかったと思いますけど、人間を治療するときに確実に不可欠な形で何か動物に薬剤を塗布して実験しなきゃいけない。
そんな必要があるのかと現代の我々は思いますが、そういう場合ならば認められてしかるべきだ、別に義務違反ではないと考えたと思います。
ただ本当に不必要な苦しみって、結局人間が必要だと思うか不必要だと思うかって、その基準についてカントはそこまで明確に人倫の形而上学っていう本では述べていないんですね。
そこについて清水さんが我々の発表のちょっと後かな、研究されてたと思うのでちょっと補足してもらおうかなと思います。
知ってたよね。
清水 颯
はい、簡単に言ってしまうと、今まさに中村さんがおっしゃってたと思うんですけど、何が必要な実験なり、一回実験に絞りますね。
動物実験であったりとか、何が不必要な苦痛であったりとかってするのがよくわからないよねってのがよく僕も思ってたので。
これ今ちょうど、もしかしたら後半で喋らせていただくかもしれないんですけど、カントと動物倫理の研究を今はちょっとメインにしてないんですけど、結構やってたスイスのバーゼル大学の方と今一緒に研究していて。
彼とスイス、僕がいた時に雑談的に喋ってたのがまさにそのトピックで。
よくよく調べてみると、それで一緒に調べようぜって調べたんですけど、よくよく調べてみると、例えば動物実験とか当時のレベルで、現代のレベルではまさにそうですけど、単なる知的好奇心のための動物実験はできないわけですよね。
そんなものは、はなから禁止されてるわけですよね。ちゃんと倫理審査通さなきゃいけないし、あと単なる、カントの言葉で言ったら、思弁的なっていうふうに言っちゃうんですけど、要するに理論的な、いわゆるガンの治療とか。
実践的に我々の生活に資するような利益を生み出さないけど、なんかこう理論的にわかることが増える。例えば人間の心はこう動いてるんだねみたいな感じで、わかるようなものも不必要っていうふうにちょかんと書いてるんですけど。
単なるそういう理論的な探求とか、単なる好奇心っていうのが何なのかって考えたときに、意外とそんなもののために動物実験やってないのが一個ですし、基本的な実践的に何かが知するっていうことが、少なくとも確実にこれだって言えなくても、それが目指されているってのが当時の動物実験の文脈からもどうやら明らからしいと。
一方でカントは不必要な苦痛を与えるような動物実験はダメだって言ってるわけなんで、どうやらカントの時代にもそういうものはあったらしいと。これ何だったんだろうねって調べてみると、結構ひどいもんで。
例えば、一番わかりやすい例は、現代でいう掃除機みたいな、真空にして吸い取るみたいな器具があるんですね。それの凄さをパフォーマンスですよね。エンターテインするために、例えば動物を吸って吸い取って殺す。殺すっていうか、別に結果として死ぬのはわかりきってるんですよ。
そういうことをやる。これで、いわゆるショーをする。だから、いわゆるサーカスとかそういった問題は、もしかしたら批判できるかもしれないんですけど、そういう単なる人間を喜ばせる、エンターテインさせるための手段として用いること。これをどうやら単なる好奇心とかって言ってるっぽいですね。
動物倫理の基本的な問い
清水 颯
ってなってくると、やはり現代の動物実験で、仮にいわゆる基礎研究と言われるもの、特段すぐに効果的な治療に結びつかなくても、その事前段階の薬学の知識を得るためのものですら、やっぱり我々の人類のためにっていう、一応建前があるわけじゃないですか。建前さえあればOKっていうことになっちゃうんですね。
なので、我々の結論は、カントのこの議論は、現代においていかなる動物実験も禁止できないっていう結論になるだろうという話になっていて、なので、やっぱり当時のコンテクストであった、そういう不必要な苦痛とか、単なる好奇心のために行われていた動物の利用ってものは、結構やっぱり、あまりにもどう考えてもひどいやつぐらいだったっていうことが、
思想的にというか、歴史的に明らかにちょっとしてみたというところのあれがあるんで。
なので、結論、もっと強い結論を言うと、カントは、関する義務って動物に対する不必要な苦しみを与えてはならないっていろいろ言ってるけど、現代の社会においては、あんまりそういうことが、動物実験にはなさそうと。
なので、別のコンテクストで例えば、家畜の扱いだったりとか、いろいろとどう考えてもこれ要らなくないってのがあると思うので、そういったものを探していくっていう、一個の物差しにはなると思うんですけど、結構注意深く見ていかないと。
さっき中山さんも言ってたように、恣意的にこれ必要だよね、これ必要だよねって我々が区分しちゃったら、言ってしまえばずっと滑るじゃないですか。
必要だって言ってしまえばいいっていうふうに。これは我々のためなんだって言ってしまえば、できちゃうってことになっちゃうので、そこを規制する、もうちょっと上の次元の原理を設けないとなっていうところが、もしかしたらこれはカントの限界というか、カントがそこまで深めていなかった。
カントって動物の話でそこぐらい、我々が発表の中で引用したところぐらいでしかちゃんと言ってないので、それはカントが言ってなかったので、でもさっき言ってくれたような、間接、関する義務っていうものはあるということをうまく使って、何か新しいことが言えればいいなということが、とりあえず今の研究者で動物倫理とカントやってる人は、おそらく中村さんも私も興味があるところというところですね。
これは結構議論の渦中にあると言っているのかわからないんですけども、2010年以降の研究の一つの論点だったというふうに言えるかなと思います。
むらた
ということで、動物への不必要な害っていうのがどういうものなのかっていうお話をいただきましたが、今までの話を振り返ると、動物に対する義務、動物を守るためにとか、動物に価値があるからみたいな意味では義務があるとは言えない。
人間の尊厳とか品格に関わるからっていう、そういうアプローチで言うことはできるんじゃないかということでしたね。
中村 涼
はい、まさにその通りです。
むらた
カントが動物に関して研究しているところが本当にここぐらいしかないっていうので、なかなか難しいところがあると思いますが、そして動物に対する義務はないっていうことになってしまっているので、不十分な感じも、もしかしたらリスナーの皆さんとかも感じてしまうのかなと思うんですが、
まとめとして、このカントをもとに動物倫理を考えるっていうので、難しい点、不満な点とか、逆にここは意義があるよねっていうところ、いかがでしょうか。
中村 涼
そうですね、不満な点は、不満だろうなっていう点は、今村田さんがおっしゃっていただいたこと7割っていう感じ。
あとの3割については、現代の我々からしても、そしてかつおそらく当時の18世紀的な観点からしても、カントの動物に対する理解っていうのが浅すぎるっていうところは一つ不満点としてあると思います。
カント自身が馬具職人の家に生まれて、自身も家庭教師で人の家に出向くときに多分馬車を使っていましたし、どうやら犬を使役している場面もかなり身近にあったようなんですね。
そういう馬とか犬に対しては感謝する義務があるよねみたいなことは語ってはいるんですけど、かなり解像度は低いなと。あと元 もっと動物に対する知識を持っていたら、あるいはあと20年ぐらい長生きしたら、もう少し違ったことを書いていた可能性は個人的にはあるなと。
これはただの別に何の科学的研究に基づいていない予想と、読者としての感想ですけど、不満としてはあります。ただ不満、好意的に捉えられる点としましては、個人的に清水さんもそう思ってくださっていると思いますけど、不満ですよね。
現代の動物倫理を学んでいる人からしたら、動物は物であり、道具は道具なんだけど、道具に対しても一定の礼儀を持って利用しつくそうねっていう見解にしかもしかしたら見えないかもしれないんですけれど、でも実際のこの現代社会を見渡してみると、動物に尊厳とか権利がなんてないって思っている人の方がたくさんいるわけですよ。
実際には。だって道具でしょって思っている人の方が多分、素朴に考えている人が多いと思うんですね。確かに可愛い動物もいるけど、でも利用はするよ。だって人間と動物は違うんだかみたいな恐ろしい論理を使って我々を説得してこようとする人もいるわけですけれど、そういう人に対しても、確かに動物は物ですよね。
でもそういうものを乱暴に扱うっていうことは、あなたの品格の問題なんですよ。動物に権利があるかどうかとか、動物に道徳的配慮の根拠があるか、道徳的地位があるかどうかはとりあえず問題じゃない。
そうやってあなたは物だと思っているかもしれないけど、それをあなたが好き勝手にしていいと思っている、あなたの心が腐敗しているんですっていう、人間を責め立てる視点を持っているところは、私は悪くないかなと思っています。
むらた
なるほど。清水さんはいかがですか?
清水 颯
不満な点は、もう村田さんと中村さんが言ってくれたこと、ほぼ100っていう感じなんですけど、1点不満な点の中でも、ひとつもしかしたら、これも非常にでかいスコープの話なんですけど、さっき中村さんがおっしゃったように、カントは動物のことをあんまり理解していなかったっていうことですけど、その通りなんですが、
もっと理解していなかったひどいやつがいるんですよね。例えばデカルトっていうやつは、動物は機械なんで、要するに動物は機械、本当にモノ。もっと言うと、心的な能力ゼロっていうふうに言ったわけですよ。
でもカントはもうちょっと偉いのは、確かに物扱いっていうか、物であるっていうふうにして、人間とは違いますよ、理性ないですよって言って分類しちゃうんだけど、でも心はあるんですよね、動物に言ってしまえば。
心って何かっていうのはちょっと置いておきますけど、そういう心的な心を持って感情とかがあって、本能とかがあって、何か自分にとって向かっていくことができる。何かを選択するってことは、これもちょっと微妙なんですが、できないかもしれないけど、ちゃんと自分の利益とか自分の生存ですね。
にとって必要なものってものをしっかりこの世界の中で欲求できるというところで、ちゃんと心があってこの世界で動いているっていうふうにして、この意味ではある意味で機械とかものとは違うものとしては見ていたわけです。
これをどうするかを置いておいて、でもこういうところにちゃんと目を向けて、かつ道徳とか倫理の中で、そういったものとの関係性について、ごく微少だけでも触れているっていうのは、不満だけどやってくれたから、なんとか我々が論じ要が、論じ甲斐があるので、そこは良いだろうと。不満でありかつ、よく頑張ったなというところでもあるかなと。
もう一個、動物なんてどう扱ってもいいじゃん、みたいな人に対して、それはあなたのあり方が良くない。それは良くないあり方を反映してるんだっていうふうに人間に対して言うってこと。僕これ、たぶん、例えば全然そういうコンテクストじゃない人にそんなこと言ったら、たぶんもうめちゃくちゃ怒られるか危険悪くなるかなんで。
でもひるがえって逆に思うのが、今の社会って、動物に対するひどい扱いを隠す社会だと思うんですよね。例えば、動物、スーパー行ったらめちゃくちゃ肉がありますけど、あれが豚さんやら牛さんやらを残虐な仕方で非常にきつい労働環境の中で殺害して肉になってっていう工程全スキップで、もうあれは動物だと思ってないと思うんですよね。
おそらくスーパー行った主婦とか、主婦って言い方よくないですね。買い物してるときに肉をパッて入れたときに、これは動物が死体となって、出荷されてっていうのは全くスルーできると思うんですね。
だから我々はある意味では、我々の品位、中村さんの言葉で品位ないし尊厳。もっとざっくり言ってしまえば、共感とか感情、豊かな感情みたいなものが、動物にひどいあり方をしている、ひどい扱いをしているってことを隠すことによって損なわれないようにしているっていう社会設計をとってる気がすると。
なので、それを逆に批判できるかもしれないと。隠してるじゃん、お前ら。だから上手くなってるけど、本当は全部見せたら結構きついわけですよね。産業を知ろうとすれば、知ろうとするからこそ動物の権利に脅威を持つっていうことが出てくるわけですし、それを知ろうとしないように隠していて、つまり我々の道徳的なあり方みたいなものを損ねないようにこの社会を作っているというこの構造自体が悪であるっていうような、
まったく逆のロジック、逆の方向からカントを使ってるとは言えないかもしれないですけど、そのカント的なロジックを使って何か言えることは意外とあるんじゃないかなっていうふうに思っています。
今後の研究の可能性
清水 颯
発表したときは中村さんともちょっと喋ったんですけど、全然言えることないって僕は思ってたんですけど、よく考えてみたら、言いようによっては何か効果を発揮するんじゃないかなっていうところで、もうちょっとカントと付き合ってやってもいいかなと思ってるところですね。
中村 涼
このさっき研究した道徳形而上学、あ、ごめんなさい、人人倫の形而上学の部分でも、カントはこの本でたくさん具体的な義務を挙げてるって言いましたけど、私たちの共感能力を殺してしまうことはいけないってカントは考えているんですよね。
これ全然清水さんの研究領域だと思いますけど、だから、むしろ何かつらいものとかひどい状況にある人間とか、多分動物も、あえて見ないようにすることも義務違反の一種なんですよ、多分カント的には。
そうなってくると、さっき清水さんがおっしゃったように、現在の畜産システムとかもそうですし、あえて目をそらして、いやいや動物は苦しんでいないんだって自分を洗脳するっていうか、思い込むこともカントに言わせれば、おそらく自己自身に対する義務違反の一種になるんじゃないかなと、私も思います。そういうことですよね。
清水 颯
そう言うことです。僕はそれでもうちょっと、今言われる何々に関する義務っていう話が、今言っている不満派が多数なので、動物理論においては。なので、カント、ギリギリここまでしか言えんかったね、ぐらいですけど、今の話も踏まえて、意外ともうちょっとポジティブに言い換えてあげてもいいなって思っていて。
これを1年以内ぐらいに何かしらの形にしてできたら、またみんなに聞いてもらおうと思ってます。
むらた
はい、ぜひまたお話聞きたいです。論文も拝見したいなと思います。
なるほど、なんかこのポッドキャスト録るにあたって、少なくとも前半は、カントここまでしか言えないんですね。
でもまあ、間接義務としては、ちょっとは意味あるんですかね、みたいな、ちょっとしょうがないか、みたいな感じで終わるのかなと思ってたんですが。
意外とその品格、あなたの品格どうなんですかっていうところに留まらず、品格を下げないように、見て見ぬフリを見ないようにしてるんじゃないですか。
私が共感能力を本当は下げてしまってるんじゃないですかっていうことが言えるんじゃないかというのに言うので、希望を持って終われそうで嬉しいです。
コトンさんはどうでしたか、前半聞いていて。
コットン
最初、中村さんが、カントの道徳哲学がそのドイツ基本法の基礎にあるっておっしゃってました。
中村 涼
尊厳っていう言葉がですかね。
コットン
なんか結構日本の、戦前って結構日本ってドイツから影響を受けてるから、今でもすごいドイツの憲法の強い影響にあるっていうのを風の噂で聞いたんですけど、本当ですか。
中村 涼
わかんない、憲法学者じゃないもん。
コットン
もし日本にもすごい強い影響を与えてるんだったら、こうやってカントの理論を拡張していって、動物に対する義務を、今日本の法律が担保しているよりももっとあるんだよっていうことを言えたら、すごい意義が深いなと思いました。
なので、2人には頑張ってほしいなと、応援してます。
中村 涼
ありがとうございます。
清水 颯
頑張ります。
むらた
ということで、ここまで動物倫理かいぎでのご発表内容を中村さん清水さんにご紹介いただきました。
次回後半では、ここからさらに気になったポイントだったり、お二人それぞれがされている研究についてお聞きしていきたいなと思います。
また後半よろしくお願いします。
中村 涼
ありがとうございました。
また来週。
むらた
また来週。
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