00:06
じゃあちょっと、第3章の方にも、ちょっと面白いことがいろいろあったから、
ちょっと第3章で気になったことを言ってもいい?
OK、OK。
第3章が、ポスト・トゥルースを終わらせるってあって。
はいはいはい。
で、SNSをさ、の質問を大学生に持ってこられたってところから始まってるんだよね、これ。
うーん。
先生〇〇という意見がSNSであったんですが、どう思いますか?って言って、
なんかそこから始まってて、
で、その例が仮想の質問で、その、
生まれてきてしまったら幸せになれない可能性が高いことが、
哲学では証明されてるから生まれてこない方がいいし、
子供を作るのは悪いことだと思う。
で、それに対して、結局でもこの先生は、
哲学的にはなんか、情報が足りないみたいな。
そういう答えだよね。
で、正確には答えられないみたいな。
なんかそういうことなんだけど。
でもそこから、なんか幸せについて展開してるわけよね。
あのキーワードを抽出して、
で、自分の経験とか考えを照らし合わせながら、
ある角度で論を展開して、
っていうことをなんか実践してみせてくれてるんだよね、確か。
で、ここでまたなんかちょっと違和感を持ったポイントがいくつかあるんだけど。
はいはいはいはい。
例えば、幸せっていう概念に関して取り出しましたと、この人が。
で、幸せの概念には、
欲望が充実した心地よい状態とか、
欲望が満たされたっていうのが、
幸せだみたいなことを言ってるんだけど。
だから幸せと欲望はセットであると。
って言ってんだけど、なんかこれすごい狭い定義の仕方な気がして。
いいんだっけこれみたいな。
とかね、なんかもうすげえ切り取り方がさ、シンプルで。
こんなんでいいんだっけみたいな。
そしたらこの後の文章がなんか入ってこない。
あの、ウェルビーイングの回でさ、
ウェルビーイング、幸福は、
マズローの欲求五段解説が満遍なくちゃんと充足してることではないかみたいな話になって。
で、俺はそれにすごい納得していたんだけど、
なんかしおくんね、ちょっと納得してない感があるなーって俺感じてた。
その時、ウェルビーイング回の時に。
で、やっぱそうなのかなって今思った。
なんか、どうだろう。
欲望は解決したら幸せってすごい一辺倒な定義の仕方な気がするんだよなって思っちゃうんだよな。
逆にじゃあ、それ以外で幸せってどう表現できそうかね。
03:04
欲望が充足されてるっていう以外の面の幸せって。
例えば、例えばだよ。
過去10年間を振り返ってよかったなーみたいな、
幸せだったなーっていう評価解釈をした時って、
欲望なんてプラスマイナスでいろいろあると思うんだよね。
でも、それでも過去10年を振り返って幸せだったって感じることってできるような気がして、
これって欲望とセット。マイナスがプラスになったとか、
なんか埋まってないものが埋まったっていうだけで表現できるかというと違うような気がしたんだけど。
どういうことだろう。
過去10年間を振り返って、
いろいろ凹凸はあったにせよ、
おおむね欲望は充足されていたなーだから俺は幸せだったなーっていうことではなく。
あー、そっか。
欲望ねー。
なんだろうな。
じゃあ、確かにそういうふうに反応されると、
欲望をあえて抽出すれば、
それが満たされてるからそう感じたんでしょと言われてしまうと。
なるほどね。
欲望の定義を広くすればそうなるのかな。
今その後に出てくる例が、
生理的欲求に具体例が移ってるんだよね。
お腹が減るから、美味しいものを食べたときに幸せを感じられるのだと。
これを見たときには、
なんかすごいこう、満腹中枢が満たされて、
なんかめっちゃ美味しいなーとか、
なんかホルモンが出てるよね。
なんか忘れちゃったけど名前。エンドルフィンだったか。
なんかそれが出てるときに、人間を感じてるでしょって。
なんかすごい言ってるような気がして。
でもなんか人間ってそんなに単純じゃないんじゃないかというか。
って思ったんだけど。
でもまあ欲望を、
社会的なもの。
承認欲求とか、
安定とか、別の
定義に拡張すれば、
別に合ってんのかな。
そうだね。その低次元の欲求だけじゃないよね。
その自己実現欲求とかも含めて、
まあおおむね満たされてたなーと思えたら、
それやっぱ幸せなんじゃねえかなーと思ったけどね。
自己実現欲求とかが満たされているのに、
いや俺は不幸だって感じるのってなんか難しい
ような気がするんだよなー。
満たされてるのに不幸だと思う。
そうねー。
なんかその、
まあじゃあ、確かに
そういう捉え方もできると思うんだけど、
06:04
たぶん僕の哲学者に対する期待値のずれかもしれないけど、
幸せっていうさ、すごいなんか難しい定義?
を、この人がいとも簡単に、
なんかこう疑いもなく言っちゃってるのに違和感を感じるのかもしれない。
あーでもね、ここの部分はね、俺もちょっと違和感感じたんだよね。
なんか、ちょっとなんか、
これはこうだよね、これはこうだよねーみたいな、
たぶん簡単に述べて、ポンポンポンって述べてるんだけど、
本当にそうかなーっていうのは確かに俺もちょっと感じたかな、
この辺りの一連の部分は。
うん。
まあでもそうするとじゃあ、幸せとは何かみたいなのもまた、
それだけで一つの定義になってしまうので、
まあそこはちょっとどうか。
そうだね。
そうしようか。
なんか他にさ、この辺りで、なんか気になった点とか、
なんかある?キーワードとか。
うーんとね、
ちょっと待ってね。
うん。
見返し中。
ちょっと待って。
OK。ちょっとじゃあ、その間俺トイレ行ってきていいかな。
おーいいよ。
じゃあゆっくり読んでていいので。
一旦離れまーす。
はい。
戻りましたー。
はい。
なんか。
もう一個面白いなーって思ったのが、
このコミュニケーションのフェアネスに関して。
ほう。
言論そのものが力のゲームになってるっていう話の文脈でさ。
あー。
コミュニケーションをフェアにするための条件。
例えば、コミュニケーションの場に権力関係や利害関係を持ち込まないことを徹底することで、
より良いコミュニケーションの場を作れるって話をしてるんだけど。
うん。
文脈としては、なんかこう、
力関係がある中で、
約束ごととかなんか合意したーっていうことを、
後から力のあるもののほうが、
都合よく解釈というか、
歪曲して、
解釈しちゃうねみたいな話があって。
なんか上司と部下の関係でさ。
なんか上司が都合悪くなったら、
なんかお前やるって言ったじゃんみたいなことを言い出した。
うん。
で、これって、
結構、
うん、面白いっていうか、
そうだよなって思うとこがあったり。
最近その、
日本のさ、
芸能人の不祥事とかでさ、
合意したとかしてないとか、
あー。
で、なんか蓋を開けてみると、
結構暴力的なことをやっていて、
で、
片っぽがなんかこう、
芸能界の大御所だったりとかすると、
その相手のほうは、
09:00
合意を、
した風に見えたとしても、
その力関係の文脈では、
それを本当に合意したととっていいのかみたいな、
とか、
あとは別に夫婦関係とか、
なんかすごい、
家族の関係とかでもさ、
なんかそういう、
利害関係っていうのかな、
なんかちょっとした力関係って、
あったりする場合に、
そこで行われるコミュニケーションって、
フェアにするってめっちゃ難しいよなっていうのを、
感じてたりとかね。
なんか言葉通り受け取れない、
こととかってある時に、
なんかその、
こういうことを考えてたりしたわけよ。
フェアにするにはどうする?
フェアってなんだろう?とか。
で、この人はうまく、
簡単にシンプルに、
利害関係が根本原因ですよって言ってて、
で、
そうじゃないようにするには、
そうじゃないようにするためには、
どうしたらいいって言ってたっけ?
あんまりそれに対しての解策は言ってないか。
そういう問題が起こりやすいですよ、
と言ってるだけか。
えーと、
うん、そうだね。
解決策というよりは、
そういう力関係が、
正しさ、
どっちが正しいんだみたいなのを、
巡る争いではなく、
共同のプロジェクト、
であるというふうに考えて、
やっぱりその普遍的な、
共通認識みたいのを、
やっぱり探っていく営み、
作っていく営みを繰り返すしかないよね、
みたいな言い方だね。
そうだよね。
これは、
やっぱりそれもさっきと一緒で、
理想はそうなんだが、
現実問題としては難しいよねっていう感じだよね。
権力がある側とない側っていうのは絶対、
厳然たる事実としてそれはあるわけで、
そういった関係性の両者がどう、
フェアにコミュニケーションをして、
いけるのかどうか。
なんか僕の感じだと、
そういう対話ができない、
相手からは、
距離を置くしかないんじゃないかなって、
思ってるけどね。
距離を置いて、
理解し合える人と、
まず繋がり、
繋がっていくと、
多分そのうち、
繋がれる側が、
優勢になってきて、
そういう、
いや、そんなことねえな、
そんなことないね。
どうしたらいいんだろうね。
12:03
相手がそういう、
話し合いを持つ気がない、
トピックによるかもしれないけど、
でも、その人とうまくやっていかないといけない、
仕事場とか、
家族なのか、
状況的に、
その人と距離を取れないとか、
そういったときは、
そういった状況はない、あんまり。
対話は、
できないよ。
できないね。
俺は前そういう似たような状況に陥ったときは、
自分から逃げる、
っていう方法でしか解決できなかったから、
それを対話で解決できるイメージは、
全く持てないので、
対話の姿勢がないとできないよね。
相手に似たような姿勢がないとね。
意見の違いがあっても。
そうね。
さっきのフラットアースの例じゃないけど、
自分がフラットアースを信じてない側で、
向こうが信じてる側だとして、
向こうに、
そういう他の可能性、
説を信じる余地とか、
議論する姿勢がないと、
共通理解を一緒に作ろうということにはならない。
ならないね。
なれないね。
なれないよね。
これで終わりか。
ならないで終わり。
ピリオド。
だから、
そういうのを、
ゆっくり世代交代して、
そういうのが分かる人間が、
優勢というか数が多くなる。
世代を繰り返すしかないんじゃないかな。
って気がする。
今いる人間を、
全員そういう状態にするのは無理だったよ。
だから、そういうのが理解できる、
人間を少しずつ増やしていく。
っていうのは、
それは普遍的に良いことなのではないか。
っていう気もちょっとした。
なんかでもさ、意見の鋭さとか、
広がりやすさみたいなのを考えると、
確固たる断定的なものの方が、
SNSで広がりやすいのと一緒でさ、
人間の記憶に残りやすいとか、
次の世代に伝播しやすい考え方、
遺伝子みたいなものを考えた時に、
対話をしようとする姿勢と、
対話をしようとしない姿勢で、
何か別の思想を、
没頭して考える姿勢と、
どっちが生き残りやすいかって考えると、
没頭してる方が生き残りやすいんじゃないかな、
15:00
とか思って、
性質的に弱い、
ネガティブケイパビリティとかが、
優勢になるのかなって、
ふわっと思って。
性質上。
だって強く押さないからさ。
意見としてふわっとしてるから、
メタレイヤーである思想を押してるわけじゃん。
メタレイヤー。
一個レイヤーが違うところで、
これ大事だよねってことを合意しようとしてるから、
見えにくいような気がするんだよね。
認識されづらい。
しかし、一見合意してないような人たち、
広がりやすさとか、
次の世代に伝わりやすさみたいなのも、
弱い気がするんだよね、こういう考え方。
でも、
前の回で、
これからの時代はメタ認知が大事だ、
みたいな話をしたじゃん。
今まではそんなに大事じゃなかったけど、
これからは大事になってきてますねと。
その理由は、
社会がすごい速度で変化しているし、
すぐその他人と、
自分の世界線と他人の世界線に
比較して、
できるようになってしまってますと。
そういう世界になっていると、
そういう判断を留保しないと、
耐えられない状態になっているのではないか。
判断留保というか、
耐えられないから、みんなそういうのに
傾倒するんじゃないかなと思ったのね。
わかりやすいのに。
耐えられないから、
俺はこれで行くっていう。
シンプルにするために。
確かにそうだね。
そうだよね。
時代が激しいこととも関連しているんじゃないかなと思うんだけどね。
なんかそんなことは、
その後、
そういうふうにすると、
悲惨な結末に行き着くとか、
いうことが起こらないと、
これはダメだったねってならないのかな。
でも、俺はそういうふうに、
耐えられなくて、
俺はこの信念で行くわってやっちゃうと、
なんかね、
18:01
破滅するんじゃないかなっていう感覚があるんだよね。
人っていうか、
そういうふうにやっちゃうと、
遅かれ早かれ、
何かどうしようもない
事態に遭遇して、
崩壊すると、その信念が。
で、そうなった時に多分、
学ぶか、
学べなくてそのままの状態で行っちゃって、
永遠と苦しむか、
だから、
そこで学ぼうっていう
方向性に、
圧力がかかってる
時代なのではないかなっていう
気もちょっとしているんだよね。
あとはもう一個、
今メタ認知っていうのが出たから、
なんか、
構築主義の話を途中からしてて、
これ、構築主義ってさ、
相対主義とあんまり違いがよくわかんないというか、
ごっちゃになってきてるような気がするんだけど、
これは俺も中でも、
イコールだと思ったね。
相対主義と、
構築主義はイコールでいいと思った。
事実を相対化する役割を担うのが、
構築主義であると。
なんか、
これで、
メタ認知とか相対化とも、
相対主義と一緒だって言ったから、
まぁそうだよね。
一緒だと思っていて、
コテンラジオでやっていること、
時に、
暴力的に働く社会通念とかを、
世間の常識とかを、
ある程度、ちょっと批判的というか、
一歩下がってみようよと言って、
社会から疎外された人々とか、
周辺化された人々を、
励ます思想になるって書いてあって、
あ、これ、コテンラジオがやろうとしていること?
って言えるのかなと思ったんだけど。
そうだね。
そうだと思うよ。
一方で、「それって危険だよね。」
みたいなことが言っていて、
構築主義の論理を進めた結果、
自由や人権すらも相対化されてしまうなら、
これはまずい状況という他ないだろうと。
これもね、
この表現に僕はちょっと思うのが、
いや、確かに、
自由や人権って、
相対化される。
自由とか人権が大事じゃないって言っちゃうと、
良くないっていう。
僕自身は思う。
っていうのは分かるんだけど、
それを哲学者が、
これはまずい状況という他ないだろう
っていうコメントするって、
なんていうのかな?
一般人がコメントしてるみたいな
コメントの仕方してて、
こういう表現で、
21:01
論を展開できるのかな?
みたいな。
分かる?
違和感を感じたんだ。
その人の価値判断で断定的に言ってる。
その根拠は特に述べてない。
ない。
だから、わざわざ、
言う他ないだろうっていう、
強調が入ってるんだけど、
本当は僕は、
もうちょっと別のサポートがあって、
主張をしてほしいのに、
みんな同意してるよね?
ってだけで終わってるのが、
ちょっと気になる。
例えば、
深井さんとかだったら、
こんなものを引用しながら、
歴史的に自由を軽視した結果、
こういうことになってしまって、
これって、
もう一度起こってほしくない
と思ってる人がいるから、
まずいと思えるよね?
みたいな、
そういう一部の、
サポートするもの。
そういうのが、
僕は期待しちゃってるんだなって、
これを見ながら思って。
分かるよ。
分かる。
この人はそういうスタイルだよね。
一貫して、
こういうもんだよねっていうのが、
所々に入ってくる。
でも自分もそういうタイプだなって、
すごい感じるから、
この人を擁護しようとすると、
信念があるんだと思うんだよね。
これがいいとか、
これがあるべきだ、
信念があって、
私はこう考えてますよっていう、
その人が見えてる確信を、
この人は述べてるんだと思うんだけど、
それはさっきの現象学の、
その主観、
その人の主観の確信でしかないわけよね。
この人が言っていることも、
多分その一つの確信の一つでしかない。
結局自分が確信していることを、
自信持って述べることしか、
人間にできることはないんだと。
だから、
この人は自分ができる限りの確信を、
確信して、
述べていて、
それが正しいか間違っているかは、
そこは重要ではないと。
私の確信はこうなんです、
というのを述べていて、
もちろんあなたは別の確信があるでしょうよと。
そこをすり合わせていきましょうよ、
24:03
まず私からは、
私の確信を、
まず出しますよ、
って言ってるだけだと思うんだよね。
だからこれが世界の根本の、
理であって、
これが正解なんですよっていうことを、
たぶん述べてるわけではないと思っていて、
この人が言ってるのは。
あくまで一つの確信。
私から見えている確信はこうなんですよっていうことを、
この本でたぶん述べてるだけ。
だからそれを、
そういうふうに見てあげたほうが、
いいのかなって思った。
今ね、聞いてて思ったのが、
たぶん、事実と意見を混ぜているみたいに、
見えるのが嫌なんだろうね。
例えば、構築主義の論理を進めた結果、
自由や人権すらも相対化されるっていうのが、
一つの現象として、
たぶん起こるはずなのね。
起こるって言えるとかね。
論理だよね。
そういう論理展開があって、
で、それは、
この状況はまずいというほかないだろうと、
自分は思うっていうふうに、
わけだったらいいんだけど、
その論理展開を、
意見がぐちゃってなってるから、
気持ち悪いのかもしれない。
そうだね。
だから、
私は思うっていうふうに、
語尾についていれば、
気持ち悪くない?
そうそう。だから、
構築主義の論理を進めた結果、
こうなるって言われているとか、
そうなるって導き出ると。
で、それを、
私はまずい状況だと思うって言うんだったら、
たぶんわかる。
いいと思う。
ていうことかもしれない。
言えるような気がしてきた。
哲学者が、
その概念の説明とか、
論理展開、
こうなったらこうなるよねとか、
これってこういうことだよねと言っていることと、
私はそれをいいと思うか悪いと思うかは、
別にしておいてほしいんだけど、
なんかそれが、
言葉尻に入ってて、
いい悪いみたいなのが、
現れているような気がするのが、
気になるのかな?
いやでもそれは正当な批判だと思うんだよね。
いい批判だと思うよ。
他にも、後半でなんか面白そうなのが、
出てきているような気がするか、
他の方にも1個かな。
今大体3章だったんだけど、
他になんか、3章あたりで気になるところとかある?
3章はあんまりなかったかなーって気がする。
あ、そうだ。1個、
3章で思ったのが、
陰謀論とか奇跡を信じることは、
同じ心の動きである、
みたいなことが言っていて、
自分が置かれた不合理な状況を、
27:01
なんとかこう説明をしようとして、
俺が不幸なのは、
誰かの陰謀が働いていて、
不幸なんだみたいな、
理由をつけて説明しようとする。
だからその人は陰謀論を信じてしまう、
みたいなことの説明と、
俺が神を感じているのは、
全く同じ原理だなと思ったんだよね。
自分が置かれている状況がさ、
全く合理性がないわけよ。
俺は不幸だと思っていなくて、
むしろ恵まれているなと思っているんだけど、
その恵まれているなと思っている感覚を、
合理的に説明する枠組みが何もなくて、
それをどうにか説明を加えようとして、
神を導き出したんだなと思ったという話ですね。
だから僕の神と陰謀論は、
同じ心の動きでできているのかなと思ったんだよね。
でも一応そこにさ、
他の解釈を受け入れながら、
自分が不幸なのは、
他の解釈を受け入れる余地はある。
そこは陰謀論を信じて、
他を認めないのとは違うんじゃないの。
別に他の解釈がありえそうだと思ったら、
乗り換えられることはできる。
できるできる。
あと面白いなと思ったのが、
陰謀論を信じている人は、
善いことをして、
善いことだと思って、
その陰謀論を広めているみたいな、
善意で広めているっていう風に言っていて、
宗教家が信者を増やそうっていうのも、
同じ心の動きなんだろうなと思ったんだよね。
その善意で、
救ってあげたいというか、
っていう心の動きがあって、
布教というか、
するんだろうなと思ったし、
でも俺は、
自分が感じている神を布教しようとは思っていないので、
そこはちょっと、
距離が置けているのかなっていうのはあるけど。
そうなんだよね。
それを広めようとするって。
面白いって言うのも変だけど、
善意のつもりなんだけど、
その方が相手を傷つけたりとか、
社会的にネガティブな影響を与えるっていうのは、
あるよなって。
自分も陥る可能性も十分あると思うし、
自分も善意だと思ってね。
何がメタ認知をすれば防げることなんだろうか。
30:09
対話する余地を残しておけば防げるんだろうか。
さっきツイッター見ててさ、
思ったのが、
コロナのワクチンのせいで、
死んだ人が、
すごいこの1,2年で増えてきてるみたいなニュースが、
さっきいっぱいあって、
それはまずいと。
これはなんで国とか、
報道機関とかは、
報道しないんだよみたいなことで怒って、
これをみんなに広めねばならないみたいな感じで、
ツイートがたくさん出てて、
それはやっぱり善意で動いてるんだろうなと思ったんだけど、
俺は判断つかない訳ね。
それが真実なのか、
陰謀論なのか。
全然判断つかないなと思って。
対話できないよね。
分かんないし。
だからどうしたらいいんだろうなと思っちゃったんだよな。
うんうん。
ファクトチェックとか言ったりするけど、
どこまで行っても、
真実を突き止めるって難しかったり、
時間のリソースが限られてるから、
一個一個全部を確かめていったり、
一次情報に行くなんていうのは不可能だし、
どっかでね、
それを疑問として受け入れた上で、
論理展開というか、判断をしないといけない。
ワクチンの話だと、
ワクチンの効果があったないとか、
それの因果関係って、
確かめようがないし、
確かに10年後見てみたら、
悪い結果が出てたっていうのも、
あり得なくはない話だから、
難しいよね。
留保してる側の方が、
ソフトな動きになるような気がするんだよね。
だってとよだくんも、
どうしていいかわからないというか、
そうかもしれないけどっていう態度になるじゃん。
確信的に行動を取れてるのは、
やっぱりそっち側だよね。
これは広めなくてはならないと信じてる人の方が、
すごいエネルギーで動けるような気がして。
わかんない。
そっち行く?
33:00
これもう3時間話してるんだ。
うん。
早いね。
ちなみにこの後、
あと20分くらいしか僕ないんだけど。
あ、そうなの?
時間的に終わるかな。
4章の話して、
途中で時間が切れちゃったら、
しょうがないねってことで、
留保して。
これを留保して。
行けばいいんじゃないか。
でもこの4章とか、
1章とかで飛びたび出てくる、
自分を自己デザインしてるっていう、
SNSの表現の仕方は、
面白いなと思っててさ。
多分みんな悩んでるというか、
いいのかなと思いながら、
多かれ少なかれあるような気がするんだよね。
自分っていうのがあって、
見る角度によって見え方が違うから、
SNSってところに見せてる自分って、
本当なんだけど、
相手がその情報だけを持って、
自分に抱いてる、
再構築してる自分ってのが、
自分とずれてるだろうなみたいな。
そういうのってみんな感じてると思うんだよね。
はいはいはいはい。
イメージとして真ん中に自分ってのがあるんだけど、
スマホみたいなのを通して、
紙に投影すると自分を。
そうすると一次元に自分ってのが写ってて、
それを見て、
他の人は元の自分を、
立体視というか、
再現しようとしてるんだけど、
多分一回一次元に落としてるせいで、
なんかすごいずれてるのがあったりして、
もしくはその自分ってのも、
次の日になったりしたら、
感情とか新しい情報とか、
新しい行動によって、
また昨日の自分とは違うし、
なんかそういう、
常にずれてあるし、
そこの間で、
悩む人とか、
違和感を感じるって、
自分も含めてあったりするような気がするから、
この自己デザインとか、
なんかここら辺の話は、
面白いなぁと思いながらは見てた。
サイバースペースで。
もう一個、
面白いなって思ったのが、
弱さとか脆さに関して、
書いてるとこで、
私が不完全で、
傷つきやすい存在であることを、
別様に振る舞うことを可能にすると。
逆に、
弱さとかを、
過剰認識することも、
できちゃって。
だからどっちもあるなぁと思って、
自分は全然強い人間ですよ、
って言ってる方もあれば、
弱さを出して、
弱いんですっていうのもあって、
36:01
何をもって過剰かっていうんだけど、
正直ね、測れるもんじゃないから、
なんかここは、
こういうのあるなって、
それをうまく言語化してって、
なるほどね。
この自己デザインの話は、
自分にすごい心当たりというか、
すごい経験として分かる部分があって、
これちょっと話したいんだけど、
前、ビジネスをやってたって言ったじゃない?
うん、言ってたね。
ビジネスをやって、
そのやり方を人に教えますよっていうのを、
やってたんだよね。
で、それをやってる時って、
絶対自分をよく見せるというか、
うまくいってる人間みたいのを、
演出しないといけないわけよね。
じゃないとその人から教えてもらおうっていう、
あれにならないからさ。
それを意識的にやってたんだよね。
それやってる時ってね、
俺すごい苦しくて、
現実の自分とさ、
デザインしてる自分がいるわけよね。
そのデザインしてる自分は、
うまくいってますよとか、
いう風な像を作ってるんだが、
現実の自分とのギャップみたいのが、
すごい苦しくて、
すごい嫌だったんだよね。
やめたくてやめたくてしょうがなくて、
結局やめたんだけど、
やめた後に、
今こうやってポッドキャストとかやってるじゃない?
今の自分ってすごいナチュラルなのよ。
全然カッコつけてないというか、
多少カッコつけてる部分はあるのかもしれないけど、
それが全然自分の心の負担になってないっていうのかな。
だからその時のギャップ、
苦しかった時の気持ちと、
今のすごい心が楽だっていう気持ちのギャップが
すごいはっきりわかるんだよね。
そのギャップがない、
負担がないっていうの?
心が苦しくない状態で、
今自分がいられてるっていうのが
すごいいいなと思ってるし、
その負担を感じない状態が
多分ニュートラルな状態っていうのかな。
その人が一番、
その人の真ん中っていうのかな。
変に上振れとか下振れさせてない
自分なのかなっていう感覚は
今あるすごい。
今このSNSとかで生き残るには
39:00
上振れとか下振れができないと
生き残れないのかなと思ったりするんだよね。
だから多分、
YouTubeとかさ、
そういうアテンションエコノミーの世界では
多分そうなんだと思うんだけど、
ポッドキャストってちょっとそことは違うかなと思ってて、
だから俺は多分、
ポッドキャストは
多分心安らかにできてるんだけど、
YouTubeとか
そういう世界は
なんかちょっと入っていけないなって思ってるんだよね。
これ聞いてる人は
とかやってる人は
うんうんって頷くのが多いかもしれないよね。
多分。
ポッドキャストはちょっと違うかもしれない。
なんかその会社のコミュニティの人からも
ポッドキャストなんか
みんな聞かないんじゃないかと。
だからYouTubeとかで
やった方がいいんじゃないのかっていう
意見をいただいたんですけど、
やっぱね、
YouTubeはやっぱ僕は
向いてないというか、
もう何度もやって何度も挫折してるんだよね。
あーそうなんだ。
だからYouTubeはちょっとね、
もう何度もやってる。
そうなんだ。
ちなみに何のトピックでやったの?
えーっとね、
なんだっけ。
俺最初さ、
都市が好きだったから、
世界の都市が好きだったから、
世界の都市を紹介する
番組とか、
そういうのをブログで書いたりとか、
YouTubeの動画作ったりとか、
してたんだよ。
で、それってね、
やっぱそれも最上志向のさ、
才能があってさ、
すごい時間かかるのね、
一個の動画作るのに。
すげーパワー込めて作っちゃって、
それもう続かなくって。
で、やめたりとかして、
それを何回か繰り返したりとか、
そういうのをやった結果、
やっぱり自分がやりたいことじゃなくて、
市場性があるというか、
他人が求めていることをやらないと、
多分このインターネットの世界では、
生き残れないというか、
やっていけないんだなっていうことを学んで、
自分がやりたいことを完全全無視して、
求められていることというか、
市場性があることだけに突き詰めてやったんだよね。
で、そうやったら、
うまくいったんだよ。
で、うまくいって、
お金は稼げるんだけど、
すごい苦しいのよ。
それが。
で、そっちに振った結果、
もうそれもう無理だなってなって、
今、もうそんなのどうでもいいと。
そんなのいらんってことになって、
今に落ち着いてるんだけど、
今の状態がすごい心地いいのね。
だから、
今の状態が俺はすごい、
今の自分が俺はすごい好きなんだけど。
そういうなんか、
紆余曲折が一応あるんだよね。
俺にも。
いいね。でもいろいろ経験して。
42:02
だから、しおくんもさ、
今あれじゃん。
自分のさ、ビジネスを始めたじゃないですか。
そこはどうなんだろう。
やっぱ自分の、
本来の自分と、
そのギャップみたいのは、
感じそうな雰囲気あるのかな。
それはないね。
全然。
それはいいね。だから、
やっぱタレントプレナーの、
やり方が多分、
いい教え方なんだろうなって思った。
それはギャップないようにしようねっていうのが
根底にあるね。
あったらやめようって感じ。
たかちんさんね、
素晴らしい人だなって思いました。
たかちんさんも言ってなかったっけ。
昔、Webマーケみたいなのをやってた。
本人もね。
そういうのを結構紆余曲折経て、
だと思うけど。
だから多分そういう学びを得て、
いやこれは多分続かねえなみたいな、
のがあって、
やっぱそういうのじゃない、
ちゃんとその人の才能というか、
その人の無理がない、
方向性に持っていかないとダメだよなって多分、
思われて今のやつをやってるんだろうなって思って、
すごい、
尊敬いたしました。
突然。
それは別にいいんだけど、
ちょっとね、
愛の告白みたいなのをしたんですけど。
でもそれも経験してるから言えることじゃないの?
こっちの方がいいってのも。
まあね、
そうだよそうだよ。
聞いて、
前そのなんだっけ、
教えてあげますよスタンスになりたくないみたいな言ったじゃん。
なんだっけそれ。
このポッドキャストをやるときに、
教えてあげますよと、
何らかの情報を提供して、
私は知ってる人で、
あなたは知らない人です。
知ってる人が知らない人に、
こういう情報を教えてあげますよっていうスタンスはやりたくないっていう風に言ったと思うんだけど、
それがやっぱその前のビジネスの影響がすごい出てるわけよね、俺に。
それがすごい辛かったんだよ。
なるほどね。
教えてあげますよスタンスが辛かったんだよね。
なるほどね。
それを維持しないといけないからね。
っていうちょっと自己語りをしましたけど、
どうですかそれを聞いて。
いやでも、
いや、
なんだろうな。
そういう経緯があったんだっていうのはね。
まあなんとなく聞いてた気がするけど、
うん。
でもそれって波だったりはしないのかな。
なんかこれをやってたら、
やっぱりそっちの方がいいものも見えてくるとかね。
なんか刺激とか。
まあこれはこれで。
ちょっとね。
なんかその例えば、
たかちんさんのもう、
45:01
一回今はそうなってるけど、
まあこれを一通りやったらまた実は、
まあ世の中が求めているものに振りたくなるとか、
あとは前回のそうまさんとの会話じゃないけど、
うーん。
外が求めているドリブンか、
内側が求めているドリブンかもなんか結構、
ステージによるかもねって話してて。
確かに。
まあ一貫性があるものなのか、
一過性のものなのかっていうのは、
わかんないかもなーとは思ったりした。
あー。
とかそこもダブルスタンダードでどっちもとか、
バランスの問題なのかなとかさ、
平行して。
あー。
なんかね、
すごい今いい言葉が出てきましたね。
なんかね、すごい今、
いいことを言ってくれたなーと思って、
ちょっと今、
俺の心が楽になったんだけど、
やっぱりその、
振り子の、
振り子が左右に動く、
運動みたいな感じなんだろうな、
って思って、
やっぱその、
過去苦しかった時期も、
それは否定できないなと思ったんだよね。
やっぱそれが、
あるから、
糧になってるよね。
うん。
ところに行けたんだろうなーっていうのもあるし、
なんかねその、
事物の螺旋的発展の法則っていうのがあってさ、
うんうん。
あの、
弁証法のさ、ヘーゲルが、
言ってることなんだけど、
物事っていうのは螺旋的に発展しますと、
だからその、
右行ったり左行ったりしながら、
でも実はその、
螺旋的にこうだんだん上に上がってくるみたいな、
そうやって物事って発展するんですよって、
言ってて、
だから、
でも全てそうなんだろうなーって思ったんだよね。
その、
右行って左行ってっていうのを繰り返して、
徐々に徐々にこう上に、
上がっていくっていうのはなんか全ての運動に、
なんか共通する、
なんか、
のかなーって思った。その人生。
人生とかっていうことに関しても。
うんうんうん。
うーん。
そうねー。
うーん。
あ、そうそう、あとその弱さ、
弱さとか脆さっていう話で、
もう、
その我々この今のポッドキャストって、
その、
最初の冒頭のさ、
その説明文、
我々はこういうポッドキャストでーとか、
なんかそういうの入れたいねーと言いつつも、
作為が出ちゃうからできないねーとか、
なんかそういう、
なんていうのかな、
弱さっていうかさ、
脆さみたいのが、
あるなーと思っていて、
うんうんうん。
でもなんかそこがねー、なんか俺、
心地いいというか、
できない自分が結構好きだったりするんだよね。
ははは、
そうなの?
うーん。
えーそうなんだ、面白いですよね。
なんだっけその、
自分では変えられないものに触れたときに、
その存在を確信するとか、
確信するみたいなのが書いてあったよね。
48:01
なんでもかんでも自分の思い通りに行くと、
そこにはもうなんか、
実存というか存在というかは、
もう感じられなくて、
自分がどうにもならない、
その摩擦とか抵抗を感じるから、
そこにこう存在というか、
自分とは違う何かがあるみたいな、
その存在感を感じるっていうのを言っていて、
その我々がその作為が出せないところとか、
うんうん。
そういうところが、
なんていうの?
実存を感じているというか、
その何?
存在感を感じている要素だなーと思って、自分が。
うんうん。
なんていうのかなー。
ありのままの自分というか。
うんうん。
それを肯定できたら、
なんかすごい自分の心が楽にいられるというか。
うんうんうん。
なんか自分の弱さをさらけ出しても、
嫌われるかもしれないとか、
引かれるかもしれないって思うのもさらけ出して、
直接的な視線を受け、
なんかそれでも自由にならないものを見つけられると、
それが確かな実存、
私の実存であると感じられるみたいな、
そういう感じか。
なるほどね。
だから、我々白米FMでさ、
hack myselfで自分をハックしろみたいなことを言ってるんだけど、
多分、
ハックできない。
そうそうそう。できない、
多分できる部分もあるんだろうけど、
多分根本はできないんだろうね。
でもそのできないところこそが、
その私というか、
そこを大事にすべきというか、
なんじゃないかなーって思ったのよね。
じゃあコンプレックスみたいなのは、
そういう意味では、
自分を作ってる大事な要素なんだか。
うーん、そうなんじゃないかなーって思った。
だから今、コンプレックスとかそういう弱みとかっていうのは、
一見悪いというか、
ネガティブに捉えられそうなのを、
なんか今ポジティブに捉えられたような気がしていて、
それはやっぱなんか一つ、
また見方を増やしたというか、
軸を増やしたというか、
なんかそんな気がしたんだよね、今。
うーん。
そんな感じかな、僕の感想は。
そんな感じか。
なんかある?しおくん。
面白い。やっぱりこうやって話すとね、
理解は進んだよね、圧倒的に。
自分が分かんないことが分かったり、
何に引っかかっているかがだいぶ分かったのとまずは、
言語化してさ。
で、こういう対話を通して、
分かんないところも分かるようになったし、
あとは、
なんだろうね、
もう一回読むのにも
すごい助けにはなった気がする。
51:00
どうだった?
なんかさ、
いつもこの
Podcastを収録しているときって、
話しているときは、
なんか全然面白さが分からないというか、
あれこれダメかもしれないっていう風になって、
聞き直すと、
あれ結構面白いじゃんみたいな感じになるんだけど、
なんかね、
今日はね、俺すごい面白かったんだよね、
話してて。
だから、分かんない。逆に、
客観的に聞いたら、
すげえつまんねえなっていう風になってるかも
知れないなと思って。
それがね、ちょっと
自分の中で新しい体験だから、
どういう感じ?客観的に聞いたときに
どういう感じになるのかが、
すごい今、楽しみ。
面白いってなるのか、
つまんねえなってなるのか、
すごい今楽しみだな、
聞き直すのか。
なるほど。
じゃあ楽しみにしましょう。
そろそろさ、我々もうすぐ1周年じゃないですか、
このPodcast配信をしたの。
そうだね。
だから、そろそろそういう感じのことも
意識しつつ、
やったりとかしたら
いいんじゃないかなと思った。
そうだね。
そうだね。1周年か。
はい。
じゃあ、そんな感じで。
そうだね。
やってきましたが、これからもやってきましょう
っていう感じで。
今日はそんなところですかね。
はい。
ありがとうございました。
ありがとうございました。