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RS#8「ビッグマウス|芳賀 守選手」10/17〜バックヤード日本代表世界一への道
2026-09-10 1:58:44

RS#8「ビッグマウス|芳賀 守選手」10/17〜バックヤード日本代表世界一への道

AFAP(アファップ)。このプロジェクトは、「バックヤードウルトラ」という競技に魅せられたウルトラランナーたちによる共走と挑戦に光を当てます。「As far as possible 私たちはどこまでいけるのか?」走ることでつながった仲間たちとこの世界の魅力をお伝えしていきます。


今回は、RS#8「ビッグマウス|芳賀 守選手」10/17〜バックヤード日本代表世界一への道

【内容】

・RS シリーズ= Rising Sun Project(チームジャパン頂点への道)が遂にスタート。

8回目ゲストは芳賀守選手(PB: 65LAP)

座右の銘は「ビッグマウス」通称「キング」

自分で自分にプレッシャーをかけることで目標を達成してきた芳賀選手。8月のオーストラリアのバックヤードで65LAPを記録しサテライトメンバー入りを果たした。そこで掴んだバックヤードへの自信。そしてサテライト大会で掲げるビッグな目標とは。


水野倫太郎/通称・ミチタロウ(Instagram:@michi_bagman_ultrarunner)

昨年のDead Cow Gullyにて、Dead Cow Gullyにて94LAPを記録。BAGMANの愛称で知られ、「走るはつなぐ」をテーマに、海外バックヤード転戦中。


AFAP(Instagram:@afap_ultrarunning)

「As Far As Possible 私たちはどこまでいけるのか?」をテーマに、2025年6月Dead Cow Gullyをきっかけに立ち上がった日本人ウルトラランナーたちによるプロジェクト。当初はドキュメンタリー制作が目的。現在は、大会主催やコミュニティづくりに至るまでバックヤードウルトラや「共走」の魅力を伝える活動を幅広く展開している。


Podcastでは「共走と挑戦のドキュメンタリー」をテーマに、以下のシリーズを配信しています。

・SDシリーズ:Seven-day Project(ミチタロウ7日間への道)

・RS シリーズ= Rising Sun Project(チームジャパン頂点への道)


Documentary映像「As Far As Possible 私たちはどこまでいけるのか?」視聴リンク:https://youtu.be/aY3RQz1ADoM?si=5t8dHO2wnGWrCu2m


編集: 岩崎智之

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サマリー

今回のゲストは、バックヤードウルトラ競技で活躍する芳賀守選手。幼少期に病弱だった経験から、11歳で走ることの楽しさに目覚め、以来30年以上にわたりランニングを続けてきた。学生時代は陸上競技に打ち込み、大学時代には怪我で一時離れるも、東京マラソンをきっかけに再び走り始め、フルマラソン、そしてウルトラマラソンへと挑戦の幅を広げてきた。 特に、24時間走や48時間走といった長距離レースで才能を開花させ、弘前48時間走では優勝を果たした。この経験がバックヤードウルトラとの出会いにつながり、その独特な競技形式に魅了されていく。オーストラリアで開催されたクリント・イーストウッド大会では、自身の限界に挑戦し、65LAPを記録して日本代表の座を掴んだ。 芳賀選手は「ビッグマウス」を座右の銘とし、自らにプレッシャーをかけることで目標を達成してきた。彼のランニング哲学は、単なる競技ではなく、仲間との繋がりや自己探求を重視するコミュニティとしてのバックヤードウルトラの魅力を体現している。今後は、チームジャパンとして世界一を目指し、さらなる高みを目指していく。

00:05
AFAPこのプロジェクトは、バックヤードウルトラという競技に魅せられたウルトラランナーたちによる競争と挑戦に光を当てます。
As far as possible 私たちはどこまで行けるのか。 走ることで繋がった仲間たちとこの世界の魅力をお伝えしていきます。
はい、ロールウルトラランナーの水野満太郎です。 本日は2026年9月2日になります。
バックヤードウルトラ日本代表世界一への道ということで、10月17日から開催をされるバックヤードウルトラ国別対抗戦、通称サテライト大会に向けたインタビュー企画。
引き続きお届けをしていきます。 本日のゲストは、
ハガ・マモル選手です。よろしくお願いします。 よろしくお願いします。
芳賀守選手の自己紹介と「キング」の由来
ほとんどの人は初めましてになりますが、ハガ・マモルと申します。
SNSの方ですとだいたいキングという名前で活動しております。よろしくお願い致します。
はい、よろしくお願いします。
早速、自己紹介いただいてというところですが、ずっと気になってたんですけど、キングというのはなぜキングと、そのゆえんは何ですか?
あー、それいきなりNG質問来ちゃいました。
いきなりNGですか?
冗談であるんですけど、ほとんど自分であんまり覚えていないというのが正直なところで、
覚えているのが、僕とピッキーって12、3歳くらい離れているのかな、ひと回り。僕43歳なんですけど。
はい、僕31の年です。猪瀬修座氏です。
相当人の話を同じのしぶつで、もしかしたら世代的に伝わらないかもしれないですけど、
小学校とか中学校1年生くらいまでで、クラスの中でなんとかランキングみたいなのって作っていましたか?
はい、ありましたよ。
足の速そうな人とか、いいお父さんになりそうな人とか。
そうそう、結婚早そうなランキングとかそういう、あります。
小学校の卒業の時に、今までの歴代のランキング全部ガッチュンって集めたのをクラスで作ってですね、
確かそれで僕が7巻くらいを達成して、
何で?
もうね、あんまり覚えてないんですよ。
足の速い1位は僕いたと思います。
足の速い人1位。
でもね、他の6人くらいも全然覚えてなくて、
とりあえず何個くらいキングを達成して、
そしたら、守るお前キングじゃん、お前キングだなってなって、
そしたらなんか、最初は足が速いから足速キングとか、
言われ続けたのが最終的にもうみんなめんどくさくなって、キングだけでいいやって。
地区の小学校から地区の中学校に行ったんで、
基本的にもうメンバー同じじゃん。
だからもうその流れで、もう何とかキング、何とかキングからもうキング、キング、キングってなって、
それで中学校の時にそのままキングで3年間過ごして、
後は全然複製ではない私立の高校に行ったんですけど、
自己紹介の時に、今のように秦守と言います、
あだ名キングと言います、好きなようにお呼びくださいって自己紹介すると、
もうみんなキングから始まるんです。
好きなようにって言いつつみたいな。
ライアップ法も同じような感じで自己紹介したら、
9割ぐらいキングって呼ぶようになって、
社会人になってもランニングサークルとか、
なんかいろんな集いの場とかに行って、
同じように自己紹介すると、9割ぐらいの人がキングって呼ぶ。
逆にキングって呼ばない人たちもいるんですか、1割ぐらい。
もちろんいます、います。
普通に下の名前で呼び捨て守るって呼ぶ人もいたら、
女性は結構キングって呼ぶ人もいるけども、
やっぱり秦くんとか秦さんって呼ぶ。
やろう友達で仲良くなる人は大体キングって呼びます。
なるほど。最初はタイトル7巻っていうところからの、
その後は自己紹介で自称するようになったと。
そうですね。
まあ、やっぱりあだ名があった方がすぐ打ち解けるかなっていうのは、
なんかやっぱりこの小学生の時から、
なんかやっぱり直感としてあるので、
すぐ相手とお近づきになりたいっていう場合の、
僕もそうですし、向こうの方もやっぱり、
新しい新天地に来たらすぐ友達つくりたいっていうのがあると、
あだ名があった方がすぐ覚えてもらえますし、
より安くなるので、
なるべくあだ名はすぐキングっていう名前で、
どうぞ呼んでくださいって言うんですよ。
ありがとうございます。最初に謎が解けました。
年齢は今年で43歳で、私たちイノシシ年だと。
イノシシ先輩よろしくお願いしますという感じですね。
出身地、単身赴任生活、そしてランニング歴
出身とか、今のお住まいはどこら辺にあたるんですか?
今ですね、単身赴任という形で、
北海道の与一郡っていうところにおります。
北海道の国西の方ですね。
小樽の西側になります。
中京の方が千歩県の松戸に構えています。
ご出身は?
出身は宮城県になります。
宮城県の町とか市区町村で言うとどうですか?
宮沼市っていうところで、
一応市ではあるんですけど、結構小規模なところで、
農業が盛んなところで結構繋がる。
じゃあそこから、中学校まではいて、
高校で寮生っておっしゃいましたっけ?
高校もですね、私立ではあるんですけども、
私立の宮城県の高校に通ってます。
そうなんですね。
大学からですね、担当のご出身と。
なるほど、ありがとうございます。
で、今は千葉にお住まいで、
お住まいっていうか、お家がありつつも、
単身不倫で、与一にいらっしゃると。
そうですね。
で、与一というと、
先ほどちょうど実はインタビューをしていた桜場さんですね。
同じ場所ですけど、
桜場さんはずっと北海道で、
与一も長いとおっしゃってましたが、
羽賀さんはいつぐらいから?
1年前のお盆の時期からですね。
まさにこの後話題になるクリントイストウッドのために、
グリスベンに行く、ちょうど本当に1年前に与一に住み合わせました。
どうですか?単身不倫生活1年経って。
そうですね。やっぱり僕は慣れは慣れたんですけど、
やっぱり大体月に1回ぐらいは千葉に帰って、
嫁と娘がいるので、
やっぱり嫁と娘と顔を合わせて、
その後与一に戻ってきた最初の1日目、2日目はもう寂しいです。
特に娘とイチャイチャできないのが本当に寂しくて、
しょうがないという感じです。
でもそこもちょっと慣れたというところはありますね。
仕事とか生活に関しては、
僕は結構環境純朗性がとても高い人間だと自分で思っています。
特に生活にはすぐに慣れました。
むしろ北海道、魚介とか野菜とかがとてもおいしいので、
むしろ楽しくやらせていただいています。
いいですね。
で、そんな中で今回はバックヤードという文脈で、
このポッドキャスティングに出ていただいているわけですが、
ランナーであるというところが大前提かなとは思うんですけど、
乱歴というか走り始めたのはいつぐらいみたいなところから伺ってもいいですか?
乱歴が僕はもうすごく長くて、
11歳から走り始めてますので、32年ですね。
途中ですと故障で走れなかった期間が4年ぐらいあったので、
累計になると28年ではなりますけど、11歳から。
すごい。
このインタビューをしている中で、
割とというか多分初めてのパターンですね。
皆さん結構40代になって走り始めたみたいな。
ジャーニーラン出る人って、どっちかというと、
学生終わって就職した後に走り始める人の方が多いです。
そうですね。
そんな中で、本当に11歳からってことは、
中学校入る前からってことですよね。
そうですね。小学校5年生からになりますね。
それは陸上クラブとか部活があったんですか?
部活というわけではなかったんですけど、
結構小学校のほうって、朝にマラソンをするっていうところだったり、
あとは各学年で時給争大会を、
普通だったら学校の校庭とかでやるんですけど、
市の中の陸上競技場を使って、
そっから陸上競技場からも飛び出して、
駅前2階、市街地、と言っても農家なので、
全然走り放題なんですけど、
そこを使って大体1.5キロぐらいっていうのを、
小学校1年生からやる学校だったんです。
幼少期の病弱な経験と走ることへの目覚め
なので、特に部活とかクラブとかに入るわけでもなく、
気がついたら11歳になった時に、
走るところに重きを置くようになったっていう感じですかね。
それは好きだったっていう、自覚したってことですか?
そうですね。11歳の時にも走るのが好きだって自覚した感じですね。
普通の人と異なるところで、
僕って幼少時代、本当に生まれてから10歳までの期間って、
すごい体が弱い子だったんですよね。
生まれつきの医療とか、体の一部、内臓なんですけど、
ちょっと普通の人と違う形をしているとか、
結構実は、生まれた時は結構周りの人、
お医者さんとか看護師さんとかが、
あんまり長生きできないと思いますっていうのを、
結構家族にも反感するんですね。
はっきり言っても理由があって、
うちは家族が医者が多くて、
微尺径なんですよね。
なので、黙ったところですぐいつかバレるっていうところがあったので、
父親、母親にはすぐ自立は告白して、
それで、ちょうよ、はなよと本当に顔後に10年間育てられた。
本当に10年、10歳ぐらいの時に、
なんか大体治ったんですよ。
へー、それは原因、この言い方は正しいか別ですし、
原因不明に治ったっていう感じですか?
結構原因不明らしいんですよね。
でも、大きく持ってるのが3つで、
1つが、よくあるアトピー性皮膚炎。
アレンギ。重度なものを持ってて。
2つ目が小児漣族ですね。
小児漣族もかなり重度なものを持ってて。
3つ目が、症状名はつかないんですけど、
胃がち系っていう状態だったんです。
その人とはかなり異なった形をしている。
っていう状態で生まれたんですけども、
まず、アトピーは治る人はいきなり治るらしいんですよ。
なので、とりあえず10歳の時に僕、
アトピー治っちゃったんですよね。
小児漣族も、やっぱり10歳の時に大体治っちゃった。
なので、今までだったら走るとか運動するなんて、
もうもってのほかっていう状態で、
運動すると呼吸困難になって、
酸素吸入が必要になるとか、
薬を飲むのが必要になるとか、
っていう状態になってたりしたんですよ。
最後の胃の形が人の形と比べるとかなりおかしくて、
流動食中心の食生活だったんですよ。
油が積もるとかを食べると、
胃で消化できなくて、受け付けなくなって、
それをゲーゲー吐き出す。
っていうような状態だったんですけど、
これもう治ったわけではないんですけど、
自分の体が生きる方向に、
平の本能に向けて動いたのか、
大体というものを最低限には通過してしまうような
体になってしまったらしい。
適応したってことですね。
ほんとに適応したって感じですね。
だから本当に最低限のものしか入れは消化しないようになって、
すぐ腸に送り込むみたいな。
そんなことってある?みたいなのが、
当時でもかなり珍しかったらしいです。
症例がなかったわけじゃなかったので、
そういうケースの子はたまにいますよ。
そうなんですね。
そういうのがなくなって、
運動ができるようになったんですよね、11歳の時に。
もう嬉しくてしょうがないですよね、そうしたら。
嬉しくてしょうがなかったです、本当に。
普通の人だったらラッシュして、息が切れて、
デイハー、デイハーいって、心拍数高くなって、
運動つらいみたいなことを多分言うと思うんですけど、
僕は本当にどこまででも自分は走れるんじゃないかって、
11歳の時に思ってしまう。
そこからもう走る魅力というか、魔力というか、
そういうのに取り憑かれてしまって、
32年変わらずという感じですね。
いやー、すごいですね。
それがこうして今バックヤードで、
いくらでも走っていいよみたいなルールのものに取り組んでるっていうのが、
ある意味運命的というか。
そうですね、だからバックヤードとか時間走みたいに、
いやもう好きなだけ走っていいんだよっていうのは、
自分には本当に夢のような競技かもしれない。
そうなんですね。
じゃあそうやって11歳から本格的に体を動かせるようになって走り始めて、
その後、中高とか大学もあると思うんですけど、
専門の種目っていうのもあれかもしれないですけど、
学生時代の陸上競技と怪我、そして大学生活
どこら辺をメインにまずは走ってたんですか?
そうですね、小学校の時にはできる競技は限られてますので、
1000mと、あとはディレイもレギュラーではなかったですけども、
100m×4のディレイと補欠もやってたっていうぐらいで、
そこは実際に回数と成績とか上げられなかったんですけども、
中学校だってから1500mとか800mとか3000mとか競技の幅が増えた。
中学校の時にはそういった競技を中心にやってましたね。
それで、市の大会とか県の大会でしたら優勝できるよぐらいのところまで行って、
そこまで行くと、ちょっとまだ歯が断たないねみたいなぐらいのところまでは行けてました。
ちなみに冒頭のキングのエピソードに戻るんですけど、
10歳ぐらいまであんまり動けなかった中で、
学校のクラスのランキングで、足早いランキングで1位になってたっていうのは、
もうなんか足は天性で早かったって感じじゃないですか。
らしいんですよね。
もともとうちの父親も母親も結構スポーツはできるっていう。
姉と兄がいるんですけど、姉と兄もスポーツできる人なんですよ。
天性的に運動はできる方だったと思うんです。
体が弱く生まれちゃったっていうだけ。
いや、そうなんですね。
で、中学で、地区では敵なしというか優勝しちゃうみたいな。
でも県ではまだちょっと歯が断たず。
県では入賞がギリギリぐらいで。
いやいや、歯が断たないのはデレビューじゃないです。
いや、すごいですね。
で、そんな。
ちなみに、そのときの記録とかって覚えてますか?
中学生のときのご自身。
その記録は、中心だったのが1500mなんですけど、
1500mが4分の50秒とかで走ってましたね、中学3年で。
4分の45秒でしたね。
3000mとか。
3000mはまだそこまで本気でできていなかったので、
全然、速い人は9分前半とかだったんですけど、
僕は9分の50とか。
確かにここですね、10分切りがギリギリだったかなっていうのを覚えてます。
なるほどなるほど。
そんな中で、高校も。
高校も陸上部で3年間。
陸上で進学したってわけではないんですか?
陸上で進学ではないですね。
通常受験で入学して、陸上部に入ったっていう感じですね。
あれ、なんか結構強い陸上部だっておっしゃってなかったんですか?
そうですね、名前だけはもう、
某一流のポーツ校でございまして、
知ってますか?仙台育英学園っていう。
あらゆるスポーツのファンの知ってると思います。
特に野球と駅伝が好きな人だったらなおから。
そんなところに一般入試で入学を果たして、
部活、陸上部に入ったっていうのは、
セレクションとかそういうのがあったりはしないんですか?
セレクションはもちろん仙台育英はあるんですけども、
もうボーダーが高すぎるんですよね。
おそらく聞いていただいた3000mでしたら、
まず9分前半じゃないと話にならないところはあると思うんですね。
1500mも4分の15秒とか、
それじゃないと走りの棒にもかからないっていう感じですね。
もともとずっと僕はただ走るのが好きっていうのが根っこにあるだけで、
トーク時はそこまで競技志向って高くなくてですね。
中学校の時も別に監督が練習ミニ作ってくれるとかそういうのもいっぱいなくてですね。
全部自分でただ好きなように走って、好きなようにトレーニング。
それで一応大会は出て、それで結果はなぜか出たよねっていう。
でも結局自分は好きだと言ってるだけだから、
あんまり別に気にしない。結果のいいものはあんまり気にしないよっていう感じでやってて。
で、仙台育英に入ったのも、
絶対に陸上がやりすぎから仙台育英に入ったわけじゃなくて、
マジきっと僕の母親が入らせていただいたっていう感じなんですね。
で、やっぱり入ったならば、せっかくだから部活やっぱり陸上部だよねっていう、
結構それぐらいの軽い気持ちなんですよ。
高校生活3年間はどうでした?
高校生活3年間はもうある意味、
僕のランニング歴の中では一番普通な3年間だったかもしれないですね。
なので練習ミニがあるんですよ。
さっきお話ししたよ、部活の時は練習ミニとかなくて自由に走ってOKっていう。
監督も終わって、もう走るのが好きなんで好きなだけ走って、
好きなように走ってっていう仲だったんですけど、
やっぱりそれがもう仙台育英になるともう科学トレーニングですから。
月曜日から土日を含めて、まず練習メニューっていうのがしっかり決まっていってですね。
やっぱりそれをこなさないと、やっぱり指導とか怒られるっていうまででは行かないんですけど、
基本的にはもう監督とか先輩から見放される感じにやっぱり終わってしまうんですね。
やっぱりせっかく部活に入ったからには、
投議志向の高い部活ではあれども、やっぱりみんなとコミュニケーションいい状態でやっぱり続けたいじゃないですか。
でもやっぱりメニューはこなさないといけない。監督とか先輩の言うことに従わないといけないっていうところの、
やっぱりこの自分の中での技術廃範というか。
この状態で3年間続けるのはきつかったですし、
で、やっぱり僕はセレクション組でもなんでもないし、
別に高校でもそんなに記録を伸ばすためにやってるわけでもない中で、
やっぱりやってる人たちはもう一御先生ばっかりになって、
だから記録もやっぱりドベの方だったから、やっぱりなかなか辛い3年間だったかもしれないですね、自分と。
そうなんですね。
そんな3年間を経て走ることは嫌いにならず、大学に行っても続けたってことですか?
これが3年生のインターハイが終わった後ぐらいの時点で、9月ぐらいに膝をちょっと大きめに怪我をしてしまって、
十字陣体を損傷してしまって。
なので基本的には十字陣体を損傷してしまったら、しばらく走ることができなくなるので、
大学に入った大学に入学して、走れないので陸上からは一旦足を洗って、それで4年間は過ごしたっていう感じですね。
ちなみに今さらっとインターハイって言葉が出てきましたけど、
苦痛だった高校3年間は競技としての実績はどんな感じだったんですか?
これはですね、中長距離の方ではもちろんレギュラーになることはできずで、
一応ちゃんと部活の中ではチームを盛り上げるであったり、ちゃんと後輩を指導するとか、
そういったところにはちゃんと従事していたつもりだったので、
コミュニケーションとしては悪くなかったので、
コモンの先生とかからご診言いただいて、
全国大会に行っている可能性は結構低いけども、
中長距離じゃなくて複合競技、高校だと流し競技っていうものがあるので、
ちょっとそれやってみた方がいいんじゃないのって言ったのを3年生になったぐらいのタイミングで、
コモンの方からご診言いただいて、
もともと全般的に身体能力高いっていうのと、
あとは中学校時代にも一応中長距離メインとしながらも、
選手が足りないからっていう理由で、
中学にも複合競技って一応あったでしょ?
複合競技出たこともあった。
それも県大選まで行って優勝まで知ってしまったりしたんで、
それの実績を感覚化してたんで、複合競技やってみたらいいんじゃない?みたいな。
っていうことを軽く言われてやってみたら、
そこそこいい成績出たんですね。
もちろん全国の例で相手にしたらもう全然歯が立たないっていうところでしたけど、
でも準備期間約半年ぐらいの割には、
自分的にはいい成績も出たし、納得できる競技生活だったかなっていうところ。
で、全国大会に出たってことですよね、その7種競技。
出られはしなかったんですよね。
あ、そうなんですね。
出られはしなかったんですけど、ただ県大会のいいところまでは行けたんです。
なるほど。
で、足を怪我してしまって、大学時代は特に走らずと、
乱暴の中で3年間、あ、4年間ですかね、ブランクがあるっていうのが大学になるってことなんです。
ちなみに大学生活はどんなことしてたんですか?
大学生活はサークルで言うと、全然体育会系でも運動サークルでもなくて、
イベント企画と運営するサークルっていうのをやってたりしましたね、ずっと。
だからもう全然陸上とかとは関係ないところですね。
本当に学園祭であったり、あとは学校の周りにある卒業施設であったり、
ショッピング施設であったり、そういったところの舞台とかを借りてイベントをやるとか、
そういったのをやるサークルでしたね。
運動ができないから、せっかくだから今まで自分の全然やってなかった文化系っていったところに手を出して。
そこでちょっと友達もたくさん作れるかもしれないし、新しい可能性見つかるかもしれないからちょっとやってみようっていう、
結構軽い感覚です。
で、やってみたら4年間続けたと。
4年間なんだかんだ言って続けましたね。
やっぱり大学は結構、陸上、高校3年生の時にお休みするっていうのは確定したときに、
最初は大学もなるべく陸上が強いところに行こうかなって思ったんですね。
箱根自衛隊とかそういうのではなくて、陸上の強いところで色々と学びながら走りたいっていうのがあったんで、
最初は陸上が強いところで色々考えたんですけど、それがなくなったんで、走れないってなったんで、
じゃあ本当に純粋に自分の学業としてやってみたいところに便振りして大学を選びしてみようっていうところで、
陸上は全然弱いというか、別に実績は出してもないですし、箱根自衛隊にも出たことないような、そういう大学を選びました。
大学で興味を持って学んだっていうのは、どういう系を学ばれたんですか?
一番はメディア系ですね。今でいうとコンピューターとかそういったものがメインになるかなって思いますけども、
でもSNSとかそういったのも全部メディア。
言ってしまったら漫画とか新聞とかはメディアです。
そういったものを中心に勉強しましたね。
大学卒業後の再開と初マラソン、そしてウルトラへの道
で、大学を卒業されて、もう一回走り出すってことだと思うんですけど、
ご自身の生活としてはどういう、会社に就職してとかどういう感じになったんですかね?
これは僕、大学が4年で卒業した後に、その後、修士に行ったんですよ。
そうなんですね。
同じ大学の修士に行って、そこからさらに同じくメディアとか掘りとして、
そこからSNSに関する研究として大学院に残ったっていう感じですね。
そこからランニングがまた再開したんですね、ちょうど。
きっかけは何ですか?
きっかけはやっぱり東京マラソンですね。
東京マラソン第1回目がその辺りで開催されたんですよ。
それって何年ですか?2000?
確か2007年、8年とかその辺りだと思うんですよ。
で、あれが東京マラソンやりますっていうところで、CMとかでランナー募集してたんですよ。
なので、東京でマラソンやるんだって、面白そうって思って。
それで第1回目の東京マラソンを応募したら受かったんですよね。
第1回目って今ほど倍率そんなに高くなかったようで、それでも5、6倍ぐらいあったようで。
まあね、陸地だったけど、車と41時。
未知の競技だから、俺は久しぶりに練習しないといけないなって思って。
でも14時に帰って、損傷したり断裂したりしてしまうと、治った後も基本的にはずっと痛いんですよ。
そうなんですね。
まあ正直、ちょっと出来分痛さでもあるんですけど、スピードだとなければこんなに疼く程度。
だからバックヤードのペースってすごいちょうどいいんです。
で、そのフルマラソン、今調べたら東京マラソン第1回は2007年の2月18日ってことだったんですけど、
その初マラソンはどうでした?ご自身の感想とかあとはタイムとか。
初マラソンはDNFでございます。
えー、何があったんですか?
純粋に本当に35キロの壁でした。
やっぱり今までの感覚で、ハークマラソンぐらいまでは全然普通に走れると。
ハークマラソンよりちょい遅いぐらいのペースで行けばいいんでしょうぐらいの感じで走ったんですよ。
そしたら30キロ過ぎから、もう途端に足が全然動かなくなって、
35キロ地点で本当に足動かなくなって、もう四つ動きになって本当に小鹿のようになって。
もう無理です。だから僕の初マラソンは初DNFだった。
そうなんですね。
じゃあ、ほろ苦いデビューって感じなんですかね。もういいやってならなかったんですか?
ならなかったですね。もう悔しくて悔しくてしょうがなくて。
だからもちろん次の年も東京マラソン応募したんですけど、そっからは10年連続以上で落ちまくったので。
まあ、もちろん違うマラソン大会でもエントリーして、
とりあえずフルマラソンをまずは完走するぞっていうところを目標に再度、
もうほぼほぼ毎日のように走り始める人生がそこから再スタートした感じです。
もう走るの大好きっていうその感覚とか日々が戻ってきたんですね。
そうですね。やっぱり走るのは楽しいなって毎日走ってても全然飽きないなっていうところで。
大学院も忙しかったんですけども、本当に研究片手間にやっぱり走りまくってました。
具体的にどれくらいの距離走ってたかとか覚えてますか?
あの時は大体その東京マラソンがダメだった時のその翌月、4月あたりから大体、
最初は月間200キロぐらいから始まって、
結構フォンスタントで月間300キロ走るようになってました。
なんかあの住んでたところから学校まで片道5キロだったんで、
なんか往復走ればそれで10キロだなっていう感じで。
ランニング通学、終わって入っちゃったんですけど、
その第2回っておっしゃってましたよね?2回目のフルマラソン。
つくばマラソンでした。
つくばマラソン。
つくばマラソンはもう人気があって記録が出て走りやすいと、
もういろんな当時の情報をかき集めて。
毎日10キロ走るようになった、その成果はどうだったんですか?
いやー、確か3時間のサブ3.5は切れたんですけど、3時間19分くらいだった。
3時間19分くらいで完走でした。
ご自身的には手応えあった?
嬉しかった、本当に。
フルマラソン、初めて完走するとみんな感動するってよくおっしゃってますけど、
本当にすごく感動しました。
やっぱり30キロ過ぎて35キロ過ぎてってなると本当にどんどん足動かなくなっていくんですよ。
でも東京マラソンみたいなことは嫌だって。
やっぱり強く決意して。
前半ハーフ1時間20分くらいで通過してたんですよ、その時も。
だいぶ早いですね。
そうなんですよ。やっぱりそこは元取った金塚というか、昔取った金塚です。
それで1時間20分くらい通過したんですけど、30分からはもう5分30秒くらい慣れ始めて、
最後はキロ6分台でゴールに流れ込むみたいな感じで。
最後はもうどんどんどんどん行かれましたね。
それでもやっぱり3時間19分で初めてゴールしたフルマラソンは格別でしたね。
そっからもう本当にどっぷりフルマラソンにハマるって感じですか?
そうですね、そっから約10年間はフルにどっぷりって感じですね。
その期間はどれくらいの頻度で出てたのかと。
タイムはどうなってたかっていうのも聞いていいですか?
そうですね、大体やっぱりマラソンシーズンになると10月から3月の間には、
まあ月1回やっぱり満かフルマラソンか半カット入れてた気がします。
タイムはどうなってきました?
タイムは、一番の最速タイムが、人生で一番のフルマラソンの最速タイムが2時間46分30秒。
それがいつですか?
それが僕が30か31歳ぐらいの時の、これも確かに筑波だったような気がします。
じゃあ12年前。
そうですね、もう12年ぐらい前ですね。
で、その10年ぐらいフルマラソン時代があったとおっしゃってましたけど、
そこからちょっとシフトしていくんですか?
そうですね、そこからは自分の兄が競技士校ではないですけどファンランナーで、
結構いろんなマラソン大会を走ってるんですね。
で、うちの兄は本当にフルマラソン5時間半とか6時間ジャスト、このぐらいで走る人なんですけど、
でも僕より先にウルトラマラソンやり始めてたんです。
60キロとか75キロとかっていうのをやってて、
いやウルトラ面白いよ、お前も来いよみたいな。
こんなフルマラソンが遅いからそっちの世界に行ってるだけじゃないのって最初すごい軽く見てた。
だいぶ舐めてますね。
すごく頑張ってます、本当に。
少々もうね、サブ3とかサブ3.5とかできないからみんな処理長い方に行っちゃうんでしょみたいな。
そんな感じだったんですけど、
でもやっぱり兄弟として、
やっぱり兄にそこまで言われたんだから、
じゃあ自分もウルトラ1回ぐらい行ってみようかってところで、
サロマカウルトラマラソン。
おお、サロマカ。
サロマカウルトラマラソン行ったんですね。
2016か2017か。
9年近く前に行ったんですよ。
サロマカウルトラマラソン制限時間13時間なんですよ。
結構厳しかったです。
で、12時間55分で完走しました。
おお、だいぶ満喫しましたね。
暗かったです。
今でも思い出します。
もう60キロ超えたあたりからのこの絶望感が。
はいはい。
もうそれこそ前半は結構飛ばしてたんですか?
結果飛ばしたってことなんでしょうね。
自分的にはさっきのフルマラソンで東京マラソンでDNFしたときと同じように、
マラソンはハークマラソンより遅いペースで走ればいいでしょみたいな。
今度はそのノリでフルマラソンより遅いペースで走ればいいでしょって思って。
それで、やっぱり昨日4分をフルマラソンで走るじゃないですか。
1時間50分。
だから昨日4分30秒とか40秒くらい走り続けてればいいでしょって。
行き続けたら60キロ足動かなくなって。
いやでも絶対完走したいっていう。
本当にもう東京マラソン的な思いは嫌だって思って。
それで本当にもう足引きずるような感じになりながら前半の貯金をフルで使い尽くして。
それで12時間55分で完走しましたけど。
いやフルマラソン完走した時よりも嬉しかったですね。
ほろりと涙が出るぐらいに。
こう舐めてたっておっしゃってたじゃないですか。
その見方は変わりました?
まあ本当に誠に申し訳ございませんでしたっていう感じですね。
黙ってすいませんっていう感じ。
こんな魅力的な世界がランニングワールドにあるのかっていうのを改めて知って。
そこからはもうどっそりとウルトラマラソンって感じです。
どんどん距離を伸ばしていったんですか?
それとも100キロマラソンを出るような感じになっていったんですか?
最初は100キロ出る感じでしたね。
最初の3、4年ぐらいですね。
だからその後も2回目出たり、
あとはシマントガウルトラマラソンとか、
あとは沖縄100キロとか。
だからとりあえず100キロマラソンで出れそうなものはとりあえず出てみようかなっていうところで、
3、4年ぐらいはいろんな100キロマラソン出て。
勝手に伸びていったって感じで、
やっぱり何か僕の原点に戻れるマラソン大会っていう感じでしたね。
ずっと100キロずっと楽しんで走っていいんだよって。
それがだいたいコロナ禍前までぐらいですね。
そこからもう100キロよりさらに先の世界を走るようになったのはいつぐらいの話ですか?
24時間走、48時間走への挑戦とバックヤードウルトラとの出会い
それはまさにコロナ禍のときで、
コロナ禍のときに大会が結構なくなったじゃないですか、
フルもウルトラも。
だから結構大会欠乏してたんですよね、自分の中で。
頭がいっぱい帰りたい、でも大会がない、大会がないってなってたら、
富士36、富士北六か、富士北六24時間マラソン。
ありましたね。
あれはやっぱり人数が少なくて、密が防げるっていう理由で、
開放に踏み切ったんですよ。
リレーマラソンと同時開催なんですよね、あれって。
なので、これちょっと面白そうだなって思って、
ソロ出てみようかなって思って、
これ本当に景色が絶対同じなのは間違いないんだけど、
でも24時間で走り放題っぽいなってことだよねって。
これって自分にすごい向いてるんじゃないかなって思って、
それで出たのが初めての100キロ以上のレース。
初めての100キロ以上が24時間走だったと。
初めての100キロは24時間走だった。
地球に乗ったらガスマイルに行ったり、
ヤーニーランに行ってるでしょうが、24時間行っちゃいます。
どうだったんですか?
これが準優勝してしまいます。
おお、いきなり。
いきなり準優勝してしまいましたね。
人数そんなに多くなかったので、25人ぐらい。
今、たまにエントリーリスト、
そういえばあの時の20時間レースで
エントリーリストどんな感じだったのかなと思って調べたりすると、
別にそこまで骨太なメンバーリストでもなかったんで、
でも初めて社会人になってから出た大会で、
入賞するっていうのを味わったので、
ずっと楽しかったんです。
みんな眠くなるって言うんじゃないですか。
ずっと楽しくて全然眠くなかったんですよ。
ハイだったんですね、ある意味。
だからそれもやっぱり優勝に、
準優勝に起因したのかもしれない。
だって今まではフルマラソンにしろ100キロマラソンにしろ、
最初はほろ苦い洗礼で始まるっていう。
そうですね。
DLSLか、ポジカのようにゴールするかのどっちかだった。
それとはある意味逆の展開というか、
楽しくて楽しくて気づいたら準優勝してたっていう。
そうなんですよ。
終わった後まだ走れるって思っちゃいました。
何キロ走ってたんですか?
その時はですね、大体165キロぐらい。
全然今となってはまだまだだけど。
でも準優勝とかしちゃうと、
自分向いてるって思いますよね。
思いましたね、本当に。
記録もそうだし、何よりも走っててずっと楽しくて、
景色は同じだけど全然飽きないなっていうところで、
自分ってこっちの人なのかなって思っちゃったんですよね。
そうなんですね。
もうじゃあそこからどっぷり24時間ワールドに入っていくんですか?
20時間走ワールドに突入してしまって、
そこからは24時間レースに何回か出て、
特に神戸の24時間レースとか、
あとは笠井臨海公園である24時間走とか。
ありますね。
いずれも8位以内は入賞っていう扱いになるんですけど、
両方とも入賞いいやなって。
でも入賞までだったんですね。
7位と6位だったかな、両方とも。
その次のレースでいよいよ各変が起こりました。
私の言わずところ、クリント・イースポート以外で
唯一と言っていいくらい自慢できる結果がようやくできたんです。
はい、聞いていいですか?
弘前48時間走、第1回目の大会。
これは2022年ですね。
2022年に第1回目の24時間走と48時間走の両方とも
IAEUを将来公認に目指すための大会。
日本の公認は得ている唯一の大会として開催されたんですよね。
スポーツエイドジャパンさんと。
それの48時間走、第1回目に私がエントリーして
優勝いたしました。
チャンピオン。
第1回目のチャンピオンになることができました。
すごい。
その時の記録は?
その時の記録は321キロですね。
ちょうど本当にちょうど200マイル達成という感じです。
本当ご自身の中でも最新のレースだったんですか?
最新のレースでもありましたし、本当に楽しかったですね。
48時間、48時間のレースで
48時間の中で1時間半ぐらいは一回寝ましたけど
48時間ずっと楽しかったですね。
それがやっぱり何より。
そうなんですね。
で、それが2022年っておっしゃってましたけど
そっからバックヤードとの出会いはいつなんですか?
そこの弘前が言うてしまったらバックヤードとの出会いでもあったんですよ。
48時間走に吉田さんが出られたんですよね。
日本のバックヤードの父と言っても
普及の父でしたね。バックヤード普及の父。
吉田さんが48時間走に出ていて
時期走って結構同じペースで走っているときって
結構会話を交わしたりするじゃないですか。
いろんな人と同じペースのときに会話しながら走っていて
吉田さんも初めまして。原田と言います。
初めまして。吉田と言います。
同じペースで走っている。
どんな風な感じで走っているの?みたいなことを吉田さんから聞かれて
僕実は48時間走も初めてですし
ジャーニーランクは僕まだしたことないですよ。
そうなの?みたいな。
そういう話をしているときに
でもなんか24時間走も48時間走も
僕60分とかぐらいちゃんと走って
5分とか10分ぐらい休み入れる走り方が
正に合っている感じがしているんですよねっていう話をしたら
吉田さんがバックヤードだろうって。
僕ちょっとんとしてバックヤード?裏庭?
なんすかって。
知らないんだみたいな。
バックヤードウィルティアっていう脅威が実はあって
今言ったハガ君向きの競技だと思うから
48時間走終わったら調べてみるといいよって言われて
分かりましたって思って競技終わって
最初はずっと競技の疲れもあったんで忘れたんだけど
なんかふとした瞬間に
例えばなんか吉田さんがバックヤードっていう競技の名前を知ったけど
なんだろうなと思って検索したら
出てきたのがバックヤードウルトララストサムライスタンディング
出会ってしまったと。
出会ってしまう。そこで
これは自分向きの競技だと。
オーストラリアでのバックヤードウルトラ初挑戦
で、出ることにしたのが
2022年の
2022年ですね。
どの大会ですか?
2022年の最初に一発目出たのはね
確か北海道の方が最初だったような気がするんですよ。
そっちに行くんですね。いきなり。
その後に高尾出たり福島出たり
なんか順番があんまり
一番最初は北海道だったと思う。
なんでそれは北海道を選んだんですか?
北海道はやっぱり
平坦でオールロードだったからっていうところと
あと自分暑いのと寒いのだったので寒い方が得意になった。
どうだったんですか?
初のバックヤードの洗礼にやられました。
そのなんか1時間走って休むのが得意と思ってて
挑んだのでさえ
あまりこううまくいかず。
今の
言語化は難しいんですけど
でも今の僕がその走り方、バックヤードへの挑み方を見たら
いや多分洗礼ダメだねっていうようなそういう走り方とか
もし良くなった気がします。
はいはい。
できる限り行こうか。
いいですよ。北海道大会。
優勝者が桜庭さんです。
さっきお話聞きました。
2022年初の北海道のバックヤード
初代チャンピオン桜庭さん。
桜庭さんです。
そこでも桜庭さんとその時が初めましてですか?
えっとですね、ちょっとニアミスだったんですよ。
広崎の48時間走出てる時に
24時間走に桜庭さん出てるんですよ。
それも一言と言葉交わしてはいたんですよね。
終わった後に僕が48時間の投票台に出て
桜庭さんが24時間の投票台に出るじゃないですか。
その時にもお互いの激闘を称え合うみたいな話をしていて
北海道の会場に行ったら
事前にエントリーリストで桜庭さんの名前があったので分かっていたんですけど
そこで桜庭さんを見つけて
久しぶりです。
桜庭さんとのご縁はもうそこからですね。
今やご近所さんですもんね。
ご近所さんになっちゃいました。なぜか知らない。
でもご近所だけど一緒に打ち合わせして走ったりはしないわけですもんね。
そうですね。これはお互いそうなんだと思いますね。
僕もそうですし桜庭さんもそうですし
結構自分のペースで自分の方で
気勝手に決めたコースを好き気ままに走りたいっていう
なんかそんな風でした。さっきもお話聞いてた。
結構集合練習とかも僕あんまり
向いてないというかしない方なので。
そんな風に2022年は48時間走にも出会ってしまい
バックヤードとも出会ってしまいってことですけど
その後はどうなんですか?48時間走とかも
引き続き出るようになってたんですか?
そうですね。なるべく日本国内で24時間走とか48時間走をやってるときには
なるべく出て。バックヤードって基本的に
11月頭に全国一定開催だったじゃないですか。
だから年に1回のお祭りとしてバックヤードは必ず出て
逆は空いてる期間はジャーニーランに出る。
そんな感じが2025年も今年26年もそんな感じで
もうレース生活は成り立ってますからね。
ご自身の中で印象的だった48時間走とか24時間走のレースでもいいですし
その後出たバックヤードでもいいですし
上げるとすると何が上がってきますか?
クリントイストウッドは後からサッカーフルーツを置いていくと
そうですね。どのレースもやっぱり
僕って結構24時間走48時間走ってやっぱり
抜きつつ抜かれるとスライドするじゃないですか。
そこで選手同士がちょっと激励するとか声かけるとか
頑張れとかファイトとかナイスダウンとか
IHCしてるとかあれがすごい好きなんですよね。
バックヤードもそれもできる。
24時間走はそれがたくさんできるから好きっていうのと
バックヤードはコースによってそれもできるじゃないですか。
往復系のコースがあるのでバックヤードも好きっていうところなので
なかなか結構コースつけがたいところはありますね。
でも強かげるとラストドラゴン熊本の
ラストドラゴンはやっぱり運営さん、オーガナイザーさんが
お祭りとして結構開催しているっていう
やっぱりすごい雰囲気を大事にしているというところがありますし
なので大体参加者70人ぐらいいらっしゃるんですけど
前の時に2、3週で終わる方も結構いますけども
その方々はその後サポートとかボランティアに回って
引き続き大会を盛り上げてくれますし
コース自体もスライドするところが熊本ってないので
ちょっと声かけるタイミングっていったものがなくなって
そこが唯一寂しいところであるんですけど
コースはサイクリングコースを走るコースなんですけども
すごい風景が滝に渡るところで景色がすごいいいところで
とても気持ちがいいところなんで走ってすごい楽しくて
素晴らしい大会だなってところで
時期がかぶらなければ毎日出てもいいなっていう思い出の大会です
何よりも初めて2番を越させてくれたバックヤードの大会
バックヤードラストドラゴンが結構思い出深い大会
実際バックヤードのレース数としても結構出られてるんですよね
クリントイストウッドで9レース目だったと思う
これって今までは最初が北海道2022年ですよね
バックヤードウルトラにおける戦略とトレーニング
その次が
その次が福島ですかね
福島が2023年ですか
福島の2週間前にラストドラゴンがありました
梯子して出てるんですか
梯子して出ました
ラストドラゴンとラストサムライの梯子状態なんですよ
そうですよね
海外レースに出ずにその本数ってどういうことだろうと思ってたら
そういうことでした
2月に丹沢でやっていただけるようになって
その次に出ることになることで
年間3回出ることが確保できるようになって
でききまだいなんですよね
そうかそうか
それで全部合わせて8本で
クリントイストウッドで9本っていう形で
なるほどなるほど
繋がってきました
やっぱそれやればやるだけ発見とか成長を感じられて楽しいなっていう感じだったんですか
そうですねやっぱりバックヤードはやって
どの競技もそうなんですけど
やっぱりバックヤードはやってて
本当に毎回毎回築きが多くて
全部がうまくいって
もう宿題は何も残らなかったねっていう大会はないですね
やっぱり課題は残って
でもそこをちゃんと修正すれば
もっと記録って伸ばせるんじゃないかなっていう
本当に終わった瞬間から次のバックヤードに向けて
やっぱりワクワクがやっぱり広がっていくっていう
そこはやっぱり楽しいですし
同時にやっぱり自分の限界っていったところも
体力だけじゃなくて
そういったちょっとインテリジェンス的なところも
やっぱり必要なんだなって自分の限界引き上げるんだ
そういう変略的な面白さがあります
それ戦略的にはどういうふうに取り組むと
限界が引き上げられるんですか
そうですね
最近僕のやってる練習方法でいうと
ちょっと他の競技員は犠牲にしてるかもしれないですけど
早い練習は一切しないっていうところを心がけてますね
本当に自分
トレーニングのコーチの資格も持ってたりするので
筋トレとか筋肉とか関節とかに関する
勉強とかすごいしてるんですけど
やっぱりバックヨードって遅くていいんですよね
6.7キロ1時間で走ればいい競技なんで
早く走る必要は一切なくて
早く走るに越したことはないっていうご意見も
すごい分かるんですけど
でも結局長くコースに居続けるんだったら
やっぱり早い筋肉って疲労が早いので
僕の中でもいらないっていう結論に達したんです
だから僕バックヨードの木島平の大会に出る準備からなので
3月ぐらいからですね
LSD以外の練習をほぼではなく完全にやっていないんですよ
キロ6分30秒以上で速くは走らない
ただその代わり
例えば起伏のあるところを走ってみるとか
あとはちょっと重りを持って走るとか
どれぐらいの重さですか?
重い時だと15キロぐらい背負ってる
結構背負ってますね
結構背負ってます
ただ体にかかる負荷もありますけども
やっぱり重りを持って
その重りがすごい揺れる状態を
いかに制御しながら走るっていうのが
やっぱり体に負担のない走り方を
やっぱり体にインストールするには
やっぱり一番手っ取り早い方法だなっていうのをやっぱり考えて
面白い
速くは走れないですけど
長く走る分には全然疲れないっていう
体にどんどんシフト検知していってます
ちなみに重りっていうのは
どういうスタイルで重りをつけるんですか?
モーターベストみたいなことですか?
リュックの中にポットボトルたくさん詰め込むっていう感じです
だからでっかいリュックの中に
重い日だと2リットルペットボトルが7本入ってる
それ7本2リットルペットが入るリュックも相当でかいですよね
そうですね
リッチーだったらわかるかもしれないですけど
僕アイアンマンも出てるんで
アイアンマンのリュックがでかい
あれですね
移動で使ってるやつじゃないですか
そうそうそうそう
あれがね
入るんですよ2リットルペットボトルが7本
その15キロ14キロぐらいの重さを背負って
ペースは同じぐらいなんですか?
キロ6分半ぐらい
遅い分にはいくら遅くてもいいんですよ
キロ8分になってもいいですよ
でかい筋肉を遅い筋肉として鍛える
さすがそのトレーニングです
いや面白いですありがとうございます
実はさっきの収録でもさくらばさんが
常識にとらわれないというか
人がやってないやり方はむしろそこに
チャンスがあるみたいな
あるんじゃないかと思ってやってるんだみたいなことを
目を輝かせながら言ってたんですけど
そこにちょっと近い香りを今感じました
そうですね考え方は近いところあるかもしれませんね
やっぱりある程度向き不向きはあれども
やっぱり最終的に結果を出すのって
レースでの試行錯誤と怪我からの戦略的撤退
やっぱりトレーニングとか
事前の準備ですね
そこまで何をやってたか
何を積み上げてたのかが全てですので
僕の中ではフルマラソンもそうですし
8キロマラソンもそうですし
リカンソンもそうですし
バックヤードもそうですし
トライアスロンもそうですし
やっぱりそこに向けての
やっぱり大体半ヶ月とかの
事前のトレーニングと
それに向けての栄養であったり
後日に飲むドリンクとか
食べ物とかサプリメントとかの
栄養戦略であったり
やっぱりそういったものを
まずは常識通りなところをテキストで
やっぱり学んだ後に
そこから先はやっぱり
人と差をつけるために
一体自分はどこに重きを置いて
準備するのかといったところが
やっぱり人と差をつける
すごい大事なところなのかな
それはやっぱり筋トレとか
そういう知識も生きてくる
って感じですか
そうですね これはもう本当に
バックヤードやるにおいては
勉強したことなんですけど
いや本当に勉強してて良かったな
なんか本当に結構
幅広いなと思うんですよね
はがさんのやられてることもそうですし
ただ走るだけじゃなくて
トライアスロンやられたり
ってこともそうですし
そうかもしれないですね
いろんなことに手を出して
自分の体で人体実験してみるのが好きなんです
そうなんですね そっかそっか
そんな中で
もうフルキズっていうのは
ずっと抱えていて
そうですね
で 結構バックヤードが
出られてるレースを見ていても
安定して記録を伸ばしてらっしゃる部分は
ありつつも
でもやっぱり
ちょっと足が痛くてって言って
割と早々に離脱をされちゃう時も
早々って言うほどでもないんですけど
あるように思うんですけど
そこの違い
うまくいくとき いかないとき
いろいろ試行錯誤して
体の理解がある中で
それはどういうふうに生じるんですかね
そうですね 例えば
キジマダイラと
キジマダイラかな
サンザワの時には
純粋にちょっと
ただの自分の不注意で
足の一部にひびが入った状態の旅で
サンザワの時
18時6分で終わっちゃったんですけど
もう途中で
骨が埋まってはいたんですけど
骨の周りの組織はまだ全然
弱っている状態だったんで
そこが効きむような痛みを出したので
痛みもありつつ
サンザワはあくまでも
リハビリのため 練習のために出たので
本番はキジマダイラだから
今回はこんぐらいで止めておこうっていう
純粋な戦略的撤退だった時期よね
キジマダイラは
39ラップで終わったんですけど
これも言ってしまったら
言い訳にしかならないんですけど
やっぱり
走り込みが
骨折が影響していて
やっぱり大体
6ヶ月分ぐらいは
まともに
距離がかけげていなかったんですよね
練習で
その状態で
やっぱりバックヤードのような
超長距離レースに出てしまうと
大丈夫な人は全然大丈夫な方はいるんですけど
僕の場合は結構
ふくらはぎあたりから
アキレス腱に
症状が出やすいタイプらしいんですよね
自分で理を分析すると
だから走り込みが変わらなかった分
ふくらはぎに患がかかってしまって
その結果アキレス腱が
すごく痛くなって
腫れてしまって
やっぱり
蹴るのも痛い
客地するのも痛い
という状態になってしまうと
もうちょっとどうしようもないという
感じになってしまって
一応痛み止めも飲んだんですよね
痛み止め飲むと
あとは長くないというのは分かる
でもやっぱり
それでも改善しないレベルの痛みだったんで
やっぱり
長い競技人生なので
これで
左膝の重症状態から同じ
膝畑のときは左のアキレス腱だったんですけど
これでアキレス腱も
損傷とか断裂とかだったら
本当にシャイになるんだって
思ってですね
自分の目標は
もちろん
バックヤードの世界大会とか
チーム戦とか
というところだったり
24時間走、48時間走
いろんな世界がある
というのもありますけども
やっぱり僕の中でずっと言ってることは
生涯ランナーって
僕はずっと言い続けてる
死ぬときまで僕はランナーで言い続けた
って思うほど
僕のことを愛してる
一人なので
やっぱりそれを叶えるためには
ここで無理して
アキレス腱
完全に断裂とかしてしまったら
もう本当に競技人生
断人生終わってしまう
というのも
これがこの後の
多分クリントリストルートの話につながるんですけど
でも僕の中で
キジマタイラー辞めたからって言って
そこで終われじゃないっていうのは
僕は既にその時から分かって
僕の時点でキジマタイラーだめだったら
別にオーストラリアとか行けばいいやって思ってたんですよ
その時点であったんですね
それを思わせてくれていたのは
ミッキーとか
小松さんとか
川口さんとか
そういう存在が1年前から
1年あった
だから
アファップの皆さんとか
卸してくれる情報のおかげで
私らとキジマタイラー出る前から
キジマタイラーで一応決着はつけたんですけど
キジマタイラーだめでも
オーストラリアとかニュージーランドとか
アメリカとか
行ってそこで結果出せばいいやっていう
思いはちゃんとある程度
持ちつつ望んだので
なので
あの瞬間はそんなに僕は絶望的じゃなかった
クリント・イーストウッド大会への挑戦とチームジャパン
なんか常にこう冷静というか
長さんはなんかフラットというか
なんか常に次の作を考えているっていう
印象がすごいあるんですけど
それをやっぱ性格というか
もしくはなんかこう
職業柄とかそういうので培われてきたものなのか
どうなんですか
本当はめちゃくちゃ楽観主義なんだと思います
楽観主義なんですかね
何かしら情報とか
戦略は考えた上で
どうにかなるよ
そういうタイプです
そうなんですね
そんな中でもともと
キジマタイラーに別に
そこまでこう
全然神経を注いでたというよりは
その
その次もあるって思って
やられてたってことですけど
実際国隣トイストウッドに
行くことになった経緯は
博士さん目線からは
どういう形なんですか
そうですね
国隣トイストウッドは
もともと
僕のときでは
やっぱりキジマタイラー終わった瞬間から
もう次に向けて
切り替えは始まっていて
いろいろと情報収集して
やっぱり結論としては
僕のときはもう当時
5月ぐらいの段階から
いけば国隣トイストウッドだなって
ほぼほぼ決めてた
それで
どうやってレースの準備をするかっていうところを
いろいろと考えるときに
広崎の
24時間総選手権
だったので
とりあえずそれは
大会の大会として出るって決めていたので
現地に行ったら
吉澤さんが
スタッフとして
来てですね
吉澤さんと
お久しぶりですって話して
あのー
吉島大和76番組でございます
念願の
TMSに出れますねみたいな
そういう話をしていて
で、あのー
結構
吉澤さんもなんか僕SNSで
ほとんどSNSでつながっているので
そこで吉澤さんが
で、オーストラリアは行くの?
みたいな感じの話を
吉澤さんと
国隣トイストあたりに出ようかと思ってるんですよね
って話をしたら
吉澤さんがさっきね
桜庭さんともね話して
桜庭さんがねまだちょっと
サテライト
ちょっと諦めきれないみたいなことを
おっしゃってたんだよね
って話を聞いて
結構この2番で
桜庭さんバックヤードの
サテライトにまだ
諦めきれてないんですかって
僕のことちょっと意外だったんです
結構やっぱり
桜庭さんは結構
早いところに対する
フルマラソンなので
フルマラソンもすごい早いですし
2時4時間走ものすごく早いですし
だからバックヤードは
ラストサムライには2回なってますけども
サテライトが終わって
その後木島平に
木島平に出るときも
桜庭さんとお話はしていて
ラストチャンスかなみたいな話を
桜庭さんされて
だからそれがすごい意外だったんですけど
僕としてはもう
すごい尊敬する
ランナーの
お一人である桜庭さんが
まだサテライト
勇気を諦めてない
というのであったら
僕はもう
桜庭さんと同じ大会に出たいなって
だからクリンツンスコンクが
僕の大選択ですけど
色んな情報を多分
この後
いただけるでしょうから
それをちょっと加味した上で
桜庭さんがどっちに出たいって
言ったところを
もしもレッツの方に
どうしても自分は出たい
のであったら
じゃあ僕もレッツに
行きますっていうぐらいの
そんな感じのテンションに
僕はなってたんですけど
とりあえずはちょっと
広崎24時間が終わった後に
ちょっとLINEグループくらいに
作るから
ちょっと軽く
打ち合わせしましょうか
ってなって
そこにはもうすでに
ミッチはいた
いましたよね
そうですねはいいました
あの時には河見さんもいますよね
うん河見さんもいましたね
そんな感じの流れでしたね
うんうんうん
そこからあそこの全員の
ミーティング以外に
桜庭さんどっちがいいですかね
ってなったら
桜庭さんもとりあえず
記録が出るんだったら
俺は記録が出る方に
行きたいねっていう
桜庭さんずっと
うんうん
どっちが記録出るんすかね
っていう話をしてて
でまぁレッツの方は
やっぱりコースが今度
オーストラリアのナショナルの
コースになるじゃないですか
うん
だから結構強い選手
集まるんじゃないですか
っていうのがあったら
でもクリントイストウッド
もうやっぱり
最後の代表狙いで
強い選手集まる可能性
高いですよね
もういろんなそういう話を
したりでして
まぁでも
あのやっぱり
クリントイストウッドの方だと
ですと河見さんが出たことが
あるっていうところの
事前情報でしたり
あとはミッチが
もしかしたら
クリントイストウッドだったら
いけそう
うんうん
そうですね
まぁそれだったら
日本人がやっぱり
いっぱいいる方がいいよね
うん
ところの結論になって
僕と河見さんが来れば
クリントイストウッドにしましょう
そういうやりとりがあったんですね
そうですね
うん
でまぁ実際その
クリントイストウッド
オーストラリア遠征の思い出とレース展開
行きが決まって
えー
まぁ思ったより
あっという間に
当日というか
あのオーストラリア入りの
タイミングになったな
っていうところですけど
こうまぁ旅の思い出
遠征の思い出
っていうところは
はがさんの中ではどうですか
いやーでも本当に
あっという間でしたね
あの滞在の
大半が
あのレースを締めてしまった
っていうところが
僕の
僕はあのやっぱり
そういう滞在の
ちょっと日程になってしまったので
ちょっとあの急遽
ねちょっと市場があって
買いの仕事が
早くなってしまった
だからあの
観光的な思い出は
いっぱいなく
本当にもう
あの思い出は
ほぼ全てレースと
その連日の準備
集約されてますね
まぁでも
それも含めて
あのすごい
楽しくて
なおかつ
あの本当に
人生の思い出に残る
本当に
約1週間でしたね
11日から飛んだ
うんうん
まぁその思い出が
まぁレースの前半
前日と
あの本番って
おっしゃってましたけど
あの
初めて
オーストラリアの
バックヤーダの会場に
行った
えー
感想というか
その前日設営だった
と思うんですけど
どうでしたか
前日設営の時には
やっぱりこれなんか
さんの
あの収録も
ね聞かせていただいて
ほとんど同じ初間なんですけど
前日の
場所取りのタイミング
まぁ
我々
まぁもちろん
早い時間に
行ってるじゃないですか
それも
早い時間に
他の人も
知ってるってことは
他の人も
そういうことなんすよね
っていうぐらいの
いい感じの
あの宣戦状況としてましたね
うーん
なんか本当に結構
やっぱり
記録を狙う人たちが
いい場所を取るために
本当にちょっと
自分のいる場所とか
荷物とか
あのどけた瞬間に
そこを取られそうだなっていう
なんかそういう雰囲気はね
すごい感じました
そうっすよね
うーん
やっぱりあの
ナーチさんとかが
前年度優勝者の
女性の方が
本当に私
70ラップぐらい
走るから
みなさんは
日本のみなさんは
アシストねみたいな感じの
そんなことはね
これどっち
ナーチさん
どっちだろうこれ
みたいな
っていうのをね
夫コマさんが
顔見合わせて
笑ってました
そんな
オーストラリアの
バックヤード
熱と言っても
いいかもしれないですけど
まあ意欲的な選手が
たくさんいるというところにも
遭遇をして
あとはユコさんの
行ったのがやっぱり
総代都市が大きかったですね
誰さんですか
佐藤ユコさんですね
ユコさん
やっぱり驚きがありましたか
日本人女性に
あそこで出会うっていうのは
日本の方
日本からエントリーしたのかな
と思いきや
まさか
あの
オーストラリア大衆の
日本人が
バックヤードに出る
だから
すでに我々日本人
13含めて
結構たくさん
回りましたけど
大会に出る
オーストラリア大衆の
日本人がいる
っていうところは
なんかすごい
心強く感じました
本当
ジャパンチームが
チームジャパンが
一人
味方が増えたような
そんな感覚も
ありましたよね
本当に
ユコさんの存在は
かなり多かった
いやいやいや
そんな中で
受付
をした時の
雰囲気とか
はまた
日本と違う
こう
なんか列が
ちょっと長くて
そうですよね
やっぱり
勇気が多いから
そうなっちゃうんですよね
エイドなんかも
もうすでに
前日から設定されてて
そうそうそう
そう
エイドの
小松さん見ました?
前日のエイドの小松さん
前日なのに
小松さん食べてる
前日だけ
小松さんいいのって
これどうせ
明日我々が食べる
だからいいでしょ
つまみ食いを
つまみ食いをしてたら
いやこれが
オーストラリアクオリティか
完全にオーストラリア
株式してるね
って笑いながら見て
いやいや
そんなね
笑い話もありましたね
そんな中で
当日を迎えて
まあ
前日なんかより
比べ物にならないぐらいの
人の数が
あってっていうことですけど
どうですか
スタートラインに
本当にもう
お祭り感がすごくて
なんか本当に
これは本当に
バックヤードの大会なの?
っていう
なんか
一応
ラスボラは
70人ぐらい出て
なんか最初
前半のうちは
そこそこ人数多い感じの
中でわーって
スタートするんですけど
でも他の
ラストサムライスタンジング
とかは
なんか会場によっては
なんか
7,8人とか
でスタートするじゃないですか
そのバックヤード
知ってる人からすると
本当にもう
全然違う大会だな
っていう
本当になんか
すごいみんなが
バックヤードっていう大会を
好きなんだな
愛してるんだな
っていう人たちが
集まって
今から始まる
イベントに対して
心躍らせてるんだな
っていうのが
すごい伝わってくる
そんな会場でしたね
ねえ本当そうでしたね
あれですよね
野外フェスみたいな感じ
そうですね
うん
そういう感じはありますね
なんかキャンプイベントとか
野外フェスとか
誰かが
壇上で歌ってても
不思議じゃない感じですよ
そうですね
僕は違う
クリントリストフットが
どうだったかは
わかんないですけど
4月のシドニーの大会
出た時は
トレランザックみたいなのに
大きいスピーカーつけながら
音楽
爆音で流して
走ってる人がいて
その周り
その周りに何人か
ちょっとなんか
ノリノリで
なんなら踊りながら
ついていってるような
選手たちもいたりして
それいいです
シドニーが確か
一番人数多いんですよね
そうですね
過去で
今まで出る
最多の人数が
650人で
バックハートで
6.50人って
すごいですよね
本当に
だから近いうちに
ちょっとシドニーは
出てみたいと思います
年にね
2回やってるんでね
4月と9月に
そうですね
だからシドニーは
ちょっと季節的にも
流れなくはない季節なので
本当に
入れたいと思います
なんかね
オーストラリアのバックヤードに
ハマりそうって
おっしゃってましたよね
もうハマってます
いやだって
もちろん
もっかいは
中学の
やっぱりサテライトですけど
ほとんどの大会は
もうなんか
全部
一旦
オーストラリアの
大会も
出してみてもいいんじゃないか
って思って
すごいですね
海外マラソンを
巡る人とかいますけど
オーストラリアバックヤードを
巡る人に
なるかもしれない
そうですね今は
海外のシティマラソンを
たまに巡る人だったんですけど
今度はもう
オーストラリアバックヤードを
巡る人になる
いいっすね
それも面白いっす
オーストラリアとか
ニュージーランドもやってる
確かに確かに
そんな中で
今回のクリントイストウッドは
どうだったのか
というところですけど
秦さんの中で
印象的だった
エピソードとか
時間帯を
順に伺っていけたらな
と思うんですが
そうですね
やっぱり
バックヤードって
やっぱり
特に
全部かな
極限の状態で
やっていくので
やっぱり
記憶が結構
曖昧だったり
そんなこと
本当にあったかなっていう
前のこと
意味はそんなこと
なかったよ
っていうことも
あるかもしれないですけど
まず自分も
って話すと
まずは
やっぱり
真冬
全般的には
真冬とはいえ
やっぱり昼間は
すごい暑くて
僕の中では
日差しが
暑いと
だから
暑さに弱いので
やっぱり
暑さ対策は
しっかりしないと
いけないなって
思いつつも
日本選手だと
僕よりも暑さに弱い方が
オーストリアにいらっしゃるじゃん
吉田さんが
そうですね
なので
本当に
僕より
ラプス数持ってるので
本当に
大きなお世話でしか
仕方ない
でしかないですけど
本当に最初
スタートした時は
朝から昼にかけてあったんで
天気も良くて
暑かったんで
結構
吉田さんは
本当に大丈夫かなっていう
熱中症ならないかなっていう
本当に
いらぬ世話を
持ちながら
走ったっていうのは
若干記憶に残ってる
でもやっぱり
日本は
真夏で
その
真夏から
こっちに来てるので
結果
急に終わった
と思うんですよね
日本の
走り込み中と比べたら
こっちの
昼の
23度ぐらいの
中の日差し
多分大したもんじゃないな
そんな
軽快な指示を見せていた
だから自分の
吉田さんの
熱中症の心配なんかいうの
自分の心配しろ
っていう切り替えは
すぐできたので
最初の
12ラップは
結構
自分の中では
すんなり
何事もなく
いったっていう感じ
でしたけども
やっぱり
バックヤードの
やってる人の
みんなほぼ共通の話題として
最初の24時間
本当にきつい
っていうのがあるじゃないですか
僕もやっぱり
それはすごい感じていて
12時間から
24時間ぐらいのところが
すごい時間が
長く感じるんですよね
僕も
僕やっぱり基本
ロードランナーなので
アスファルトか
アスファルトか
石畳か
あとは陸上競技場の
タータンとか
そういうしっかりと
整備された平坦なところ
基本的に走らないので
そういうところが
得意なんですけども
クイントリストだと
基本的に全部
身細
だから僕の中では
本当にね
一生分の不整治を
走ったじゃないかっていう
はいはい
不整治で走って
最初は不整治って
やっぱり何らかんだいって
足のダメージは少ないけども
やっぱりあんまり慣れないな
っていう中で
走っていて
やっぱりそれが
顕在化してしまったのが
やっぱり僕って
もともとそんなに不整治を
走らないっていうのプラス
僕結構
いい意味でも
悪い意味でも
足首が柔らかくてですね
結構ぐねりやすい
なんか
ゲンダーしやすいっていう
足首って
だから
本当に瞬間的に
ぐきって
いったことは
クイントリストを
途中で
一回もなかったんですけど
ずっと慢性的に
軽いぐねりは
ずっとやってて
特に
コースの一番奥まで行った
でっかい草原が
広がっている
ところがあるじゃないですか
うんうんうん
なんか
すごい狭い
和立ちがあって
その和立ちで
ミスリーサークルみたいになって
うん
なってますね
あそこが
ここって
和立ち
この細い和立ちを
踏むのが正解なのか
それとも
その和立ちの
四匹なのより
芝生を踏むのが正解なのか
っていうのが
最初の24時間だとね
正解が分かんなくて
うんうん
覚えやし工作を
やっていくうちに
結構その
細かーいぐねりを
何回もやってしまったのか
特にね
右足の
やっぱり
内側の
足首がすごい痛くなり始めて
うんうん
それが大体やっぱり
20
何週目ぐらい
またね24時間
経ってなかったと思うんですけど
このぐらいしかね
だから
ここから
大体30ラップぐらいまでは
その痛みに
対処するのは
どうすればいいのか
っていうのを
ずっと試行錯誤の
集会だったんで
今回は
やっぱり
24時間じゃなくて
30時間ぐらい
経過するまでが
すっごく長く感じましたね
うーん
そういう話もね
ずーっと
小松さんと話してました
この24時間
なかなか
バックヤードで過ぎない
聴講群これ
なんていう表明にしましょうかね
みたいな
答えは出たんですか
答えは
なんかね
その場限りの答えは
出たような気がするんですけど
他の人の話でも
出てる
出ましたけど
やっぱり小松さんが
やっぱり
日本人選手もそうですけど
オーストラリアの人も含めて
弱ってる人を
見つける
感度がめちゃくちゃ高くて
うーん
だから僕が
20ラップ前後で
足首痛くて困ってる時って
だいたい
返ってくるラップが
遅くなり始めたんです
最初は
普通に45分ぐらいで返ってきたのが
やっぱり
51分
52分
53分ってなって
30時間ぐらいの時になると
55分ぐらいで返ってきたラップも
あったはずなんです
その時に
気がついたら小松さんがね
隣にいる率が高かったんですよね
ずーっと小松さんが話してて
それで
まあ
さっきの
なかなか24時間経たない将軍の
名前がどうたらこうたらとか
あと小松さん
住んでるところが
実は
千葉の奥の住んでるところの
近いところだったりして
そこの話だったりして
その時ちょうど
千葉豪雨が来てたんで
豪雨災害が
来てたんで
千葉大丈夫っすかって
見たけど
ちょっと心配も
したりとかですね
まあでもそれでなんか
あのー
まあ痛み
っていうところとか
辛さっていったところには
あんまり
気が向かなくなった
っていうのもあって
それがきっかけに
ちょっと
前向きに
いろいろ考えられるようになって
もう痛いのはしょうがないから
じゃあこの痛きと
向き合いながらも
走り続けるには
どうすればいいのかっていう
まあ結構
いつものマインドに
切り替わって
それでお願いしたのが
あの時が確か
僕が帰ってきた時は
あのー
目の前にすぐ
じゅんさんがいたから
じゅんさんに
あのー
じゅんさん
わがままのお願いして
いいすかって
なになにどうしたの
って言ったら
アイスバッグを作ってください
アイスバケットって
言って
アイス
氷水が入った
バケツを作ってほしい
お願いしたら
じゅんさんがすぐ
作ってくれて
まああのバケツっていうのは
なんかあの
ランドリーバッグみたいなやつ
うんうん
ランドリーバッグみたいなやつに
氷と水を入れてくれて
もうそれをすぐ
僕の座ってるところに
すぐ置いてくれて
そして僕その中にも
両足突っ込んで
そこでもう
あのー
もう無理やり
足を
極限まで冷やして
もう痛み
感じなさせる
っていう手段
もう切り替えて
でそれで
次の4日走ったら
まあ
あの最初
走り出しは
全然痛くない
ってなって
後半ちょっと痛かったけど
そこからもう
走り方の工夫で
もう何とかするしかない
なって言った
ところの
走りに切り替わって
でもそしたらまた
48分とか
49分とかの楽に戻ってきて
まあまあしばらくは
じゃあこれでいけるな
っていうのに
切り替わったっていうのが
大体の
30何ラップ
ぐらいまでの思い出とかですね
あとは
確かこのぐらいの
桜庭選手との交流と励まし
タイミングで
あの僕と
さくらまさんが
あのー
ブースというか
自分のスペース
マイスペースが
隣同士だったじゃないですか
うん
だから
あのー
さくらまさんと
あのー
さくらまさんの
あのー
サポートの
穴澤さんと
の会話が
僕に
聞こえてくるんですけど
うんうん
結構さくらまさんが
結構弱ってる感じ
だったんですよね
その時に
30ラップ前後ぐらいの時が
あのー
もう本当に
なんか
あのー
部分部分的なところしか
思い出せないんですけど
結構あのもうね
ペースが上がんないんだよ
とか
あのこのまま続
このまま続けても
どっかで
あのー
もう
届かなくなるだけだよ
とか
うんうん
あのー
どんどんどんどん
でどんどんずばになっていくだけで
みたいな
結構本当に
すごいマイナスなことしか
言ってなくて
だから
僕の中では
結構やさくらまさんから
そんな
言葉が出るなんて
言ってるのは
ちょっと信じられなくて
だから僕としては
どうしてもちょっと
何かしら
あのー
サポートの
アナザーさんとは
違う形で
さくらまさんを
励ましたいって
思って
だから
サポートの部分では
アナザーさんが
全部励ましてくれるから
そこはもう大丈夫
だから僕のできることと
言ったらもう
僕として
コース上で
なんか
何かしら
サポートできることはない
そこらを思って
でも僕からは
なんかバンって
なんか
あのー
ずっと
50分とか
55分とか
フォローし続ける
っていうのも
僕の中での
僕に対する
サポートは
何か違うな
うんうん
出した一つの
答えは
あのー
僕は
大丈夫ですと
僕は大丈夫なんで
さくらまさん一緒に
65ラップ行きましょう
っていうのを
僕の走りで
見せて
うん
そこに
切り替えた
切り替えたというか
それだと
どうかなっていう
ので
ちょっと
30ラップから
40ラップぐらいのところは
結構頑張ったんですよ
そこは僕ね
確か40
結構たまに
45分台とかでも
帰ってきてるんですよ
はがさんの走り
安定したなーって
みんな
サポートメンバーとかが
思ったあの走りは
ある意味
さくらまさんへの
こう
メッセージの
一つでもあった
ってことなんですね
そうですね
まあ
さくらまさんに
メッセージ出したい
っていうタイミングと
ちょうどアイスバケット
を使って
こうすれば自分
ある程度まだ
安定した走り
続けられるかっていう
タイミングが
結構ドンピシャだったので
だったらやっぱり
まあ
同じ
日本人選手としてで
同じ
65ラップ
目指して
サプライト目指す
仲間っていう
ところでは
あのー
言ってしまったら
吉田さんと
小松さんは
もう
あの
サプライト位置
確定してるじゃないですか
だから
同じ思いを持って
走ってるのって
あの
日本人選手だと
僕と
さくらまさんだけだな
っていう
のがあったのと
だから
僕のできることは
やっぱり
そういう
なんか
言葉の励ましとか
ではなくて
やっぱり
同じ目標を持ってる
相方は
もう
行くぞと
もう65ラップ
俺は行くんだと
俺はこんなに
元気なんだから
さくらまさんも
行くんで行くんだよ
っていう
自分のやったことが
間違いじゃなかったな
っていうのが
まあ何ラップかも
覚えてないですけど
大体
40何ラップ
かで
来たんですよね
まだ夜だ
の時だったんで
48ラップより
前の段階だから
42から46の
夜の間だったと
思うんですけど
そこで
まあ徐々に
さくらまさん
ちょっと出発し始めてきて
さくらまさんと
並走してたんですよ
その時に
さくらまさん
さっきまで
あの結構
あの
ラップ遅かったですけど
今大丈夫そうですか
ってなって
今ね
何とか持ちこたえて
大丈夫大丈夫って
話して
そこで
話しながら
そのラップ
走ってたんですけど
さくらまさんが
本当に
その時に
言ってくれたのが
もう
あの
眠くても
体力限界でも
そこだけは
しっかり覚えてるのが
いやね
羽賀くん
改めてね
さすがだよって
思ったね
って言ってくれたんですよ
いやもう
羽賀くんね
いろんなレースで
一緒になってね
なんか
改めて
思うこと
じゃないかも
しれないけどね
ほんとさっきまでのね
羽賀くんの走りでね
いやさすがだなって
思ったね
あーんって
ここだけは
確実に覚えてるんですよ
これは確実に
羽賀くんさんが
多かったっていう
確実に
そのゼッコンのこととかは
あやふやですけど
もうこの言葉が
ほんとに
嬉しくて嬉しくて
ほんと走りながら
泣きそうになっちゃって
でもまだレース
終わってないから
とりあえず
そこからはもう
引き続き
がむしゃらに
っていう感じでしたね
収録には
入ってないんですけど
終わった
レコーディング
止めた後に
なんか
羽賀さんになんかこう
メッセージとか
質問ありますか
クリント・イーストウッド大会の振り返りと価値観
みたいな
みたいな話を
した時に
あの
さくらわさんも
熱いメッセージとして
いや本人にも
あのレース中
言ったんだけど
みたいな
見直したよ
みたいなことを
言ったってこと
見直されるっていうぐらい
私は今
さくらわさんに
今のダサい姿しか
見せるのが
いやいやいや
ねえあの
ねえあの
さくらわさんも
おっしゃってましたけど
羽賀くんはさ
もうビッグマウスだからさ
みたいな
こう
なんかこう
言ってた割に
結構あっさり
辞めちゃったりも
あってさ
みたいな
なんか
そんなことを
言ってたんですけど
いやあいい走りだったよね
って言ってました
うん
いや本当に
もうそれが
ある意味
今回の
遠征の
一番の僕の
思い出かもしれない
結構だから
まだ40
何ラップかで
その後まだ
20ラップぐらい
続くじゃないですか
うんうん
僕の中で結構
残りも20ラップって
もう結構もう
実は無敵状態
実は無敵状態
そう
そういう
ことだけで
僕はもうだいぶ
桜庭さんに救われた
っていう感じが
します
自分を止めるものは
何もないと
だから結構僕
そっからの一日って
すぐ終わったんですよ
結構
サテライト大会への意気込みとバックヤードの魅力
ああそうなんですね
結構すぐ終わりました
本当に
まあそれはもちろんね
みっちー
みんなさんの
方法を変わったことで
快適に過ごせた
っていうのも
もちろん
ありますけど
なんか
ベルさん風に
めちゃくちゃ馴染んでます
この約
そっからの約20ラップは
なるほど
そうなんですね
いやそんな馴染んだ中で
65ラップ達成をして
サテライトを
代表の権利も獲得して
っていうことですけど
マホトレースを振り返って
というか
オーストラリア遠征自体を
振り返って
どうですかね
心境とか
一言いただけたら
そうですね
まあまずは
やっぱり最初は
木島ダイラーが
ダメだとしても
自分は
フットワーク軽いんで
オーストラリアとか
もしくはヨーロッパとか行って
それで権利獲得してくるんだ
っていうのも
それもさっきの
桜庭さんのお言葉じゃないですけども
まあビッグマウスなところはあって
でも楽観的なところもあって
どうにかなるでしょっていう
ところは
すごい思いながら
準備してたんですけど
やっぱり改めて
今回
プリントイーストウッド
迎えてみて
他の日本人選手
吉澤さん
小松さん
桜庭さん
桜庭さんのサポーター
野澤さん
ジュンさん
もちろんミッチー
こういった本当に
サポートの人たちも含めて
こういった本当に
チームジャパンっていう形で
オーストラリアに行けたっていうことは
本当にすごい
いい経験になりましたし
おかげで
すごいいい結果を出すことが
できましたので
本当にみんなで感謝すると同時に
やっぱり
オーストラリアのレースだけじゃなくて
やっぱりこういったことを
日本国内もそうですし
他の国のバックヤード大会
いったところでも
やっぱり裾を広げて
やっぱりやっていかないと
なかなか記録も伸びないし
人口も増えないし
っていったところが
改めて感じたっていうところが
オーストラリア遠征での
全体的な
一番感じたところですかね
逆に言うと
今回のやっぱり
チームジャパンって
ユウコさんも含めてしまうと
5人いて
5人とも65ラッパーとしているわけですよ
この感覚を
サテライト大会に
やっぱり持ち込むことができれば
やっぱりメダルって
すごい近いところに
いくんじゃないかなって
いったのが
すごい
自分の中で
感触が得れたなっていうところですね
だから個人の力も重要ですけど
やっぱりいかに本当に
団体戦として
チームジャパンとして
ダグビーじゃないで
アメストじゃないですけど
one for all
all for oneという形で
みんなで記録を達成するんだ
みんなで取りに行くんだ
っていうマインドセットが
いかに重要なのか
っていうのが分かります
本当サテライト前に
私もそう思ってましたけど
この経験ができてよかったなと
思いますし
あとはどうそれを
今回オーストラリアに
行かなかったメンバーも含めて
伝えてというか
シェアしていけるのか
っていうのも
大事だななんてことも
思いましたね
そうですね
やっぱり団体戦って
やっぱり個人戦とは
全然違いますよね
本当そうですね
一人がすごいいい走りをすると
やっぱりいい影響もいきますけど
一人がすごい
悪い走りというか
何かしらちょっとネガティブなのが
発してしまうと
やっぱりそれが
ちょっと伝染していくと
それを潰すために
選手以外のところでも
ちょっといろいろと
サポートの人とかが
いろいろと工夫しないといけないとか
本当にいろいろ
考えさせられるなと
本当ですね
そんな中でいよいよ
サテライト
ちょうど50日を切ったぐらいの
タイミングですけど
改めて意気込み
目標みたいなところを
聞いてみたいんですが
いかがでしょうか
そうですね
今回改めて
スクリーンストリートで感じたのが
もちろん先ほども
申し上げたように
他の選手でサポートの方々の
あとは大会自体の
素晴らしさといったところも
尽力して
65ラップといったところを
達成することができましたけど
今までの自分のバックヤードのレース
振り返ってみると
だいたい目標を設定するパターンが
2パターンあって
1パターンが
本当に自分の限界ぶっ倒れるまで
もしくは本当に
タイムオーバーになっちゃうまで
やるぞ
だから目標をなくすなんてないぞ
っていう望み方と
ここまでやります
ここまで私はやるんです
目標の設定の2パターンがあったんですね
自分はクリントイーストウッドで
旧レース目なんで
自分の覚えてる限りですと
クリントイーストウッドと
ラストドラゴンで
57ラップ走った時が
このラップまで頑張るっていう
目標設定だった
他の7レースは
全部限界までやるぞっていう
目標設定だった
他の7レースは
一番いい記録が
木島ダイルの39ラップ
だから自分なりに分析すると
バックヤードって
げっくりとで一応
突き詰める競技ではあるものの
やっぱり何十人かいって
ある程度目標を設定して
何やらんでもここまでやるぞ
っていう目標にした方が
もしくしたら自分って
記録が伸びるんじゃないかな
っていったのを
度数はね
9つしかないですけど
でも明確に出ている
結果ではあるので
まずは
木島ダイラーに関して
ファットライトに関しては
ラップ数の目標を
設定することにします
それは公表しますか
胸の内にとどめますか
公表しますよ
マソナルレコードおよび
アジアレコードである
107ラップ
そこを明確に目指すと
そこを目指します
まずはそこ
おのずといい結果
個人でもチームでも
いい結果が生まれてくるのではないだろうかな
って思って
この107ラップ
まずは一旦目標とさせていただこうかなと
具体的な数字を名言された人は
これまでのインタビューの中で
初めてなので
とても力強いなという
本当にクリントンさんと出るまでだったら
いつも通りバックヤードって
自分の限界目指す競技なので
分かんないですよ
そんな感じで
言ってたと思うんですけど
今は明確に107ラップ
いきたいと思います
楽しみですね
まずは誰かに107ラップまで付き合っていただかないといけないですし
そうですね
そういうメンバーが揃った
今回の代表チームかなと思うので
そこはね
むしろはがさんが107まで行くよって言ったら
じゃあ俺108、109みたいな
そういう
ありがとうございます
いっちーが107いってもいいですか
私は120いくので
119付き合ってください
そんな中ですけど
残り50日どんな風に過ごそうとか
どういう練習をイメージしてるかとか
あとはテーマみたいなのがもしあれば
残りの50日どうしようかっていうのを聞いてみたいんですが
どうでしょう
そうですね
さっき収録前にお話しした内容を
もう一回お話しすることになりますけども
僕の中で結構バックヤードって
やっぱりいかに平常の中で
いられるかっていったところが
すごい重要な競技だなって思ってますので
今ちょっと足首がまだ若干痛い状態なので
でもこれもあと2週間くらいしたら
一応治る予定ですので
そこはちょっと自転車漕いだり
水泳したりっていうところで
体力チープするっていう練習が終わった後も
先ほどの練習の内容ですね
基本的にはLSD
たまに重いものを買っていたり
ちょっと遡ったりくなったり
そういったところを中心に過ごすかなと
あとは慣れていく本当に
あんまり特別なことはしないと
日常通りの普通の生活を送って
自分の中では
自分食べるのすごい大好きなので
特に食事制限とかもせず
たくさん食べてたくさん栄養をとって
バックヤードのいい記録出始めた時って
結構お酒も普通に
昔フルマラソンとか
100キロマラソンの記録狙った時って
あんまりお酒飲まなかったんですけども
別にお酒
特にビールとかは大好きなので
あんまりこういうの我慢しないで
ちゃんと自分の取りたいものは
ちゃんと体の中に取り入れて
それはやっぱり精神的にも
いいものだと思いますので
そういうなるべく欲望に従って
精神的にも精神的にもいい状態で
ちゃんと練習も毎日続けるという
その状態で
9月17日を迎えたいなと思っています
いいですね
ハガさんの中で道筋が見えてるんだなっていうのが
聞いていても迷いなく感じられるというか
そんなふうに感じました
逆に言うと一切追い詰める気がないだろう
こいつって感じました
そのスタンスはバックヤードで置いたら
ありなスタンスありなアプローチかなというのは
僕自身も思いますね
でも本当に結構つきすぎた
日本刀とか包丁研ぐ
研ぎ澄ましたような状態でバックヤードでると
やっぱり記録って僕の中では
伸びないような気がするんですけど
自分の中の経験です
自然体だと
自然体が一番かなと
そんなご自身の自然体な状態で臨むとおっしゃってますけど
ご一緒する日本代表選手の中で
特に注目している選手とか
この人と一緒に走るの楽しみだなみたいな
方がいれば伺いたいんですがどうでしょう
僕含めての15人のメンバーにて
一緒のレースで走ることないなっていう方が
ベルさんと田中さんだったんですよね
ベルさんはもちろん
ナショナルレコード、アジアレコードを持っている方ですので
ご一緒するなって楽しみですし
田中さんはバックヤードの大会出てる時とかの
インスタグラムとかでの動画とか見てるんですけど
ものすごく楽しそうにバックヤードを走られる方ですので
とてもバックヤードを愛せる方なんだなっていう認識ですので
お会いしたことあるんですけどね
一緒に走ったことはないので
田中さんと一緒にすごいバックヤードを楽しみたいな
あとはもちろん
今回一緒にサプライトを目指して
一緒に出ることになった架倉和さんといったところですし
でもキリがないと思いますね
みなさん楽しみですね
素晴らしいメンバー
私自身も同じことを思います
こんな素晴らしい人たちと一緒に走れるっていうことを楽しみたいな
いいですね ありがとうございます
そして続いてですが
たくさんすでにこのエピソードの中で
お話しいただいてると思うんですが
バックヤードの魅力を改めて言葉にするなら
本当に日本だと結構固いイメージというか
怖いものとか
いやちょっと自分にはちょっとみたいな
そういう人も多い中ですけど
あえて伝えるならどんな魅力を言葉にしますか
そうですね
バックヤードウルトラは
競技会ではないですっていうところですかね
車ラソンとか100キロマラソンとか
なんなら陸上競技やっている
400m、800m、1500mっていったような
そういう競技会ではまずない
僕がいつも言ってるのは
バックヤードウルトラは
コミュニティですって僕は
あくまでバックヤードウルトラっていう
形式の中でランニングを楽しむ人が集まる
コミュニティって思ってるので
日本だとやっぱりラストサムライスタンディングですと
ちょっと参加人数も少ないですし
ちょっと噂が一人歩きして
極限まで挑む
頭のおかしいおっさんたちが集まるレッスン
僕ね結構協格度をしてるんですよ
協格度をしてるんですけど
みんな同じようなこと言うんですけどね
いやバックヤードウルトラに出るには
私はまだまだですって言って
まだまだじゃなくて
まだまだの人が出るコミュニティだよ
僕は本当にそう思うんですけど
なかなかそれを理解していただけないんですよね
だからいかにバックヤードが
もちろん自分の限界に挑みたいっていう人は
挑んでいただいてももちろんいいと思うんですけども
逆に本当にいつ辞めてもよくて
辞めた時もコミュニティとして
他の人たちの一員のままで行って
その大会イベント
コミュニティ自体を盛り上げる
一員であり続けることができるんですよ
いったところが
バックヤードの一つの楽しみ方かな
もちろん僕みたいに
日本代表を狙うとか
本当に自分の体の限界
戦略の限界
根向けの限界がどこなのか探してみたい
いろんな楽しみ方があると思うんですよね
その中の一つ
やっぱり皆さんにまず知っていただきたいのは
本当にバックヤードはコミュニティです
いったところ
皆さんに伝えたいです
ありがとうございます
とても端的で分かりやすいなと思いまして
「ビッグマウス」という座右の銘と今後の展望
そしてもう一つですね
座右の銘とか
大切にしている考え方みたいなところも
改めて伺ってみたいなと思います
そうですね
これはもうここまでの話の中で
なんとなくご想像がつくかと思うんですが
ジックマウスです
それはもう座右の銘なんですね
座右の銘というか
僕の考え方は
やっぱり目標とか夢とか
何かしら人間
皆さんそれぞれ抱えていると思うんですけども
僕の中では
それを本当に胸の内だけに
しまっておくと
やっぱりなかなか行動するにも
腰が重くなったり
そもそも自分でも忘れちゃったりすることの方が
多いと思うんですよね
やっぱり日々の学業とか
お仕事とかに忙しさとか
あとはご家庭を持つ人
奥さんのこと
旦那さんのこと
子供のこと
将来のこととか
いろいろと考えないといけなくて
やっぱり自分自身で
自分の目標とか夢とか
忘れがちになると思うんですよね
僕は必ず自分の口にして言いますし
SNSとかでも
自分で自分にプレッシャーをかけるために
自分はこれを
やり遂げなくても別にいいんです
夢なんで
でも僕はこれをやりたいです
やり遂げたいです
やります
といったのを
僕はもう言霊として
力入っている
を絶対自分自身で忘れないようにして
実行するといったところが
僕の心がけですかね
考え方というか
だからそれがビッグマンスと
言われるゆえんです
でもご自身の中で信念があって
それを実践されていると
そうですね
だからさっきの本田圭介さんとは
すごい
の考え方とかを聞くと
すごい恐れ多いですけど
僕と本田圭介さんの考え方
すごい近しいなって思います
世界を戦う人同士の考え方
といったところですね
そうですね
ありがとうございます
かなり
はがさんの人となりであるとか
これまでの
ヒストリーっていうのを
伺ってこれたなと思うんですが
最後の質問にしたいなと思います
今回のサテライト
10月17日から開催されるわけですが
そこに注目いただく方とか
応援してくださる方へのメッセージ
あとはこのポッドキャスト
聞いてくださるリスナーの方への
メッセージというのも
最後に一言お願いします
はい
まずは改めまして
ちょっとギリギリ
セーフといった感じで
サテライト選手で日本代表として
出ることができました
僕個人だけじゃなくて
15人の選手
皆さん本当に素晴らしい選手ばっかりですし
海外の選手もですね
特にやっぱり
半狂と言われている
オーストラリア、ベルビー、アメリカ
といったところもですね
本当に素晴らしい選手が集まっている
本当に面白い競技だと思います
バックヤードウルトラは
さらにですね
もしもバックヤードウルトラに
少しでも興味があったらですね
まずはサテライト大会であったり
あとはうちの10月、11月の中で
今年もラストサムライスタンディング
まだ日程アップされてないですけど
おそらくラストドラゴン熊本の方も
開催されると思いますので
まずはウェブとか
もしくは開催場所が近いのであったら
そういったところにもちょっと
顔を出してみるといったところで
まずは大会の雰囲気とか印象とか
探っていただくというところからでも
よろしいので
そういったところからですね
バックヤードウルトラの競技自体と
そこに関わる人たちとのですね
生み出す感動であったり
そういった楽しさであったり
そういったところをですね
なるべく選手側の我々もですね
皆さんに大会を使って
たくさん共有していきたいなと思っていますので
何か少しでもバックヤードウルトラって
興味が出てきたなといった方が
いらっしゃいましたら
本当にお気軽にお足を運んでいただく
もしくはSNSとかで
大会の内容を見ていただければと思いますので
ぜひバックヤードウルトラ
今後も共有を持っていただければと思います
よろしくお願いします
ありがとうございます
宣伝部長のようなコメントありがとうございます
宣伝部長です
実は
一つだけ質問忘れてたんですけど
さくらばさんからですね
先ほど預かった質問がありまして
今回のクリントイーストウッドを経験をして
何か価値観であるとか
考え方で何か変化がもしあれば
聞いてみたいということだったんですが
どうでしょう
価値観は変わってないですね
どっちかというと
自分のバックヤードに向けた情熱とか
考え方とか
トレーニングの戦略とか
そういったものが
限りじく今回のクリントイーストウッドで
正解に近いところが出たのではないか
自信しかならなかったなっていうのが
正直ありましたので
価値観というよりは
そうですね
結構よく使われがちな
とあるメダリストのセリフなんですけど
自信から確信になったっていうことが
とあるピンダリストが
使ってたかと思うんですけど
まさしくそれに近い状態になったかもしれないですね
クリントイーストウッド側は
自信を得たということですね
最初は根拠のない自信を持って
根拠のある自信に変わって
それが自信に変わったのが今って感じ
ありがとうございます
力強い言葉で締めくくっていただけたかなと思います
改めて歯が守る選手に来ていただきました
今日はありがとうございました
ありがとうございました
01:58:44

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