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#101 矛盾は解消すべきものなのか?:AI時代の「最適化」では辿り着けない、利休の創造の原点|伊藤穰一 × 樂直入
2026-09-01 21:00

#101 矛盾は解消すべきものなのか?:AI時代の「最適化」では辿り着けない、利休の創造の原点|伊藤穰一 × 樂直入

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今週も、先週に引き続き陶芸家の樂直入さんをお迎えしています。



「千利休」と聞くと、俗世から離れ、静かに茶を点てる人を想像するかもしれません。ところが利休は、内々のことは利休に聞け、と言われるほど権力の中枢にいた人でした。


その利休が初代・長次郎に焼かせたのは、文様も装飾もない、ただ真っ黒な茶碗。


「花は野にあるように」と説きながら、利権のど真ん中にいる。この矛盾を、樂さんはなぜ解消すべきものだと考えないのか。


最適化とイノベーションがすべてを覆う時代にこそ響く、「自己矛盾」の回になります。



【編集ノート】

難しい単語や固有名詞などはこちらで解説しています。

https://joi.ito.com/jp/archives/2026/09/01/006152.html



感想

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サマリー

本エピソードでは、伊藤穰一氏と陶芸家の樂直入氏が、AI時代の「最適化」では到達できない創造性の原点について議論しています。特に、千利休が抱えていた権力の中枢にいながら「花は野にあるように」と説いたという矛盾に焦点を当て、その矛盾こそが創造性の源泉であるという樂氏の考えが展開されます。60年代後半から70年代にかけてのアバンギャルドな時代背景や、ヒッピー運動、学生運動といった変革のエネルギーに触れつつ、アートや茶碗作りにおける「ノー」という力、そして自己矛盾が創造性を生むという見解が示されます。さらに、西洋的な「強いものが勝つ」という進化論に対し、日本文化における「含み込む」文化や、田舎から見た「変わらないこと」の価値観が、現代社会における新たな視点として提示されます。AIやイノベーションが重視される現代において、自己矛盾や非最適化の中にこそ、真の創造性や豊かさが見出される可能性が語られています。

変革の時代のエネルギーとアートの力
千葉高大の学長、Joyさんごと伊藤穰一が、最も関心を寄せる分野に迫るJoy Ito'sPodcast。
今週も先週に引き続き、陶芸家の楽直入さんとのトークをお届けします。
今日は、体制への反発、そして変革について話をしているみたい。
Joy Ito's Podcast
直入さんの人生って言っていいのかな?
今、私は今年官歴で、僕の先輩とか師匠たちは、ティモシー・リアリーとかみんな結構ヒッピーが多くて、
僕はどっちかっていうと、アメリカの60年代、70年代の人たちが先生たちで育って、
そして直入さんがローマに行ってた時代って、60年代後半、70年代ですね。
僕がちょうどアメリカで最初に気づく時代っていうのは、
うちの父親の同期がみんなベトナム戦争に行ってた時代なので、
あの時代の人たちってやっぱりすごく特殊だと思うんですよね。
体制に対して反撃して、そして学生運動とかいろいろあって、
例えば坂本隆一さんもちょっとまだ若いんですけど、その時代だったので、
やっぱりその時代の美学の人たちに僕はいつもついてきて、
だんだんちょっと堅苦しい時代からちょっと激しい時代になって、
またちょっと時代が変なふうに変わろうとしているような気がしていて、
そして僕もお茶庵とか見ても、どうしても戦国時代とか村町時代のほうが激しいので、
パワーがあって、そして離休も含めて変革が起きる時期と、
ピースフルな江戸時代よりも好きなんですよね。
僕が軸乳さんの育ってきた環境と今の話を聞いていると、
変革の時代のエネルギーを感じるんですけれども、
最初はお茶はただ日本の勉強のために入ったんですけれども、
だんだんこの軸乳さんのほうに近づいてくると、
お茶の周辺に変革を起こそうとしているエネルギーの人たちがいるんだけれども、
今後どうなるんだろうなというふうにちょっと考えていて、
どういう質問なのかわからないけれども、
軸乳さんのどうやって今になったかという話と、
あと張二郎と真逆だと思っていたら、
実は同じふうに変革が起こそうとしているエネルギーなんじゃないかなというのもちょっと感じて、
少しその辺の話できますか。
僕の時代というのはやっぱり、
1960年代の終わりから70年代の初期に大学、
だからその頃にヒッピーという話もあったし、
あの頃は面白いですよね。
面白いですよね。
ヒッピーのビートニックの運動もあったし、
僕なんかギンズバークなんてすごく好きだったし、
ギンズバークの刺繍をポケットに入れて持ち歩いてたぐらいな話で、
あるいは東京にいましたから、
東十郎さんが野外で演劇をしていたし、
さまざまな領域で新しいことが生まれて、
非常にアバンギャルドな世界なんですよね。
そしてそこに変革ができると信じていた。
学生運動もその一つですよね。
でもその変革のあり方というのがやっぱり急激に世の中が変わるというか、
急激に人の意識が変わるということではないんじゃないかなって思い始めますよね。
それはやっぱり地道なこと柄の積み重ねの中で、
世の中が変わっていかざるを得ない。
そこに自分たちの希望をつなげたいし、
生き様みたいなものをそこに刻み込みたい。
アートはやっぱりそういうことだと思うんですよね。
一つの一枚の絵がなかなか世界を変えることはできないけれども、
でもそこにやっぱり世界の今のあり方みたいなものを批判してというのかな。
やっぱりそうじゃねえよねって。
やっぱりアートは結局ノーっていうことですよ。
そうじゃないよって。
ノーだよっていうその力がね、やっぱりすべて。
だから長所野の茶碗にも義急の茶にもそれがあるはずなんですよ。
千利休の矛盾と茶碗に込められた抵抗
実際にあるんですよ。
真っ黒い茶碗でね。美しくもないわけでしょ。
形も別に面白くもないし、造形的に素晴らしい造形力がそこに見えますね。
というわけでもないし。
だからそういう何もないような美さえも飛び越えていく。
美もそこにはもうありませんよ。
あなたは美しいものを見たいかもしれませんけど、そんなものはここにはありませんよ。
っていうふうに言って突きつけてるわけですよ。
秀吉にまずは突きつける。力急は。
それはものすごいことですよ。
実際に秀吉が長所野の真っ黒い茶碗を、墓茶碗でも同じだけども、
どう思ったのかっていうことはわからないですよね。
そういうことは書かれてないし、秀吉は別に語ってるわけでは。
でも考えたら、力急が建てた狭い狭い畳2枚の2畳の暗い暗い空間に長所野の茶が置かれたときに、秀吉は何を思ったんだろう。
最高の権力者ですよね。
その権力者が自分の胃のままに世の中の体制を作ろうとしている時代に、力急の茶だけがそこから漏れていく。
どうしても掴むことができない。
それは非常に静かな抵抗ではあるけれども、非常に大きな強い抵抗でもある。
アグレッシブですよね。
だからそういうふうに見たときに、長所野の茶碗も茶の湯も、
静かでいいですね、鳥の声が聞こえますねなんていう話ではないんですよ。
もっと激しいものですよ。
世の中に突きつける刃、ドスみたいなものですよね。
ドスをブスッと突きつける。
そういう力がやっぱりアートである。
芸能でもある。
茶碗でもあるというふうに考える。
そこに我々の生きている意味というのかな。
自分がこうして茶碗作りをしている。
こんなところでボーボーボーボー、一応たぶん燃やしている。
誰も知らない。
こんなところで何をしているかも世の中の人たちは知らない。
知らないけれども、自分はここで世の中を見ている。
ここから世の中を見ている。
世の中に脳を突きつける茶碗。
自己矛盾は創造性の原点か
しかし、その茶の湯を生み出した理休という人物もまた、ある大きな矛盾を抱えていました。
理休という言葉も、利を休むと言っているけれども、
一番利権のど真ん中でグサッとやっているじゃないですか。
それで、アーティストも誰も見ないところで静かにやっているイメージもあるけれども、
でもやっぱり最終的に自分のメッセージを、
アーティストにもよりますよね。
誰も見なくてもいいというアーティストも。
でもやっぱり本当に社会を変えたいという気持ちを持っているアーティストは、
ど真ん中に送り込んで、ギュッて回すというのも一つの。
だから理休も利権の真ん中でいたから、
長城があんだけ激しいインパクトになったわけですよね。
そうなんですよね。
実機乳酸個人なのか、アート全体なのかわからないですけれども、
結局世の中にインパクトがあるということはどこまで重要で、
その時に聞いてくれる人たちがいてのアートなのか、
それはなくてもいいのかどうかって何かあります?
聞いてくれる人がなくてもいいともいうことはないですよね。
だのあえて聞いてくれる人を探し求めて、
それを大喜利に考えるかというとそうでもないでしょっていう話なんですよね。
だから理休さんの考えやったことっていうのもね、
いろいろ試行錯誤するわけですよ。
茶の湯の理想っていうのがありますよね。
それはやっぱり禅の根本思想みたいなものとか仏教の根本思想ですね。
そういうものが目指している。
一切無一物みたいなものですよね。
僕は高校生ぐらいの時に理休さんの言葉にすごい感動した覚えがあって、
本当に理休さんがそれを言ったのかどうかわかりませんよ。
だけどそういうふうに言ったって伝えられている言葉の中に、
花は野にあるようにっていう。
高校生が飛びつきそうなのは言葉でしょ。
本当に穢れのない言葉ですよ。
花は野にあるようにって。
茶室に行ける花のことを言ってるんだけども、
でも考えると一旦その野に咲いている一輪の花を切れば、
それはもう野にある花ではなくなっている。
それに自分が行けたということは、
それは自分の意識がそこに加わっているという話になってくるわけですよ。
だから花は野にあるようにっていう、
ようにっていう言葉をどういうふうに解釈するのか。
じゃあ、野にある風情を真似てそのように行けなさいって言ってるのか、
リアリズムで、写実過ぎで、野にあるようなものを写実して行けなさいって言ってるのか、
そういう、もうちょっとぼやかせば、
そういう気持ちが大切にして行けなさいって言ってるのか、
よりという言葉をどういう風に解釈するかっていうのは、
ものすごく哲学的な話になるわけですよね。
もしもそういうことを利休が言ったならば、
あなたは何で権力のど真ん中にいるの?って。
あなた自身が矛盾しないの?
口では花は野にあるようにって言いながら、
あなたは権力のど真ん中にいるじゃないか。
しかもその上昇思考の中にずっと生きてきたわけでしょ。
政治とかそういう表舞台のことは大和大名言に聞きなさい。
でも内々のことは利休に聞きなさいっていう風に言わしめてるぐらいに、
権力の中心にいるわけですよ。
矛盾しないの?って。
あなたはその場所を捨てなさいよ。
あなたはもうそんなところから去りなさいよって、
僕なんかそう思うわけですよ。
だから茶の湯の世界っていうのは、
ある意味でその本質的な矛盾を背負ってる。
そうですよね。だから最初からそうなんですよね。
利休からそうなんですよね。
矛盾を背負ってるわけですよ。
だけどその矛盾っていうものを取り寄むことができないわけですよね。
常に人間が生きてるってことは。
しかもその矛盾があるからこそ、
触れがこっちへ寄っていく。
チミトロの醜い権力思考の中の世界があることによって、
そこに自分の目が置いていることにおいて、
野の花が非常に美しく見えてくる。
その美しさの本質がより深く見えてくるっていうこともあって、
そういうパラレルな世界なんだなっていう。
それを全部きれいになっちゃったら、
ヒッピーさんというのも自給自足になりながら生活していて、
そんなことはあり得ないけど、
全部世の中の汚れを拭い去ってしまったらどうなっちゃうの?
そんなことあり得るの?っていう話と同じようなことで、
やっぱり自己矛盾っていうんですかね。
自己矛盾はある意味で創造性の原点じゃないかなというふうに思いますね。
進化論と日本文化の「含み込む」力
それも地球人さんが書いていた和美の定義にもつながりますよね。
あとほっとくと人間って多分権力が欲しくて、
リソースも欲しくて人に褒められたいっていうのは、
自然の物理学みたいな流れとしてあって、
ただそれを振り切っちゃうと美しくないっていう美学を作ると、
自己矛盾も含めてどっちかっていうと面白い方って言うと変だけども、
進化論でオープンエンディングというのがあって、
この進化論の新しい定義なんだけども、
西洋的な単純な資本主義の進化の定義っていうのは、
強いものが勝つっていうイメージがある。
ただやっぱり最近はすごく面白いのが、
今自然を見ていると強いものがコンピートして勝つのは、
これは機能しないものを整理するのには必要なんだけれども、
ただゴールは何かっていうと、
もっと面白くなるのがゴールなんじゃないかなって言われてるんだよね。
だから生物ってどんどん面白くなっていて、
面白くて複雑なものの方がロバストだと。
単純にただひたすら強くなると、
ガン細胞みたいに暴走しちゃうんで、
体の組織も肝臓っていうのはひたすら大きくなろうとしてなくて、
適当な大きさでみんなとうまくやるシステムっていうのが、
西洋ってやっぱりちょっとエボルーションを単純化しすぎちゃっていて、
僕はだから体の例えば臓器の大きさっていうのは、
ちょうどいい大きさなんだよね。
小さすぎなくて大きすぎなくて。
直乳さんのこのワビの説明の時も、
なんかそういうのもあるかなと。
ちょうどいい大きさでちゃんと生きていて、
そういう人間の頭って結構単純だから、
ロジカルに考えると何でも最適化にしちゃうとするので、
説明可能な最適化になっちゃうと、
ちょうどいいっていうのがなかなかできないと思うんですよね。
さっき直乳さんが言ったこの軸矛盾っていうのも、
脳ではエクスプレイできないけども、
結果的にバランスができるような構造っていうのは、
日本の哲学にあるけども、
やっぱり西洋は全部言葉で説明しようとするから、
どうしてもロジカルになって、
複雑なフィードバックができないようになっちゃうんじゃないかなと思うんですよね。
自己矛盾が創造の原点であると語る洛直乳さん。
ここから、山合いに身を置きながら茶碗を作り続ける
直乳さん自身への問いへと繋がります。
組織化すると何かフラットになっちゃうし、
理球が理研の真ん中にいて、でも自然に合うようなものと、
この中央集権と非中央集権なのか、
組織的なものと非組織的なもののバランスと矛盾って重要な気がするんだけども、
今の時代って、どういう美学で何をすると元気になるのかにも繋がると思うんですよね。
直乳さんは山に、今クタにいて、ものを作ってますよね。
そうです。
自分のためにやってるのか、表現をして世の中変えようとしてるのか、
直乳さんが理球だとすると、
今どういうフェーズでどこに向かっているのかっていう。
僕は理球だ。
要するに世界が変わっていって、同時に自分が変わっていく。
世界にコミットしながら自分が変わっていくわけですよね。
僕が田舎にいるからって世界と慣れてるわけではなくて、
別なものが見えてくるんですよね。
面白いのはあると思うんですよね。
現代の価値観みたいな、進歩っていう価値観がありますよね。
人類はここまで進歩してきた。
AIが物事を考えるだろう。
人体はここまで分析されてきた。
そういう科学の進歩もあるし、
経済的な見上がりの経済成長っていうのもあるし、
イノベーションって言葉もあるし、
そういう進歩だとか発展だとかイノベーションだとか、
見上がりの何々云々っていうような、
そういう価値観っていうのが本当にそうなのかって、
思ってしまうわけですよ、田舎にいると。
それって都市の都会の価値観じゃないの?って。
人間が集まって、
そこで何らかの経済活動がものすごく活発に行われていて、
その都会の価値観じゃないの?って。
田舎の価値観っていうのは別な形で、
それは要するに逆のものですよ。
進歩じゃなくて変わらないことなんですよね。
変わらないことが価値観。
去年の春が同じように今年の春もそのようにあってほしい。
っていうのが田舎の人たちの主にですよね。
多少の便利さはあってほしいなって思いますよ、それは。
道路がもうちょっと広がってほしいなって思って。
だんだん人口が減ってきてるし、
もうちょっと人が呼べるようなことがあってもいいなとか、
思ってられるんだと思うけれども。
でも根本は去年の春と同じように今年の春もあってほしい。
でも都会はそうじゃない。
だから常に進歩があれば子供もあるっていうか、
その反対側にね、変わらないこと。
変わるっていうことがあれば変わらないことがある。
2つのバランスが取れてないですよね。
どこからそんなことになっちゃったんだろうなっていう話。
いいですよね。
だから西洋の語理主義だとか資本主義だとか、
そういうところが余計にそれを白車がける。
面白いなって思うのは、
日本はそういう意味でバランスをどう取ってきたか。
西洋はやっぱり言葉の世界であり論理の世界であって、
矛盾した対立項を擦り合わせて、
そして時には否定をして、時には使用する。
アウフェーベンっていうのかな。
使用して次の新しい例を作っていく。
そうしてこういうふうに繋がってきた。
日本はどういうかというと、僕は最近思うんだけど、
日本は否定しないんだ。
否定して、あるいは対立的な概念とかそういったものを否定しないで、
全部含み込んでしまう文化なんだっていう。
そこがね、ものすごい違いじゃないか。
もしも今後世界が一つの救いとして見出すことができるとすれば、
否定して乗り越えて新しいものを突き抜き上げるっていうよりも、
含み込む文化っていうのを知らなきゃいけない。
そこには日本の文化の在り方、茶の湯も含めて、
やっぱり世界に何かの発言ができるし、貢献ができるかもしれない。
僕はそんな感じで思いますよ。
現代における「新しさ」の限界と創造性の未来
特に最近そう思うのは田舎に住んでるから。
田舎から見る世界観っていうのがやっぱり見えてくる。
都会にいれば見えませんよ。
どんどん進歩しながら送りを取らなきゃって感じですよ。
昨日よりも新しいものを作らなきゃ。
アートの世界だってそうですよね。
ひたすら新しいものを編み出そうとしている。
作り出そうとしている。
それがアートの世界ではもう本当に限界に来ていて、無理ですよね。
新しいと思ったら、これはさ、
どっかのコンピューター上にもう既に成立していることであったりする。
あるいはもう他人の作ったものを適当に組み合わせて、
さも新しく作り合わせているみたいなことであったり。
本当の新しさっていうものも今逆に消えているんじゃないかなって。
そんな感じがしますね。
ジョイさんと陶芸家、楽次紀乳さんによるトークはまだまだ続きます。
お楽しみに!
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