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#100 一子相伝とは「教えない」ことだった:秘伝書も釉薬の調合も残さない、樂家450年のアルゴリズム|伊藤穰一 × 樂直入
2026-08-25 20:29

#100 一子相伝とは「教えない」ことだった:秘伝書も釉薬の調合も残さない、樂家450年のアルゴリズム|伊藤穰一 × 樂直入

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第100回となる今週のゲストは、約450年続く樂焼の窯元・樂家の十五代、樂直入さん。


「一子相伝」と聞くと、代々受け継がれた秘伝の書や、手取り足取り仕込まれる修行を想像するかもしれません。ところが樂家の一子相伝は、「一切教えない」というルールでした。


教えない。書き残さない。この一見まったく非合理なシステムが、なぜ450年ものあいだ機能してきたのか。




マニュアル化とデータがすべてを覆う時代にこそ響く、「身体的思考」の回になります。




【編集ノート】

難しい単語や固有名詞などはこちらで解説しています。

https://joi.ito.com/jp/archives/2026/08/25/006151.html



感想

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サマリー

このエピソードでは、450年以上続く樂焼の窯元である樂家の十五代、樂直入氏が、伊藤穰一氏との対談で「一子相伝」の真髄を語ります。樂家では、秘伝書を残さず、次世代に技術を「一切教えない」という独自の伝統を守っています。これは、釉薬の調合なども含め、すべてを次世代が自ら発見し、創造することを促すためです。この「教えない」というシステムは、個人の創造性や身体的な思考を重視し、時代と共に変化し続ける樂焼の本質を保つためのアルゴリズムとして機能してきました。 樂氏は、先祖の茶碗に触れることで多くを学び、その茶碗に込められた作り手の精神や時代の感性を読み解くことの重要性を説きます。また、樂焼は分業制を取らず、個々の作家性が強く反映される「作家制」であると述べ、その哲学的な世界観は教えられるものではなく、個人の造形性によって表現されると語ります。さらに、樂家住宅窯場で行われる「手始め式」という儀式を通して、言葉や文字では伝えきれない身体的な学びがいかに重要であるかが語られます。この儀式は、粘土をこねることから茶碗を作るまでの一連のプロセスを、次世代が自らの身体で体験し、樂焼の本質を理解するための重要な機会となっています。 窯の中はカオスのようであり、予測不可能な自然の力に、自らの魂を込めた茶碗、すなわち分身を託すという行為は、人間の知を超えた宇宙的な営みであると表現されます。必死に経験を積み重ね、解明できないものも含めて全てを託すという、樂焼に込められた深い哲学と精神性が語られる回となりました。

樂家における「一子相伝」の独自性
Joi Ito's Podcast
千葉高大の学長、Joiさんこと伊藤穰一が、最も関心を寄せる分野に迫るJoi Ito'sPodcast。
今週のお客様は、楽直入さん。楽家15代目として、約450年の歴史を持つ楽屋記を受け継ぐ陶芸家で、
千利休の茶の湯から生まれた赤茶碗と黒茶碗の伝統を、今に伝えています。
私のポッドキャストで、いろんな僕が尊敬する人を紹介してるんですけども、
たぶん楽さんのことも皆さんご存知だと思うんですけども、
最初ちょっと楽家の話と、楽の歴史ももちろんですけども、
他の家元とかそういうリニエージと違うのが、
代々教えないものもあったり、普通だと結構代々細かく教えて、後々に教えていくんですけども、
楽さんたちは代々、全部釉薬から気づき直さなきゃいけないっていう話を聞いてるんですけども、
それはそうなのかというのと、それはなぜかというと、普通と違うんですよね。
いつの頃からかは分かりませんけどね。楽家では教えないということがとても重要。
次を継ぐ、代を継ぐものに教えない。
同時に釉薬の調合とかそういったものを残さないということ。
だから一切残ってないんですよ。
ただね、世の中にね、時々家から出たような調合が本屋に出ることがあって、
それはね、例えば大名家とか、貴州徳川家とかね、いろいろありますよ。
大名家がお庭焼きをするんですね。そういう時に渡したものがたまーに、本当にもう稀ですけど。
でもうちの家の中ではそういうものを一切残さない。
それはね、やっぱりなんていうのかな。
一つは、楽者湾というのは基本的に黒と赤の世界ですよね。
そういう非常に限られた世界の中でこれを教えちゃうと、結局はその踏襲になっちゃう。
結局そこに新しいファクターがどんどんそがれていく。逆にね。
これがいいんですよっていう一つの見本ができちゃうと、やっぱりそれは風化していくわけですよ、時代の中で。
常にそれはもう新しい力を注ぎ込まなきゃいけない。
それにはやっぱり創作っていうことが必要になってくるし、自分で考える、自分で感じるっていうことがとても必要になってくる。
だからまあ本当に教えないんですよ。
それでね、もう一つ面白いのはね、今創作って言ったけれども、楽焼きっていうのはおそらく、
現代の言葉で言うと作家制っていうのかしら。
職人さんによるその分業を一切しませんでしょ。
教焼きっていうのはその反対に分業をするわけですよ。
ろくろを引く人、絵付けをする人、分業をしていく。
人生でもそうだし。
だからそういう分業をしない中で、個人の発路っていうのかな、創造性っていうものがものすごく大事です。
これ他の日本の美術とか古典美術で、そういうパターンって他にあるんですか?
ないなりしょうなりそういうところは持ってないと成り立たない。
だけれども特に楽焼き、楽家っていうのはそういうところですね。
結局ね、装飾的な世界ではないわけでしょ。
要するに真っ黒い茶碗で造形的にオリベ茶碗のように歪んだりしてデフォルメされて非常に形が面白いとか。
ニーゼルのように非常にシャープに整えられた美しさがあるとか。
あるいは絵付けがあって、そういったものが全部過ぎ落とされている。
そこに本質があるっていうふうに言ってるわけですよね。
長寿郎の時から。
それは非常に哲学的な試作的な世界観をそこに持っている。
それは教えられるもんではないですよね。
教えられるもんではないし、長寿郎の形を素晴らしいからって言って真似るわけにはいかない。
そこにやっぱり個人の造形性っていうのがあって、
個人は必ず時代の中で生かされているので、
その時代の感性なり考え方なり、そういったものを吸収しながら、
やっぱり自分の中でそれを試作をして、そして形を生み出していく。
そういう意味では本当に現代の個人作家がしていることと同じ。
突然また話題の方に行っちゃうんだけど、本の最初に話題は人間性を正直に感じさせるとか出す。
だから人間性を本当に出すっていうことは、その人が出なきゃいけないので、
そうすると言われた通りにやるっていうよりも自分を表現しなきゃいけないので、
そのオネスティはやっぱり自分で見つけないと本物じゃないっていうのもつながるんじゃないですかね。
どうなんですかね。
やっぱり個人の世界が非常に強く出ていく。
いい意味でも悪い意味でも。
だから非常に個人的な、小説で言えば詩小説みたいなね。
そういうようなところに落ち込む可能性もあるわけですよ。
ちょっとした茶碗の時代がこっちに下がってくると、
ちょっとしたヘライ使いなんかに自分の心情を乗せ込んだりしながら。
それを別に悪いとは言ってるわけではないんですけれども、
長寿のしたことはそういうことではないので。
そうですよね。
そういうことを全部そぎ起こしていった世界なので、
いろいろ時代の中で変化しながら、
そこに自分自身がその時代の中に生きた、
その心情みたいなものがそこに語られてくるっていう、そういう世界ですね。
おまけに手びねりでしょ。
ろくろを使わないっていう。
そういう性質が余計にそういうふうにさせますね。
冒頭でもジョイさんが話していたように、
茶碗から読み解く作り手の精神と時代
落家の一種相伝は教えないことにあるようです。
しかし、先祖が残した茶碗そのものは数多く伝わっていました。
ジキニュさんはこれらの茶碗に触れることで多くを学んだといいます。
僕も本当にお茶始めたばかりの時に、
先祖奥さんがたまに落茶碗出して、
これ何台だと思って聞いているのを聞いて、
分かるわけないなと思ってたんですけども、
だんだん僕も落茶碗と作った人の話を聞いていると、
これって分かるようになるんだろうなと思いました。
やっぱり本当にその人の性格だとか、
あと今おっしゃったように、
またどこにそれが表現されているかっていうのも、
その台によって違いますよね。
表面だったり、この切り方だったり。
だからそういう意味で本当に以前、
前回の美術館の展覧会で、
ラックファミリーの女性も含めてありましたよね。
あれもすごく面白かったんですけども、
このラックファミリーのストーリーっていうのって、
あんまり語ってないですよね。
なんとなく僕それとお茶碗を合わせたら、
またすごく僕には腑に落ちたって言ったら変ですけども、
僕も最近お茶碗を合わせたりする時も、
僕は人と合うのが好きなので、
このお茶碗ってちょっとひねくれてるけど、
こういうとこかっこいいなとか、
そしてその人を組み合わせるような感じで、
道具を組み合わせる感覚を覚えてるんですけども、
やっぱりラックお茶碗も作った人の世界観とか、
その時代を考えてみると、
またすごく面白いような気がしていて。
確実にその時代感がそこに出てくるし、
その時代感は客観的にその時代はこういう時代ですっていう、
そういうことではなくて、
その人が感じたその時代って言うんですかね。
その人が生きたその時代っていうのが感じられる。
だからそういう意味では手びねりっていうこともあるし、
同時にそういう世界観みたいなものが身近に感じられるから、
たぶん使う人にとっては非常に身近な、
それこそあなたと喋ってる、
あなたと手を握っているっていう、
そういうような感覚に。
あと藤子さんが高越にお世話になってた話と、
創入とか農耕との関係とか、
その時代のラック家の背景とどういう人と付き合ってて、
しかも付き合ってた時のお互いの年がどのぐらいだったかっていうストーリーもすごく面白くて、
そして今回もジキンさんのいろんなストーリーを読んで、
ヨーロッパ行った話だとか、
そのお父さんの関係とか、
それもすごく作品に現れていて、
もちろんそれがなくても感動するものは感動すると思うんだけれども、
僕は人が好きなので、
そういう話を聞いてまた見ると、
すごくコミュニケーションが、
動物とのコミュニケーションが全然変わってくるので、
すごく楽しいんですけれども。
それは我々は生活と制作っていうか仕事場が同じですからね。
小さい子供の頃から親の背中を見て育っているわけですよ。
親が何を考えているか、自分に対してどういう期待を持っているかとか、
そういったことも小さい頃からひしひしと感じる。
世の中の人も、
例えば小学生の頃の遊びに行った友人のお母さんが僕に声をかけた時の言葉とか、
あなたは15代を継ぐのね。
先に仕事が決まってていいわね。
逆にかわいそうねという人もいるし、
その辺からなんでかわいそうなの、なんでいいんだろうという疑問を持つことから、
それが非常に重になったり抵抗になったりして、
ずっと過ごしてくるわけですよね。
だから親の背中を見て同時に教えないということも含めて、
親の後を追わないという、これが重要なことですよね。
でもそれは重要なことというふうに外から重要性を持ち込んでいるわけではなくて、
自然にそうなっていくわけですよ。
だから父がお客さんだと話している時に、
楽山のところはこういう伝統的な家なので、
先ほどのお話のように何か特殊な教育というのをされるんですか。
農のお家だと6歳の6月6日から始める。
そういうお家は型を学ぶ。
でも我々はそういうことではなくて、
一子送伝ということはどういうことなんですか、
どういう教育をなさるんですかってお客様が聞くと、
父は即座に一子送伝というのは先ほどの教えないことですというわけです。
そしたらですね、僕の子供の頃ですね、
このお客様が僕と親しいと、
何々じゃないじゃん、お父さんこんなこと言っているけど、
本当かい、教えてもらっているだろうって言われるわけですよ。
初めて父がそんなことを客前で言っているということを知るわけですよね。
そうするとそれがだんだん成長していって、
やがて自分が何とか継ぐという決心ができた時ぐらいから、
絶対に聞くものかと思われます。
それすごい大事なことだなと思うんですよね。
分からないからすぐお父さんに聞いちゃうとか、
誰かに聞いちゃうとか、
絶対に父には似たくないし、父には聞かないという、
そういう自立というのか、
反抗精神を交えた自立が芽生えてくる。
それすごい大事なことだなと思うんです。
「手始め式」に見る身体的な学びと儀式の重要性
実は今回、ジョイさんとらくじきにゅうさんが収録を行ったのは、
京都五所の西に位置する楽家住宅窯場。
土壁と土天井に囲まれ、
周囲には締め縄が張られた建物で、
楽家で最も神聖な場所とされています。
国の登録有形文化財にも指定された有所ある空間なんです。
東大にこの間写真見せてもらった。
この部屋すごく重要な部屋なんですよね。
そうです。
ジクニーさんと東大がここで弟さんと座って、
自分がどんだけここの部屋に入ると緊張するかということを
いろいろ語ってたんですけども、
教えないけれども、この部屋とこの儀式とか、
エネルギーというのはずっと感じてきてるわけですよね。
もう小さい時から。
そうです。
空間だとか、日常は普通の生活、
時々その儀式みたいなのを年間にね。
一番重要なのが手始め式という儀式があって、
この台ですよ。
この台はこっから持ち出して、
粘土をこねたりする台で、
それから手びねりをする台なんですよ。
ここの上でやるんですね。
これすごいでしょ。
これ裏やるとね。
スタジバンって書いてあるでしょ。
消えちゃってるかな。
開栄7年って書いてある。開栄7年。
開栄7年っていつなんですか?
開栄7年はね、1854年ぐらい。
江戸時代のちょうどね、
開栄6年に初めて裏刈りね、ペリーがね。
あー、そうなんですね。
そこからずっと。
そこからずっと使ってる粘土盤で、
ここでスタジオを作る。
これを手始め式というときは、
座席にあげて、
年徳っていうのかな、
恵方の方角に向けて、
当主が赤ジャワンと黒ジャワンの手びねりをする。
普段は何も言わないんですけどね。
その時ばかりはね、
そこに座ってなさい!と言われますよ。
寒いですよ、朝もね。
座って、そして父がやってるのを見てる。
父はそれで赤一つ、黒一つの下地を上げて、
次はお前やってみなさいって言われて、
本人はね、出て行っちゃうんですよね。
何にも教えてくれないし、
ぐちゃぐちゃやるんですけど、
小学生ではとてもじゃないけど、
茶碗の形にもならなくて、
15分か20分くらい下がり、戻ってきて、
その頃にはもうぐちゃぐちゃになってた。
もういい、それでいいから終わろうとか言って、
終わるわけですよ。
でもそれでも中学生ぐらいになったらね、
周りの人にも茶碗の形が覚えられる。
その時も一切こういう風に手を添えなさいとか言うことも
一切言わない。
出て行っちゃうんですけど。
後でね、自分が仕事をするようになって、
分かったことなんだけど、
儀式ってこういうことなんだなと思う。
言葉であるいは文字で教えないことを
体で知るわけですよね。
だから日本の文化っていうのは、
本当に身体的な思考っていうのかな。
体が文字やそういう思考ですね、脳がする。
そういったことを体がその思考している。
体で覚えろっていうのはそういうことですよね。
で、そういうことを、
ラクジャワンで一番大事なことはこれだよっていう
ということを教えてる。
儀式がね。
なぜ手びねりかっていうこともそこにあるわけだし、
手びねりから生まれてくる造形がどういうものなのか、
ろくろと何が違うということもそこで感じることができるし、
そこにラクジャワンの一番根っこがある
っていうことを教えている。
それが儀式の非常に重要性です。
窯の中への祈りと宇宙への委ね
その儀式は代々やってる儀式なんですか?
そう、代々やってる。
ずーっとやってるよ。
この開演7年間、思った向こうからやってますよ。
これカマですけどね。
火が入ってないときは何これって思うけれども、
火が入るともう本当にドーンと火柱が天井まで走る。
だから天井は土ですね。
この間、外国のお客さんと一緒に見せてもらったときに、
この儀式の火の神様みたいな感じですごい儀式があって、
一緒にいた人もやっぱりこう一個一個のお茶碗に入っていく
このパワーっていうのは、
ビデオとかたまに出てますけども、
あのエネルギーがあのお茶碗に入っていくのをやっぱりすごく感じて、
一旦経験したらもう二度と同じ気持ちで
お茶碗に向き合えないっていうのもあって、
ただ一方普通にその楽茶碗と接してる人は、
それは体験してないし、
だけど日本も全部和味の話つながっていくと思うんだけども、
全部言っちゃうとつまらないので、
それが起きててそのエネルギーをでもどうにか感じるっていうのが
たぶんもしかすると本当のテーマだと思うんですけども、
説明を聞いたりビデオで見るのと、
実際にここで皆さんが動いているのを見るので、
もう全然、あとすごくこう野生的って言っちゃいけないんだけども、
和味の話も出てきたんですけど、
なんかすごい自然との接続を感じたんで、
最終的には自然というものは、
それは現代の物理学だとか科学とかね、
そういうものでかなりのものが解明されてきているけれども、
でも日常的に我々が生きているってことは、
自然というのは予測が不可能な領域にある、
自分たちの意識、思考の圏外にあるわけですよね。
そういうものに、
一つの自分の精魂込めた茶碗を託すっていう、
お脳に託す。
そこはもう偶然性がさまざまな作用を起こし、
かまの中はカオスのようであるし、
そういった人知の及ばないところに、
一つの自分の茶碗、
いわば自分の分身ですよね。
分身を託すっていう、
そういう気持ち、
だからそこは儀式みたいだっておっしゃったけど、
それは確かにそうかもしれないんですよ。
宗教ではないけれども、
人間の地を超えたところっていうのは、
神かもしれないし、仏かもしれないし、
そういった宇宙ですよね。
宇宙そのものですよね。
そういったものに託す。
必死になって経験値を積むわけですよ。
これがこうなったのか、こういうせいなのか、
でも解明できないものがある。
でも必死で経験値を積む。
その積んだ上で全てを託すっていう、
そういう感じですかね。
ジョイさんと陶芸家、楽次金庸さんによるトークは
まだまだ続きます。
お楽しみに。
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