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2025-04-14 28:16

脱AI、反AI。創作を楽しむには適度なAI利用がベターか?

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サマリー

このポッドキャストエピソードでは、「脱AI、反AI」というテーマで、AIを創作にどのように活用するか、またAIと人間の創作能力について議論されています。特に、AIの出力に対する虚しさや、人間の創作行為の意義について深く考察されています。このエピソードでは、AIの使用が創作活動に与える影響や、自己のアイデンティティに関する葛藤が語られています。また、創作の過程で作り手としての感覚が薄れていくことへの懸念も表明されています。AIの利用が創作活動に与える影響について考察されており、創作における人間性や個性の重要性、AIによる虚しさについても触れられています。

AIとの距離感
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。 今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。
テーマはですね、今回は脱AI、反AI。
要はAIから離れてみたり、ちょっと違うところでやってみるといいかもねというよりも AIってなんだよねっていう
特に何かを作る、創作の方が近いかもしれませんが、 そのあたりについて少し共有していければいいかなと思います。今回もどうぞよろしくお願い致します。
はい、シゴクリラジオの大橋です。 今回テーマはですね、脱AI、反AIということで、別にですねAIを使うなとか
AIを捨てずにね、AIを使わずに生きようという極端な思想みたいなね、そういうことを言ってるわけじゃなくてですね、もし
もしというか、AIに対して
飽きる、もしくはうんざりするみたいなね、感覚
リスナーのあなたはですね、AI使っている時に思ったことはありませんか? で、何かアイディア出しとかで、よくあると思うんですけど、何かアイディアないかっていうときに
ここではChatGPT等を想定していますが、別にいろんなGeminiとかクロードとか
コーパイロットとかね、他にもあると思いますが、何でもいい、リスナーのね、あなたが使ったことあるやつで想像してください。
で、そういった時にですね、何かありきたりなもの、アイディアがね、アイディアを求めたらアイディアが、文章を求めたら文章が、創作であったら画像だったら画像が、絵だったりイラストだったりというのが、ありきたりなものというか
何か出てこないなという時があると。で、この時にいろいろ言えることはあるんですけど、一つの視点として人側ですね
要は指令する側、指示する側、会話する側の人側ですね、が指定できない、うまくそのAIに指示できない、要は人間側の問題ではないかということが言われていたりします。
言われていたりしますというか、出せないのはAIが悪いというよりも、多分AIの方が賢かったりするわけですね。その賢いっていうのの定義がややわかりづらいんですが
知識や、知能があると言うとちょっとわかりませんが、知識があって瞬時に引き出すことができる。ただ関連付けはその推論モデルでどこまでいくかっていうポイントもありますし、仮に推論モデルで結構いけたとしても
人と人間を競争?競争?そうですね、競わせて
どっちが上かっていうのは、もはや囲碁とか将棋の話で言ったらAIの方が強いみたいなのが明確な時にあんまり意味ないわけですよね、比較するのがね。
そういう状況になりつつあるのかなっていうのを感じています。つまり、人とAIを競わせてどうかっていうのを、もしくはAIは人より劣るとか、もしくはAIは人より
人よりAIが優越ですね、劣ったり優れているとかっていうのを、比較する意味ってあんまりないのかなって思っています。
前はですね、僕も想像的なものってAIできないのかなと思ってたんですけど、仮にそうだとしたら人間が起きないでいいだけな話なんですよね。
そういうのはいいんですよ。仮にAIがより、いわゆる想像的になってクリエイティブになっていって、いい感じになっていくとするじゃないですか。
それはそれでいいよねって思ってまして、AIを使うことは全然いいんですよね。僕はかなりポジティブに見ています。
一方で、ここがかなり大事なんですが、AIがどうとかじゃなくて、使う人がですよ。
AIの利用とその影響
まさにリスナーのあなたがってことなんですが、僕がAIを使うときに何を感じているかってことなんです。感覚の話ですよ。
感覚的などうとかじゃなくて感覚で。ある方が書かれていて、本当にそうだなと思ったんですけど、AIを使ってうんざりしていないかって話で、
それでね、AIを使うなってことではないんですが、僕の感覚でも文章をですね、
箇条書きをいくつか、何行くらいだろうな、5行、5行はないな、10行とかね、のものをババババッとメモで書いておいて、これは自分で書いてます。
書いたものをAIに、具体的にはJATGPTのGPT図というものに、僕っぽいみたいな、要はそこにC字文をいろいろ書いておいて、
細かく言ったら、主語は私というよりも、このブログとしては僕という主語にして、言い回しとして、標準のと接続詞のね、だからとか、そしてとか多いんですけど、あんまりそれ使わないよなっていうね。
接続詞を使うってあんまりやると冗長になるなとか、それをあんまり使わないようにするとか、そういういろいろ書いてるわけですね。
自分っぽさみたいな部分で。それを調整してきて、一発でやってるわけじゃなくて、何度も何度も調整して修正してきている。
一応僕っぽく書いてるんだけど、戻すと、その10行くらい過剰書きをそのAI、GPT図に入れると、アウトプットとして僕っぽい文章が1000字くらいで出てくるのかな、1000字とか800字とかそのくらいです。
そんなに長くかかるものじゃなくて、見えると。段落も3つくらいで、込み出しもつけてると。そういうことでやってるんですよ。
それはですね、もう11月、12月くらいからやってるからもう半年くらいになるんですか。多分このラジオでも言ったんじゃないかなと思います。
この実践を通して何が出てきてるかというと、そのさっき言ってた虚しさっていうのがわかるんです。
つまり、僕が10行書いて、AIが書いてくれるんで、これは何度も言ってますが、僕書くAIということでブログとして掲載される、それを読み手の人が見るわけですね。
そこにはAIを通しているので、直接読み手の人に書き手の僕が伝えているわけじゃない。
自分がですね、もう一個話と別として、僕がですね、要は自分が、リスナーのあなたが文章を書いたって思うのはどういうものなのかっていう話になってくるんですよね。
これは絵でもいいし、画像でもいいし、何でもいいんですけど、AIに書いてもらった文章が自分が書いたよっていう風に言えますかって話なんですよね。
ここで言う文章は、創作系と実用系ということで、例えばビジネスで、メールであんまりいいの思いつかないからいい感じに書いておいてよっていうのがあまり得意じゃない方もいらっしゃるじゃないですか。
それはわかりますので、謝罪文でこう言って作ってくれたらいい感じに出すので、それを名前を入れたり加工して貼り付けて出すと。
それは全然いいと思います。いいと思うんですけど、それはあくまでも実用的な話で、よくあるのかなっていうところなんですよね。
これも若干疑ったほうがいいんですけど、創作的なもので自分の考えたことを書くみたいなこともやられている方もいるかなと思います。
その時に自分の書いた文章っていうことがどこまでやるといいのかなるのかが正直わからない。
画像生成の絵でもいいですし、イラストでもいいですし、ようやくはいいのかな。
そういうところをAIに作らせることで、人側がやっていることが置き換わるというよりも、その行為は、要はAIが作ってくるものは何なんだということになるわけですね。
例えば、僕自身は視力が良くないのでメガネをかけていますが、AIを道具として考えれば文章を書くのがあまりうまくない人が
AIを使うことで、コミュニケーションにおいて、例えば謝罪だり賞賛でもいいですけど、それを書くことが伝えることができる。
ですが、ここで問題が出てくるのは、その文章自体、AIが作った文章自体に対してその人が書いているわけじゃないので、
なんだかんだ言って、これ当初、だいぶチャットGPTが4ぐらいのときから僕も触り始めたんですけど、
3.5、4ぐらいのときの感覚でも思ったのが、これは友人とも話しますが、点数はいろいろなんだけど、
そこまではできるんだけど、それ以上はやっぱりその人とか人がいじらないと、あまりその人のものではなくなるよねっていうことは言ってたんですよね。
という意味では全く変わらないです。それとほとんど変わらないです。つまり、書いた人側がそれで道足りるのかといったら、
このメガネでいろいろ見えてるから道足りてますよ、別に問題ないですよという人ももちろんいらっしゃるし、それもわかるんですよ、メガネ的に使ったらね。
一方で、そこに虚しさを覚える人もいるわけですね。創作する人というのは、いやこれは自分が書いたものじゃないと。
少なくとも創作という行為は表現するという、一個一個の文字とか文章とか文節とか文脈とか世界とか背景とかわかりませんが、
そのいろんなものを組み合わせているわけですよね。イラストなり何か、写真でもそうですけど、そういうのがあるはずなんですよ。
要は解像度が細かいので、そのちょっとの違いが違うなと思うし、何となくいい感じの文章とか何となくいい感じの写真とか何となくいい感じのイラストというわけではないわけですよね。
問題は、生成ということでいくと毎回違ってくるし、再現性というのはある程度は担保されるんだけど、結局その細かい指示というのをどれだけできるかというところで、
多分その指示がいっぱいできる人は、そもそも創作ができるし、文章を書けるわけです。
ここがよくある話で、指示とかうまく指定できる人というのは、その分野に対して経験があったり知見があったりするからできるので、
創作における新たな視点
生成AIを使わなくてもできるんですよ。これはわかりますね。
つまり、できる人は生成AIを使わなくてもできる。だけど、それを使うことでよりショートカットできるみたいなところがあるわけですね。
できない人が使うことで、例えば0点というとよくないんだけど、その30点、60点に上げることができる。
ただし、その以上は多分難しい。
それが、例えばプログラミングだとか、初学者の人がChatGPとかに聞いても、なかなか学習が難しいというのがまさにあって、
それで30点、60点取ったとしても、そこからどうしたらいいかというのは、まったく別の走っているレースが違うというか、
短距離走を極めていたら長距離走が極められるかといったら、多分違いますよねみたいなぐらい、
ゲームがもしかしたら違うかもしれない。サッカーというだけぐらいゲームが違っているような感じもします。
というのが、今まであったし、そういう風にあったような振り変わりなんですけど、
最近思っているのが、創作ですよね。実用でもいいんですよね。実用系の方でもいいんですけど、実用系はあまりないかもしれないです。
目がかけていて、自分が見ている世界って、一般の裸眼で見ている世界とは違うんじゃないかみたいなことを思い始めるみたいな話です。
それは正直あまりなくて、実際には拡大していたり強制しているから違うんですけど、そこはいいでしょう。
今回は創作として言いたいのが、文章を特に僕が書こうとした時に、過剰書き授業で出した、
アイデンティティの崩壊
AIが出したものが僕っぽいということで出していると、何が起きるかというと、アイデンティティの崩壊とは言いませんが、
自分が書いた文章というのは何なんだろうかということがまず揺らぎとして出てきています。
これを読み手の人からの感想フィードバックを得ているわけではないので、想像になるんですけど、
AIを使っているかどうかということを今って見たり、感覚で感じたりするじゃないですか。
それを指摘するかどうかは置いておいているんですけどね。
する時に、もはや分からないですよ。
AIがどうかって分からなくなってきているので、それをあとは善意ということで、
AIを使ったかどうかということを書くか、あとはAIを5%入れようが99%入れようがなんだろうが、
それがその人が作ったものというふうに認識できるかどうかですよね。
あとは面白いかどうか。
いろいろあるんですけど、今回一番言いたいのが書き手ですね。
つまり僕側が作った側が書いた側がそれでいいのかと思えるかどうかなんです。
それがむなしいと言っているのは、自分が書いたものを誤字脱字ありでおくて、
誤字脱字って読みづらいですけど、むしろ誤字脱字があったものを読みたいというか、
分かります?
自分が書いた生々しいというか、肉質感ってことか。
本当に自分が作ったんだよねっていう。
おにぎりで言えば、機械で作ったコンビニのおにぎりみたいな、
機械で作って固いハンマーでやっていくようなものじゃないと無理じゃないですか。
だけど人が作ったいびつというか形が三角ではないが、
人が作ったものの方が心がこもっているような気がする。
これはある種オルカというか滑稽ではあります。
つまり手書きをしたものか、手書きをした本なのか、
鉛筆で原稿を書いたものか、キーボードでタイピングして打ったものなのかで、
タイピングしたものの方が心がこもっていないとは思わないじゃないですか。
AIと創作の関係
どう思います?思わないですよね。
でもAIについてはまだその素朴なところで、
使うと心がこもっていないようにもしかしたら思ってしまう方もいらっしゃるんじゃないかなと思います。
それは分かります。
だけどそれが慣れていって分からなくなってくると、
そういうちょっとぼっか的と言いますか、
素朴な感覚もなくなってくるんだよなっていうのも何となく分かります。
初期のITというかテクノロジーというか技術なので、
そういう反動というか使いたくないよとか嫌だよって思うのも分かるんですよ。
一方でそういうのも踏まえつつも、
でも今僕が感じているのは、
自分が書いたと思えるかという時に思えなかったり、
自分が好きに書きたいという時に、
AIが支援というか補助に入ってこういうのがいいですよとかいうのがもう一言で言えばうざいってことなんですけど、
丁寧に言えば自分がしっくりこないってことですね。
自分として書いていることはしっくりこないっていう風になっていると、
それはよろしくないよなってことなんですね。
ここで割合の話にさらになってくるんですけど、
自分が書いている文章とかAIが入ったものが書き続けると、
それは自分じゃなくてAIが入っているから自分じゃなくなってくるわけですね。
全部ね、やると。
例えばいろんなアウトプットをしている人が、
これはAIで書く、これは自分で書くっていうように、
自分で書いて自分で完結しているものがないと、
今度は書き手である自分ですね。
要は僕が、要は人がですね。
書き手である人の自分が創作している、表現しているという感覚がよくわからなくなってくるわけです。
つまり表現自体を忘れるとは言いませんが、
表現の鍛錬、訓練、練習みたいなのがなくなってくるので、
思考ということがやっぱりできなくなってくると僕は思っています。
要はたまにそのAIが思考を奪うと言うんですけど、
思考を奪うというのはAIが勝手に考えるから奪われるという、
そのシンプルな奪い合いじゃなくて思考というのを、
人間がですね、練習できなくなる、訓練できなくなる。
アウトプットする時間が減るという方とか、そっちなんじゃないかなと思うんですね。
よくその仕事でAIが奪われるという言葉がありますが、
それは今あるものを単純にAIが奪ってくるという素朴的なね、
素朴というか結構シンプルな話じゃなくて、
もちろんそういう部分もあるんでしょうけど、実際は人の社会じゃないですか。
人の社会なんで、人の認識が変わり、その人に発注しないとか、
もしくはその人じゃなくてAIが代わりにあるからっていうような認識が変わるってことだと思うんですね。
すなわちね。
その創作とか表現においては、自分が表現をするっていう行為が、
AIが入ることでみんな見えがるんですよ。
みんながね、創作行為をしていると思っている方々が、
みんなAIが入っても全然大丈夫だし、
自分の心は変わらないよねっていう風になれば、
この言っていることは滑稽というかですね、
何も話題にならないと思うんです、僕が言っていること。
でもたぶんなんですけど、書いててその虚しさっていうのは、
実用と創作の違い
AIが入ってしまうことで自分がそのまま出していると思えないことですよね。
もちろんAIが入っていても自分の感覚とか表現が出されているとか、
自分には全く関係ないよねっていうか、
創作はまさにこれで大丈夫だって思うし、
自分は何も変わっていないし、うまくAIを使えているって言うんだったら、
それはそれでありかなとは思います。
ですが、僕に関して言えば何かこれは、
AIに奪われるというよりも、自分の書いてそのまま出す、
そのまま書いたものを何か通さずに出すっていう行為をしないと、
それは別に公開しなくても自分の日記でもいいし、
自分がですね、要は自分一純粋100パンみたいなものでやって、
まとめるってことをしないと、やっぱりですね、それは要約もですね、
自分が書いたやつを要約するのも、
最初に作っていくっていうところでのAIが入るよりも
全然弱い部分ではあるんですが、そのAI感は。
でもそれもAIが入っているじゃないですかってことで、
何かうまくいっているんだけど、やっぱり人のものじゃないっていうのが出てくると、
っていうところがあるのかなと思います。
じゃあその要約一つとっても、AIが入ることで効率化したりできたりするじゃないですか。
それは全然否定しないんだけど、じゃあ何で効率化するかっていったら、
この四国理ラジオでもずっと言ってますけど、
AIが入ることで生まれた空き時間とか効率化した時間を何に使うんですかっていうことなんですよね。
さっき言った創作において文章が、じゃあ10行書いてポンと押せば出てくるっていう風になってて、
それでたくさん量産できるとなると、
僕の考えでは前も示したとおり、アイデアを生まれてくるところをしっかりやればいいってことになるんですよね。
だけど人の欲求の話に結局なってきて、そんなに生み出して何か出したくないと思えば、
もう時間が浮くじゃないですか、探求活動探索時間がなくなるじゃないですか。
ってなったときに、残るのはもう簡単にAIで出せてしまうから、
あとは創作するときのインプットとかマナーボードとか、
そういう浮いた時間を何に使うかってことがあまり決まってないと、
単にアウトプットってかさっき言った練習的な、要は日記的な事項、
自分だけで完結する100%人間が書いたものみたいなものが失われていって、
もしくはそれが頻度がなくなることで、
自分のさっき言ってた力量として、スキルとして文章を書くとかイラストを書くとかっていうことを、
AIを通してしまうことで、それが結果的に衰えるようになるっていうのもあるんじゃないのかなと思いました。
もちろんこれは分けて考えたくて、やっぱり実用と創作ってやっぱり違うなと思ってて、
例えば自動運転をしたが普及した場合、運転する技術って多分衰えると思うんですよ。
そのプロドライバーとか運転が好きな人っていうのは運転するから衰えないんですけど、
一般の人でその自動運転を使えばいいっていう人はもう運転する必要なくなってくるんで、
これは良い悪いがわからなくて、
例えば今コンロを使えば電気コンロとかガスコンロのレバーをひねれば火がつけるんで、
火起こし棒みたいなのをこすって、
落ち葉とか糸とか持ってきて火を起こすなんてことをできる人はかなり少ないと思います。
僕もできませんが、そういうのってサバイバルとかそういう話になってくるんですけど、
必要かどうかっていうことになってくるんですよね。
必要じゃないですって言ったら必要じゃないですというよりも、
その火を起こせて何になるんですかっていう風に、
リスナーの中で笑っている方もしかしたら言っても別に怒らないんですけど、
それ何ですか?火を起こしても別にコンロがあるからいいじゃないですかって。
わかります?
その感覚と一緒で別に自分で文章を書けなくても、
AIにやれば出せばできるじゃないですかっていう事態が起きてるわけですよね。
来た時にその感覚としてガスコンロでカチカチやってるのも別にいいんだけど、
なんかちょっと自分でやりたいよねとか、
本当に原始的な要求みたいなところが出てくるかなっていう話に近いかなと思います。
だから実用と創作ってやっぱり違うので、
創作としてエンタメだったりゲームだったり、
そういうものを作っていく時に自分でまさに創作と実用的なものの違いって、
創作ってそれをやってる事自体が楽しかったりするわけですよね。
で、実用の部分はどんどん置き換わっていくかもしれません。
そうなるともっと大きく言えば実用の部分がどんどんAIに変わっていって、
そこに多分虚しさみたいなものはあんまりないと思うんですよ。
今回は創作の部分で、創作の部分でそれを置き換えていくと虚しさになるので、
創作の部分っていうのは結構人間が努力作やっていくし、
やり続けていくのかなっていうところがあります。
AIの影響と創作の重要性
そうなると創作をどんどん多くの人がしたいというか、
正直僕も分からないんですけど、
その浮いた時間ですね、実用的なことをやらなくて浮いた時間は何をやるんだろうなって言ったら、
結局創作もしくは、
暇つぶしってことは僕は好きじゃないんで使わないんですが、
浮いた時間とか空いた時間を何に使うかってことで、
やっぱり人の哲学とか社会とは何かとか、
自分とは何かとか人に貢献するとは何かとか、
結局哲学みたいな学問とか倫理とか、
そういう良い意味で時間をうまく何かで使っていくってことが求められる。
それってかなり創作的だと思いませんか。
もしくは創造的だと思いませんかってことで、
最終的にはやっぱり創作とか創造の方に走っていくんだけど、
その創造するってところにAIが入りすぎるとね、
これも結局バランスだと思います。
ただ、AI1%からAI99%まで、人1%から99%まで、
どの割合でするとしっくりくるかは正直僕も分からないっていうのと、
ただ現時点で自分で書くってことがものすごく贅沢だなというか、
いう風になりつつあるっていうのは分かってて、
まさに贅沢って何だろうなっていうのも変わってきてるんじゃないかなっていうことを感じました。
なんで僕がこれ喋ってますけど、
これがですね、
最近ポッドキャストもしくは何かでAIが喋ってるっていうのはありますけど、
ラジオとかでも、
いいんだけどっていうのはありますよね。
なんかAIを使ってるなっていうのはやっぱりあって、
それに対してイントネーションがどうとかっていうのも気にせず、
それで通してもいいんだけど、
そういった時にアナウンサーの人とかの仕事の価値がやっぱり
すごい重要になってくるような気がしてて、
全部大体できるとはやっぱり僕は思ってなくてですね、
その人が喋るってことの価値ってあるよなって思ってます。
ただアナウンスってことでそのまま伝えるっていうのももちろんありですが、
ありなんですが、
結局その人の個性とか想像の部分が出てきて、
やっと面白さっていうのが伝わってくるのかなと思ったりします。
そこがアナウンスっていうのは難しいところではあると思いますが、
そのあたりは一旦置いておいて、
簡単にまとめますと、
創作におけるAIが入ってくることにより、
人が創作行為において自分が全部出てないんだってことで、
AIが入りすぎると、もしくは入ってしまうことが普通になると、
本当に純粋にそれだけAIが入ってくることをやり続けると、
創作スキルというか、
人が100%書くってことが出てこなくなってきているんじゃないか。
だから逆に言うと、
自分だけの言葉で書いたような日記とか、
自分の言葉で書いたような、
それこそXとかツイッターですね、ようなSNS。
だからAIに投げかけたアウトプットじゃなくて、
虚しさと自己表現
アウトプットじゃなくて、
AIに投げかけるプロンプトですよね。
プロンプトの方が価値、贅沢としてね。
そのプロンプトって何ですかという方が、
何か面白くなっていくのかなというのが思えたりします。
それはですね、
そんなことを気づいている方はいらっしゃるかもしれませんが、
改めてそんなことを感じました。
創作する上で自分が飽き飽きしてやっていたら絶対面白くないですし、
自分のスキルというか練習とか文章を書いていくということが
なまらないためにやっぱり書き続けなきゃいけないと思いますから、
それは僕が勝手に文章が好きということで
そういうふうに言っているだけなんですけど、
それを怠けてAIで書けるから全部これでいいやっていうことを、
仮に全部やり続けた場合ですね、
最後に僕は全部をそれにやっていないので、
一部だけなんですけど、
これやっぱり自分で書かないとダメだなとか、
それは思うんですよね普通にね。
その時の虚しさというか、
AIが入らないということの良さというのは、
ここでたまにアイデア出しの話をしていますが、
全部AIでアイデア出したら、
僕のアイデアを出すような仕事って消えるはずなんですけど、
まだ消えないし、
やっぱり価値は全然別のところにあるかなというふうに思って、
日々生きてやっております。
というわけで今回は以上となります。
リスナーのあなたにとって、
生成AIを使うことにおいて、
実用でもいいですけど、
その行為ですね、
アウトプットをするところで、
作っていくところで虚しさを感じたことはないでしょうか。
虚しさとはつまらなさです。
つまらない、面白くない、
自分でそのまま書きたいんだ、
そういったことはありますか。
もしあればコメントなどいただければ幸いです。
今回は以上となります。
四国理ラジオ大橋でした。
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
以上失礼いたします。
28:16

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