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#102 主語を手放せない人間の限界:利休の自己矛盾から読み解く、AI時代における「侘び」の真髄|伊藤穰一 × 樂直入
2026-09-08 13:32

#102 主語を手放せない人間の限界:利休の自己矛盾から読み解く、AI時代における「侘び」の真髄|伊藤穰一 × 樂直入

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前回の配信に続き、陶芸家・樂直入(らく・じきにゅう)さんをお迎えした対談をお届けします。


AIやテクノロジーを「人間がコントロールする道具」と捉える西洋的パラダイムに対し、人間も自然もひとつのシステムとしてバランスを取ろうとする東洋の美学。しかし、私たちが自然と完全に一体になるには、決して越えられない壁が存在します。


自然界の生態系にあって、人間にないもの。

そして、人間だけが持つ「錯覚を信じる力」がもたらす暴走とは?


「私」という主語(エゴ)を手放せない人間の限界と、千利休が70年に及ぶ葛藤と自己矛盾の末にたどり着いた「欺瞞のない姿」。万葉集の時代から続くマイナスの感情がいかにして、ポジティブな「侘び」の美意識へと転換されたのか。


際限なき成長戦略が世界を覆うAI時代の今だからこそ響く、「足るを知る」エコシステムの真髄に迫ります。


【編集ノート】

難しい単語や固有名詞などはこちらで解説しています。

https://joi.ito.com/jp/archives/2026/09/08/006153.html



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サマリー

本エピソードでは、陶芸家の樂直入氏をゲストに迎え、人間が自然と完全に一体になれない限界と、AI時代における「侘び」の本質について考察する。西洋的な「人間対自然」の対立構造に対し、東洋的な調和の美学がAI時代により適していると指摘。人間が持つ「錯覚を信じる力」がもたらす限界や、千利休の自己矛盾から見出した「足るを知る」エコシステムの真髄、そして万葉集の時代からポジティブな美意識へと転換した「侘び」の概念について深く掘り下げている。

西洋と東洋の自然観の違い
千葉高大の学長、Joyさんこと伊藤穰一が、最も鑑賞を寄せる分野に迫るJoy Ito'sPodcast。
今週も先週に引き続き、陶芸家の楽直入さんとのトークをお届けします。
今日は、自然と一体になれない人間の限界と、詫びの本質について話をしているみたい。
Joy Ito's Podcast
西洋って自然と人間って別で、Man vs. Natureって自然と戦ってる人間っていうストーリーがあって、
東洋はどっちかっていうと人間と自然って一つのシステムになって、人間が自然に対して勝ち負けするっていうストーリーってあんまりなかったと思うんですよね。
西洋っていうのは神様がいて人間がいて、その下に道具と奴隷とAIも含めて、それをコントロールして使うっていうもので、
東洋は人間も自然も一つのシステムの中でうまくバランスしていこうとしていて、
多分その美学の方がこのAIの時代も含めてもっと正しいと思うんですよね。
やっぱりその戦的な世界観っていうのかな、グラフが表すようなそういう世界観ですよね。
やっぱり成長戦略っていうじゃないですか、成長戦略のそういう世界観ではない。
それをやってると本当に世界を滅ぼしちゃってますよ。
それは人間と人間、国と国、地域と地域、そういうところだけではなくて、人間と自然との在り方もそういうことですよね。
日本の思想っていうのは、やっぱり自然と一体になるっていうか、一つになる。
決して自然に対立する人間存在じゃないっていう。
自然と一体になることの難しさ
我々日本人にとっては当然のことなんですけど、その当然のことはね、なかなか難しいことなんですよね、本当に。
自然と一体になるっていうことはね、すごい難しいことで、それはどういうことなんだろうってすごく考えるんですけども。
最初、九谷に住み始めたとき、周りの自然がですね、例えば生えているススキだとか、木だとか、そういったものがね、
お前は俺たちの仲間じゃないよって言ってるような気がするわけ。
僕は一人で住んでるわけで、犬一匹連れてね。ほとんど喋らないし、喋る相手がいないし。
散歩のときに村の人に会うことがあっても、本当に立ち話をして。
それが素晴らしいんだけど、そのなんでもない話がもうすごく素晴らしい。都会では味わえないような素晴らしさがあるんだけどね。
ほとんど人も尋ねてこないっていうか、全く尋ねてこない。電話がない。電話を持たない。
携帯を持たない。テレビを持たない。ラジオを持たない。新聞も持たないっていうようなところに生活をしてるわけですよ。
ラクさんそういうところで寂しくないの?孤独を愛してるの?孤独じゃないの?寂しくないの?って言うけれども、
人と会わないから寂しいっていうことは一切ないんですよね。
だから一つ寂しいことがあって、何か寂しい。それはどういうことかというと今言ったことですよ。
自然が僕を受け入れてくれないっていうその観念なんですね。
自然にある花のような、あの話にもつながるんですから。
やっぱり自然の中にいるような人間になるのが本当はハッピーなんですよね。
今そう言ったでしょ。自然の中にいるような人間って言ったでしょ。
そこが人間の限界があるんですよ。ようなではないんですよ。
自然と全く紙一枚、隔てないような一体であるべきはずなのが本当に自然と共にあるって。
そういうふうに感じるんだけど、その中で何が違うかって思ったんですよね。
自然界の「与え合い」と人間の「主語」
自然をずっと見てるわけですよ。
自然は常にものすごい攻防を繰り返してる。
それを人間たちは弱肉強食だって言うんだけど、お前たちが弱肉強食であって、彼らは弱肉強食じゃないんですよね。
で、なぜかというと与え合ってるから。与える。私自身を与えてる。与え合ってるから。
ただ、時々僕はスズキの中で座ったりもするし、ボケッと外にいて、眺めて地べたに座ったりもしてて。
そうするとアリが這い上がってくるわけですよ。
で、ふっと見るとアリが死んだ虫を、赤トンボを引きずっている。
そういうような光景とか、常に歩くと何かが死んでいる。
でも何かが死んでいるってことは何かを与えてることなんですよね。
だから常に無視なんです。私がなくて、周りに与えてる。
つまりね、人間と自然は何が違うかって話ですよ。
何が違うと思います?守護がない。
僕はそう思った。この人たちは人じゃないけれども、
スズキやアリやブナの木や、そういった狐さえも熊さえも、そういう動物たちさえも植物だけじゃなくてね。
私という守護がない。そういう世界観なんだな。
でも私は私を捨てることができない。そこに大きな線引きがある。
守護のない自然と私を手放せない人間。
千利休の葛藤と「欺瞞」
その問いが茶の湯と仏教の世界にも重なります。
守護を持たないのがこの仏教にあっても、たまに自分が守護がないことを自慢げに言ってるお坊さんなんかいるでしょ。
それは欺瞞という世界観。それは論外やね。それはもう欺瞞の最大のもので。
お茶もそういうのがある。特に現代。
離宮はなかったんですか?
離宮の欺瞞は、欺瞞とは言わない。離宮はやっぱり葛藤ですよ。自己矛盾を背負ってた。
だから最終的に離宮だって、切腹から逃れることができたはずなんですよ。
たくさんの人がそれを助けようとしたわけだから力のあるね。
だから一言謝ればよかったわけですよ。
秀吉だって離宮はあそこまで追い込むつもりは全くなかったはずなんだよ。
まあ分かんないけどね。いろんなこと人は言ってるし、いろんなこと物語になってるし分かりませんけど。
やっぱりそういうにもかかわらずに、離宮は自ら選んだんですよね。
だからそれは葛藤の70年、創造の70年、自己矛盾の70年。
そういう70年の中でやっぱり生きていって、そして最後はやっぱり自ら手放したんだろうな。
「足るを知る」と「侘び」の美学
だから結局樽を知るっていうことっていうのもあるんですよね。
動物は死後がないし、確かに生きるためには他者を殺さなきゃいけない。
むちゃむちゃとそこらへんの葉っぱを食い散らかさなきゃいけないけど、
腹いっぱいになったら寝るんだから。ガーガー寝るわけですよ。
うさぎは通っても、ライオンは腹いっぱいになったら襲わないし。
だから樽を知るっていうことも和美なんですよ。和美の一つの美意識ですよ。美学ですよ。
そういうふうに繋がってきている。人間との違いですね、本当に。
仏教もそこに変わってくるしね。
人間の「錯覚を信じる力」
ヴァオ・ハウラリーっていう作家さんがいて、結構面白いことを言っているのが、
ホモセイピアンズとニアン・ドラストとかの違いっていうのは、
どっかの時点で死んだ時に、事実とかエビデンスがないものも信じることができるようになっちゃった。
錯覚。だから一生懸命やれば天国に行くとか、千円は千円の価値があるとか、
人間っていうのは神話を信じる脳ができちゃってる。
サルなんかに宗教の話とか、火兵の話とかしても全く信じないんだよね。
信じることによって、動物なんかだと結構小さな塊はできるんだけども、
何千人の人が戦争をするとか組織を作るのには、みんなで錯覚に関して信じないと動けないんですよね。
だから宗教っていうのは絶対エビデンスがないものに信じ込んでみんなで動くっていう力で、
それでこのニアン・ドラストとかを人間社会全部殺しちゃうっていうのは、
集団で行動するのには、錯覚を信じる、目で見えないものを信じることがあって、
それは必ずしも頭良かったわけじゃないと。
ただこの集団生活にないものに信じることによって、
人が秩序が動くっていうのが人間の動物との違う特徴があって、
それとちょっと似てるよね。
必要以上のお金が手に入ったらもっといいっていうのって、エビデンス全くないじゃないですか。
お金持ちの人がお金持ちじゃない人より幸せかっていうと必ずしもそうじゃないし、
腹いっぱいなのに物を貯めるのも、何か錯覚して信じてるんですね。
そっちの方がいいっていうこと。
それが人間の癌みたいに広がる一つの特徴なんじゃないかなって彼は言うんだよね。
確かに。信じちゃうわけですよね。
「侘び」の概念の変遷
どっかで面白いなと思ったのは、和尾の話になっちゃうけども、
和尾っていう言葉っていうのは、
お茶の世界で利休さんが言ったり女王が言ったりっていう風に言われるけれども、
本当は和尾っていうのは万葉集ぐらいからすでにあるわけですよ。
万葉集だとか古今集だとか、
その辺の時代っていうのは本当にマイナーな、寂しくてしょうがないわとか、
貧しくて本当に悲しい話。
あるいは恋愛の問題にしても、あの人は私は思ってるのにあなたはもう来てくれないって言って、
恨みが浴び穂差の袖だにあるものを恋に口なむ。
なこすおしけれって相模っていう人の歌だけど、
恨み浴びて私は毎日あなたのことを思って泣きぬれてますと。
その泣きぬれた涙がものの袖に乾く暇もない。
恋に私は朽ちてしまうんでしょうか。
その恋に朽ちてしまう自分の名が惜しまれることよっていうような歌なんですけどね。
そこに使われている和尾っていうのは、和尾ぬればっていうんだからね。
あるいは恨み和尾っていうわけですからね。
非常にマイナーで、そこから逃れたいと思って。
世界が和尾の世界の始まりですね。和尾しいつつまい、和尾しい思い。
だけどそれがどこかで転換される。
その転換がやっぱり中世ぐらいになるんですよね。
平安末期から鎌倉ぐらいの時代にね。
そこで、あ、貧しい世界もいいじゃんっていう話になるわけですよ。
貧しくてもこのぼろ屋でもいいよねっていう価値観が、
人間の生きている価値観がそこで大きくガラッと変わっていって、
その和尾がポジティブになっていくっていう。
そういう流れっていうのは非常に面白い。
それはひょっとしたらそういう世界の有りようを変えるかもしれない。
その考え方の変化は。変化の在り方はね。
その辺のところが和尾の根本だと思うんですね。
「侘び」の本質と茶碗
だから和尾っていうのがそこにあるように感じている。
でも本当はそこにはないわけですよ。
そのものに茶碗なら茶碗の、見えない茶碗の奥に
和尾がある。
そういうふうに考えているんですが、
本当はそんなところにはないんですよね。
和尾ってもともとは動詞なので。
ジョイさんと陶芸家、楽次紀乳さんによるトークはまだまだ続きます。
お楽しみに!
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