これをよく考えなければなりません。
イエス様の口癖があるということをご存知ですか?
あなたの信仰通りになりますように。
あなたの信仰があなたを救った。
私たちの信仰通りになります。
よくできると信じますか?
じゃあ、よくできます。
よくできないと信じますか?
よくできません。
これです。
なぜこの話をされるのか?
だから、よくできると信じて、信仰を持っていけなさいということです。
マルコ公書でカイドウ長ヤイロがいました。
娘が死にかかっている病気です。
ですから、カイドウ長という人は当時宗教主導者のレベルなので、
イエス様のところに行くのは難しい。
しかし、娘が死にかかっているので、どこでも解決できないから、
イエス様に尋ねていきます。
イエス様に行って対話をする間に、娘が死んでしまいました。
どうしましょう?
その時、イエス様が、恐れることはない。
ただ信じなさいと言われました。
あなたは、この意味は、あなたは今、恐れを選択することもできる。
信仰を選択することもできるけど、
恐れを選択しないで、信仰を選択しなさいということです。
彼は信仰を選択しました。
だから、信仰によって、死んだ娘が生き返られました。
信仰はパワーがあります。
信仰は信じるとおりできます。
だから、私たちは信じなければなりません。
ところが、一番大事な、信仰で一番大事なお祈りの中で、
信じて祈るのか、心配で祈るのか、
ただ宗教的な儀式で祈るのか、
私たちの祈りに問題がたくさんあります。
祈りの中で一番大きな問題は、祈りながら心配することです。
なぜ、祈りながら心配しますか?
神様がそれを解決する能力がないと思うからですか?
もしかして、神様が過ちを犯したら、どうするかということを考えますか?
また、私が願うのはこれなので、神様はこれをくださらないで、
他のことをくださらないのか、それで心配するのですか?
とにかく、私たちが不信仰によって祈るなら、
私たちの祈りは成し遂げられません。
なぜなら、不信仰には悪魔が働くからです。
さあ、今日の聖書、第一ペテロ五章七節八節に、
重い患いは何もかも神にお任せしなさい。
神があなた方のことを心にかけていてくださるからです。
身を慎んで目を覚ましていなさい。
あなた方の敵である悪魔が吠えたける獅子のように、
誰かを食い尽くそうと探し回っています。
神様がなぜ、重い患いは何もかも私にお任せしなさいと言いますか?
なぜなら、任せないまま、私たちがそれをもって心配し続けるなら、
これをイコール不信仰するなら、
食い尽くそうとしろ悪魔の餌食になるということです。
皆さん、悪魔は臆病の霊と言います。
この言葉通りです。
悪魔はまずその人に心配を入れます。
心配をもらって、心配し続けるなら、この人を支配します。
悪魔が心配を入れるとき、イエス・キリル・ミドによってそれを追い出すなら、
悪魔が私たちを攻撃できません。
占領すること、洗礼することはできません。
悪魔はまず私たちに心に何かを入れます。
心配、悩み、何か神様に対して何か、いろいろなことを入れます。
それによってその反応を見るんです。
アダムとエヴァも同じでしょう。
エヴァの心に、神は本当にこのエデンの園の全ての木からトテヤは食べないと言っているのか?
このエヴァの心からどんな反応が出るのか見ていました。
しかし彼女は間違えたことを言いました。
だから心配ない。
食べても絶対問題ない。
食べなさい、食べなさい。
それで食べてしまいました。
悪魔は心に何かを入れます。
ふっと思い出すときに、どうしよう、心配だ。
これは悪魔が入れるものです。
悪魔はたびたび皆さんの心に心配、不信心、何かうまくできない心を入れます。
それを私たちがどうするのかを反応を見ます。
それで支配するんですけど、臆病の霊は私たちが心配するとき、恐れるとき、どうしよう、どうしようとするときに入ってきて、それで強く攻撃します。
だから皆さん、心力、心の力、弱い人は少し何があっても、もっと恐れます。不安症になります。
もうすでに悪魔に支配されている状況です。
その中で信仰を持ちましょうと、いくら言ってもなかなかできません。
そのとき私たちは旧説にあるでしょう。
信仰にしっきり踏みとどまって、悪魔に対抗しなさい。
イエス・キリストのように皆によって対抗するんです。
そうするなら、悪魔は逃げていきます。
悪魔は実は力ありません。
だから悪魔は怖い姿で現れる。
怖がる姿で現れて怖がるように、力がないから騙すんです。
正々堂々として戦うのではなくて、騙して働きます。
このような悪い働きをしている悪魔です。
だから私たちはイエス・キリストのように、皆によって信仰を持ってしっかり立って、聖書通り信仰を持って対抗しなければなりません。
ここで大事なのは、信仰による祈りです。
どうすれば信仰による祈りができるのか。
それは私たちが信じている神様をどんな方なのかを知ってから、知るなら信仰ができます。
それで私たちは神様に強く祈ることができるでしょう。
ところが皆さん、悪魔は私たちが神様を知っているのか知らないのか、知るとしてもどのくらい知っているかを悪魔は知っています。
霊的な霊物だからです。
使徒行伝中級書でエペソーの地域にリバイバルが来ました。
パウロが精霊に満たされて、悪霊を追い出し病気を癒されるんですけど、ハンカチを持って人にサッと振ってもその人が病気を癒されたほどでした。
驚くほどのパワーがありました。
だからその地域の人々はみんなパウロみたいになりたいと思いました。
そこで使徒行伝中級書の14節を読みますと、ユダヤ人の最長スケワという者の7人の息子がいた。
その7人の息子がパウロがやっていることを見て、パウロの真似をして人々に手を置いて祈りをしました。
その時の15節を読みますと、悪霊は彼らに言い返した。
イエスのことを知っている。パウロのこともよく知っている。
だが一体お前たちは何者だと言いながら飛びかかってきたので、彼らは逃げたということが書いてあります。
スケワという息子たち、最初の息子たちなんだけど信仰はなかった。
パウロがやるから私たちもパウロみたいにやりたいと思ってやるだけで、中身を見たら何もなかった。
だから悪霊が彼を追いかけたということがあります。
私たちは神を知らなければいけない。神を知ることから信仰ができるしパワーができます。
ですから私たちは神を知らなければいけないんですけど、神はどんなお方ですか。
今日は簡単に3つだけ。神は愛です。
皆さん神は愛だと全部知っているでしょう。この愛ということはアガペの愛です。
聖なる愛、無条件的な愛、既成的な愛、無限の愛です。
代価を求めない愛、自己中心的な愛ではなく、相手の幸せと相手の有益を求める愛です。
神の本性が愛ということは、神の働きは全て愛によって行われることです。
神様が私たちを教える時も愛によって教える。神様が私たちを叱る時も愛するから叱られる。
神様が私たちに命令する時も愛するから、これは必ずやればいい。やるならいいよ。
それで愛を持ってくださることです。神様は心の動機から全ての過程、結果まで、神の愛と善を持って働くお方。
この意外としては働くことができないお方ということです。このような愛を持って神様は私たちを愛しておられます。
私たちの弱さ、過ち、罪と関係なく私たちを愛してくださり、憐れんでくださるお方です。
例えば今日子供が大きな過ちをして帰ってきました。
そうするなら親は心が痛いんです。私の子供はなぜこんなに
過ちが多いのかと思うでしょう。気の毒になります。
だからお母さんが子供にいろいろ叱ったり、いろいろします。もちろん愛が豊かな。そして子供がよくできることを願って、皆さん、親は子供をいろいろ面倒見るでしょう。
ところが、お母さんが子供をもっと愛してもっともっと憐れむんですか、神様がもっと愛してもっと憐れむんでしょうか。
私たちは、お母さんが謝って帰ってきた子供をもっと憐れむんじゃないかと思いますけど、
また神様はもう私の子供に対しては無関心じゃないかと思うんですけど、
皆さんはどう思いますか。お母さんがもっと子供を愛するんですか、神様が子供をもっと愛するんですか。どっちが正しいと思いますか。
ダビデの詩編27の10節にこう書いてあります。
父母は私を見捨てようとしても、主は必ず私を引き寄せてください。
ダビデが経験しました。父母は自分を捨てた。しかし神様は私を引き寄せてくださった。
ダビデの率直な心です。皆さん、お母さんが私たちのために、子供のために、子供が地獄に行かないように、子供の罪を全部背負って十字架で死んでくれたんですか。
お母さんが子供のために、私が全ての罪を背負って十字架で代わりに死んであげる。
と思うかもしれないけど、お母さんは子自身に対する自己本能ということ、保護本能があるので、人間が子供を助けるには見解があります。
私たちを愛して私の代わりに死んでくださることができる方は神様だけです。
ですからローマ社講師の話です。しかし私たちがまた罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示されたと言います。
お母さんよりお父さんより世の中の誰より子供たちをもっと心配し、もっと愛し、もっと憐れんでくださる方。
この方がイエス・キリスト。この方が神様。神様はそのような愛をもって私たちを今面倒見ておられる。
また神様は私たちを愛されるんですけど、全知全能な力で愛しています。
まず神様は全知です。私たちの過去、今、将来のすべてを分かってから助けてくださるお方です。
親は過去のこと、今のことを少し分かっているんですけど、将来何が起こるか分かりません。
だから今助けるのが過ちが多いんです。しかし神様は将来の起こるところまで全部分かってから今助けてくださいます。
だからその助けが確かです。また神様はすべてが可能な全能の力で私たちを愛します。
神様は全世界に何もなかった時、今の全世界を作られました。
また作ったとしても一回作って永遠に変える必要がないほど完璧です。
この完璧な全能な方が私たちの過去、現在、将来のことを全部分かって
予知予定の中で私たちを愛して、私たちに一番良いことを与えてくださいます。
このすべてを踏まえて絶対全と言います。ここで大事なのはこのような神様、全知全能、絶対全能神様は主権を持っています。
私たちには自由意志があります。私たちが神の主権に従えば神のすべての働きが私たちに及びますけど、
私が自由意志を持って神様を拒むなら、神様の全知全能、絶対全能愛は私と関係がありません。
だから私は神の働きに対して喜んで喜んで、同情同情と言いながら私の自由意志を下ろして神様の働きを受け入れるとき、
全知全能、絶対全能無限のパワーが私に役に立ち、私の力になります。
自由意志を持ってそれを嫌だなぁと思われたら、それが私と全く関係なくなります。
だから私たちは神の働きを喜んで受け入れる、この恐れうやまう心、姿勢が必要です。
じゃあここで神は絶対全ということをもっと詳しく考えていきましょう。
絶対全とは、神は愛なんですけど、その方の働きは全て良いということです。
全だということです。
神様は私たちに良くないことは絶対くださいません。
また私たちが悪いことした、過ちをしたということを神様は全に変えてくださるお方です。
日本語でこの言葉があるのか。
災いが転じて祝福になる。
災いが転じて祝福になるように働いてくださるお方。
過ちを犯しました。過ちをきっかけとして、良いことに変えてくださる力あるお方。
今は何か何か難しいんですけど、最後は必ずヘッピーエンディングになるように働いてくださるお方。
この全てが絶対全という言葉に働いています。
神様はこの絶対全ということを成し遂げてくださるために、私たちに送ってくださった方が聖霊様です。
聖霊様は助け主です。
聖霊様はどんな働きをされるのか。
ローマ書8章28節。
神を愛する者たち、つまり公元教国に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを私たちは知っています。
助け主聖霊様によって、全て万事が益となるように共に働いてくださる
この方が、この聖霊様の働きです。
ですから、第一ペテロ5章7節に、思い患いは何もかも神にお任せしなさい。
神があなた方のことを心にかけてくださるから。
心にかけてくださる、これは英語の聖書では、あなたをケアしてくださるから。
ケアしてくださるからと言います。
じゃあまたもう一度、今日子供が外で大きな過ちをして帰ってきました。
だったら親はどうすればいいですか。
お前そんなことするのか。嫌だお前、出て行け。
私たちの親はどうすればいいでしょうか。
まず、子供が犯した過ちを神様に、ああ、子供が今日このような過ちを犯したと言います。
主よ、神様、これをどうすればいいのか、あなたにお任せします。
神様にまず祈りとして、すべて打ち明ける、告白します。
そして、神様の絶対前の働きが、この子供に助けの働きができるようにお任せします。
そして、今日あなたが間違えたと言ったら、
間違いを通して、今私たちが何を学ぶべきかを、まず子供と一緒に考えることがいいでしょう。
それと、子供を慰めていきます。
子供は私のものですか。
叱ったらしょうがないでしょう。
子供を慰めていく。大丈夫、大丈夫。
あなたは間違いをするんだけど、神様はあなたのためにいいことをしてくださることを信じましょうね。
これからこれを持ち入って、これから過ちをしないようにしましょうね。
神様に委ねる。
神様は私たちの失敗を通して、次は必ず二度も失敗しないように、
失敗をきっかけとして、これからよく働きができるように、
災いが転じて祝福になるように働いてくださるお方だからです。
ですから神様にお任せしてから、私たちは静かに神の働きを待ちながら祈り続けることが大事でしょう。
私が大好きな聖書があります。
マタイの中二章二十節。
傷んだ足を折ることなく、くすぼる刀身を消すことなさらなく、生かしてくださるイエス様。
マタイ中二章二十節。
この傷んだ足はもういい、これは使えない、ダメだな、
これはもう必要じゃないからこれを燃やしなさいと言うはずなのに、
それを折ることなく生かし助けてください。
くすぶる刀身、もう消えて煙がシューと出ているこの刀身、もうダメだ、もう可能性がない、
これは捨てるべきなんですけど、神様は、イエス様は、そのくすぶる刀身に火をもう一度つけてくださるお方なんです。
神様は弱者、罪人の味方です。
私たちの足りなさ、弱さ、弱くしておられるし、足りなさ、弱さに力を加えてくださって、
私たちを生かして助けて、使ってくださるお方です。
ですから人たちはこう告白しました。
第一コリント1章26節から、
兄弟たち、あなた方が召された時のことを思い起こしてください。
人間的に見て、知恵のある者が多かったわけでもなく、能力のある者や家柄が良い者は多かったわけではありません。
ところが神は、知恵のある者に恥をかかせるために、世の無学者である私たちを選び、
力のある者に恥をかかせるために、世の無力の者たちを選ばれました。
また神は、知恵のある者たちの無力な者とするため、世の無に等しい者、身分がいやしい者を見下される者たちを選ばれました。
人たちみんなが世の中にはもう何か使える道がないような弱さ、また生涯、いろいろな問題を持っている人でした。
しかし神様は彼たちを使って、それで神の身分を教えてくださり、
この人たちを大きく、世の中誰よりも大きく使ってくださいました。
これを見るときに、神様の働きは一体何でしょう。
またイエス様は神様でした。
神の栄光を捨てて、この世に来られて、貧しい人、病んでいる人、抑圧されている人、人々たちの味方になりました。
そうするなら、賞を受けるべきなのに、十字架に鞭を打たれ、血を流しながら悲惨に死んでくださいました。
世の中のすべての人は、イエス様の人生は失敗だ、もうかわいそうだと言うしかなかったのですが、
これが失敗ではなく、全人類を救うための贖いの死であり、復活されて死の地から悪魔を滅ぼし、
万王の王、万主の主に恋愛を受けるのにふさわしい方とさせてくださいました。
イエス様の十字架と復活によって見ています。
神の全世界の救いの計画を完全に成し遂げることを見たら、
神の働きは、私たちが見るときに失敗だ、ダメだと思うことを通して、
それを通して神の完全な世界救いの計画を成し遂げることを見たら、
災いが転じて祝福になる、また、ヘッピーエンディングというしかないということです。
神の働きは必ず、私たちを生かしてよく使ってくださいます。
今、私たちの子供を見るときに、この子供、弱くて競争力もない、
この子供、どうしようかという、嘆きが出る場面があるかもしれないけど、
皆さん、この神様を、この子供たちを、神にお任せしてください。
神様が面倒を見て、ケアしてくだされば、
この私たちを見るのに、もう何か力がないように見える子供たちだとしても、
神様はこれを大きく変えて、世界的に大きな人物として使ってくださるでしょう。
人たちは何もありませんでした。
しかし、人たちを神様に任せたら、この人たちを世の中で一番偉い人と使ってください。
イエス様がこの世に来られたときには、本当に痛んだ足であり、もうぐつぶる刀身のような存在でした。
しかし、聖霊によって力をつけられ、それで十字架と深町を通して、
万王の、万宗の主として、全世界がその前にひちゃまずいて、礼拝する存在にさせてくださった。
神様の働きはこんなに素晴らしいです。
神に任せるということは、神様に祈りとして頼み、親としてやるべきことはしっかりやるんですけど、
神様がこの子供の過ちの子供を通して、絶対全の力で、
災いが転じて祝福になるように、ヘッピーエンディングになるようにさせてくださることを信じるから、絶望しない。
ダメになった子供を見ながらも、絶望しない、楽観しないことです。
また、この失敗を通して、もっと良くしてくださることを信じて、希望を持つことです。
また、それを通して、私たちの家庭の中に心配、不安を入れようとする悪魔を滅ぼすこと、追い出すこと、力です。
そして、祈り続けること、希望を持って、信仰を持って、祈り続けることです。
これが、主にお任せしなさいという言葉の意味なんです。
私が初めに1979年の新校に入ったんですけど、その時、私を導いてくださった牧師夫人の方がいます。
この牧師夫人の方は、両親は早く亡くなられて、弟と一緒に暮らしたそうです。
結婚する時になって、自分が嫁になっていくなら、この自分の弟はどうするかと心配になって、
この弟のことを主にどうかどうかと言いながら、ある日、山に登って祈ったんです。
当時の人は山によく登りましたね。
山に登って祈って、私の弟を主にお任せします。
私の弟を主を預かってくださいと当時は祈ったんですけど、
夜真っ暗になったら、この目の前にある何か木があって、
この木を持って主にお任せします、お任せしますと祈ったんです。
もう祈ってみたら、この木がパーッと抜けられて捨てられるほど、主よと思いながらよとしている。
その間に心に平和が来て、心配がシャーッとなくなったんです。
この後はもう弟並みに心配することはなかった。
祈ることはちょっと祈ったでしょう。
その後、弟はどうなったのか。
アメリカに行って音楽の勉強をされて、
これからは教会で聖火隊の指揮者としていろいろな働き、立派な働きをされたそうです。
自分がケアしたらアメリカに留学できません。
しかし神様がケアしたら、もう何にもない、お金もない弟をアメリカに留学までさせてくださって、
また教会で立派に使ってくださったということ。
皆さんその証を聞いて、私たちの重い荷物がありますか。
皆さんの重い荷物、親はほとんど子供ですよね。
子供のことを皆さんに神に任せましょう。
子供を通して、子供が弱さを持っているから、
弱さを通して親にいろいろ心配、悩みをかけ、
そして支配しようとするこの悪魔の勢力があります。