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2026/08/23:使徒信条(11)罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信じる
2026-08-23 34:39

2026/08/23:使徒信条(11)罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信じる

2026/08/23 聖日礼拝

加藤満牧師

コロサイ人への手紙 3:1-11


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サマリー

本日の礼拝では、使徒信条の最後の部分である「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信じる」について、加藤満牧師がコリントの信徒への手紙3章1-11節を基に解説しました。牧師は、私たちがこれらの恵みを信じると告白するのは、時にその確信が揺らぐからだと指摘します。しかし、パウロは、洗礼によって私たちはキリストと共に葬られ、共に蘇った者であり、神の御前に立つ立場が不可逆的に変わったと語ります。イエス・キリストの十字架は、私たちを責め立てる債務証書(罪)を無効にし、悪の権威に対する勝利を宣言しました。この勝利により、私たちはもはや罪や死、悪魔に支配されることはありません。したがって、パウロは「上にあるものを求めなさい」と勧めます。これは、キリストが神の右の座に着き、王となられた事実を思い起こし、その支配下にある者として生きることを意味します。具体的には、古い自分(地にあるもの)を脱ぎ捨て、怒りや偽り、欲望といった罪深い行いを捨て、新しい人(神の形)として生きるよう促します。洗礼を受けたという事実は変わらないため、たとえ心が揺らいでも、神の子としての立場は揺るぎません。毎週の礼拝こそが最も大切な「聖なる会合」であり、そこで私たちはキリストの圧倒的な救いの御業を確認し、信仰を新たにすると強調されました。

祈りと礼拝の導入
本当に滝のように汗が流れる日ですね。
ぜひお体第一にしてください。水分補給も自由なときに行ってください。
一番楽な姿勢で、死の御前にいてくださればと思います。
一言お祈りをいたします。
恵み深い父なる神様、私たちを今日も死の御前へと集わしてくださり、
あなたの御恵みに触れることができることを感謝をいたします。
本当にこの厚さの中で、私たちは互いに弱りやすい中にありますが、
しかしあなたは変わりません。永遠なる主が私たちとともにいてくださり、
私たちの罪をその十字架で担い、三神に甦えられた主の命を私たちに与えてくださり、
永遠なる主が確かにどんなときにもともにいて、
私たちが弱るときにも、そこにはあなたがおられて、
永遠の身腕を持って確かに支えてくださっている、
その恵みの日々を覚えて心から感謝をいたします。
主をどうか、私たちはなおも揺らぎやすいものです。
世界が揺れています。戦争もそうです。自然災害もそうです。
地震が九州でもそして茨城でもありました。
本当にそのような揺れを経験して今朝、
同じように主を仰いでいる兄弟姉妹がいることを覚えますし、
またその地において今暑い中で被災生活を送っている
本当にお一人一人のことを覚えます。
そのようなことを覚えるときに、
主はあなたはどこにおられるのですかと、
私たちは思いやすいものかもしれません。
ただ主よ、あなたは変わらずに、私は共にいると語ってくださいます。
どうか主よ、礼拝において、また御言葉を通して、
主と信条を通して、私たちの目を開いてくださり、
今一度生ける主を仰ぐことができるように、
信仰と勇気を与えてください。お願いいたします。
ここに来たくても来れない一人一人がいらっしゃいます。
どうか主が慰め、そこに御臨在くださいますように、
共にまた集うことができるように、
すべて万事を整えて、癒してくださいますようお願いいたします。
あなたに期待をいたします。
すべてを導いてください。
イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
使徒信条の学びのまとめと本日のテーマ
4月から学んできました一信条は今朝で最後となります。
9月からは第二サムエル記を去年の続きでまた読んでまいりますので、
覚えてくださればと思います。
一信条をずっと見てきました。
一信条は教会の信仰の根幹にある告白であると
お話をしてきました。
それは先ほども告白をしたように、
私たちが信じている三味一体の神様、
それは父なる神様、子なる神イエス様、
そして精霊なる神様、
その方々がどのようなお方で、
その三味一体の神様がこの世界に、
そして私たちに一体何を成してくださったのか、
その救いの御業をご一緒に確認をしてまいりました。
一信条はそのような恵みを告白するものです。
そしてその救いの御業によって、
私たちにもたらされた救いの現実、
すでに今私たちにもたらされている救いの現実は、
今朝告白しているものです。
今朝注目する告白の箇所です。
罪の許し、体のよみがえり、
永遠の命を信するというものです。
これは今私たちに与えられている恵みですね。
これはキリスト社の過去と現在と未来のことを指しているということをよく言われます。
私たちはかつて罪人でしたが、
罪が許されたわけです。
そして将来において私たちは体のよみがえりの希望を持ちます。
そして今私たちは永遠の命に生かされている。
そのようなことを思うのですね。
救いの確信の揺らぎとパウロの勧め
ただ、この罪の許し、体のよみがえり、永遠の命というものも、
これは真珠と告白をいたします。
信じると私たちは告白をする。
それは何か。
神様が私たちに成してくださった地名のことであるならば、
信じることなくそれは事実として私たちのうちになっているではないか。
そう素直に思えたらいいのですが、
しかし私たちは真珠と告白をするのは、
それはきっと私たちが主がそのように成してくださったという救いの見方を
信じきれない時があるからです。
そうではないでしょうか。
私たちはイエス様の十字架によって罪が許されました。
でも時々聞きます。
いや、私の罪は許されていない。
私は天国に行けないんじゃないかというクリスチャンの方がいらっしゃいます。
私たちは体のよみがえりを真珠、復活の希望を抱いています。
しかし富に死という現実、病という現実を前にするときに、
私たちは揺れ動きます。
揺れ動いて、ああ、この死が全部私を包み込んでしまうかのような、
そのような不安に、恐れに囚われることはあるでしょう。
永遠の命を真珠と告白いたします。
永遠の命は永遠なる死に私たちが切り離し難く結ばれている命ですよ。
でも、死と結ばれていると言いながら、
いや、私は神様にもう見捨てられた。
私は今、神様から見放されているのではないかという孤独に囚われることがある。
神様の救いは確かで変わりません。
神は変わらないと先ほど賛美をいたしました。
しかし、私たち自身の心は変わりやすいです。
そして、時に救いの確信が揺れるということがあります。
本当に罪許されているのか、本当に復活はあるのか、
本当に今私には永遠の命があるのか、そういうことはないでしょうか。
少なくとも私は告白しますが、私はそういうことがあります。
そして、そのようなある種、自分の救いを信じられない時がある時に、
そのような自分の救いを信じきれない人々というのは別に、
今に限ったことではなく、2000年前の教会にもいました。
むしろパウロはそういう人たちに向けて語っていました。
何度も、あなた方はキリストを信じ救われたのに、
なぜなおも罪の中に、不安の中に囚われるのかと何度も語りました。
今朝お開きしたこのコロサエビテの手紙の3章の1節から11節もそのような箇所です。
神様の恵みは変わらない。だからこそ、そこに立てと私たちは今朝招かれます。
その見込みをパウロの言葉から少しご一緒に聞いていきたいと願っております。
2つのポイントで今朝もお話をいたします。
洗礼による確証:キリストとの共に蘇り
第一のポイントは、あなたは既に神のものであるというバクテスマによる確証というものです。
コロサエビテへの手紙を今朝は開きました。
特にお読みした3章の1節を見ていただくと、パウロはこのように語りかけます。
こういうわけで、あなた方はキリストと共に蘇らされたのなら、上にあるものを求めなさい。
そこではキリストが神の右の座についておられます。
まず注目をしたいのは、パウロはこの教会のキリスト者たちに向けて、
あなた方はキリストと共に蘇らされた人々だと呼びかけます。
この呼びかけは、実はこの前段階がありまして、コロサエビテの2章の12節から15節の文脈を受けています。
ちょっとその歌詞も読みますが、コロサエビテの2章の12節から。
ちょっとゆっくり読みますので、聞いていただいても結構です。
コロサエビテへの手紙の2章の12節から。
バクテスマにおいて、あなた方はキリストと共に葬られ、またキリストと共に蘇らされたのです。
キリストを使者の中から蘇らされた神の力を信じたからです。
そむきの内にあり、また肉のかつれいがなく、死んだ者であったあなた方を、神はキリストと共に生かして下さいました。
私たちのすべてのそむきを許し、私たちに不利な様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、
それを十字架に釘付けにして取り除いて下さいました。
そして様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて晒し者にされました。
ちょっといろいろ書いててわかりにくいかもしれません。
ただ、簡単に確認をしますと、パウロは言うので、私たちもそうですが、私たちもイエスキリストを信じてバクテスマを受けましたよね。
そうですよね。私たちもイエス様を信じてバクテスマを受けました。
このバクテスマの意味をパウロは明快にここで語っているんです。
洗礼って何ですか?
それは、あなたがキリストと共に葬られ、キリストと共に蘇ったことを意味するんですよ、ということを言うんです。
もうちょっと詳しく言うならば、すなわちそれは、水に沈むというのは死んだということの比喩ですね。
私たちは死んだ。
それは、キリストが十字架で死なれたように、古い私があの時にもう死にましたということの表現ですよね。
そしてバクテスマがバチャーンとこうやって起きますけれども、この水から上がること、これは復活の比喩である。
すなわち、イエス様が三日目に蘇られたように、今度はあなたは死んだんだから、
神様が与えてくださった新しい命を生き始めるものになったんですよ、ということを言っている。
洗礼ってそういう意味ですよ、ということをパウロはここで語るのです。
ただ、これはもうちょっと言い換えれば、こういう表現もできる。
それは、私たちの神様の見舞いにおける立場が不可逆的に変わったということです。
不可逆的に変わったというか、立場が変わったということを意味します。
ここで不可逆ということを言う、要は戻りようがないということを言っているのはなぜかというと、
実はこの12節から15節に書いている動詞は全部細かい話ですが、これはギリシャ語のアオリスト形という言葉で書かれています。
アオリスト形という言葉は、これは過去の一点において断定的にそうなったという格形です。
こうなった、なった、なった、なった。
読んでいただくと、バクテスマニス、あなた方はキリストとともに葬られた。
あなた方はキリストとともに蘇らされた。
神の力をあの時に信じた。
背きの内にあり肉のかつれの女がありますけれども、
神はキリストとともに生かしてくださった。
債務証書を無効にしてそれを十字架につけてしまった。
取り除いてしまった。
全部それも断定的にそうなったということを言っているのですね。
それはもう神がなさったことだから戻すことなんかできません。
特に心に留めたいのはこの14節の言葉です。
2章の14節。
私たちに不利な様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、
それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいましたとあります。
これもアオリスト系です。
イエス様の十字架というものは何か。
それは私たちを責め立てる債務証書。
それは神様の御前に私たちが犯してしまった罪でしょう。
そしてその罪、どのような罪があるか分かりませんが、
その罪があり、その罪ゆえに自分自身を責め立てている後悔や自責の念ということもあるかもしれません。
私たちの中にずっとつきまとう私を責め立てる声というものかもしれませんが、
しかしそれらすべて、過去も今も未来もそのような、
あなたを責め立てる債務証書はもはや十字架に釘付けられた。
断定的にそれを言われます。釘付けられた。
それはイエス・キリストのあの裁きによって、それはもう裁きを受けたということです。
すべては断定的なことです。もう神様はすでに脳損をなさった。
だから不可逆的にあなたの罪はもう許されたなんですよ。
これ断定なんです。許されたです。
私たちはイエス様の十字架の犠牲を小さくしがちです。
聖なる神の御子がその命を捧げられたならば、
私たちの罪がいかに大きかろうと、それを逆転させるなんて不可能ですね、通常考えて。
でもそれを私たちは信じてしまうんです。私の罪は大きいから。
その言葉こそが私は不信仰だと思います。
イエス・キリストの十字架を小さくしてはいけません。
そしてそれだけではありません。
この15節も注目していただきたいのは、15節に書いてあるのは、
そして様々な支配と権威の武装を解除し、
それらをキリストの外戦の行列に捕虜として加えて晒し者にされました。
これも断定です。
様々な支配と権威というのは、
これはそれまでイエス様が王になる前にこの世界を支配していた権威、空中の権威、
サタン、悪魔と言ってもいいでしょう。
それらの権威をキリストの十字架、キリストが王になられて、
その外戦の行列に今や捕虜として加えている。
イエス様の十字架は、死と悪魔に対する勝利であると賛美もいたします。
そしてそのような悪の権威は、
神の右の座につき世界の王となられたキリストの外戦に捕虜として加えられている。
いえ、私たちは使徒信条を見たときに学んできました第一ペテロの三章というところで、
キリストは黄泉にまで下り、死と悪魔に勝利宣言をなさった。
圧倒的な勝利を死と悪魔に対してキリストはなさったのです。
だから死も悪魔も、もはや立場が変わり、
私たちは神のものとされている私たちを支配することなどできない。
地上の体が朽ちようと、死は私たちを保てません。
むしろキリストの復活が私たちの内に現され、
キリストと同じようにあなたに体のよみがえりの希望があるということを聖書は断定的に語ります。
キリストが死に勝利されたなら、そこに勝利は確かにある。
そのような立場の変更のことを指して三章の三節ですね、そのように表現もされています。
三章の三節、あなた方はすでに死んでいて、
あなた方の命はキリストとともに神の内に隠されているのです。
あなたの立場はもう変わった。神のところにある。
そのように聖書は語ります。
そのような罪の許し、体のよみがえりが私たちの内に起きたのは何かというのは、
それは使徒信条が告白してきたように、イエス様の十字架と復活の御業によるのですね。
新約聖書は様々な形でこのイエス様の十字架の死と復活を語ります。
しかし共通して語られていることは、
主イエス様は罪に対し、死と悪魔に対して圧倒的に勝利したということです。
共通して語られるのは圧倒的な勝利者です。
そして王となられたという事実です。
キリスト社はこの王であるイエス様の民、神の子、キリストの弟子、様々な言い方がありますが、
しかしそのような立場に既に置かれている、あなたは私のものであると言われる立場に既に私たちは置かれている。
そしてそれを確証するものがパウロはバクテスマだと言うんですよ。
「上にあるものを求めなさい」という勧め
この2章の12節に戻りますが、
バクテスマにおいてあなた方はキリストと共に葬られ、またキリストと共によみがえらされたのです。
みなさん宣伝を受けているってすごいことですよ。
私何度も何度も申し上げます。宣伝を受けているってのは素晴らしいことです。
イエスキリストを信じ宣伝を受けたということは。
私たちは最初に申し上げましたが、救いを疑う時があります。
私は救われているんだろうか。
私はイエス様を信じたけれども、繰り返しあんなことやこんなことをしてしまった。
取り返しのつかないこともしてしまった。
私は本当に救われているんだろうか。
けれどもパウロが語るのは、あなたの心が私の心が変わったとしても宣伝を受けたという事実は変わらない。
その事実が変わらないのであれば、
それ故にあなた自身が自分のことをどう思うとも、あなたが救われた神の子であるという立場は変わらない。
宣伝を受けているというのがそういう事です。
だから私たちは揺れ動き始めたら、でも私宣伝を受けたという事を思い返しましょう。本当そうです。
私は確かに神の子なんだという事を覚えたいとですね。
そしてそういう立場に置かれたものに対してパウロは続けて語る言葉は、2番目のポイントですが、
上にあるものを思いなさい。
上にあるものを思いなさい。
パウロはこの宣伝を受け、イエス様の新しい命に生きたそのキリスト社に進めます。
3章の1節2節読みますと同じような事が言われます。
こういう訳であなた方はキリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。
そこではキリストが神の右の座についておられます。
上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
繰り返されているのは上にあるものです。
この上にあるものを思えという時のこの上にあるものとは何なんでしょうか。
普通に言うと漠然と天国を思いなさいみたいな事を言われている気がしますが、そういう事ではありません。
これは1節の言葉です。
上にあるものを求めなさい。
そこではキリストが神の右の座についておられますという言葉です。
上にあるという事が指している事は何か。
それは今や使徒信条が告白するように天に上り全能の父なる神の右に座したまえ。
イエスキリストはこの世界の王になられたという事実です。
その事実を思いなさいなんです。
この世界の王は変わりあなた方は王の民の立場になったその事実を思いなさい。
いわばイエス様の支配ですね。
イエスキリストの支配の中に私たちは置かれているそのようなものとして
自分の事を思い色々な事を決定する基準にしなさいという事を言っているんです。
上のものを思いなさい。
その事を具体的にどういう事ですかと語っているのは3章5節以下です。
3章5節以下にここに書かれている事を読みますが
ですから地にある身体の部分すなわち身だらの行い
汚れ情欲悪い欲そして鈍欲を殺してしまいなさい。
鈍欲は偶像礼拝です。
これらのために神の怒りが不従順のコラの上に下ります。
あなた方も以前はそのようなものの中に生きそのような歩みをしていました。
しかし今はこれらすべてを
すなわち怒り意気通り悪意罵り
あなた方の口から出るはずべき言葉を捨てなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。
あなた方は古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて新しい人を来たのです。
新しい人はそれを作られた方の形に従って新しくされ続け真の知識に至ります。
ここまでにいたしますが。
お気づきでしょう。ここでは上にあるものすなわち天と地にあるものというもの
天と地がこれは対比されているわけですよね。
そして上にあるものを思うというのはどういうことかというと
いわばかつて地に属していた私たちですよ。
かつて天を知らず神様を知らず地に属していた私たちの生き方
すなわちそれは情欲悪い欲鈍欲
そうしての偶像礼拝
怒り意気通り悪意罵り
口から出るはずべき言葉
偽り
それらからイエス様の支配に生きる生き方をしなさい。
ひらたく言うならば
イエス様ならそれに対してどうするかを基準に考えて生きていきなさい
そういうふうに招かれる。
イエス様が私の主であり王なんだから
その方に習って生きていくというのはどういうことなのか
これらのことについて考えなさいということを言うのですね。
そしてここで断定的にも言われるのは
あなた方はもはや新しい人を来たのですと
十節に書いてあります。
新しい人を来たのです。
イエス・キリストが永遠なる神が
今やあなたの王となり
新たな立場を得たのだと言って
言い換えてもいいかもしれません。
新しい人を来たというのはそういうことです。
新しい立場を得た。
その支配の中で十節に書いてありますが
あなたは精霊様によって
いろいろな悪行や意気通りだとかね
抱えながら私たち生きていきますよ。
でもこの精霊様によって
私たちはそれが徐々にでも変えていくわけですよ。
手放せるものになっていくわけです。
そのように新しくされ続けて
本来の人間の姿である神の形に向けて
その方の形に向けて
私たちは新しくされ続けていくんですよね
ということを言うのです。
神の形とは
それは心も知性も魂も尽くして
神を愛すること
そして自分自身のように隣人を愛することです。
そのようなものへと
あなた方は新しくされ続けていく
そのような
イエス様がなされたようなことですね
そのような神様に結び合わされて
日々あなたが古い人を脱ぎ捨てて
新しくされていくという
神の力にも捉えられて生きていっているというのが
永遠の命を生きているということです。
永遠の命に結ばれているというのはそういうことです。
揺らぎやすい信仰と毎週の礼拝の重要性
永遠なる神に結ばれているというのは
もはやあなたはあなたのままではいられない
神があなたのうちに働いて
私たちの罪が
私たちの生きどおりが
罵りが、悪行が
もう言えなくなる
でもそれは自分の力でもない
神様が私たちをそのように変えてくださる
恵みの中に今生きているでしょう
ということを私たちは言われる
そしてイエス様は言われました
私は世の終わりまで
いつもあなた方とともにいる
パオロはそのように新しい人を来た
そのような命に今あるよということを言う
パオロはこの手紙だけではありません
他の手紙でもそうですが
年頃にあなたはもう新しくされましたよね
ということを教会に語り続けます
それは何か
あなたの立場は新しくなり
あなたの王様は変わった
あなたはそうであるのに
いつまで以前の王を
礼拝し続けるのかと問いかけるんですよ
私たちはそういうことがあるんですね
神様があなたの罪は許されたと宣言された
しかしなおも
あなたを責め立てている声は
一体誰の声なんでしょうか
しかしもしかしたら
その私を責め立てる私の声
誰かの声であるならば
私や誰かがその人の神様になっているんですよね
私たちは死への恐れを持ちます
復活の約束が与えられていますが
しかし死の恐怖が私たちを覆い
希望を損なわされるならば
死が私たちの支配者になってしまう
王は変わったの
そして私たちは確かに
神様に結ばれた永遠の命を生きています
私は世の終わりまでいつもあなたとともにいるという
しかしそれを推して
私はでも神様に見放された
孤独であると孤独にがんじがらみになってしまうならば
孤独があなたの神様です
そして神様は決してあなたを一人にするとは言ってはいない
上にあるものを思いなさいとは
恵みの現実に生かされていながら
違うものを神様として
神様の約束を忘れやすい
恵みの現実 救いの現実を忘れやすい
それを私たちに
イエス・キリストがあなたになしたことを信じなさい
ということを私たちに問いかける
もう一度上を思いなさい
イエス・キリストはあなたの王は
いったいあなたに何を約束したか
そのことをもう一度思いなさい
信仰というのは
自分が自分のことをどう思うかではない
信仰というのは
神様が私をどのように見ておられるか
その眼差しを受け入れることです
そして弱く振り回されやすい私たちのために
人心情が与えられていることを
私たちは感謝しなければならないなと
つくつく思います
ひとつだけお話をしても終わりますが
先週 丹波聖会がありました
水曜日に橋本さんとまた京区の青年を2人連れて
丹波カイバル教会に行ってきて
聖会に参加しました
礼拝堂が満杯になるくらい
たくさんの方が来てすごく祝されたんですけれども
今は便利な時代でした
丹波聖会のメッセージは全部YouTubeで見れるんですね
私は全部見ました
その中でひとつ
全て素晴らしかったんですが
特に私の心をとらえたのは
一番最初の集会に語られた
金井義次先生の礼拝からの解き明かしでした
ちょっとだけお開きできるでしょうか
礼拝の23章の2節3節
金井先生はメッセージの中で
聖会って何かということを
改めて確認するようなニュアンスで
お話をされたんですが
ただ大切なこととして
23章の2節3節を読みしますと
こういう言葉があります
一節から言いますが
主は孟子にこう告げられた
イスラエルの子らに告げよ
あなた方が聖なる会合として
招集する主の礼拝
すなわち私の礼祭は次の通りである
6日間は仕事をする
しかし7日目は全く休みのための安息日
聖なる会合の日である
あなた方はいかなる仕事もしてはならない
この日はあなた方がどこに住んでいても
主の安息日であると書かれる
実は聖なる会合については
この後ダーッと書かれていくんです
でも聖なる会合の
一番最初に書かれているのは何か
それは安息日なんですよ
ここからカナイ先生は
こういうメッセージをされました
私たちにとって一番大事な聖会
それは毎週の安息日礼拝ですよ
聖書はそう語るんですよ
どこか特別な聖会
聖会に恵みを求めて私たちは行くわけです
どこか聖会に行ったらいいんです
でもどこか特別な聖会が特別なのではなくて
最も大切な聖会
それは毎週毎週私たちがここで守る
安息日礼拝なんですよ
そのことを思いながら
皆さん礼拝出てますか
ということを問いかけられましたけれども
私も目から鱗が落ちるように思いました
そして改めて大切なことだなと思ったのです
確かに私たちの毎週の礼拝は
聖会ほど盛り上がりません
私たちの毎週の礼拝は
聖会ほど劇的なことは起こらないかもしれません
でも盛り上がることが大切ではないんです
何か劇的なことが起こることは
本質的なことではないんです
むしろ私たちが聖会でも安息日礼拝でも
気づかされることは何か
それは私たちが主にあって救われて
洗礼を受けて今生きていること以上に
劇的なことなんかないということです
主の救いの御業は
それほど私たちに豊かで確かであるという事実です
私たちは聖会とか礼拝で
その豊かな救いを確認しに行くんです
ああそうだ
私が救われている
神のことをされているとこんなに素晴らしい
そうではないでしょうか
そして御言葉を通し
信仰告白を通し
三味一体の神様がこの世界に
いえいえ私になしてくださった
恵み深い現実を確信する
それは聖会でも礼拝でも同じことでしょう
自分自身のことを申し上げますが
最初に申し上げた通り
私も救いが揺らぐ時があります
しかし揺さぶられる現実の中で
忘れてしまいやすい
そのような現実の中で戦っているからこそ
私たちは毎週一心情を告白をします
大切に告白をします
それはそこには揺らぎ変わりやすい私に対して
変わらない神様の見姿が告白をされています
私たちがどんなに救いを信じられなくても
変わらない主がすでに私たちになしてくださった
十分で圧倒的な救いが告白をされています
そして私たちがいかに自分のことを信じられなかろうとも
あなたは確かにそうだと言っている告白を
私たちは告白をする
それを私たちは信じるんですよ
アーメンそうだ
いろいろ揺れていたけれども
アーメンそうだ私はこういうものなんだと
私たちはまたそこで受け止め直す
そこで救われていることの豊かさを生きていく
罪の許し体のよみがえり永遠の命を信じる
そう告白しながらアーメン
本当にアーメンそうですと
そのように主に感謝する信仰生活を歩んでいきたい
主が今朝私たちに勧めるのは
上にあるものを求めなさい
上にあるものを思いなさい
そこではキリストが神の右の座についておられるのです
お祈りをいたします
34:39

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