スピーカー 3
はい、それでは始めていきたいと思います。 村中直人さんに来ていただきました。
スピーカー 2
はい、ありがとうございます。よろしくお願いします。
スピーカー 3
じゃあ、簡単に自己紹介とか、どういうことをやってきている方なのかというのはいいでしょうか。
スピーカー 1
はい、ありがとうございます。私、村中直人と申しまして。
自己紹介って一番わかりやすいのが資格ですね。 臨床心理士と公認心理士を持っていまして、
いわゆる心理士という職業になる方だと思います。
ですが、やっていることとしては、この音声を聞いていただいている皆さんに一番伝わりやすいのは、
スピーカー 1
いろんなキーワードで発信活動をしていて、一つ大きいのはニューロダイバーシティ、脳の多様性ということをベースに、
この社会についての考え方とか、対人関係とか支援とかというところの発信活動をしています。
もう一つは、しかる依存が止まらないという本を2022年に出版をしまして、
それが著者の予想をはるか超えて、いろんな方に読んでいただいたという経緯がありまして、
なので、しかる依存というキーワードで読んでいただいて、いろいろ発信することも多いです。
仕事は一体何をやっているかと思われると思うので、仕事は発達障害サポーターズスクールというオンラインスクールですね。
発達障害の支援者要請のオンラインスクールの経営をしたりとか、あとは職員研修をしたりとか、
そういう仕事をしていたりとか、あとはニューロダイバーシティアットワークという会社を2年前に立ち上げまして、
そっちは企業さんとのニューロダイバーシティの推進のお仕事をコンサルティングしたりとか、
講演研修したりとかというふうなことをしていたりとか、
しゃべっていながら自分が何をやっているしにしながらか全然わからなくなってきますけど、
いろいろやりながら過ごしているというちょっと雑多な人間でございます。
スピーカー 2
ありがとうございます。
ティーチャーティーチャーでもしかる依存が止まらないのを話をさせていただいて、一度。
スピーカー 1
はい、どういたしました。ありがとうございます。
スピーカー 2
すごい反響があって、それでけっこう刺さったリスナーさんがいらっしゃって、
その方がインタビュアーもしていて、その方が村中さんにインタビューをして、今回ご縁があったという。
スピーカー 3
そういうことか。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
そうそう。取材のご依頼をいただいて、その時にこのティーチャーティーチャーさんのことを紹介していただいて、
今回繋いでいただいたという、そういうご縁ですね。
スピーカー 3
前回の配信でニューローダイバーシティの話はある程度知っている状態で、
ニューローユニバーサリティからニューローダイバーシティに変わっていくんだっていう話とか、
学び方は多様だよねって話をしているような状態です。
スピーカー 1
なるほど。
スピーカー 3
ちょっとさらにいろいろ理解を深めたいことがありまして、お呼びさせてもらいました。
スピーカー 2
そうなんですよ。
ラーニングダイバーシティの夜明けっていう本を配読いたしまして、
そこでどんだけ学び方に多様性を持たせることが大事かっていうのをすごく僕の中でも痛感して、
振り返ったら自分は学び方を相当自由にしてこれたなっていう過去があったりとか、
または教演時代にその学び方が合わなくて自信を失っている子たちがたくさんいたなとかっていうことがすごい想起されて、
今日聞きたいのは、学び方ってどう学ぶんだっていう、どう身につけていくのって話を聞きたいのと、
もう1個僕印象的だったのが、村中さんのお子さんの学び方を身につけていく様子とか、
学校に行っていないっていう時の様子とかもこの本の中にあって、
そこで困っている保護者もたくさんいるので、その過程での様子とかもお伺いできればなというふうに2つ思っているんですよね。
その中で、僕が勝手に前回、ラーニングダイバーシティの大事さみたいなことをしゃべったんですけど、
改めて村中さんがなぜ、学校現場にこのラーニングダイバーシティが必要なのかとか、
ニューロダイバーシティ的な視点が必要なのかみたいなのをお話し、まずお伺いできれば嬉しいなって思っています。
スピーカー 1
ありがとうございます。そうですね。なんかちょっと時系列に沿って順番に話すと、
私が教育っていうものに携わるようになったのは、一番最初、臨床心理師になりたっての頃、
20年前ぐらいなんですけども、スクールカウンセラーとか教育センターの教育相談員とかっていう仕事を非常勤で始めたんですね。
そこが私の教育との関わりの出発点なんですけども、当時がちょうど発達障害っていう言葉が世の中に広まり始めたちょうど時期ですね。
2005年に発達障害者支援法っていうのができて、2007年に特別支援教育が始まってるんですけど、
特別支援教育って来年で丸20年になるんですね。その一番初期の時に私は心理師になって、
何が起きたかっていうと、当時通常学級の中には障害者はいないっていうのが基本的にインクルーシブ教育をしない限りはいないっていうのが定義だったところから、
法律が変わって概念が変わって、実は通常教育の中にも障害児が実はいるんだよと、発達障害の子どもたちがいるんだよっていうふうに、
社会の認識が上塗りされたというか、そういう時期だったのでけっこう現場大混乱だったんですよね。
学校の教員の先生もそうだし、我々みたいなカウンセリング業務をするところにも、それまでだったら障害児の相談室と健常児の相談室みたいなのはけっこうきれいに分かれてたところから、
その垣根がどんどん崩れていくみたいな、そういう時代の中でいろんな子どもたちを見てまして、
何を思ったかっていうと、これもちょっと相談室の中でできることには限界あるわと思って、
かかるし頃の私がまだ20年経たないかな、17年前に臨床心理の仲間たちと学習支援の授業を始めたんです、もう勢いで。
それは今関西でもアスハナ先生っていう名前の授業として、私の後輩心理師が授業責任者を引き継いでずっとやってますけども、
それの立ち上げをやり始めて、そこでいろんな子どもさんとか保護者の方とかに出会うことになったんですね。
学習支援っていう形で、いわゆる塾家庭教師ですねっていう形で始めて、その枠で子どもたちと関わってきたので、
学ぶっていうこととずっと向き合いながら子どもたちと関わってたんですよ。
ただ、なんかちょっと聞いとったのと違うっていう感じがありまして、
というのは、例えば学習障害とされるお子さんっていうのは、教科書的には文字通り、
学習するというスキルにおいてのみ特異的な機能障害があって、
学ぶことができないんだと、読み書き計算ができないんだ、みたいなのが教科書的な学習障害の定義なんですけども、
まあ出会わないんですよ。
きれいにそれだけに、まったくいないって言ったら弊害があるんで、そうはもちろん言いませんけども、
スピーカー 1
私たちは高教育から溺れ落ちてしまうタイプの、勉強で困っているとか学習の面で困っている子どもたちばっかりが集まってくる、
学習支援の教室なんだけども、機能として、スキルとして、何をどうしたところで学べない子なんてほぼ出会わないんですよね。
これはなんだって思ってたんですけど、つまり、要は学び方が合ってなかっただけだねって結論になる子がめちゃくちゃ多いんですよね。
だし、自分なりの学び方を見出していくと、まず一番大事なのは学ぶってことが大嫌いだったところから、
スピーカー 2
もう嫌で嫌で仕方がなった子たちが、ちょっとずつ意識が変わっていくっていうことが起きてきて、
スピーカー 1
そうすると、もちろん学力って意味ではすごく伸びる子もいれば、なかなか苦戦し続ける子もいますけど、
少なくとも学ぶってことが苦痛で苦痛で仕方がないとか、嫌で嫌で仕方がないみたいな子は、
すごく少なくなっていくわけなんですよ。
こういうところから、あれって何が聞いてたのと違うみたいな話が出てきたりとか。
あとは、いわゆる発達障害と呼ばれている子どもたち。
特に私の場合は、自閉スペクトラム。
昔で言うところのアスペルガーとか、後期の自閉症って言われた子たちですね。
今は自閉スペクトラム症というふうな診断面になりますけども、
私は自閉傾向のある子どもがめっちゃ大好きで、可愛くて仕方がないタイプなんですけど。
そんな人間がやってるからか、生徒さんも多いんですよ。自閉傾向のある子が多かったんですよね、当時ね。
これも関われば関わるほど、聞いてたのと違うというか。
自閉症って精神学的な定義で言うと、コミュニケーション能力が根本的に欠如して、
人と長期に渡る対人関係を維持することができなくて、他人に対して共感する能力がなくて、
みたいな散々なことが書いてあるわけなんですけど、精神学上の診断基準。
だけど、なんか違うんですね。その言葉で見ると全然ピンとこない。
なので、これは何なんだと。私が仲良くなればなるほど、関わりに最初はめちゃくちゃ苦労したんですけど、
なんとなく見えてくると、これは違う。文化が違うんやって思うようになったんですね。
異文化コミュニケーション上で、コミュニケーションのエラー、トラブルといっしょやと。
だから、異文化同士が出会ったときって、お互いが異文化者だって認識しないと、
なんでこんなこと言うんや、みたいな感じのことがあったりしますよね、海外の人とだとね。
そういうことが日々起きているだけなんだっていう認識になったんですよ。
要は、このマスクと実際に出会って触れれば触れるほど、聞いてたんと違うぞと。
実体で感じる実感と教科書的な定義にはすごくズレがあるぞっていう、そういう感覚を持ちながら日々過ごしていって、
そこでニューローダイバーシティっていう概念に出会ったんですね。その親も同じだったと。
スピーカー 2
そっちが好きやったんですね。違和感を感じたのが。
スピーカー 1
違和感とか、私何でこういうことだろうみたいな学び方って、学ぶ能力の低い子なんて、
能力が低いっていうか、それが少なくとも障害を負ってる子なんてあんまではなくて、
大体において学び方の問題だったと。
自閉症のコミュニケーションの問題も、この子自身の能力が低いみたいな見方はちょっと合わないだろうとかっていう、
違和感とか自分なりの生理みたいなのが先あって、その後にニューローダイバーシティって言葉と出会ったときに、
そのときの感情体験をすごく覚えてるんですけど、めちゃくちゃホッとしたというか、
あ、もう名前ついてるやんっていう感覚やったんですね。自分の思ってた名前だったことには。
すでに名前あるやん。しかもそれは、私が今可愛くて仕方がない、
自閉スペクトラムの子どもたちの10年後、20年後の姿、大人たちが作った言葉だっていう歴史的背景なんかも知ったら、
あ、これはちょっとって思って、そっからですね、この沼にハマっていったのが。
スピーカー 2
その、なんか自分の中で安心したっていう段階から、世の中に発信しようみたいなきっかけとかあったんですか?そこに切り替わったきっかけっていうのは。
スピーカー 1
やっぱりでもそれはSNSですね。なんか、もともとそんな今みたいにね、いろんな発信の場を与えてもらえるような立場になれるなんて思ってなかったので、
SNSで細々と、それこそビビりながらいろいろ発信を始めていったら、やっぱりね、反応があったんですよ。それなりにあったんですね。
それでブログをちょっと始めたりとか、その前に1回ノートしたかな?ノートちょっとだけして、やめてブログに切り替えてとかっていうふうな感じで、
なんかちょこちょこちょこちょこと発信をしていって、そうしたら、ある程度のいろんな反響みたいなものが生まれてきて。
当時で言うと小っちゃな反響ですけども。そこから、それこそ先ほどお話しした2020年に出版したニューロラマシンの教科書、私の一番最初の本なんですけども、
それを出版する話になったっていうところからも、本当に発信側に変わっていったっていう感じですね。
スピーカー 2
村中さんから見て、教育現場にこのラーニングダイバーシティの視点が重要だと思うのはどうしてなんですかね?
スピーカー 1
そうですね。もうちょっと正確にお話をすると、私が見てた子どもたちっていうのは、学習状態の診断ついてる子、ついてないグレーの子、
ついてないけども苦手な子。正直そのラベリング、診断がついてる、ついてない、グレーないとかっていうラベリングってあんま関係なかったんですよね。正直。
それよりかは、この子がどういうところでうまくいってないかとか、どういうことにつまずいてるというよりかはこだわっちゃってることも多くて、支援をしている中ですごい困るのが、
例えばその学習支援の現場で、こういうやり方もあるよとか、こういうふうにしてみたらいいんじゃないみたいな話を子どもにしたときに、傷ついちゃってる子ってめちゃくちゃディフェンシブになってるから、
これ学校で教わった習い方じゃないから嫌だとか、学校で習ってないやり方をすることに対してめちゃくちゃ抵抗があるとか、
今って学校で習ってない漢字書かせないとかあるじゃないですか。自分の名前ですだろうが、習ってないからひらがなで書きなさいとかって。
あれ本当に弊害が強くて、それでやると、われわれめちゃ困っちゃうわけです。
どう考えても、この子のこっちのほうが合ってるし、実際やってみたらうまくいくんだけども、心的なハードルが高くてできない、それを選択できないみたいな事例に出会うと、
これもうちょっとなんとかならんのかいねっていうふうな、そういう気持ちにはありましたよね。
ただね、今こう私偉そうに、もちろんこの本も書きましたし、公教育に対していろいろ提言も今はしている立場ですけど、
先ほどお話したように、最初怖くて怖くて仕方がなかったし、正直公教育を変えていくみたいなことのイメージはずっとけっこう持ててたかったです。
これはニュールダバシティという概念を知って学んで、実感として学習支援を持ってたとしても、どちらかというとオルタナティブに教育を今作っていく方向にしか発想がなかった。
公教育を変えるなんてできないし、もっと言えばたくさんの子を学ぶときにどうしてかわからなかった。
私たちの学習支援って基本的に1対1とか1対2みたいな、少人数の対応だからできてることもたくさんあったわけなんで、
この意味では公教育にそれを持っていけるのかみたいなことに関しても、正直私はもう怖くて怖くて仕方がなかったし、イメージが持ててなかったんですけど、
それをひっくり返したのが、やっぱり工藤先生ですよ。
先生の発信が始まって、その後に戸間の一徳先生もそうだし、
ああいう改革者の人たちの発信が出てきて、なんとなくこういうことかみたいなこととか、
確かに公教育でたくさんの子どもたちがいる場でも、子にあった学びってことは確かに実現可能だよなとか、
そんなことを思い始めたのが、おそらく工藤先生が私の中ですごく衝撃的だったのがあって、
あ、これ言ってもいいことなんだ、みたいな感じになって。
ちょうどたまたまそのときに、育ちの科学っていう半年に1回出る学術系の雑誌があるんですけども、
日本評論社さんが出してる、そこで連載を出していただくことになって、半年に1回8000字程度の原稿を書くテーマに
ラーニングダイバーシティを選んだんです。
私はそこから、それこそ福田さんがさっき読んでいただいたラーニングダイバーシティ系っていうのは、
その5年間の連載、結局全10回5年間連載をするわけなんですけども、それを過筆修正して本にしたので、
要は私の中で5年間ずっと、私も学びながら、試行錯誤を考えながら考えてきたことを一つの本にしたっていう、そういう感じですね。
スピーカー 2
さっきあった学び方をどう身につけていくかっていうところで、
学校教育で集団体制どうするかとか置いといて、村中さんが一人一人子どもを見てきた中で、
スピーカー 2
この子にあった学びをどう見つけていくかみたいな、っていうのはどういう風なプロセスでやっていったんですか?
スピーカー 1
これ私、だからその教育関係でラーニングダイバーシティに関する講演とか研修とかさせていただいたときに、
けっこう品質するご質問なんですよ。今の福田さんのご質問で。
私の学び方の対応なのはわかったと、どうやって見つけていって教えてあげればいいんですか?みたいな質問ってよく出るんですけど、
そこには私、答えをいつも一言で決めてて、邪魔すんなって答えてます。
だからそもそも教員が子どもたちの学び方見つけてあげて、
そのあった学び方を指導してなくちゃいけないっていうこと自体があんまりラーニングダイバーシティじゃないんですよね、発想として。
そこまで言わなかっても、もちろんお互い手出す気ができる部分はあるにしても、
まずはやっぱり本人の試行錯誤がベースなんですよ。それ以外ない。それ以上のものはないんです。
もうちょっと言うと、子どもたちって、その学び方の対応性っていろんなところからきますけれども、
一番ベースになるのは認知の対応性ですね。その人の情報処理システムの特徴みたいなものが、
その人に合った学び方と直結するっていうことを考えると、実はその人が何かをやろうと思ったときに自然に出てくるやり方が
実はその人にとって一番合うやり方である可能性は高いんですよね。
だから、そう考えると、問題というかチャレンジする課題が先にあって、
みんながそれぞれに思う、それぞれが自由に自然に出てくるやり方でまずはやろうとしてみると。
それでたぶんポコってできちゃう子もいるんですよ。もちろんできない子に関しては、
いろんな手立てでサポートしていくとか、そういうことは必要なんだと思うんですけど、
どっちかっていうとそっちに労力をかくべきであって、
今ってやり方をまず全部教えてからやらせる、みたいな感じの部分が強すぎるというか、
そんなふうに思ってますね。
スピーカー 2
なるほど。
例えば、そうか、僕ら学校現場で言われてたのが、
クールに行って子どもたちが泳ぎ方を学ぼうとすると、
例えばこの25m達成しようとか、クロールしようとか、平泳ぎしようとかって、
ある程度の枠組みがあって一個一個クリアしていくみたいなイメージあると思うんですけど、
それが海に出て自由に泳いでいいよって言われると怖いみたいな。
要は自由すぎるの怖いみたいなのってよく言われて、僕もそれ実感している部分があって、
教員が教えない、邪魔しないみたいなのって、あんまりイメージは湧かなくて、やっぱり。
スピーカー 1
わかります。今言った話っていうのは、出発点のスタート地点が2つあって、
1つは全くゼロベースから学び方をチャレンジしていく状況と、
もう1つは学び方が固定化される環境に馴染んでしまった人が、
そこから自分なりの習い方を見つけていく状況とで、やっぱりだいぶ違うんですよね。
スピーカー 3
なるほど。はいはい。
スピーカー 1
福田さんがおっしゃってるのってどちらかというと、
一度型にはめられて学ぶっていうことに馴染み切った子どもたちが、
じゃあここから先はあなた自由に学んでいいよって言われて、
どうしていいかわかんないみたいなことがやっぱりちょっとイメージできて、
それはもう本当にあると思います。
スピーカー 3
前提が違えば自由でも自分で学んでいけるっていう。なるほど。
スピーカー 1
最初からこれやってみとか、これできるようになったらいいよ、
この問題解いてみとか、これできるようになったらいいっていうことのやり方は自由であるというか、
そもそもやり方を指定されるっていうことを経験したことがない子は、
それにもちろん違和感感じないですね。
感じようがないですもんね。だって考えてみてください。
だってそれって、密集学児の子どもってみんな自由に遊ばされて、
どこかの大人が、よしみんなあの上の、あのちょっと岩の上登ってみようって競争なとかって言って、
乗り方わかんないって言わないでしょ、子ども。
スピーカー 2
登れないって言われるんですよ。
スピーカー 3
ちょっと理解できてきました。
型を得て何かに取り組むっていうのが身についてるから型がないと、
これどうしたらいいのってなっちゃうけど、そもそも型を学んで、
スピーカー 2
何か型を使って取り組むみたいなことをそもそもしない場合は別に、
スピーカー 3
どうしたらいいのって思わないっていうのはそうかなって。
スピーカー 1
今の話でいうと、例えばこれって先ほどの岩登りみたいなイメージしていただくと、
岩登りするときに岩に目印をつけて、ここに足と手の目印をかけてやり方を決めて、
まずあなたたち危ないからこれ通りにやりなさいっていうのを2,3分練習させて、
その状態に馴染んだ子たちに、今度マーキングしてない岩をポンって出して、
登りなさいって言ったらみんなザワザワどうやって登るのって、先生どこに手をかければいいんですかって言いますけど、
それはあくまで最初に手のかけ方、足のかける場所を指定するっていう、
このカルチャーに馴染ませるステップがあったから、そうなるだけですよね。
教育もいっしょだと思ってます。
スピーカー 2
じゃあそれはもう子どもたちが、そういうステップを教えられなくても、
自分たちから学ぶという前提、学びのモチベーションとか持っている前提みたいな感じなんですかね。
スピーカー 1
ここは今どちらかというと学び方の話なので、
モチベーションの話とは別の話だと思うんですよね。
だって岩の頂上に登りたいという気持ちがあるかどうかって話は別として、
岩の頂上を登るときのやり方をどうしますか、大人がやり方、手や足取り教えて、
位置から学んでいきましょう、なのか、好きに登っていいから誰が一番上に行けるか用意とんねっていうのと、
モチベーションの話とはちょっと違うじゃないですか。
スピーカー 2
そうですね、確かに。
スピーカー 1
なるほど。
スピーカー 2
学び方に限定したときに、例えば農業の方法とか、歴史学んだときに、
本当僕の歴史の知識ベースなんですけど、農業の方法って知識伝達で伝わったじゃないですか。
技術とか文化って教えてもらって、それを習って真似してきたみたいな背景でずっと歴史上あると思ってて、
科学技術もそうだと思ってて、ジャングルの中に科学育たないみたいな言葉あるけど、自由の中に科学は育てない。
だから教えてもらって真似してきたみたいな、それがけっこう教育の方法論として受け継がれてきてる気もしてて、
この高度な文化の中で教えないみたいなのってやっていけるもんなんですかね。
スピーカー 1
先ほどの話に戻るんですけど、教えないっていうのとちょっと違うんですよね。
順番を変えましょうっていう話なんですよね。教えてからやらそうとするじゃないですか。
しかも教え方をガチガチに9年間カリクラに組んで、順番に決めて、やり方が全部決まっている。
さっきの話で言ったら、岩登りのレベル1からレベル100までが、全部登り方から何からマーキング全部されて、
どこに足をつけるみたいな感じのことを全部準備して、それが教育だっていうふうになるじゃないですか。
だけど、人間の脳の特徴で言うと、面白い行為的な学びは逆で、まずチャレンジする状況があって、
例えばこの岩登りだとしたら、この高さ目指そうぜみんなってワーってしたら、めっちゃスルスルっていく子もいれば、
全然うまくいかない子もいたときに、ここで初めて教えるっていうターンが発生するわけですよ。
あなたミスしてんの、どう考えても足の運び全然考えてへんよね。
足次どこを運ぶかを考えてみる。ここまでいけるけど、次一旦ここ足運んでみたらいいんちゃうみたいな。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
どこで足をつけるっていうことが出てきますね。
スピーカー 3
体感としてすごいわかることがあって、僕家具の説明書とか読めないですよ。プラモデルの説明書とか。
説明書を全部読んでから作るができなくて、家具を組み立てながら疑問が出たら初めて説明書読んだら理解できるみたいなことがあって、
その感覚と近いのかなって今思いました。
スピーカー 2
なるほど。すごく狭い視点なんですけど、例えば受験とかってけっこう、まさにやり方を統一して教える塾とかいっぱいあるじゃないですか。
村中さんから見て、受験とかを乗り切るっていう視点でも子どもたちが自由に学んだ方が、そっちの方が力つくものだと思いますか。
スピーカー 1
受験に関しては間に合うかどうかっていう感じですね。
これはもうちょっと言葉を言うと、どの時間軸で子どもの学びを見るかっていうことがまず大事だと思っていて、
今私がやってる学びの体制を尊重しましょう。子どもたち一人一人になったものを選択できる余地を残しましょうっていう話っていうのは、
これ究極的な果実としては、自分で学べる人、大人になっていくっていうことだと思ってるんですよ。
私たちは自立した学習者っていう言葉を使って、
本当に学びの体制尊重とか、自立した学習者って私たちは20年前からずっと使ってるんですけど、
二次年からずつ使ってるんですけど、ようやく時代が追いついてきまして。
スピーカー 2
そうですね。最近、めっちゃ言われてますね。
スピーカー 1
自立した学習者っていう言葉を私たちは使っていて、
これ例えば、それこそ今の福田さんや秋山さんはですね、すごく真摯に、私もそうですけど学んでおられるじゃないですか。
大人になってからでもどういうことが本当にいいんだろうかとか、
私にもうちょっと変わっていける余地は何かないのかとかっていう風な学ぶスタンスじゃないですかね。
なんですけど、これってやっぱり決められたことを決められたようにこなしていくっていうことだけやってると、
大体途中で途切れちゃうんですよね。
スピーカー 3
うんうんうん。確かに。
スピーカー 1
その与えられたハードルを越えた時点で燃え尽きちゃうというか。
だからそれで言うと、日本の、今ちょっと元気ないですけど日本という国は、
そのけっこうな要因の中に学んでる大人が少ないっていうのはあると思っていて、
って考えた時に、その多様性、私の言葉で言うとこのラーニングダイバーシティみたいなことを尊重していくことの、
人生の果実はどこにあるんだって言われたら、私は技術者学習者であること。
スピーカー 2
うんうんうん。
スピーカー 1
しかもそれがすごく自分に合った学び方で精錬された、その人に合った、すごくいい学び方で学び続けている大人。
スピーカー 2
うんうんうん。
スピーカー 1
なっていくことが一つの果実であるとした時に、受験っていうのは、わかります?
間に合うか間に合わないかっていうぐらいがすごく難しいところで。
スピーカー 2
うんうんうん。確かに。
スピーカー 1
私は、正直受験に関しても早いタイミングで始めた子は、
そのもう自立した学習者として受験に向かった方が強いと思ってます。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
ただ、ただ間に合うか間に合わないかは、わかります?
そうじゃないところから受験までの間にスタンスを変えて学び方を確立して、
学力がそこに追いついて、受験テクニックまで身につけて、
試験当日を迎えられるかどうかは、正直時間との駆けっこで、
間に合わない場合も多いんだろうなとは思いますので。
このチャンネルは保護者の方が聞いておられるってことなので、
多いってことなので、本当に価値観の問題になってくるかなって気がします。
うんうんうん。
スピーカー 2
型にはまってればはまっているほど、そこから抜け出すのにも時間がかかりそうだし、
それは本当にそれぞれ違うんだろうなと思いましたね。
スピーカー 2
村中さんの本の中では、学年というものを取っ払った方がいいとも書いてあったじゃないですか。
この学年でこの内容を学ぶみたいなのを取っ払った方がいいとも書いてあって、
けっこう矛盾するなと思って、この学年の中でこれだけ学びきってくださいみたいな、
この強制力が働くことが、子どもが学び方を手に入れる上ではけっこうハードルになるのかなと思ったりしたんですけど。
ある種の覚悟が必要なのかなと。
スピーカー 1
おっしゃる通りですね。
私はけっこうこれ大きな問題だと思っていて、要はどのように学ぶのかっていう学び方の中には、
学ぶペースっていうのももちろん入ってるんですよね。
学ぶ方法の違いもありますけど、そのペースっていうもの自体を学年で切られて、
全員が一律、全教科一律同じように学んでいく必然性っていうのは、
今の人間理解というか、サイエンスの理解を引っ張ってきても全く持ってく合理性がない考え方だと思うので、
その意味では全ての教科が、別に1年生が学ぶものとかじゃなくて、
じゃあ1から6の数字を保つとしても、グレード1からグレード6に変えて、
別にどの年齢の子でも好きにグレード1からグレード6を好きなペースで学ぶことができるっていう仕組みにするだけで、
おそらく学ぶペースは上がると思ってますね、全部体としては。
スピーカー 3
なるほど。
スピーカー 2
なんかある種、学校から外れた時に、その学年の縛りって取れるじゃないですか。
いわゆる不登校と呼ばれる子どもたちにとっては。
だからそういう自分で学ぶ方とか、自分のペースで学ぶみたいなのを取り戻す上では相当リハビリになっていくかもしれないですよね。
スピーカー 1
裏を返せば、逆に言うと学年の縛りっていうのが大きく遅れてしまった子たちが、
もう1回リチャレンジする時にめちゃくちゃハードルになるんですよね。
スピーカー 2
そうですよね。
スピーカー 1
5年生の子が算数に関しては2年生からしなくちゃいけないみたいな感じの話っていうのは、
やっぱりその子の尊厳を削るんですよね。
俺2年生レベルか、みたいな。
でもそれが単純に数学的な体系化された難易度のレベル分けだとしたら、
俺遅れてるからステップ2からやらなあかんけど、頑張ってステップ5に追いつこうって思うのと、
お前5年生やけど2年生からやってねって言われるのって、
やってる内容自体は何も変わらないですよ。
内容自体が変わらなくても、
スピーカー 1
主観的体験とか子どもの自尊心の傷つけ方とかも全然違うので、
そんな意味でも正直教科書を学年ごとにするのは、
スピーカー 1
私はかなりナンセンスだし、害が大きいと思ってますね。
スピーカー 2
村中さんがお子さんとの関わりでコーチに就任したみたいな話が、
スピーカー 3
この本の中にもあったじゃないですか。
なんですかそれは。
スピーカー 2
お願いします、コーチの裏に。
スピーカー 1
これちょっと話せば長くなるんですけど、
ラーニングダイバーシティの出かけっていう本が、
もともと雑誌の連載のまとめたものなんですけど、
1章だけ書き下ろしを書きまして、
それがタイトルが我が家のラーニングダイバーシティというタイトルで、
スピーカー 1
うちの家の家庭事情を関連に書き下ろしたという章がありまして、
その章で書いたことを今福田さんがおっしゃっていただいてるんですけど、
ここはまず、
そもそも妻とも息子とも本に書く段階で了承を得て、
世に公にしてもいいよっていう話を了承している範囲内では話をさせていただきますけども、
うちの息子、今中学1年生になったとこなんですけど、
小学校の4年生の後半ぐらいから不動工状況になりまして、
3学期か4年生の3学期からはもう1日も行けないみたいなことがずっと続いてまして、
この本が出た時点で彼が小6のときに出版をしたので、
その小6の段階でもほぼ完全不動工っていう状況だったんですね。
なのでそういうところも含めて、
そんだけ偉そうにラーニングダイバーシティとかって言ってる人間が、
親としてどういうふうに子どもと関わっておんねんっていうことを書いたっていう話なんです。
もうちょっと話をすると、
ただね、我が家の不動工事情はあんまり他のご家庭に参考にならないだろうなっていうのを思い回りまして、
なんでかっていうと、私があんまりそもそも学校教育に頼った考え方をしてなくて、
息子が小学校に上がった段階から、
家の中で自分で学ぶスタイルとか、自分で学ぶやり方の探索っていうものと、
学校教育っていうのを完全に切り分けて、
家では家のお花火、学校では学校のお花火みたいな感じのふうに、
けっこう切り分けてたんですよね。
息子はそれが当たり前の状況で育ってたので、
彼が完全不動工になった時点で、
私たちの家族で言うと、単純にそれの比率を変えるだけだったんですよ。
今まで学校が5、家が5、学校がどうしても6、家が1になりますけどね。
家が3、4だったのを学校0にして、家を10にするっていうだけだったので、
学びっていうことに関しては、実はほぼほぼ大きな混乱なくやってたんですよ。
スピーカー 3
そんなことあるんですか。
スピーカー 2
まさに自立してますね。
スピーカー 1
そうですね。
もうちょっと本にも書いたので、リスナーの方に補足をすると、
ちょうどうちの息子って、コロナの全国の休校で、
全国大混乱したあの時に入学したんですよ、小学校に。
つまり彼は小学校入学したの、入学式も参加できなかったし、
学校始まったはずから、確か2ヶ月か3ヶ月続きましたね、休校がね。
だから4月、5月はほぼ学校に行かない。
しかも自分だけじゃなくて、みんな行かないみたいな状況で学校生活を始めて、
この学校に行けない家庭の状況をどうするかみたいなことですごい妻とも悩みまして、
でもこれはもうちょっとピンチはチャンスだっていうことで、
家庭での学びっていうものの基礎を築く時間にしようということで、
彼に自分で学ぶっていうことを、小1の6歳、7歳の段階から練習を始めようっていうところから始めてるので。
スピーカー 3
そこでコーチっていうスタンスを取ったっていう。
スピーカー 1
そうですね、コーチに至るまでもうよく伝わったんですけど、
そもそもコーチに至るまでは、私ほとんど環境整備以外は息子の教育に関わってないんです。
つまり教えたことがほとんどない。
スピーカー 2
環境整備。
スピーカー 1
私も妻も含めてですね。
私がやってたのは教材の選定だったりとか、選定というか最終的な決定は息子がするんですけど、
こんなんとこんなんとあるけどどうするとかっていうのは紙の教材もそうだし、
オンラインっていうかタブレット教材とかもそうなんですけども、
何を使うかっていうことを提示するのと、ある程度のやっていくペースみたいなもの。
要は勉強時間の分量みたいなものの、ある程度こんだけは1日にやろうねみたいなことを話し合って決めていくっていうことぐらいしかしてなくて、
あと中身は何するかっていうのは完全に放置。
丸付けもしないし指導も一切しない。
だから紙の問題集とか答えは基本的に子どもが自分で持って自分で丸付けするとか、
そういう感じでずっとやってたんですけど、やっぱりね、あの本の中で子どもにはコーチが必要だって書いたんですけど、
やっぱりそうやってやるとぐだるんですよね。めちゃくちゃ。だんだん子どもが。
ぐだるというかうまくいきにくくなってくるというか。
なんかやっぱりその家庭状況もよろしくないようになってきて、なんか隠れてコソコソしたりとか、
なんかこうなってくるので、うーんってなって、どうするっていう感じで家族会議で話し合って、
最終的にちょっとそのペースメーカー的な介入と、
コーチ的な介入っていう意味ではお父さんがコーチするっていうところで落ち着いたっていう感じですね。
スピーカー 3
具体的には何をしたんですか?
スピーカー 1
それはでももうちょっとやっていく内容をヒアリングして、
どういうペースで何をやるかみたいなこととかを、
単元別に、じゃあ算数好きならこれの教材で1日何単元するかとか。
それを一応終わったらコーチに報告をして、
今日1日終わったよみたいな感じの話で、
ああお疲れさんみたいな感じでやっていくことは大した変わらないんですけど、
一応先ほどの何を、どのようにやるかはほとんど介入しませんでしたけど、
何をやるかのペースのところは親が握ったみたいな感じですね。
スピーカー 2
そっか、環境の整備っていうのがすごく僕の中でハッとさせられて、
よく今学校に行ってない子どもたちが自分で学ぶことを選ぶっていうスタイルを
僕たちのフリースクールでもやっているんですけど、
何を学ぶかについてはやっぱり、完全に自由だったら選ぶことすら難しいじゃないですか。
それをどれ選ぶといいかなみたいなのを、内容をいっしょに選ぶのはすごくできることだなっていう風に。
スピーカー 1
そうですね。
その辺ってけっこう大事な話で、主体的であるという、主体性みたいなものの感覚っていうので、
自分で選んだものの中からしか出てこないっていうのが心理学的な話なんですよね。
内発的な受付とかって言ったりするんですけども、
内発的な受付されるときの人間のすごく重要な要素は、
自分で決めたことかとか、自分で選んだものかっていう感覚がすごく強く影響してるっていうのが、
心理学的にも確かめられてるんですけど、なのでそこは意識的に徹底しましたね。
すべて決めてもらうっていう。
ただ、子どもによって選べる範囲っていうのは限られてるから、あまりにも多すぎたら選べないし、
だから幼いうちはもうちょっとシンプルにして、こういうところにあると2つの選択肢から選んでもらうとかってこともあるだろうし、
ある程度子どもを選べる範囲内で選択肢を提示しながら決めてもらう。
それは1日にやる量の設定とかもいっしょですね。
ある程度の目安がありながら、最終的には子どもが決める、自分で決めるっていう。
そういう感じですね。
スピーカー 2
その内容って、村中さんの中で、選択肢の範囲決めるときに意識したこととかありますか?
スピーカー 1
いや、子どもが自分で決めれることに関しては、ほとんど意識してないですね。
ある程度教材で言ったら、今で言ったらスマイルゼミするか神経ゼミするか、そういう教材の種類のやつだったりとか、
ああいうのって今もようできてるからね、子どもたち自分でできたりするから、
じゃあどれぐらいの単元、両立を進めていくみたいな話のことだけをやりながら、
神の教材とかだったら面白そうって思えるものを、本屋にいっしょに行って、じゃあこれかとかっていう感じ。
そんな感じですね。
スピーカー 2
スマイルゼミとかだったらカリキュラムを網羅してるっていうのも内容はあるし、
本屋さんに行ったらそういうのを網羅してる参考書とかありますもんね。
あともう1個聞きたいと思ったのが、いろいろ家庭学習の支援をしてる中で、
親が教育者のポジションをするのって難しいって話あったじゃないですか。
そんな中でも村中さんは親としてコーチの役割をしていて、
それもお子さんが選んだっていう話だったと思うんですけど、
結局自分でせざるを得ない親御さんってけっこう今いて、
親としてそのコーチになる上で気をつけることとかポイントとかってあったりしますか。
スピーカー 3
たしかになんか上下関係みたいなのができやすかったりしそうで。
スピーカー 1
私がその親が教師の役割をするのは難しいって書いたのは、
それこそコーチ役割というかティーチャーなんですよね。やっぱり一番難しい。
教えるっていうことの役割を親がするのは、
これは今まで私たちが授業やってきても本当に恥ずかしい。
中には天才みたいな人がいて、それをめちゃくちゃ上手くやってる天才的なお子さんの方もいらっしゃるので、
絶対無理とは言わないんですけども、でもやっぱりめちゃくちゃハードが高いっていうのは、
私コーチをした記憶はあるんですけどティーチャーはしてないんですよ。
要は、コーチをしてから丸付け役だけはしたこともありますけど、
丸付け役したとしてもあってないところを、もう一回やってみ以上のことは何も言わなかったし、
これはこうやったらできるんだよみたいな感じのことを聞かれたら答えますけど、
自分からはほぼティーチしない。
もちろんこれっていうのは一長一短あって親御さんからすると、
そんなことをしたら漏れが発生するんじゃないかとか、
子どもが逃げて逃げて自分の苦手が潰せないんじゃないかみたいな感じのお気持ちなのはすごくよくわかるんですけど、
私はそれ全然ありやったっていうのは、そもそも逃げる気持ちになるってことは自己決定ができてないっていうことなので、
それはそもそも構造として失敗してしまった話だから別の課題。
その意味で教えないっていうことに関してで言うと、そこは本人が何らかの必然性を持って、
それを学ぶ必要があるよねって思えてないんだとしたら、結局教えるところで身につかないっていっしょっていう、そういう感じですね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 2
あくまでも学びは自分で進めていってるんですね、子どもが。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
それのペースメイクと、あと選択肢の提示っていうのをやってるっていう感じなんですね。
僕たちがけっこう関わっていく中で、やっぱり学校に行かないってなった時にすごく落ち込みが精神的に来る子が多くて、
その時に自己決定すらもする気力がないみたいな時ってあるなと思ってて、
その時をどう乗り越えるのかみたいなのはけっこう僕らの中でテーマとしてあって、
その辺とかどうお考えですか?
スピーカー 1
どこに至るようになった理由、きっかけ、経緯っていうものにもよると思うんですけど、
本当に人によってセンスは別々だと思うんですが、その懐に至る経緯に何らかの傷つき体験であったりとか、
トラウマティックな体験があるんだとしたら、まずそのトラウマティックな体験とか傷つき体験は何らかの形でそれが癒されていくというか、
回復していく過程っていうのが必要だというのがまず一つあると思うんですね。
これは実はうちの息子の場合にもあって、その経緯は本にも書いてないんであれなんですが、
スピーカー 2
一時期最初の頃はうちの息子は同世代の子どもが集まっている空間に入ることすら難しくなってたときがあって、
スピーカー 1
これも不思議なんですよね。実はどっちかっていうと、大人とのトラブル、教員とのトラブルだったので、
子ども同士の動機のトラブルがあったわけではないんだけども、結果発して起きてきたトラウマ反応としては、
子どもがたくさんいる場所にそもそも入れないっていうふうなことなんですよね。
ただそこも、時間とともにちょっとずつ減ってきて、それができるようになったのが1年半後ですかね、
6年生くらいになってから、この子どもの空間にも入れるようにちょっとずつなっていったみたいな感じのがあるっていうのがまず1つですね。
それとは、ある種の傷つきが癒えていく過程に寄り添っていくっていうこととは、また別の軸として、
自分自身っていうのが主体的な存在であるんだっていう感覚が奪われないようにするっていうことに関しては、
これはトラウマティックな体験の癒しと同時並行でできることだと思っていて。
なんでかって言ったら、日常の些細なことでいいんですよ。
言ってしまったら、今日の朝ごはん何食べるっていうことの自己決定からでいいと思うんですよ。
今日一日何の服着て過ごすとかでもいいですし。
そういうちっちゃなちっちゃな日常の自己決定とか選択っていうもの自体を、
子どもが主体的な感覚を持てているかどうか。
それはおそらく家庭の中での話し合いっていうか、私たちは家族会議っていう仕組みをやってますけど、
そういう子どもなりの自己決定っていうものをフラットに話し合って決めていけるような家族の中で持ちながら、
学校に行くか行かないかみたいな大きな自己決定すぐ迫る必要ないんですけど、
家族でどこに出かけようかでもいいですし、日中の時間どう過ごすかとか、
勉強とどう向き合っていくか、ちょっとずつでもやれることができることがないかとか、
そういうちっちゃなちっちゃな日常の自己決定をいっしょにやっていくっていうことは、
おそらくそのトラウマの部分とはまた別の話としてできるところはある。
もちろんしんどかったらやめたらいいんですけど、ここはやっぱり同時変更でできるところはけっこうあるなって気がしますね。
スピーカー 2
うーん。
じゃあほんと、しんどい時にできるちっちゃな自己選択から、自己決定からしていって、
回復とともにその選択の範囲も大きくなっていくみたいなイメージなんですね。
ちなみにまたこれよく出る質問なんですけど、ゲームとかどう考えてますか?
けっこうドーパミン性高いものをずっとやっちゃって心配ですみたいな声ってけっこうあって、
この辺のほんと細かい話にはなっちゃうんですけど、
ゲームとかスマホをずっと触ることに対しても。
スピーカー 1
大事な話だと思います。
そうですね、若いでどうしたかっていうと、
いわゆるピュアインタルコントロールで時間制限をしましたと。
ただその時間をどういうルールにするかもかなり改定を重ねてますね。
スピーカー 2
それも対話してるっていう。
スピーカー 1
変わってますね。
基本的なスタンスとして、何らかに依存すること自体は悪いことではないと思っているので、
大人でも何か辛いことがあったときに何かドーパミン系に依存しながら、
ずっとネットフリックスなんかポーンとしながら寝てるみたいなのがあって。
スピーカー 2
お酒もそうだしですね。
スピーカー 1
そうそう、それもそうですしね。
そういうこと自体を全部否定する必要はまずないんだけども、
ただ先ほどおっしゃったように、
ゲームとかそういうのってちょっと不必要に依存状況を作っていくというか、
ドーパミンビジネスなんかって言ったりしますけども、
そういう側面はあるので、
そこはある程度ルールみたいなものは必要だろうなと思いますが、
このルールの決め方一つにしてもやっぱり子どもの主体的な関与が必要で、
おすすめはやっぱりね、さっきからちらほら言ってる家族会議をおすすめです。
スピーカー 2
さっき気になってました。
スピーカー 1
なんでかって言ったら、
家族のゲームのルールを話すとするときに、
子どもがルール破りをしたときにしか話さない過程がすごく多いんですよ。
良くないことをしたから、
私の叱る前とか止まらないと使った言葉で言うと後さばきとして、
良くないことが起こった後に叱りつつ、叱る経緯でその場で話し合いが起こってくるみたいな。
話し合いというのは死刑執行じゃないですか。
ほとんど時間減らすよとかそういう話ですよね。
けどだから、そうじゃなくて、
あなたは今生活がこういう状況になってて、
勉強としてもこういう風にしたいみたいな話もあるよねってなったときに、
ゲームについてどういうルールが一番いいと思う?
入れたら気持ちはわかるけど、どれくらいあったらどうしたいと思う?みたいな話とかを、
ルール決めを問題がないときに話すんですよ。
スピーカー 3
大事ですね。
スピーカー 1
それで、やっぱり自然には起きにくいんですね。
皆さん忙しいので。
だから家族会議っていう時間を強制的に持つんです。
スピーカー 3
それ週1ぐらいのイメージですか?
スピーカー 2
月に1回。
よかったら詳しく聞きたいです。月に1回どんな感じで会議してるんですか?
スピーカー 1
うちは家族会議の話をすると、
基本は月に1回で、臨時会議することはありますけどね。
基本的には月に1回で、
必要に応じて臨時で会議することはありますけど、
今までもう5、6年ずっと家族会議やってますけど、
臨時会議はそんなにやったことないですね。
本当に月に1回。
スピーカー 3
臨時会議ってそれこそ問題が起きたときになっちゃう。
スピーカー 1
なんですけど、月に1回やっていて、
議題は全員が出す権利がある。
スピーカー 2
親とか父親からも親からも。
スピーカー 1
うちは一人息子なので息子からも出すことがあって、
それを話し合う。
ある種、例えば小遣いの賃上げ闘争が
突如始まったりとか、
もうちょっと伸ばしてほしいみたいな交渉をする権利もあるっていう話。
子どもからすると。
ここですごく大事なのは、
家族会議っていう場が上位下立の場、
つまり親が子どもを従わせるための場だって認識した瞬間、
子どもは絶対そこの席についてくれなくなるので、
そこがすごくちゃんとフラットな話し合いの場、
落とし所を見つけていける場なんだっていう感じで機能する必要があって、
あとはまだ子どもが気持ちよくそこに参加できるようにっていう、
月に1回の家族会議はちょっといつもよりいいおやつが出てきたりとか。
あとは月に1回のおこづかいの授業式が家族会議の後でもあるとか。
スピーカー 2
めっちゃ具体的でいいですね。
スピーカー 1
そういう子どもにとってのそこの参加するメリットみたいなことを提示しながらですけど、
でも一番本質はやっぱり子どもからも要求を伝えれるし、
親からの要求についても話し合う場みたいな感じの話ですね。
だからその意味ではこのゲームとかもかなりルールが最初初期の頃から変わってますね。
ペナルティーのやり方とかも全部。
スピーカー 2
ペナルティーとかもしっかり設けるんですね、ルールだから。
スピーカー 1
はい、設けます設けます。
ただ、ペナルティーに関しては、
順番、一番上手くいったというか、
あとよく使ったのは順番入れ替えのペナルティーでしたね。
つまりゲーム自体は禁止しない。
基本的にはやるべきことっていうのは定まっていて、
それはそれで学びの構図として決まっている部分があって、
1日でやるべきことが決まっていて、
それ以外の時間にゲームをすることもできるから、
1日24時間を決める時間の時間の使い方は基本的に子どもが自由にできるという話なんですけど、
それをやるべきことができてなかったりとか、
ゲームを長時間聴観してしまったりとかっていう
良くないことが起きたときにペナルティーが発生するときに、
よくあるのは本当にゲーム自体を禁止するっていう取り上げるっていうペナルティーをすることが多いと思うんですけど、
それもやってたことはあるんですけど、
一番やっぱり上手くいったのは順番を変える。
要はやることが終わってからしかゲームができないっていうルールにするっていう、
そういう形のペナルティーの形が多かったですね。
スピーカー 3
なるほど。最初のルールでそうするというより、ペナルティーとしてその順番が変わるっていう。
はい、そうです。
なるほど。
スピーカー 2
かなり面白いです。
1個ずつ家族会議でそういうのもアップデートしていったんですね。
そうですね。
スピーカー 1
先ほど言った私がコーチに就任するとかも全部家族会議の場で決まったことであります。
スピーカー 3
ああ、なるほど。
スピーカー 2
家族会議大事だな。
スピーカー 3
大事やね。
スピーカー 2
子どもがちゃんと主張できるような空間で、フラットな場でできるのはいいな。
スピーカー 3
ちょっと僕も最後感想と1個質問が出てきたんでいいですか。
学校に今行ってなくて家にいるって時に、
ちっちゃい自己決定をするの大事って話あったじゃないですか。
今日服何着ようとか、映画何見に行こうとか。
その時に、それがすごい実際リスナーさんたちもできそうだなと思ったんですけど、
自己決定ちっちゃくしましたって時に、
子どもがそれを理解するような意味付けというか、
自己決定できたねみたいなことを言っていくことに意味があるのか、
別にそういうの関係なくて、
子どもが自己決定していっていること自体にもそれだけでOKなのかって、
どんな感覚なのかなって。
スピーカー 1
自己決定っていうのは大前提の話なんで、
子どもが自己決定をしたことを取り上げて何か発言するってことはほぼないですね。
もうちょっとだけ補足説明をさせていただくと、
私の言葉で言うと、自己決定の話っていうのはいつもだいたい、
今日はちょっとその言葉使ってなかったですけど、
冒険モードっていう言葉とセットで使うんですね。
これは冒険モードっていう言葉は、
私、ヒカル依存が止まらないっていう本の中で使ったことなんですけど、
それと互通になるのが防御モードっていうモード。
神経科学的な脳の状態で言ったときに、
防御モードっていうのは変動体っていうところが中心となっているような、
危機対応モードですね、人間の。
だからその天敵に襲われた時の動物の反応みたいな感じで、
戦うか逃げるかみたいな感じ。
これはこれで人間の行動を促進しますと。
防御モード以外の人間の行動を促進するモードっていうものの他に、
この2つだけではないんですけど、
有力なものに私が冒険モードって呼んでるものがあって、
こっち側はベースとしてドパミンシステム由来の人間の行動のモード
みたいなことをイメージしてるんですね。
この2つだけではないにしても、
人間が行動するときって大枠この2つか、
もしくは完全に習慣された行動化なので、
この2つで考えたときに、
今の教育っていうのはこの防御モードを人間の行動の権利として、
危機感煽ってやらせたりとか叱ってやらせたりとかっていう、
子どもを危機状態にして大人の思い通りにするみたいな感じのことが、
スピーカー 3
圧倒的に多いという感じなんです。
スピーカー 1
この状態にまみれてしまって慣れきってしまった子たちは、
いわゆる学習性無力感って言ったりするんですけども、
無力化された状況になって逆に支持されてもらわないと
何していいかわかんないみたいな感じになっていってしまうよね。
じゃあ切り替えようってなったときに何を目指すんですかっていうときに
起こっていくのが防御モードというふうに。
ドパメンシステム。
ドパメンシステムっていうのはやりたいとか欲しいとかっていう要求ですね。
先ほどワクワクタイムっておっしゃってましたけど、
ワクワクするような心理的な状況をベースに、
しかもすぐ手に入らないものですね。
すぐには手に入らないもの。
今すぐ食べれるものに対してドパメンは出ないですね。
ちょっと待たなくちゃいけないとか、ちょっと取りに行かなくちゃいけないとかっていう、
そのちょっと先の未来に対してワクワクをしながら、
もっと言うとすぐには手に入らないから試行錯誤しなくちゃいけない状態。
これいう状態になっているときの行動のことを
防御モードっていうふうに言っていて、
防御モードの方が人は学ぶよねっていうのが基本スタンスなんですね。
じゃあ人間を防御モードと防御モードを切り分けていく、
どこに違いがあるんだっていうと、
それが今先ほどお話していた自己決定なんですよ。
人間は自分が自己決定していないものに対して
防御モードに入ることってまずないんですよ。
この3年続いている視聴者さんも獲得している
ティーチャーティーチャーっていう番組も、
もし皆さんが指示命令のことにやりなさいと、
週に1回収録をして、指示命令でね。
しかも防御モードを何かチラつかされ流れるんですね。
防御モード満開でやってても続かないじゃないですか。
スピーカー 2
続かないし、絶対に。
スピーカー 1
続かないし、続いたとしても今みたいなクオリティでできるはずがないわけじゃないですか。
それは皆さんお二人にとっての冒険モードで
ちょっとワクワクしながらうまくいかないことがあったとしても
試行錯誤しながらドバミン出しながらやっておられるから続いてるわけですよね。
なのでどちらかというと
先ほどの私、自己決定が大事って話は話してたんですけど
私が見てるのは自己決定したかどうかっていうところというよりかは
うちの息子もそうですけど
その子がどういうモードで今動いてるかなっていうことなんですよ。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
勉強するにしてもひとつにしても
それは家庭の状況次第では
防御モードですることだってありますよね。
親にこういうこと言われるからもううっさいからやろうみたいなのは
防御モードで勉強することもあるけども
ちょっとこう、なんだろうな
これできるようになりたいなみたいな
この探検ちょっとおもろいなとかって思いながら
ワクワクしながら冒険モードでやることもあって
そこを見てますね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 3
あ、冒険モードなってきてるなっていうのを見てる。
スピーカー 1
そうです、そうです、そうです。
スピーカー 3
あー、理解してきた。
スピーカー 1
この冒険モードっていうのが
いきなり大きな冒険モードを求めると
親や大人が求めるとすごい大変なので
もうちっちゃなちっちゃな冒険モード
うちの息子なんかで覚えてるのは
一時期息子がラピュタパンってわかります?
目玉焼きのパン
スピーカー 2
食パンに目玉焼きのパン
スピーカー 1
ラピュタの映画のラピュタ
スピーカー 3
そういうことですね、映画に出てくる。
スピーカー 1
だからおいしそうに食べるんですけど
ラピュタパンって我が家で呼んでるんですけど
あれにハマって
またちっちゃい時ですね、未就学児とかね
小学生
一時期目玉焼きを作ってくれみたいな感じで
言われることが多かったんですけど
確かちょっと手が離せなかった時に
ちょっとお父さん手離せへんから
一回自分でやってみーって言ったんですよね
その時に初めて息子は
卵を割って目玉焼きを作るっていうのを
自分が食べたいから
ちょっと試行錯誤しながら
1個ぐらい卵を無駄にしながらやった
記憶があるんですけど
これがだからある種の
冒険モードじゃないですか
スピーカー 2
冒険モードですね
スピーカー 1
やりたいと思うことに
ちょっと上手くいかないかもしれないけど
ちょっとやってみるみたいな
やらないっていう選択肢もあるんだけども
やってみるみたいな
こういうことの日々の積み重ねってすごく大きいなと思ってまして
スピーカー 2
だいぶ解像度上がったな
その自己決定の大事さと同時に
その中盤に話してくださった
環境の調整とか
家族会議でのあり方とかも
含めてあるんだろうなってことがあって
かなり自分の中で現実
見読ました話になりました
ありがとうございます