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こんにちは、おあです。三次子育て中で、小学生の娘2人は、ホームエデュケーションを選択しています。
子どもたちが毎日を楽しく、自分らしく過ごせる社会にしていくために、これからの学びの在り方について考えるチャンネルです。
第35回目のきょうは、【子ども主体の教育って】というテーマでお話ししていきます。
最近、よく【子ども主体の教育】と言われていますけれども、どういうことか、皆さんご存知ですか?
【子ども主体の教育】と言われたときに、どんなイメージをお持ちになるでしょうか?
実は、教育には大昔からですね、2つの全く違う思想がありまして、その教育思想がずっと対立し続けている歴史があるんですよ。
1つはですね、大人主導の教育です。
私を含め、おそらくこれをお聞きのほとんどの方が、この大人主導の教育で生まれ育ったのではないかなと思うんですけれども、
どういうものかと申しますと、典型的なの、大人が子どもに何かを教えるというタイプの教育です。
知識を与えるというようなタイプの教育になりまして、そこには正解が必ずあります。
ということで、どうしてもですね、いかに多くの知識を持っているか、いかに素早く正しい正解を導き出せるか、そこに優劣がどうしても出てくるわけなんですね。
その知識量の豊富さやスピード、正確さを測るために、テストという一律の基準を設けるわけです。
結果的に、より早く正確で知識がたくさんある人が上に立つと、つまり教育に競争という原理が持ち込まれるわけです。
そしてどうしてもですね、やはり暗記ですとか詰め込み型になりやすいわけなんですよね。
しかもそれを測るのは他者の評価によるということになるわけです。
この大人主導の教育の根本にある考え方というのは、子どもは無知であり、大人が正しいことを教えてあげなければならないという考え方になります。
これが私たちが受けてきた大人主導の競争教育ということです。
対して子ども主体の教育というのは、遡ること。ジャン・ジャック・ルソーまで行くんですよ。
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260年前ぐらいになりますね。そこから発展した考え方で、ジョン・リューイという方がかなり明確にこの子ども主体という教育を打ち出した教育者と言われていますけれども、
日本では対照デモクラシーというのが、このジョン・リューイの思想に基づいた子ども主体の教育が大事だと盛り上がった時代だったんですよね。
このジョン・リューイが提唱する子ども主体の教育というのは、子ども中心主義とも呼ばれておりまして、大人が何かを教え込むというような大人主導の教育思想とは全く真逆でして、
子どもは自ら育つ力を持っており、自由に自ら学んでいくという考え方に基づいているんですね。
大人主導の考え方が大人が教えると言っているのに対して、子ども主体の教育では子どもが学ぶと言います。
大人主導の教育で知識を与えるのに対して、子ども主体の教育では問いを立てます。
大人主導の教育で正解を教えるのに対して、子ども主体の教育では考える力を育むと言います。
大人主導の教育が上下関係に基づいた管理型だとすると、子ども主体の教育は対等で自由な関係を重視しています。
子ども主体の教育では、その子一人一人の興味・関心・好奇心というものから学びというのは始まるべきであり、
そこに他者の評価であるテストというものは必要ないという考え方に貫かれています。
子ども主体の教育の世界で大切にされるのは、創造性、クリエイティビティですとか、達成感や満足感、
その子自身が好き、楽しいと思う感情が一番大事だと。
そしてそのためには、その子が自分で自分のことを決めて体験して探求していくこと、それがとても大事だと言われています。
子ども主体の教育では、人と競争するのではなくて、共同することが大切とされています。
この共同というのは、協力して働くの共同ですね。
子ども主体の教育は、一人一人当然違う人間であるということが大前提になっていますので、
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そこに障害だから特別学級に行くですとか、というようなエクスクリエイシブな教育というのは否定されていて、
どんな子も一緒に学べると、インクルーシブな教育というのが大切にされています。
この子ども主体の教育というのも、実は日本でも2,3回取り入れようとしたことがあるみたいなんですよね。
一番わかりやすいのが戦前の対照デモクラシー、自由教育運動ですけれども、
それ以降にも戦後、GHQが入ってきた時にもやろうとしたという話をちょっとチラッと聞いたことがありますけれども、
直近ですと2002年のゆとり教育ですね。
これも実は子ども主体の教育に転換していこうという流れだったそうなんですよ。
ところがやはりトップダウン型の日本の教育構造にはそぐわなかったんでしょうかね。
もう3回とも失敗に終わっています。
ただこの大人主導の教育ということの弊害というのはもうずっと言われてきておりまして、
一番有名なのは林武次先生というですね、元宮城教育大学の学長先生を務めていらっしゃった方で、
1906年から1985年まで生きていらっしゃった有名な方なんですけれども、
その方は43年前の書籍にですね、このような言葉を残しているんですね。
ちょっと読んでみます。
今日本の社会を覆っている教育不在の教育加熱はもはや狂気としか言いようのないものだ。
まさに教育暴国である。
教育的に見て暴国だというのではない。
教育そのものが国と社会を滅ぼそうとしているのである。
むしろ教育によって自滅に向かって突き進んでいるというべきであろう。
入死地獄はこの暴国の一局面に過ぎない。
この地獄が制度いじりで解消し得るはずはない。
地獄はそれを作り出している根源を立つ他なくなるようはない。
教育全体の根本からの懺悔洗礼がない限り、
日本の全体が落ち込んでいる教育地獄から脱出する道はない。
林武次先生はもう40年50年前からですね、
この日本の大人主導の一斉一律、核一集団教育ということに、
競争教育ということに対してずっと警鐘を鳴らし続けていらっしゃいました。
林武次先生は、教育というのは外から何かを注入してやるものなんかではなくて、
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子どもの中にある閉じ込められているかけがえのない宝を解き放つようなものなんだと言って、
全国各地の小中学校で対話型の子ども死体の授業というのを実践し続けたそうです。
ただ、なかなか理解されなかったり、
公教育への絶望を深めて倒れられたということです。
もう40年50年前にですね、こうして武次先生はじめ、
いろんな教育の方々が、
こんな教育をしていたらもう国が滅びるとずっと警告していたわけですけれども、
ある意味そのことが今現実になってしまっていると言わざるを得ませんよね。
子ども死体の教育と言いますと、
有名なのがシュタイナーですとか、モンテス総理ですとか、
最近ですとイエナプランというのも日本でいろいろ取り組まれていますけれども、
そういうのに共通することっていうのは、
結局大人がコントロールを手放すということと、
子ども自らが自分のことを決めるという教育なんですよ。
人の幸福感に一番直結している要因が、
自己決定だと言われているんですね。
自分のことを自分で決められること、
それが一番幸福感につながっていくんだと。
逆にですね、何もかも誰かに決められてしまっている人生というのは、
どんなにお金があったり、
生活に不自由していなくても幸せではないということなんですよ。
今の学校、
まずどこの学校に通うかということが学区で決められていますよね。
そしてクラス、学ぶメンバー、
誰とどこの教室で学ぶか、
誰の先生に教わるか、
何年何組とある日ね、
修行式で配られて、
全部一人一人どこのクラスって決まっているわけですよ。
メンバーも選べません。
先生も選べません。
場所もメンバーも決まっています。
そして時間割も決められてますよね、年間通じて。
そして教わる内容、教科書も決まっています。
授業で今日はどこを教わるということも全部決められています。
このような学校教育の中で、
果たして子供自身が自分のことを自分で決めていることって何かあるでしょうか。
ただただ受け身で、
指示に従うしかないような気がするんですよ。
そんな教育を受けている子供たちが、
本当の意味で自分に自信を持って、
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自分の人生を主体的に生きて、
自立していく。
何事も自分で考えて、
自分で決めて、
自分の人生を自分の手で切り開いていく。
そんな自立した人間に育つでしょうか。
やはり難しいのはですね、
今の大人たちが、
ほとんどが大人主導の教育しか知らないということなんですよ。
子供たちを教育する側の大人自身が、
自分が受けてきた教育以外知らないということなんですよね。
知識を与えて、
テストで正解が必ずあるという教育しか受けてこなかった私たち大人が、
子供自身の好きとか楽しいという気持ちから探求していって、
問いを立てて、
自分で考えて、
自分で選んで、
自分で決めて、
人と競争するのではなく、
共同すると。
子供を指導するのではなく、子供と対話をすると。
そんなことですね。
自分がその体験をしたことがなかったら、
やりようがないんですよ、先生方も。
そういうのってマインドなので、
見よう見まねでできるものではないんですよね。
それこそ子供感、教育感といったことを、
根本的から覆されるような、
自分の考え方とか価値観を、
まるで変えないとかなわないような、
教育の方法なんですよ。
そりゃね、つけ焼き場的に、
そのゆとり教育2002年に、
いきなりやれって言われて、
できるわけがない。
そりゃもうしょうがなかったと思いますね。
というわけで、
子供主体の教育って簡単に言いますけれども、
めちゃくちゃ大変なことですよね、これはね。
それこそ大人の自分の生き方を問われるわけです。
全部自分で考えて、
自分で選んで、
自分で決めていくなんて、
めちゃくちゃしんどいことだと、
私は思いますね。
そう考えると、
誰にでもできる教育では、
やっぱりないですよね。
しかも、大人主導の教育の方が楽だったり、
そっちの方が合うという子も、
やっぱり必ずいると思いますよね。
そう考えると、
やっぱり教育って、
かなり宗教に近いなと思いますね。
要は、子供という存在を、
どういうものだとして捉えるか、
価値観なんだと思う。
今の日本のメインストリームである、
大人主導の教育というものに、
私が合わない。
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嫌だなっていうか、
あまり納得できないなと思っているだけであって、
価値観が違うなっていうだけで、
私が自分の価値観に合ってるなと感じていて、
私が信じている子供主体の教育だけが正しいですとか、
子供主体の教育こそいい教育だというのも、
違うんだろうなと。
いろんな考え方、いろんな教育っていうのがあって、
自分に一番合うなと感じる、
一番納得できる考え方、
それを一人一人が、
それぞれが選べる社会にしていくということが、
大事なのかもしれないなと思いました。
ということで、
今日は大人主導の教育なのか、
子供主体の教育なのかという、
全く違う教育思想の対比を通して、
子供ってどういう存在なのかですとか、
学ぶとはどういうことなのか、
ということについて考えてみました。
教育とは何かということを考える際の、
ヒントにしていただけたら幸いです。
お聞きくださいましてありがとうございました。
また次回お会いしましょう。
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