00:00
杉浦大学、京都先端科学大学の 実話杉浦話
松井さん、国家試験の準備進んでる?
はい。先生の作ってくれた問題集、 めっちゃ役立ってます。
よし、じゃあこれ今日の分。
えっ、今日の分?
せや、今日の180問や。 国家試験本番まで180問ノックや。
手厚すぎるわ。
杉浦大学、京都先端科学大学
あ、明日の分もあるで。
それは明日にします。
8月23日、オープンキャンパスへゴー!
日々お伝えしているニュースや話題の中から 一つのテーマに絞って専門家や当事者に話を聞く
週替わりの特集コーナー、ウィークリークローズアップ。
あさって土曜日、8月15日、終戦の日を迎えます。
今年で終戦から81年。
戦争を経験した人が少なくなっていく中、
その体験を聞く機会もどんどん 少なくなっているということです。
そこで今週は、語り継ぐ戦争の記憶というテーマでお送りしています。
最終日となりますきょうは、81年前1945年の8月8日、
当時の福岡県八幡市、現在の北九州市ですけれども、
その八幡の街を襲った八幡大空襲を経験された方に お話を伺っています。
八幡大空襲を経験された高田久彦さんです。
高田さん、よろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いします。
八幡大空襲があった当時、高田さんはおいくつでしたか?
5歳の時ですね。あのあたりが非常に戦争が激しかったです。
本当に今考えても厳しい時代だったなと思います。
家と家の間の空き地に畑を作っておりました。
かぼちゃ畑がたくさんあったということは一応残っています。
かぼちゃは種を割けばすぐ実がなる。
あまりおいしくはないんですけど、すぐに大きなかぼちゃがなるんです。
かぼちゃ汁とか言って味噌汁に入れたり、かぼちゃぜんざいとか言ってかぼちゃぜんざい作ったり、
本当にかぼちゃに助けられた食料生活でしたね。
その地区は子どもたちはたくさんいたんですか?
子どもはたくさんいましたよ。国策として運営を増やせようという、とにかく子どもは多かったです。
だからあの当時の親というのは子育ては大変だったろうと思います。
戦争がだんだん激しくなって防空壕を掘っていたんです。
自分の家族だけが飛び込める小さな防空壕ね。
その防空壕の奥の方に生まれたばかりの妹の赤ん坊は柳氷ってご存知ですかね。
カゴみたいなものですかね。
そこに赤ちゃんを寝せて。
警報が鳴る鳴らないに関係なく。
毎日鳴るから。
うちの兄弟は3人で、おばあちゃんと母。母は産後の体調がよくない。
父親は八幡生産所に勤めていたんですけれど、
戦争にとられないんですよ。会社にずっととられているから。
03:03
昼間はもうそれこそ年寄りと母と子どもだけ。
空襲警報が鳴ったと言っても、自分の身一つで逃げるのがやっと。
赤ん坊なんて誰も抱えきれないわけよ。だからもうずっと入れている。防空壕の奥に。
空襲があった当時の記憶はどういうものが残っていますか。
記憶は8月8日、私は深原町に住んでいて、道を挟んで目の前が小学校です。
森のところに若い女の先生がいて、おいでおいでと言うんですよ。
ものすごく遊んでくれるの。折り紙をくれたり、画用紙をくれたり。
それで絵を描いたりして遊んでいたんですよ。
高学年の子たちは来ているよね。その先生は1年生か2年生の担当で、
クラスの子はおらんやったですかと。
遊び寄ったら、ものすごい空襲警報が鳴った。
今まで聞いたことがないような大きい空襲警報が鳴った。
B-20飛行機が大変態を組んで飛んでくるんですよね。
早く帰りなさいと言うんです。
高学年の子どもたちも門から出て一生懸命逃げて帰る。
飛行機からボンボンボンボン。
焼夷弾が落ちた。
焼夷弾というのはあの頃、子どもでも何でも犬でも動いていたら落とすわけ。
焼夷弾のフルなんかを妹の手を引いて、走って走って走って走って。
どんどん逃げる。後ろからダダダダダッと落ちてくる。
追いかけてくるような感じで。
やっと家の前の防空壕に飛び込みました。
もう外は焼夷弾が落ちる音。
白い煙が防空壕の中まで入ってくるんですよ。
婆ちゃんが心配してね、
自分家の中に行かせてくれって言うんで、
みんなで飛べたのよ、婆ちゃん。
家の中は燃えとるかもしれないけん。
どうしても行くって言ってから振り回らない。
家の中に入ってきて、天井から焼夷弾が落ちて、
床に突き刺さって畳がボンボン燃えてる。
婆ちゃんはやっぱり家の中から出てきて、
やっと手に入れた家が燃えるって言うんで、
その焼夷弾を手で掴んだんですよ。
畳に刺さった焼夷弾を手で掴んで玄関から外に投げた。
手を入れてものすごく火傷したんですけどね。
そのおかげで家は燃えなかったんですけどね。
どうして婆ちゃんはあんなことができたって聞いたら、
どうしてやろうね、自分でもわからん。
無我夢中。
その後、7日後に終戦15日を迎えるわけですけど、
それまでの間っていうのも八幡の町っていうのは
空襲警報が鳴ったりとか被害っていうのはあったんですか?
ありましたね。
そして本当に戦争が終わったっていうのはね、
はっきりとわからんままなのよ。
近所の人でラジオがあるところにもあって、
1軒ぐらいしかないのね。
06:00
旅行放送があるから集まれと、
父と母が大事な放送があるから今から行くから、
そばにしとけって言ったからそばにしとったんですけどね。
母は泣きながら帰ってきました。
もう戦争が終わったよって聞いて、
子供心に戦争が終わってもやれやれと思ったのはあります。
ただその終戦っていうのを迎えた後、
すぐ暮らしが豊かになったわけではないですよね。
暮らしはますますひどくなりました。
もうとにかく物がない。
学業品がない。教科書がない。
本当にこのすっぺらい用紙を閉じたようなのがあるんで、
それが教科書といえば教科書。
2年生も3年生も。
上のほうはまだちょっと真っ白な教科書を持ってたけど、
なんかみんな黒で、墨で塗ってある。
戦争参加するような文章を書いてある。
で、そういう中古ノリとか全部消させる。
もう教科書の形をなしてないんですよ。
ただね、戦争が終わったってことは本当に嬉しかったですよ。
電気の明かりが外に漏れないように黒い布をかぶせてた。
戦争が終わったから明かりも窓から外に漏れているわけです。
電気がついたぞ、電気がついたぞ、
と町内のおじちゃんが言ってまわっているわけ。
もうあの声の響きの明るいこと。
電気がつくってこんなに家の中が明るいんだなと思いましたね。
大人になってからはどうですか?
実際に先生になってから教育というものの大事さというか、
戦中のその教育と今の戦後の教育の違いなどについての大切さってどう感じますか?
絶対教育は大切です。
私ももし戦前の教育を受けていたら変わっていたと思います。
私は幸いに戦争が終わって戦後の教育を受けた第一号ですから、
そういうあれはないんですけど、
戦前の教育ははっきり言って間違っています。
高田さんの戦争体験についてはなかなか話しては来なかったんですよね。
学校時代ね、平和学習でありました。
平和学習のときは話すんですけれど、
ここまでは子どもたちに話してないなと自分で思うんです。話せなかった。
自分が教授をしていたのにそれほどこれが大事なものだ、これが将来につながっていくんだという、
そこまでの思いがまだ自分にはなかったと。
だから退職して今、訪問書を入れてね、言わないと、
あの平和はね、人を任せてはだめだと。
体験した自分が機会あれば言ってもらわないと。
本当にこの頃それに遅いけど目覚めました。
遅すぎました。後悔しています。
決して戦前に戻しちゃいけないなっていう気持ちにもすごくなります。
09:02
本当に戦争というのは国と国との争いです。
人と人との殺し合いです。
それをね、やっぱり頭に置いて考えていかないと、
戦争があるきっかけで始まったとすると、
それはいつでも終わるよというもんじゃないんですよ。
どちらかが完全に潰されるまで続きます。
そうしないとどっちも引き下がらないでしょうね。
だから相手を、人を思いやりなさい。
人のことを考えたらね、消す人を叩きのめすとか、
人を殺すなんてできないよと。
だからそれを考えてね、今からはね、生きていこうねと。
ということは常日頃言ってきました。
今日は本当にありがとうございました。
つたない話を聞いていただいて本当にうれしいです。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
もっと早く話しておけば、そういう後悔の念も持ちながら、
過去の悲惨な体験を話してくださったんですよ。
聞いていてゾッとするような体験もたくさんありましたけどね。
ちょっとその状況を考えると本当に怖い。
今考えられないですよね。
5歳の少女が。
本当に欲望、生き延びたなと思うようなね、
壮絶な体験でもありました。
そしてその後、ご自身もいい先生、素晴らしい先生と出会ったから、
自身も教師の道へ進んでいって、
そして平和の大切さっていうのをね、今すごく感じて、
今また退職した後に、いろんな人たちにこの体験を伝えているということです。
お話を伺った場所が八幡東区にある平野市民センターという場所なんですけど、
桃園球場のすぐ近くにあるんですが、
そこではですね、この戦争に関するいろいろな資料が展示もされているので、
もしお近くの方ね、足を運べるという方はぜひ立ち寄っていただければと思います。
お盆期間はやっているということでした。
この時間、八幡大空襲経験されました高田邦子さんの体験談をお送りしました。