1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 【記憶7】大岡貴美枝さん/Memo..
2013-12-17

【記憶7】大岡貴美枝さん/Memories7_Kimie Ooka

【記憶7】大岡貴美枝さん/Memories7_Kimie Ooka


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こんにちは、早川洋平です。今日は広島市の中区で、大岡貴美枝さんのご自宅にお邪魔して、いろいろとお話を伺いたいと思います。
貴美さん、よろしくお願いします。はい、わかりました。
先ほど、インタビュー前にも少しお話を伺ったんですけども、女性に年齢を聞くのはちょっと失礼かなと思ったんですけども。
今、91歳です。1922年生まれ。
生歴では私は覚えてないですが、大正11年です。
もう本当に見えないです。
1月の13日だから、来年の1月が来たら90になります。
信じられないです。今日、いろいろとお話を伺えればと思いますので、よろしくお願いします。
早速なんですけども、今ここは江波西なんですけども、貴美さんはもうずっと広島の方ですか?
はい、もうここで生まれて、ここで育ちました。
じゃあ、もうまさにずっと江波を知っていて、文字通り80年、90年前から知っているということだと思うんですけども、
今回この戦争の記憶ということで、昭和20年、1945年、少し前からいろいろ遡ってお話を伺いたいと思うんですけども、
ちょうど第二次大戦に入ってぐらいの時っていうのは、貴美さん、ご家族が例えばどういう、
お父様、お母様とかご兄弟がいて、どこにいらっしゃったのかとか、当時、貴美さんが何をしていらっしゃったのかとか、その辺を含めて教えていただけますか?
漁師。
漁師さん?
うん。お百姓と漁師。江波は半農半漁の町でしたから。
そうなんですか。ご兄弟はいらっしゃった?
7人。
7人、やっぱり昔の方が。
それが女の子が6人でね、男の子が1人でした。
そうなんですか。その男の子は何番目だったんですか?
3番目です。
3番目。で、貴美さんは?
一番下です。
末っ子だったんですか?
はい。その末っ子が母親が江波へ帰ってくれって言ってね、私、結婚して出てましたからね。
あ、当時。
うん。それね、戦前からもう、姉、上3人の姉がね、子供、上が6人、下が7人、その下が3人、2人。
終戦後に生まれた子が1人だから、先日は2人でしたがね、苦労するのを見ててね、もうお嫁さんにはいかないつもりだったの、私。
だから先日、司官学校でのね、左官級の兵隊さんがみんなね、お嫁さんに、「私兵隊嫌いじゃきゃいけませんよ。」って言ったの。
そしたら、「タバコ屋のお姉ちゃんはきついこと言うな。」って、「気に入らないけんぺーに言いなさい。」って言ったの、私。
タバコ屋さんもやってらっしゃる。
だからね、「タバコ屋のお姉ちゃんはきついこと言うな。」って言われましたがね、「気に入らないけんぺー言いなさい。」
「ひどいこと言うな、あんたは。」って言われましたがね。
今、お姉さんたちを見ていて、お母さんが言われたのかって言われましたけど、要は苦労するのが見えてるかなって。
子供全部、私、みんな風呂入れ寄りましたもん。
03:00
だから一番上の姉がね、「あんた上手に扱うな。」って言われましたもん。
あいつって子供でもね、「あんた、大丈夫だね。」って言われるくらい、子供も好きでしたからね。
今、お子さんをお風呂に入れてありましたが、それはお姉さまたちも一緒に住んでいたっていうこと?
いやいや、別々ですけど、みんな近所だから。みんなこの家場にいたから。
じゃあ本当に、お姉さまたちのお子さんも、ここでお風呂に入れてあげてみたいな。
あのね、日治時変の間はね、食料もまだ不自由ではなかったの。
だけど日米海戦になってから、食べるもの不自由になるでしょ。
そしたら1日ね、1人2合5尺です。お米の配給が。
で、野菜の配給でもね、大根でも1本じゃないんですよ。半分ですよ。
大根1本半分に切ってみんな配給だったんですもん。
そうするとね、1人2人の子供ならまだ楽ですけど、6人も7人も連れて行ってみなさいよ。
みんな食べ盛りでしょ。
それを子供に食わせるのには、自分が食べなくても子供に食べさせなければならない。
だから50センチぐらいの空き地があったら、そこへジャガイモとかね、さつまいもとか、そして小芋。
ね、そんなの軟筋とかお腹の足しになるようなものを植えてみんな補いをつけよりましたもん。
とにかくもう何もかも配給制度になってからがね。
私は国内にいる国民だけがこんな不自由な思いをして食べるものもない、
辛い思いをしてたんかなと思ってましたけど、戦後、引き上げて帰った人たち。
兵隊さんらが帰還してこられたりしてね。
自分らも高校だった。食べるものがなくてね。
もうヘビも食べたしねっていう話を聞いたときに、何でだろうと思ったら、ふっと輸送船がみんな沈没させられましたよね。
だから食料が届いてないんですよね。
それを聞いて、私らだけじゃなかったんだなっていうことを知りましたもん。
それまではもう国内の国民だけかと思ってました。あの食料なんもね。
そのままちょうど昭和20年、終戦の年にまで少し話を進めたいんですけども、
8月6日、原爆の日っていうのは、きめいさんはどこでどういう…
ここの家にいました。
それがね、三菱でね。家屋疎開ってね、割り当てがあったわけ。
だから8月の6日までだったの。
ちょうど。
ちょうどね。それがね、みんな得意な分野があるでしょ、建築と僕ね。
4日で終わっちゃったのかな、寒出りの中でね。
逆に早く終わった。
はい。それがね、よろずよ橋ってあるでしょ。
06:01
あそこのこの通り、囲町山。
あの市役所が囲町にあったんです。
あの通りのね、この右側の家をね、受け持たされて。
そしたらあの川、土手のところにね、素晴らしい邸宅があったの。
それがね、渋谷の名前は忘れたんですがね、白雀の人のお庭、家でね。
まあ立派な材木も立派なのが使ってあるし、
三菱でおった頃にね、おいちょっとついてこいわけ、建築の趣味。
どこ行くんです、どこでも行け、ついてこいわけ。
どこ行くのか思ったら三菱入るまでにその運河があったわけ。
そこへね材料が、材木がたくさんこう浮かべてあったわけ。
お前これわかるか。
のが常はでね、家を建てるよと。
昔はね、みんな日の木じゃ、桜じゃね、欅で使い寄ったわけ。
あそこの家は今度はこうこうじゃ、そうなって。
だからね、子供の自分で行ってみるでしょ。
そうすると大工さんがね、教えてくれよって言っちゃった。
教えてくれる。
それでこの年々数をね、この輪で見たらね、年数がわかるんだよっていうことも教えてくれる。
でこれは欅、これが日の木、これが桜でね、言って教えてくれてるから、私自分がわかってたわけ。
建築主任に、それ欅でしょ、それ日の木でしょ。
お前よ、教えてるな、誰に教えてもらったんかい。
いや、高校でした、言ったら。
そうかい。
そしたらその人がね、おい、ある朝、吉田玄二郎っていう人の詩人の本をね、このくらいの。
これ読め。
何ですか、言ったら。
お前は人間方すぎるから、これ読め。
そうしたら今度は水野さんっていう人がね、水野組の親戚の人でしたがね、その人が、源氏物語の原本の本、それを読め。
何でです、言ってまた聞いたらね。
あんたちと人間が方すぎるけ、これを読んでやをなれ。
さてさ、持って帰って開けてみたらね、昔の大和仮名でしょ。
全部が全部読み切れないの、私が。
それ和妻の先生の字が大和仮名だったんですけど、知れてますもんね、手紙で見ただけだから。
でもそれ持って行って、私これ全部読み切りません、言ったら、どこが分からんの、どこへって全体の字がはっきり私読めませんよ、少ししか分かりませんよ、言ったら、
高校だ、言って教えてもらって、その本も読ませてもらったりして、ずいぶんやるけどね、私可愛がってもらったんですよ。
ほんまにお前ここで生まれて育った子かって言われてね、おかしいことを聞いてだね、私エヴァから一歩もよそいったことはありません、言ってたんですがね。
だけど私が入って、エヴァの女の子が5人ほど入ったんですがね、
09:02
そしたらね、一人ね、この人はこういうところで勤めるような人とは違うなって、若い人がね、
それ、刑事の人が自分の友達を紹介して入って、働き出しちゃったんですがね、
ちょっと違うなって思って、何の気なしに私そういう感情を受けたわけよ、着てる背広が違うんです。
どうしてもこの人はこんなところにいるような人じゃないと思って、その友達の人に、
あの人、どこに勤めよった人って、どうしたんかというと、こういうところにいるような人じゃないと思うんだがね、
あんたよ、人を見るなって言われてね、アメリカの銀行に勤めてたんだ。
日支事変が起きてから、上海へアメリカが銀行を作るのに、
こっちの日本の子を生かすのに、身体検査、健康検査をね、そしたら配信順があって、その人が。
それで休んでたんだと、会社もはいかれんからね。
遊んでるよりか、高校でうちのほうへ来いよって引っ張ったんだって。
その人がね、エヴァから入った子が一人惚れちゃったわけ。
それ嫌うんですよね。
靴下脱いで塩が上がってるから。
自転車でスーッとね、後から帰ってきて、後ろに乗れって言って、乗りません。
あの人乗せてあげなさいって言って、私が意地悪に言うとね、嫌じゃん。
お前乗せて帰るから、私乗りません。
乗せてもらって、私自転車乗れます。
エヴァでは女の子が自転車に乗り始めたのは、私が一期。
戦争が激しくなってからね、男手がなくなるでしょう。
だから先輩も配達ができなくなったの。
だから個人で取りに来てくれば。
あの大きな第8車でね、こんな大きな木箱を持って帰るわけだけど、
明治橋が、この勾配がきついから、あそこが難儀だったんです。
うわー、これ第8車で嫌だなと思って、よし自転車を習いましょう。
だけど戦前はね、6インチっていう大きな頑丈な自転車でした。
ミバンを習って、日本末でこの夜ね、習うのに。
私が自転車を習うときはね、夜戦病院になってたの、日本末がね。
そしたらガチャンと当たるわけですよ、あの兵にね。
そしたら衛生兵がびっくりして、なんだタバコ屋のお姉ちゃんが。
3日練習して乗れるようになったわけ。
昔は。
女の子で自転車に乗る子はいなかったですもん。
普通に今みたいに、自転車みんな気軽に乗ってるじゃないですか。
そういう感じだよね。仕事がある人が自転車で。
女の子が乗ってると言ったらいなかったですもん。
だからね、ヨネキンの娘は八幡太郎でお天馬娘じゃよって言われましたもん。
でも自転車で行ったら楽ですもんね。
12:03
それで6日の日は、8・6の日は。
だからね、4日で終わってね、5日は会社へ出たんですがね、ちょっと下痢をしてね。
で6日の日は電話してもちょっとね、体調悪いからしきょう休みますよって。
で、父親が病気で寝てた時にね、母親が塔の椅子を。
椅子になるし、寝るようにもなるような塔の椅子を買ってたんです。
で、その塔の椅子をね、広げて、私こう寝てて。
ラジオも、私の家の近くで、私方が一番最初だったの。
父親が買ったの。で、ラジオをつけて。
で、聞き寄るとね、B29の爆音がしてるのにね、空襲警報解除と言いました。
またこのクソバカ、何を言ってるのか思った瞬間でしたね。
ピカーッと異様な光が目に飛び込んできて。
そして大きな音で、もうなんだろうこれは。
シュッと顔に手が当たったら血が付いたから、これいけませんと塔の下。
そして頭隠して尻隠さず、頭だけ通る人。
しばらくして、どのくらい時間が経ったのか分からなかったけど、出て静かなんですよね。
そーっと首を開けてみたら、もう家の中は薬床ですもん。
ガラスは壊れて、家じゅう飛んでるしね。
襖も障子もは薬草で。
一体これなんだったんだろうと思って、外に出てみたら、どこの家もみんなその状態。
母親がここ畑を作りあったから、お母さんがどうしてたろうと思って、すぐ家を出てね。
道路の広くなっているところは、戦前戦後は一軸畑だったんです。
浅尾産言ってね。
B29じゃないけど爆音が聞こえるわけ。
見ると飛行機が飛んで、これいけませんと思って。
夏だから香梁が植えてあるから、そこの中へ潜って、こうやってじっとしてて。
爆音が聞こえなくなって、すぐここへ来てみたら、姿が見えないから大きな声で呼んだ。
ちょうど土手が傾斜のところに防空壕を作ってあった。
母親がその防空壕から出てきて、その姿を見たときにびっくりしました。
着ている着物はボロボロで、皮膚が火傷しているんです。
その皮膚と着物のボロボロが下がっているわけ。
背中を見て、「お母さん、どうしたの?」と聞いたら、
東へちょうど向いていたのだけど、西側に用事があると思って、
くりっと向きを変えた瞬間だったわけ。
だから背中を大火傷していました。
15:01
明治生まれの人だから、スプーンでご飯を食べることに端が持てなかったの。
帰ってきて、その晩は家はガタガタになっていて怖いので、
近所の人たちが乗れば公園で、今晩は公園の山で休むことになりました。
そして見たら、もう燃えていました。真っ赤に。
ちょっと寝て、ふっと目が覚めて、私がふっと見たところ、駅が丸見えなんです。
本当は見えないはず。
外は見えませんよ。家があるんだから。
駅が丸見え。
中国新聞社、八丁堀、福屋、本通りの住友銀行、あそこのところにあると。
今の球場の前が五穀神社だったから、大きな石の鳥。
その奥が11連隊の本部があったところ。
この大きな影石の門柱が丸見えなんです。横川駅も駅も。
つまり普段じゃ見えないものが、大きなものとか丈夫なものだけ残って、逆に全部他は。
全部。3日間燃えていました。
そうしてみて、私がその塔の上で寝ているときに、それまでに福山が空襲があったんです。
そのときに、なんで広島は軍都でありながら空襲も受けない。
なんでだろう。
朝8時前後、B29が毎朝、午後2時3時の間、1日2回、偵察です。
それがね、銀翼で綺麗な姿のいい飛行機でした。
すぐ見つぶしでね、「わあ、また来たわ。」
福山は空襲の後、なんで軍都であるのに広島はこうして空襲を受けないんだろうなと思って、
わあ、これ広島最後に何かやられるねって言ってたわけ。
なんとなくそういう胸騒ぎがあった。
そうしたらね、ちょうど7月の空襲を受けて爆音がするわけ。
窓を開けてみたら、もう飛行機がたくさん、編隊を組んで宮島の沖を飛んでるわけ。
そしたらクレから来て、「あ、今クレに潜水艦が戻ってるけ。あれやられるね。」って言うわけ。
そしたらね、事務所の人が、「頼むけ防空壕、入ってくれよ。私死ぬるんならね、湿気臭いね。暗いとこじゃ死にません。ここで結構です。
18:03
お前の空襲の怖さ知らんけ。そういうことでいい。頼むけ入ってくれ。」
入りませんよって強情張ってね。
見てたらね、垂直に降りるわけ。
上がったら思ったらドカーンですもん。
うわあ、思いましたもんね。
偵察に来てたっておっしゃってたじゃないですか。原爆がね。
それから8月5日までB29が1日に2回来てました。
それ、木目さんの記憶で構わないんですけど、偵察に来てたっておそらく8月5日までっておっしゃってましたけど、
どのくらい前から逆に来てました?たとえば7月の終わりくらいからなんか来てました?
いやいや、それよりだいぶ前からです。
どのくらい前だったか、私それがね、記憶にはっきり覚えてないんですがね。
何ヶ月って来てました。
ほぼ毎日。
毎日。
その時は、別に空襲警報にはならないんですよね。なるんですか?
空襲警報にはなりますけどね。
だけどまあ、焼夷弾攻撃もないし。
なんでだろうなと思いましたもん。
それ東京、大阪ね、神戸がやられたときには別に思わなかったわけだし。
福山が空襲を受けたときに、なんで広島軍都であるのに空襲を受けないんだろうなと思ったわけ。
うわあ、これ最後に何かやられるなと思って、それも事務所で私が話していたの。
そしてその6日の日にね、うわあ、これ一体ずっとここまで歩いてくるのによ。
まあ家は今の大きい道路の農協のところからこっちがずっと地蔵畑でしたからね。
それまでは家はあるけど、地蔵畑の間は家はなかったですからね。
うわあと思って、母親を連れて帰って、姉の子どもたちがどうしてるかなと思って見に行ったらね、
子どもも怪我もしていなくてね、助かったと思ったんですが、家屋疎開したら木材があるでしょう。
それを風呂をたくのに、みんな第8車で取りに行き寄ったわけ。
上から2番目の姉がちょうど子ども一人、女の子を乗せて取りに行って、
住吉橋の辺で、まだこっち側で原爆にあったんですが、
昔はモンペイユってね、着物を崩してズボンと上と下にこう着てるでしょ。
ここを三角に火傷してましたもん。
ここをね。その皮膚がね、1センチ半くらい浮き上がってるわけ。
ピンクです。きれいなピンク色。
21:00
これがね、何年かね、君へ。
8月6日が近づくと、これがむずむずむずむず痒いようになるんで、ちょっと病を言い寄りましたがね。
そこの子どももみんな元気でいたから、「ああ、よかった。」と思ったら、
痛いよ、痛いよって言いながらね、歩いてくる人が目についたわけ。
してみたところ、もう子どもの頃から怖い目に遭うと髪が一本立ちになるという話は聞いてたけど、
実、見たことはなかったわけ。
でが、その原爆の火の時なし、初めて見ましたね。髪の一本立ちになってるの。
そうしたらね、もう皮膚は焼けてボロボロになってる。
この着物の着てたのがね、ここの袖口と、このズボンの下のゴムのところだけが残ってるわけ。
で、あとはボロボロ。皮膚と着物のキレッドがぶら下がってるわけ。痛いよ。
こう着けられないわけ。痛くて。
痛いよ、痛いよ。どうなったんだろう。
そしてもう顔を見るとむくれてるわけ。
普通の子の顔じゃないんですもん。
女学生なんかでもね、親御さんが子供が行ってる場所をわかってるでしょ、あの顔疎開をね。
そこに行って探すんですけど、まだね、気力があって、かすかな声でもね、
出る子供さん、ましの近所の娘さんが一人、親御さんが連れて帰られましたがね、
3日目にそれも、かすかな声で。
親だから、声を聞けばわかります。顔を見ただけじゃわからないの。区別がつかない。
むくれやがって、全身がそれですもん。
ね、丸裸で焼けてるんだから。
親が見てもわからない状態。
だけど子供さんが親の声を聞いて、
かすかな声ながらでも、呼んでくれたら、親はわかるから行ってみて、初めて、
ああ、この子だって、いうのがわかって、近所のおばさんも連れて帰られてね、
きめさんや、見てやってくれんかっていうか、おばちゃん見てもいいのって言ったら、見てやってくれって言うからね。
見たら、それはもうね、むごいもんです。
むくれやがってるんですもん。
そのくらいもうね、体の中のあれが全部壊されてるんですか、放射能でね。
そしたら、その傷を受けて帰ってる人はね、全部その、うじが出るわけです。
とってもとっても、次から次出るわけ。
で、私はね、医薬品がないでしょ。
オキシドールもないし、何で治療したらいいのか、薬が何にもないんだから、
困ったなあと思って、ひょっとこの庭を見たらね、家のとこの庭でね、
ドクダミソウがたくさん出てたんです。
それも、子供の頃から、ドクダミソウは医者いらずって言われてるんだって。
24:04
それもね、おできを作ったら、海を取るのにね、このドクダミソウをね、
葉っぱを綺麗に洗ってね、
ツワブキの葉っぱがちょっと厚みがあるから、
あれにこう並べておいて、二つに折ってね、お鍋さんでね、蒸し焼きにするわけ。
その焼けたのを、そのおできの上に貼ってね、包帯をしとくと、海が吸い取られて治りよったわけ。
そんなのも聞いたりしてたから、わあ、ドクダミがあるからこれを使おうと思って。
そのドクダミをね、二本手ぬぐいを縫って、その中に入れて煮出して、タオルにしまして、その傷は全部。
三日目のお一個がマツロを連れて帰った場所が分かってね、その子も背中を126か所傷がありました。
この右の経動脈のちょっと3センチぐらいをザクロみたいに傷して、ザクロみたいになってるわけ。
うわあ、どうしようかしら思いましたよ。
それも、そのドクダミでして、お茶で飲む、お風呂入れるね。
まあその時は、ドクダミが良かったのかなという思いはしなかったけど、ウジは出ませんでした。
ウジは取ることはなかったんですがね。
1ヶ月40日ぐらいでしたね、母親が。やっと箸が持てるようになったのは。
あ、お母様が。
うん。それまで明治生まれの人だけスプーンでご飯食べることはなかったんだけど、しようがないですよね。
箸が持てるのですもん。
それからおいっこも、3年ぐらい経ってからですったかね、八血症になってね、肺血症に。
どうだろうかもっと心配しましたが、おかげで命尾をしてね。
私と4つしたですがね、まだ生きさせてもらってます。
今そのお母様とかおいっこさんのお話とかも伺いましたけど、
その直接原爆ではご兄弟とかもご無事だったんですか、皆さん。
けがはもちろんされてるでしょうけど。
けがはしてましたしね、原爆で亡くなったのはいなかったんですが、
あと原爆症ですよね、あとみんなね、ガンで亡くなりました、その姉も兄も。
あ、そうですか。
それで3番目の姉のおむこさんが被爆体験者でね、ちょうど吉島の刑務所のところで、
あそこでね、ぼけーっと座ってね、どてから足を下げてたんですか、海のそばでね。
そしたらね、江波は漁師さんがおるから船があるでしょ、それもみんな炉ですよね。
今みたいに機械がついてる船じゃないから。
それでずっとみんな探しに行くのに登って行っててね、
あれは岩本の息子じゃないよって言われて、こっちへ渡してもらって、行けんじゃや、言ってあるんですがね。
そこの近くに姉が住んでたんです。
27:02
そこで兄は3日目に亡くなりました。
だけどその姉は、自分のお腹に子供ができてることがわからなくて、兄も知らずに死んできました。
みんなね、原爆で直死したのはいなかったですがね。
だけどその子供をやけどしてた姉は、中殿の先生がね、
妹さん、今ならね、手術すれば助かるから、首縄つけてて引っ張ってきてくださいって言われたの。
で、姉にこうこう言ってね、今手術すれば助かるって言われてるから、
手術したらどうかねって言ったら、明治生まれの人だからね、親からもらった体にメスは当てません。
どうと手術もしませんなんだがね。
だけど最後は今の神谷町にある河村病院にね、
あそこは先生ら知ってたもんだから、あそこで亡くなったんですがね。
そこへ入る前に、姉は今回はここに行ったらもう生きては帰れんなと、
自分もそれは覚悟していきましたがね。
君さんご自身は原爆でピカッと光った瞬間にもう血がついたってことですか。
ガラスの灰片が刺さってました。
何年かここにちょっと傷が残ってましたがね。
でも綺麗に治りました。
ご自身は、でもやけどとかいうのは傷はやっぱあったんでしょうか。
いや、私はなかったです、幸いに。
それは運が良かったのか。
運が良かったんだと思います。
今直接その原爆の瞬間からその後少しお聞きしましたけども、
少しその鬼命さんの当時の心というかですね、感情についてちょっと伺いたいんですけど、
最初少し遡りますけど、原爆の投下の前というか空襲とかの時に警報出た時に、
頼むから防空壕入ってくれって言われたけど入りたくないっておっしゃったとか、
その辺のあったと思うんですけど、
当時いろいろ推移があると思うんですけど、原爆投下される前、
つまり広島に本来群島なのにもっと来てもおかしくないんじゃないかっておっしゃったじゃないですか、
その時のそういう疑念はあったと思うんですけど、
当時広島で君さん住んでて、
何て言うんだろうな、死生感というか、
つまりもういつ死ぬかわかんないぐらいの切迫したものを持ってたのか、
ありましたね、それは。
アメリカが空襲をしていらん攻撃をやってたでしょ。
だからね、夜寝る時でも着替えてね、パジャマに着替えて寝るっていうことはなかったです。
モンペ姿のまま。
だから防空頭巾も作ってる、背中に肩にかけるバッグも作って、
それにある程度のものをみんな入れてね、
いつでも起きて出れるような状態で寝てましたもん。
だからもうね、落ち落ちね、ゆっくりと寝ましょうっていう感じじゃなかったですもん。
30:03
いつ空襲警符が鳴るかわからんでしょ。
それでこの電気でも黒い布をぶら下げてね、明かりが外に漏れないように。
昔はみんなね、今のようにこのサッシじゃないでしょ。板戸だから。
火の伏し目から火が漏れるわけ。
だから全部黒い袋を塗ってね、明かりが外に漏れないようにして。
そういう状況の中で、そんな中でも毎日家族でご飯食べたりとかってあったじゃないですか、
そういう時って、そんな緊張感漂う中でどういう会話をしてたのかなって。
どういう感じだったんですか。
私ね、何年でしたかね、シンガポールが戦争があったでしょ。
あの時にね、私の上から2番目の姉のおむこさんがね、
軍用船に乗ってたんです、パーサーでね。
それがね、シンガポールのあれがあってのちに帰ってきた時に、
君ちゃん、この戦争は勝てんよって言いました。
でね、お兄さん、勝てるわけないでしょって私が言ったの。
君ちゃん、あんたどうしてそう思うかって言うからね。
日本は島国よって、物資のない国。
アメリカは大きな国で物資の豊富にある国。
こんな国を相手にして喧嘩してどうして勝てるのって言ったの。
あんたそう思うかい。勝てません、この戦争は言ったの、私。
言ったら、お前言うなよ。
言ったらすぐ憲兵が来て、刑務所へ連れて行かれるって言いやせんけどね、
私自分ではそう思ってるよっていうお話はしましたね、兄と。
そうだったんですか。
そういう、なんだろう、きみえさんはそうだったと思うんですけど、
例えばお父様とかお母さんも直接そういう話をしたかわからないですけど、
どう思ってたと思いますか。
父親は日米海戦の前、10月に亡くなりましたから、母と私だけで。
母親は戦争についても、なんとつまらん戦争を始めたなっていうことは言いましたけどね。
辛いものはあんまり言わない。ただ私一人でもそう思って、いろんなことを。
だから、兵隊さんではね、あんたも平気でそんなこと言うねって言うから悪かったわねって言ったんです。
お父様はその海戦の前に亡くなったとしても、それはご病気でしたか。
そう。
直接では戦争動向とは関係なく。
ないな。
そうだったんですね。
ガンでしたからね、父親は。
そうなんですか。
そのとき、きみえさんはそういう視点があって、たぶん負けるっていうふうにおっしゃってたんですけど、
当時、口ではみなさん周りが、たとえばそんなこと言っちゃいけないとか、勝つに決まってるとか、いろいろ言ってたと思うんですけど、実際どう?
勝つまでは言ってね、物を欲しがりませんとかいうのがスローガンでしたからね。
だけどね、竹槍じゃもう通らんことをして、一つ爆弾落とされたら後方もないのに思い寄りましたもん。
33:08
その実際、きみえさん以外の方、竹槍やったりとか、どちらかというともうご国のためにとか言ってる人たちを見て、人によると思うんですけど、きみえさんが見て、実際彼ら彼女らは本当にそう思ってたと思いますか?
それとも、うすうすはなんか違うとか、負けるかなとか。
いやね、日本が負けるっていうことは思ってなかったと思いますね。
大多数は。
それはなぜそう?
日本は上風が起きるとか言ってね、そうしたあれがあったから。
だけどね、大なり小なりね、物事を自分で判断できるだけの能力のある人はね、勝てないと思ってたと思います。
それは直接話はしてないけど、なんとか感じますか?
そう。だけどね、もう各町内ではね、班長さんっておりましたよ。この人たちが言い張りくさしてね。
もうね、なんだかんだってよく言ってましたよ。うーん、なんないと言いなさいよ。
だったら今ひどい目に遭うかと思って、まあ私は自分では思ってましたけど、うちには出しませんよね。言ったらもうすぐ引っ張っていかれるからね。
ひどいことを班長さんたちが言ってたってのは、例えばどういうこと?
あのね、火事があったときにはね、いうので防火水槽というのが作られたんです、大きなのが。そこに水を張ってバケツがある。
そのバケツをね、リレーでね、消す消火訓練をしたりとか。
それね、お腹に子供を抱えている人がいるでしょ。そういう人らでもはしごに登らせたりしてね。
あんなのを見て私ね、なんとこの人たちは思いやりのない人だねと思ってましたもん。
そういうことがあったんですね。
だけどね、8月6日の天皇陛下の玉音放送を聴いてくれと言われてね、聴いたときにはね、わー悔しいという思いはありました。負けたとね。
だけど、わーこれでやっと戦争が終わったなと思ってホッとしましたね。
その玉音放送というのはどこで聴きました?
僕の家で聴いてました。
ラジオでなんて?
ラジオで聴いてました。
そのときはお一人でお母さんと?
母親と一緒にね。
で、お母さん、ここだよって言ったら、やっと終わったか言って、母親も言ってましたがね。
そのときってシンプルな話ですけど、なんか涙が出てきたとか、涙は出ました?出ませんでした?
私は出ませんなんだね。
はーこれで戦争がやっと終わったと思って。
で、その後ね、ちょうど9月でしたかな。
三菱へね、アメリカの海兵隊がね、船をつけてね、上がってきちゃったの。
で、うち方、タバコ店があるんですよ。
2人入ってきましたよ、水兵さんが。
36:00
わーどうしようかしら思って。
そしたら一升瓶がこうある。昔はね、一升瓶で置いてありよったから。
で、うち方は人数が多かったからね、人だるでお醤油は取りよったの。
それをね、一升瓶に移し替えて、小前野へね、移し替えたりしよったんです。
ただそれをね、お酒だと思って。
それ、ノー、飲み物じゃないです、言ってもわかりませんよね。
ノーだけはわかるんだけど。
これ困ったね、怖いねと思って。
で、私もちょうど噂をしてたでしょ。
私の時代の噂はね、着物の裏に真っ赤な着物をつけよったわけ。
そのキレがあるわけ。
よし、あれをね、お袖をね、
ゆなが昔は一尺七寸言ってね、
あの、袖だけが長かったから。
そのね、あれをマフラーにしてやればね、喜んで帰るから思ってね。
やってね。で、首それを巻いてこうしてあげたら、
サンキュー言いました。喜んでね。
それで二人ともそうしてあげたらね、出て行ってくれたから、
ハーッとすると思いました。
やっぱりその、怖いっていう感じが。
怖い感じがありましたね。
その、怖いっていう感じの他に、
戦争終わってから、終わる前とかってちょっと違うかもしれないですけど、
アメリカに対する、アメリカの、
アメリカ人とかアメリカ軍とかに対する感情って、
やっぱり憎いとかってのはあったんですか?
私はなかったね。
言うのがね、山本イソロクさんがね、
あれ、なんで私見たんだったかな。
あ、リーダーダイジエストっていう本がね、出たんですがね、
あれで見たのかな。
まあ山本イソロクさんは海軍でしょ。
で、師官学校出たら一年間ずっと海軍はみんな、
世界各国回って日本に帰ってくるでしょ。
なんか視野が広いわね。
陸軍はそれがないでしょ。国内だけでしょ。
そしてあの午前会議があった時でも、
天皇陛下は本当のことは知らされていなかったわけよね。
だからあとね、なんで嘘を言ったか言って怒られたのも聞いてますし。
言ったらイソロクさんがね、ミッドウェアですか、
あそこを攻撃すると言った時に真珠湾攻撃、
本土を叩かなきゃダメだと。
物資が豊富にある国だから日本は物資がないと。
真珠湾攻撃だけではダメだと。
言ったのを陸軍がそれもさせなかったわけでしょ。
でその後ね、
側近の人、白石さんじゃなかったと思うね。
他の側近の人だったんでしょうね。
日本はアメリカに真綿で首を絞められるような状態で外交的にやられるってこう言って言われた。
そのくらい日本は外交面ではダメだと。
39:01
自分が世界各国見て回ってきてるからそれが言えたんだと後から私は思いましたがね。
そんなのを聞いてたから。
私はね、アメリカは憎んではないね。
戦争を起こした日本がバカだと。
8月6日の前から終戦について伺いましたけど、
改めて戦争から68年経って振り返って、
今の中でもやっぱりその時に原爆の部分が、
僕の話を聞くと目に見えてやっぱりすごく、
本当に文字通り痛いっていう感じを受けたんですが、
改めて振り返って、全てが本当に辛い体験だったと思うんですけど、
一番これだけはしんどかったなって。
それは物質的かもしれないですし、
何か精神的かもしれないですけど、
振り返ると何か印象的なことってありますか?戦争で。
これだけ本当に辛かったみたいな。
もうね、ラジオでニュース聞くでしょ。
で、兄がね、シンガポールから帰った時の後ね、
そういう話私して聞いとるでしょ。
だからね、あのニュースの信じたことないの。
また嘘ばっかり言ってるわ、思って。
もうそれは一番感じましたね、私は。
実際のだからね、みんなが信じてても、
まさに実際その経験した方がね、帰ってきて言ってるから、
それに勝るものはないわけですね。
そういうこと。勝てないよって兄が初めて言いましたもんね。
勝てるわけないでしょ、私。
君ちゃん、あんたどうしてそう思うかよってね、言いましたもん。
その戦争に対するそういうお考えもよくわかったんですけど、
一番、例えばその原爆の時、その前の時、
戦争終わってからいろんな大変なことがあったと思うんですけど、
今一番大変だったことって何か思い浮かぶものってありますか?
一番大変だったのはやはり食糧でしたね。
姉らの子供たちがいるでしょう。
それとね、終戦後ね、親を亡くした子供たち。
子児。
ね、子児。
助けてあげたいと思っても、自分たちの食べるものもない時でしょう。
かわいそうだな。
でも母親はね、ご飯が残ったりしてるでしょ、大抵もね。
それを手で握ってね、ちょっとおいで、言ってね。
はい、これ一つずつしかないがな、これ食べんさいよ、言ってよ、渡してやれ、言いました。
ああ、よかったな、と。
何とかしてやりたいがな、と思っても自分らの力ではどうしようもない。
そしたら、何とかした人でしたよね、扱い知恵。
子児を集めて学校を作ってくれちゃって。
ああ、よかったと思う。
今ね、最近よく子供さんがこうだ、こうだっていうのを聞くとね、
戦争の子児のね、子供の明日ね、親がいなくなる。
42:00
親戚もいなくなる。
自分一人になった時の子供の心の状態っていうものを考えてやってくれたらね、
あんなことは言えるはずがないと思う。
食べるものもないよ。
だけど田舎からね、炊き出しをしても手伝いに出てきてくれてる人は、
この正義さんでもそうだけど、5年生の時ですがね、
これも三好家。
お母さんの里の方、お父さんの里の方、今疎開学児でね、生かされてて。
そしたらね、親に会いたくなってね、ちょうど日曜日、
弟と二人で、一戦もお金も持たずに、
怒られるからね、お金くれ言ったら、何するんかと聞かれると、帰ると言ったら怒られるでしょ。
お金も持たずに無賃乗車で、広島駅で降りて駅員さんに問われるでしょ。
お父さんが警察で言っちゃったの。
それでお父さんにすぐ来てもらってね。
だから5日の日でした、それが。
8月。
8月の。
それでお父さんの駅でビンと張られたんだって言われましたがね。
そんな状態で帰ってきて、6日は原爆でした。
家から15メートルぐらい飛ばされてと言われましたよ。
この人の話がね、切実だよね。自分が実際に会っていることでしょ。
父親が家を出たきりわからないんだから、警察に務められてね。
それを探しに歩くのに、市街を乗り越え乗り越えね。
そうした中で田舎からご飯を炊き出ししてね。
来てた人らが、「はい、僕これ食べんさい。」っておむすびを2つもらって。
その美味しかったことを未だに忘れんって言われますがね。
そんな状態でずっと歩き回ってね、いろんなことを見てるから、この人の話はね。
それから学校でね、昨日一昨日かな。
明日また行くんで、あんた無理しなさんなよって私が言うんですがね。
もともとが全職持ちだったから。
相当今弱っているんですがね。
だから自分の後を受け継いでもらう人に、他の人を一人連れて行くって言われましたがね。
この人が2時間ぐらいかかります。話をされると。
今、食べ物が苦労されたっておっしゃってましたけど、
それは当然、戦争終わって8月16日から食べ物が豊かになるわけじゃないと思うんで。
大体その気迷さの感覚で、ある程度食べ物なんとかなるかなみたいに、
少しそういう意味で安心というか、見えてきたのっていつぐらい?
例えば終戦から半年経ってからなのか。
その時はまだまだ不自由でした。
どのくらいで普通?っていうのも変ですけど。
45:03
そうだね。どのくらいだったのかな。
やっと十分に食べられるようになったのは、30年に入ってからかな。
本当ですか。どのくらい?
それまではもう闇の米を買ったりとか、田舎へぶつぶつ交換でね、子供に食わせるためには。
だけどそれももう続かなくなったりしてね。
駅でね、警察に捕まるでしょ。
そしたら三好に女の刑務所ができたの。そこへ入れられてたの。
親が帰ってこなければ子供は困るでしょ。
そんなのでもね、私の母親も子供もたくさんいるから面倒を見るわけにいかんしね。
困ったなーって嘆き寄りましたがね。
そんな状況の中で、戦時中もそうですし、戦争終わってからもそうですけど、
支えになったものというか、これがあったから今振り返ると、
自分を保てたなとか、頑張れたなっていう何かものってありましたかね。人でもいいですし、言葉でもいいですし。
自分でね、一人で生活できるように習いたいと思って、私も洋裁をね、
そんなに前にも言われてたから習いましたよね。
全くね、だけどね、あれ終戦後だから、
24、25の時かな、ちょうど的場の伝廷でね、洋裁学校で二人で組ませてね、
仕事させてもらってるその友達が、的場に住んでたのよね。
そこで仕事をして帰るのに、的場の伝廷で立ってたらね、髪の長い人がね、
この人なんか占いする人かなと思って見たわけしたら、
ちょっと手相を見せてくれんかい。私はよくわかってるから、見んでもいいです、言ったわけ。
まあそう言わずに見せなさいって手を握って離さんのよ。
でね、ちょっと待ってくださいよって財布から。電車賃しか持ってないわけ。
見てもらっても権量が払えませんって私が言ったらね、いりませんよ。
それで17の年にね、戦前は各町内に男子青年団、女子青年団ってあったんです。
でその女子青年団に、市の方からこの映画は見てください言うので、
今の福屋の前が東洋座っていう映画館だったわけ。
そこへね、十何人で見に行って帰りに本通りでね、
山口銀行のところでね、戦前は女の人がね、黒の道行きのコートに白いマフラーをしてね、手相を見る人がいたんです。
そこんとこまで来たら一人の人がね、きみちゃん手相を見て、
またあんたが行くと言うて言うて私がね、
48:01
私見てもらうつもりはなかった。
こんだけ囲んだら誰も入りゃせんけ、大丈夫やね。
私最後の時期見せてもらったの。
そしたらね、ぱっと手を見て顔を見て、
カイコ一番がね、あなた晩婚ですよ。
ただし幸せな結婚ができます。
だけどね、結婚して出てもどうしても帰るようになります。
で帰って後取りのすることをあなたがするようになりますよって言われたのよ。
十七の年ですよそれ。兄がおるのにね。なんだ思いましたよね。
そしたら、あなたはね、何でもこなせる人だと。
器用にね、何でもできる人。
だけどね、表だってのね、あればしない方がいいですよって言われたの。
どうだろうねと思ったら、
まあ味方もあるけど敵もいいですと。
だからそうしたらね、中へ入り込まないようにしなさいって言われたわけ。
だから洋裁学校に行ってね、一年は三原で先生をしたこともあるんですが、
こんな本校でね、残ってくれんかね、米田さんって言われたら、
残りません。どうしてって、私ダメですって言ってね、
そういうふうな話を聞いて。
それがね、あの終戦後のことだから、
いろんな情報を盗むためにね、生徒をね、よその学校へ行かすわけ。
そんなの見てて嫌だったんですよ、それが。
だから、もう、残りません。
だから表だっての仕事はしてなかったですけどね。
だけどまあ、物を習ったような、ありがたいなと思いました。
でもそのね、占い師の方が結構言った。
その通りの人生。
母親がね、私元町にいたんですがね、市民病院の前に、
今日はお母さんのお使いで来たんよって言うから、何だろうってね、
ああ、嫌だなと思ったの。
言うのが、私はピンと来たから。
だからあんたに、江戸へ帰ってほしいことだよって言ってね、
即座に帰りません。兄がいるんじゃけどね。
私が面倒見ることいらんでしょ。
長男がいないのなら戦前は、戦死したりしたらね、
末っ子が家を連るために結婚してね、
家を連り出したままあるの、それは。
だけど兄がいないならしようがないけどね。
なんで私を頼ったんだろうかなと思いましたけどね。
なんで私がね、今一番子育てしてね、貧乏してるのにね、
姉たちはみんな子育ても終わって、楽に生活してるのに、
なんで私頼ったのかって聞きましたよ。
あんたがね、なんでも一番いいを知ってるんだがなって言いました。
それで兄に安く家を建てさせてね、
行きなさいんだよって私がね、くどくど言ったんです。
51:01
私は黙って一ヶ月来てたんです。
その時に初めて今じゃけ言うけどな、
お前が行くなよなんで、私は一ヶ月行ってたと。
嫁がね、三度三度虫飯食わされた。
お前らから行くの言ったでしょ、私が怒ったんですがね。
お前の言うた通りだったよって言うのがね、
兄がね、東京の第三陸軍病院ってね、あったんです。
そこでね、何年いたかな、一年余りいたんですからね。
その時に東京の人とね、恋愛をしてね、
お嫁さんもらうって言った時に父親が、
ここはね、半農半漁でね、東京で暮らした人に向かうから、
嫁さんにもらうなって言うのは兄が聞かなかったわけ。
だけどいいお姉さんでしたがね、だけど帰っちゃったんよ。
だからその後、兄が追っかけて行ったわけ。
その時に父親が、これは私がいなくなったらね、
このままにしといたら、女の子がまだ三人いる。
母親がいる場所がなくなったらいかんと思ってね、
司法書士のところに行って相談しちゃったわけ。
だけど旧憲法だから、全部が母親の名義にできなかったわけや。
おもやだけを母親の名義にして、前は父親の名義のままだったわけ。
そんな事情もよく知ってるわけや、私がね。
兄がいないからみんな、あれだこれだってみんな下着にはならんでしょ。
だからあんたが一番よく事情を知ってるから、嫌だなと思ってね。
困ったな、手相見の言った通りの人生。
養成学校時代の友達がね、下にいたんですよ、一緒に仕事しよった人がね。
そこに行ってね、まあ高校だよって言ったら、
あんた手相見の言った通りになるね。
帰るならね、あんたの名義に切り替えてもらおうって帰る。
そういうことする親じゃ思う?しないよね。
するわけないでしょ、言ってね。
だけど、主人に私が言ったらね、
おばあちゃんは一人でね、あの大きな家でのうのうと生活しててね、
僕らは大きな家はよう作らんよと、
狭くてもね、辛抱してもらえるか聞いてくれ、言われてね。
それでまあ、母親に話をしたら、いいよと。
ここはやろうよってね。
このお家を?
うん、土地をね。
それでもう、高校だったら言ったら、
まあ、ほいではね、あれしよう言うので、金融高校へ申し込んだわけ。
で、私らくじまんが弱いんだけど、2、3年先になるわって言ったんだけど、
条件がいいでしょ、土地があるから。
許可が下りたわけ。
でも慌てて、ほいじゃあもう家を作らないしようがない。
54:01
向こうの家は水害にあってる、原爆にあってる。
私ね、こう見えてもね、大工もするしね、
砂漢もしよ、他の男でがないから。
ね、だから原爆の後に家を訪れたりしてもね、
江波の公園に校舎放題ができたわ。
そこに兵隊さんが2階の屋根あがっててね、
これ3つあるからね、傷んでるから、雨が持ったら困るから、
はしごかけてあがってたらちょうどタバコ買いに来てね、
上司のタバコを。
お姉ちゃん頼むけ、降りてくれ、あんた怪我したらどうする。
でもね、雨が持ったら困るから、
明日僕が休みだけ明日来て、私が手伝ってあげるわけ。
頼むけ、降りてくれ。
あんまり言うてだから降りて。
で、あなたはどうしてそういうのを持ってくれるの?って聞いたらね、
僕も里には年寄りとね、嫁と子供が残ってると。
いや、ほっとけんのに。
その人が屋根を直してくれたりしたから助かったんですがね。
そういういろいろあったんですね。
最後に2つ教えていただきたいんですけど、
1つが少し現代に戻ってきますけど、
やっぱり原爆がもういけないのは分かりきっていることですけど、
原発についていろんな意見も出てますけど、
清水さんは原発に対してどう思いますか?
よくないです。
それがね、原子爆弾が落ちてね、
これ普通の焼夷弾攻撃じゃないってなんだったんだろうと思ったら、
1週間ぐらいしたら新兵器と出ましたよね。
そしたらその後が原子だっていうのが出て、
それを聞いたときに私が小学校4年生の時の理科の先生がね、
人類はね、科学の発達で滅亡するよって言われたの。
小学校4年生でしょ、その頃のことだから、
原子じゃのなんだのいうこと全然わからないし、
この先生やっぱりちょっと頭がおかしいんじゃないかと思いました。
だけど終戦後15日、20日過ぎだったかね、
私がこの原子兵器を聞いてね、すぐその先生の言葉を思いました。
全く無残なもんじゃないんですもん。
だから今もね、資料館で人間のあれがね、
模造のあれがのけるじゃの言うでしょ。
あれを見てね、気分を悪くしたりする生徒さんもいる。
あんなもんじゃないんですよ、実物は。
まだまだひどいんですもん。
あれをのけたら何があるのあそこは。
ね、弁当箱の焦げたのか、自転車のあれとか、
あんなの見て、あれは火事の後でもあんなのありますもん。
で、なんであれをのけなきゃいけないんだと思いますもん。
今回やっぱり何か他の方にも聞いてますけど、
57:02
皆さん全く同じこと言います。あんなもんじゃないっていう。
そうです。あんなもんじゃないんですもん。
それはね、普通のこの両体とは違うんですもん。
めくり上がって目は飛び出てる人もいるし、
体全体がそれですもん。
それはね、もう見られたもんじゃないんですもん。
だからそこのね、今のエヴァ中のね、国旗慶応台がありますがね、
あっちの息子らが中学行くようになったら、
お母ちゃん、あそこね、日本国旗が上がらんのだとって言うから、
上がるわけないでしょって言う。どうしてって言うから、
あそこで人をたくさん焼いてますよと。
野原だったんだからね、射撃場に。
射撃場の跡だから。
それでね、一人ね、私らがね、
わあ、この人は赤紙の着物を着てね、
せこべしめたね、体格のいいハンサムな男の人でしたけど、
死体を持ってきても誰こそ焼いてあげる人がいないんですよ。
で、3日も経てばもう匂いはするしね、
うじは出るしするでしょう。
だからこれじゃ気の毒だからこの人はね、
親戚の人もいないんだろうから、
焼いてあげようって私らも。
だからあそこでね、ずいぶん手伝いましたもん。
で、大きな仮面にね、その、わからんでしょ。
だからその仮面にね、そのコツをみんな拾ってね、
そこのね、今、四重住宅が建ってますが、
そこに今置いてたんですが、
これはどこへ持っていかれたのかね、私知りませんけどね。
だけどそんなのをして射撃場だったんだから、
兵隊さんの銃殺の処刑をする場所もあったわ。
僕は33で、今日本で数字、ちょっと確かがあるんですけど、
今日本に原発が54機あると思うんですけど。
まあ、国民が知らん間にね。
まさにその辺って、
君江さんは、もうやっぱり、
54機も建ってたってことは知らなかったんですか。
知らなかったです。
もう3人2個になるわね、もうちょっとしたら。
あれ津波とあれがあって、初めて50何機もあるの知ったんですもん。
まあ、だけどね、
それも田舎のね、過疎地でしょ。
仕事もない生活にこもるような場所へよね。
あんなのしたら働く場所はあるし、
町民の人もね、恐ろしいことは分かってても、
どんなもんかいうのが実際には分かってないから、
まあ賛成もされたんでしょうけど、
火山自体の上にある日本ですよ。
何か最後にメッセージというか、
戦争を体験された方から一言いただきたいんですけども。
もう戦争っていうものはね、
争いは起こすもんじゃないです。
このくらい惨めなものはないですもん。
そしてもう将来に向けてのね、あの子供、
このたちの命ものをね、考えてほしいなと思いますもん。
1:00:02
ということで今日はですね、
広島市中区、江波西でご自宅にお邪魔して、
大河紀美恵さんにお話を伺いました。
紀美恵さんありがとうございました。
どういたしまして。

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