早川洋平です。今日はですね、広島市浅南区の早志百合子さんのお宅にお邪魔してお話ししております。早志さんよろしくお願いします。
早志さんよろしくお願いします。
実は僕の住処の近所だったんですけども。
そうですね、たまたま。
普段近くに行ってて、日立も近くて、突然のご要望にもかかわらず開学いただいてありがとうございました。
はい、よろしくお願いします。
このインタビューを収録させていただいて、今ちょうど9月の19日。
広島では忘れられない、8月6日からちょうど1ヶ月以上過ぎてますけども。
8月6日、毎年迎えて、今年戦争から68年ですよね。
改めて、当然忘れた日は1回もないと思うんですけど。
早志さん、8月6日、早速本題に入ってしまうんですけども。
1945年の8月6日っていうのは、どこでどんな状況だったのか?
そうですね、9歳ですね。
だから、当時は小学校のこと、国民学校って言ってたんだけども。
国民学校3年生、9歳ですね。
爆心地から1.6キロの土手町っていう町なんですけど、今はひじやま町っていう風にね、町名変わってるんですよ。
そこで、ちょっと屋内ですけども、両親と私と、それから2歳の弟。
4人で同じ部屋にいたんですけど、それで被爆したんですよね。
ちょうど8時15分っていうことで、その時はまだ学校には?
本来はね、もう学校行くのに出てる時間だったんですよね。
父ももう仕事に行くのに出てる時間。
弟はもう朝早くから外に出て遊びに行ってるのがもう習慣だったんだけど。
なぜかその日に限って、いろいろなそれぞれの事情があって、家の中にたまたまいたんですね。
いつも通りの行動だったら、もう誰かが亡くなってたと促死してたと思いますけどもね。
たまたま4人とも屋内にいましたね。
だけども、一瞬で中何十メートルも飛ばされて、一瞬真っ暗になって明るくなった時に、そこがどこかわからないぐらいのところに飛ばされてたから、
もう何もだんだんだんだん明るくなってきて、こう見るともう空が見えるんですよね。
2階建ての家の中なのに、もう何もなくてボウボウ燃えてましたけどね。
なかなか思い出させるっていうのはちょっとあれなんですけど、その瞬間って覚えてます?
覚えてますよ。
ちょうど例えばそれこそ、何かを飲もうとした瞬間だったとか、どういう今、記憶が?
その時の落ちるまでの状況はね、母が私が学校に来て行くための洋服のボタンをつけてくれてたんですね、玄関先で。
で、父はもう出かけようと思って、玄関で靴を履こうと思ってて、弟はそこらにいたと思うんですけど、そういう状況でもうピカーって光ったんですよ。
僕何でも光は感じましたよ。
で、何秒かして、それこそピカドンって言うでしょ。
光って光ってやっぱり何秒かあって、ドンとなったら真っ暗になったんですよ。
暑いも痛いも全然わからずに。
で、一瞬静寂みたいな感じで静かになって、それからだんだんそこからが浴び狂感っていうかな。
そういう状況はもうはっきり昨日のことのように覚えてますね、9歳だから。
真っ暗になったって今お話ありましたけど、それこそ記憶も飛んでしまったのか、記憶失ったとかは一切なかった?
じゃなくて真っ暗くなったんです。
だから一瞬にしてバーンと爆風で上から熱線も降りてくるし、放射能も降ってくるし、家は全部潰れるし、ほとんど木造でしょ、当時はね。
大きなビル以外は木造だから一瞬にして至るところに火がバッとつくわけですよ。
でぺったんこになるでしょ。だからそれ土ぼこりも含めて真っ暗になったんだと思うんですけどね。
そしてその瞬間までご家族一緒にいたんですけど。
普通の日常がそこにあったわけでしょ、その一瞬まで。
だから何が何か全然ね、わけわからん。
爆弾か何かちょっとわからん。
普通自分たちはそれまで想像してた爆弾とは違うので、
だからまずB-29が来て警戒警報、空襲警報になると近くの防空壕に避難してみたいな日常だったんですね。
それが空襲警報も警戒警報も解除されたから安心して防空壕から出てきて家に行ってみんなも出てきてほっとして、
そのところに落ちたから余計被害は大きくなったっていうか、死んだ人も多くなったし。
だから本当にほっとしてるような普通の日常がそこにあって朝ごはんを食べていたかもしれないし、
そういう時間ですよね、80分っていったら。
今のところ日常って話出たんですけど、戻ってしまいますけど、それまで私も広島生まれじゃないので、
今その射手に空襲警報とか解除されている日常があってありましたけど、
その日常と当然今の日常って全くもちろん違うと思うんですけど、
当時小学校3年生くらいですから、その時の原爆10日の前の戦時中ですけど、
意識とか認識というか子供として、例えばいつ死ぬかわかんないとか、どのくらいのどういう意識?
それなんですよ。今の3年生くらい、9歳くらいってそこまで生とか死を意識してないと思うんですけれども、
当時は常に上に敵機が来るわけですよね。だからいつ攻めてくるかわからない。
小学校3年生から集団疎開は義務付けられてたんです。必ず行かなきゃいけないと。
私3年生だから本来は疎開をしてたはずなんですけど、体が異常に弱かったんですよね。
今からは想像できないんですけど、それで疎開をできるような体じゃなかったので、疎開をしなかったから直接被爆をしてしまったと。
だから同級生は直接被爆してる人はほとんどいないんですよ。みんな田舎に疎開してたから。
田舎に自分の縁庫がある人は縁庫疎開、心霊がある人は。
なかったら集団疎開でお寺とか小学校とか、そういうところに疎開するというふうに義務付けられてたんですよ。
でも私は行かないけども、どうせ長生きをするような体じゃないので、それなら1日でも長く両親と一緒にいて、
やられても爆弾が落ちて死んでも両親と一緒の時間が1日でも長い方がいいと。自分でも3年生なのにそういうふうに思ったんです。それを言ったんですね。
先生も親も邪悪をしようということで、広島に残ってしまったというので、
当たり前に死ということは常にありますよ。日常的にね。
今死ぬかもしれない、明日死ぬかもわからないという日常ですよね。子供でも。
だから普通が毎日そうなんですよ。戦争になってからはね。
今で考えられない日常か日常でも日常。
やっぱりそれこそ、僕も率直な思ったことをお聞きするのもある役目かなと思ってるんですけど、
それこそ眠るときとかも安心して眠る?
もちろんいつ起きてもいいようにちゃんと着物は着て、枕元に防空頭巾を置いて、持って逃げるものを置いてあって、
だからもう今の防災グッズみたいなものじゃないですけれども、爆弾が降ってくると思ってたから、
防空頭巾の分厚いのをすぐ被って、防空壕へ逃げる準備はして、いつでも起きられるようにして寝ますよね。
そして8時15分で原爆で真っ暗になって、その時に真っ暗だけどいわゆる少し静寂のあたりっていう、その時はもうかなり飛ばされてて、ご家族がみんなバラバラ。
そうそう。それで弟は何かのタンスか何かの下敷きになってたらしくても、
それを父が一生懸命探してしたから引き出して、母も飛ばされて、
飛ばされる途中にこういうガラスの戸とか窓とかがあるのを突き破って飛んでるんで、体中にガラスが突き刺さってました。何十箇所ね。
だから全身が血だるまで、本当に血だるまみたいになってましたよ。
だから外じゃないので、熱線を受けてないから、火傷はしなかったんですけど、怪我はもちろんしてますし、
でも少しの怪我だったら当時はもう怪我のような気がしないし痛くもないし、血だらけの人そこら中にいるんで。
その時って、それこそもう映像という形式としては口に出すのもっていうことも話ありましたけど、
逆に感じたことというか、歩いていく中、どのくらいですか?時間って歩いていく中。
長く感じたけどね。
実際より多分長く。
この間ね、ちょっと取材でそこを歩いて行ったんですけど、近いんですよ、逆にすごく。本当は。
普通に歩けばすぐなんで、でも何時間もかかった。そこに、ひじ山にたどり着くまでね、何時間もかかって。
ひじ山にたどり着いてからが、防空壕の中に入るまでがまたそういう地獄を見たし、
でも、死体の上を踏まなきゃ逃げられないので、死体かね、焼けてるも健在かなんか分からずに踏むんですよね。
ずっとこうね、向けたり、人間だったら。でもそれをどうのこうのとか考えるような言い取りがなくても、
やっぱりそういう時って神様がね、限界を超えたらね、なんかそういうふうな感覚をなくしてくれるんかなとか思うんだけど、
暑さとか怖さとか気持ち悪さとか、あと考えたら大変なことしたなとか思うんだけど、
そうしながらずっとひじ山まで逃げていって、防空壕に一旦入ろうにも入れないんです、もういっぱいで。
死んだ人とか怪我の人とかやけどの人でうめき声、叫び声、そういうので入れない状況で戸口の方に無理矢理に突っ込まれて、
でももう匂いと暑さとおめこごいと、もう本当に大変でしたけどね。バタバタ回り死んでいくしね。
実際はそれが8月6日で、もう日にちをそんな数える余裕もなかったかもしれないですけど、
それこそその10日、ほぼ10日後に終戦があったわけじゃないですか、その時までってどういう、記憶がどういう?
そうですね、打ちたまま焼けてないところですから、東の方ですからね、逃げましたけれども家があるわけじゃないし、食べるものがあるわけじゃないしね、
着るものもなく裸のまんまで何も持たずに逃げて、野宿ですよね、何日も土手の方に野宿で、
夏だからそれで我慢できたんですけれども、食べるものもないし、今みたいに配給が来るわけでも弁当が来るわけでもないしね、
だけど周りは焼けてないところですから、おむすびか何かの差し入れをしてもらったのかもしれないです。
逃げていく途中にね、練兵場に三越製菓っていうお菓子の製造工場があったんです。
それで父がちょっと関係してたんで、そこで甘パンがね、わーっと燃えてたんですよ。
それを父が拾って、ちょっと持って行った、焦げた甘パンとか、食べながらとか、
そしてあの、今三越神社っていうのが二幡の里ね、あそこの線路があって、そこに貨車がね、バーンと倒れてて、
それから米がね、だーっとこう流れてたんです、燃えながら、貨車から。
でそれを父が焼けた米も拾って、で当分だからね、焼けた甘パンと米、そこらにある草とか、そういうもので食いつないで、野宿でね。
だから暑い間はまだ野宿でずっといたと思いますね。
だからそれが10日ぐらいだったのか1ヶ月だったのか、ちょっと全然覚えてないし、
いっぱいそこの道路を焼け出された孤児みたいな、もう父さんも母さんも死んで、
そういう子が通ったりするんですよ、逃げてきて。
でそういう子を呼び止めてね、自分のとこに行って、そしてなんか与えたりとかしながら、
誰が誰か分からずにいっぱいその辺に、そういう人がゾロゾロね、通って、焼けてないとこ焼けてないとこみんなが逃げますんで、
だから自分はそれこそ焼けたり出たり、毛がだらけたりした人が通って、
でお父さんもお母さんもどこ行ったか分からずに、子供がね泣きながら歩いたり、そういう本当に地獄みたいな絵ですよね。
さっきの草を食べたとかもあったって今のお話。
草なんかもう良い方ですよ。
ほんと虫も食べたし。
先ほど原爆が落ちる前からもう使徒となりやすいというお話がありましたけど、
実際は原爆を投下されて、それが原爆だったってことも多分ね、分かったってことは、
分かってないですね、大人も。
普通じゃないっていうのは多分明らかにあれだったと思うんですけど、
その中でなんて言うんでしょう、
それこそさっきの話で言うともう完全に思考もある意味停止してしまったのかもしれないですけど、
終戦までってちょっと区切りが適切か分からないんですけど、
その時になんだろう、これ私死んでしまうかなとか、それこそ生き残れるかなとか、
なんかその辺の感覚ってなんか感じてた?
原爆の後、私も今考えると原爆症だったんだと思うんですが、
もう寝たっきりになったんですよ。
ほんとゲゲ吐いて吐くものないし、血も吐いたり、頭も毛は抜けるし、もう寝たっきりで起きられないし、
もちろん食べるものもないし、あったとしてももう受け付けない感じで、
毎日毎日ね、校庭とか公園で死体を焼くんですよ。
その匂いがかざしもになった時にワーッとくるから、
そういうのもあったりして、とっても食欲なんか分からないし、
もう体がそういうふうに原爆症みたいになっているので、
食べる気もしないし、絶対もう100%近く死ぬと思ってましたし、周りもそう思ってましたし、
私自身ももう死ぬなと思ってましたね。
だからそれはもう終戦とかじゃなくて、もっと何ヶ月もそういう状況だったから、
学校へ行くような状況じゃないし、このまま死んでいくなとかね、思いましたね。
母がとにかくそこらにある草とかいろんなもので、なんか煎じたものかな、
今でかっこよく言えば青汁みたいな、そういうものを薬代わりに飲ませるんですよ、私に。
でもそれはとても飲めた代物じゃないんで、母が見ていないところにはバーッと捨てたりしてましたけども、
でも後考えたらそういうものが結構毒素を流してくれて効果があったのかなとかね、
分かりませんけど、とにかく生きる使命があったのかなとかっこよく言えば。
だんだんだんだん、そうですね、小学校の後3年生だったんだからもう3年ぐらいあったはずなのに、
その辺の記憶がほとんどないんですよ、実は。
写真一枚もないし、家はない、食べるものはない、着るものはない。
周りからちょっと恵んでもらった服を着たり、学校行ってもだからとってもいじめられたり、
不当な扱いを受けたから、何かがあっても出してもらえない、
修学旅行もあったかもしれないけどもちろん行けるような状況じゃないし、
学芸会みたいなものがあっても衣装は作れないから出れないし、みたいな感じで。
もう小学校の時のクラス会しようとかいう話があったんですが、
私が何組だったか、先生が誰だったか、男だったか女だったか、
クラスメイトがどういう人がいたかとか、向こうはそのまま中学・高校が一緒になったから、
向こうは私のことを知ってるんだけど、私は小学校のことを全然覚えてない。
そう、今でも。
どうしても思い出せないんですよ。すっぽり抜けて数年間がね。
中学の2年ぐらいの時にこの原爆の子っていう本を書いたでしょ。
その頃から少しずつ自分、これがもう初版本なんですけど、
少しずつね、ちょっと自分を取り戻したかなとか思いますね。
それがだから、昭和26年に出たんだから中学2年ぐらいの時に書いてるんですね。
9歳に被爆した体験を書いてるんです。
だから3年生から以後だったらもう疎開してるからほとんど直接被爆の人がいないから、
先生に言われて、宿題みたいにしても本当に書きたくない思いをしながら、
当時のことを思い出して書いて出したのがそういうふうに。
本になると思ってないんでね、みんな正直に書いてますよね。
まさに今ちょうどお聞きしようと思ってたんですけども、
伝えること、今日のこのインタビューもそうですけど、
例えばこの原爆のこの周期の時も、ちょうどそうすると、
小3で今度中2ぐらいとおっしゃいましたけど、何年経ったかな。
自分が悪いわけじゃないのに、そういう思いをするわけでしょ。
だから、結構もうプライドどころじゃなくてズタズタですよね。
悪気はないんですけれども、
学校なんか行ってもやっぱりもう今だったら大変な問題になるなとかいうようなことを
いっぱいね、扱いを受けました。
先生からも同級生からも周りからも。
でもそれはしょうがないんだとか、
思うように自分に思い込ませるようにしましたけど、
でも悔しいやら悲しいやら、そういう思いをずっとしたから、
森吉なんかも佐藤私以上にそうだったと思うんですよね。
その辺の方がもっと大変だったですよね。
だから、年に1回ぐらいこれを書いた人が集まるんですけど、
その時他の人がおっしゃるのも、やっぱり幾度に同じようなことをおっしゃいますね。
そういう体験があったからこそ、
今普通の生活ができるのがとても大きなこと望むわけじゃなくて、
普通に食事ができて家があって、何も贅沢したいわけじゃなくて、
穏やかな普通の生活がいかに平和なか、
幸せなことかいうのをつくづく感じると、
もうみんなそういうふうにおっしゃるんで、
それをぜひね、今いろいろなことが起きますけれども、
政治家とか、そういう人にね、若い人とか、戦争体験してない人とか、
そういう人にそういう話をね、聞いてほしいなといっつも思う。
今そのお話が上がって、本当にもう人が悪いという時代がそうなってしまったかと思うんですけど、
いろんな不当な扱いを受けたりとか、いろんなことがあったと思うんですけど、
そんな中で、耐えしのんだのかもしれないですけど、
支えになったものとかこと、それこそご両親かもしれないですけど、何か思い出せることってありますか?
私自身で言えば、両親が非常に愛情深い人間だったんですよね。
しお兄の中にも、当時は朝鮮人ですよね。
そういう人もいっぱいいたんですけれども、
父は戦争中から本当にね、日本人と同等な扱いをして、
一切差別をしなかったんですよ。
当時だったら珍しいんですね、今考える。
私たちは当たり前と思ってたけども、
一切そういう差別もしないで、同じ人間じゃないかという感じで、
一緒に逃げる時もそういう人たちも連れて、
近所の人たち、おじさんおばさんも連れて、一緒に逃げて、一緒に野宿して、
だんだん囲いを作ったぐらいの家です。
バラックともまだ言えないんですよ、周りを囲っただけ。
そういうとこも知らないような、近所の人とかみんなを、
本当に分け隔ってなく、そういうふうに愛情深い人間だったから、
それが支えというか、生きられたと。
絶望せずにね、生きられたと思うんですよね。
やっぱりそういうふうなずっと生活してたから、
タクシーの送り迎えで全くね、応対が違うんですよね。
これなら来てもいいかみたいな感じで、
何かの役に立つのかなと思って行くようになったんですけれども。
さっきのこの原爆の子で、その時が直接伝えたくて書きたくて書いたわけじゃないかと。
今のABCCの話もそうですけど、
今も受けられててちょっと驚きだったんですけど、全然知らなかったんですけど。
それも逆に言うと今もそういう打診が来ても当然強制ではないわけですよね。
強制ではないです。
むしろやりたくないという人も多分いるわけですよね。
低調に根性されるんですよ。
一回嫌な思いしたらやめてもいいわとか思って行ったら、
あらゆること、血液から尿からレントゲンから全部調べられるので、
それがいろいろなことに治療はしませんので、役に立つのかなとか思って。
そういうデータが今度の福島のチェルノブイリなんかにもある程度参考にしたみたいですけども、
そういうふうに役に立つのかなと思って行くことにしようと。
今度は後でそのデータ全部詳しいのが来るんですね、回答が。
私が見てもちょっとよくわからないので、かかりつけのお医者のそこに持って行って、
そしたらコピーさせてくださいねと全部向こうに保存していただいて、
それで悪いところがあったらそれで見てもらおうとか思って私なりに。
早井さん、やっぱりお人柄だと思うんですけども、
さらっと役に立てればということで今も言ってるって話がありましたけど、
先ほど戻してしまいますけど、やっぱり人によっては、
僕なんかもし同じ状況だったら、何十年経っていくら低調に扱われても、
やっぱりって気持ちはあるんですけど、
ご自身の中でもいろいろ変化があったりあるのかもしれないけど、
何がそういう気持ちに、もちろん戦争を起こしてほしくないというか原発になっていくことはあるんでしょうけど、
何かその真にあるものって何かあるんですかね。
性格もあるかもしれませんし、
その後やっぱりこれを書いたことによって原爆の教築会という会を作りましたよね、
この執筆者の会をね。
それの会長というのを何十年かやらせてもらってるんでしょう。
その中で皆さんが毎年集まっていく中で、
もう最近はどんどんどんどん数が減っていくって言い方も変ですけど、
亡くなられたり病気になられたりして集まる人が少なくなってきますよね。
中澤刑事さんも私の言の、序文の方に載ってるんでこれのね、会員なんですよ。
いつも来られてる方がどんどんどんどん減っていくしね。
その中でいろいろな話が出てくるのを聞きながら、
話してる時もだけど、その後もね。
話してたら終わりじゃないから。
話したら、ずっと本当はここに収めてたのに、
それを引っ張り出してもうつらいつらい作業をして、
みんなに話しして、
それはずっと頭の中とか体に残って話した言葉が、
ずっと要因ひくんですよね。
倒れたことも何回もある。バタンと。
だから、本当はもっと言えないような
つらい残酷なことも見たりしてるのに、
こないだ集まった時、こうだったりなあだったりというのを
みんな聞いて、記憶に出してなかったことを一人が言って、
そうだった、私もそれ見たとか、体験したとか言う言葉が
みんな体験してる動詞だったら出てくるんです。
だからそうだったよねとか、でもそれを誰も書いてないよね。
書けないの。
だからそれをね、分かってほしいよねとかね。
これは伺いたかったんですけど、
僕はまさに当然戦争を知らないですし、
親も戦後間もなく生まれたんで、やっぱり当然リアルでは知らないんですけど、
ただやっぱりおととしの震災あってからこの原発とかも一回、
もうそれをゼロにしようって、恥ずかしながらそれこそ
これだけ原発があることも知らなかったし、ほとんど県にあるじゃないですか。
それもやっぱり無関心が一番まずいなって思ってるんですけど、
ただ震災のことも含めて、戦争の例えば8.6もそうですし、
8月15日もそうですけど、僕自身の事態も含めてですけど、
特に広島離れちゃうと、余計やっぱりその瞬間は思い出すけど、
どんどんやっぱり風化されていく中で、
いろんな意見があると思うんですけど、
今この2013年の特に日本を見ていて、
それこそ当時はハヤサンも小さかったんであれだと思うんですけど、
例えば、なんだろう、じゃあ直ちには日本が戦争になるとか、
そういうことはもちろんないと思うんですけど、
なんかその空気というか、ハヤサンが感じるものってありますよね。
それこそこの前行くとなんか危ない空気を感じるとか。
感じますね。
戦前みたいな、戦争が始まるちょっと前ぐらいみたいな、
その辺はまだね、5、6歳ですから、
そんなにあれじゃないんですけれども、
いろんな話を聞いたり、本を見たりすると、
あの時にちょっと似た状況になりつつあるよねとかね、
いうふうなのを感じますね。
集団的自衛権のこともだし、96条から9条とかその辺もね、
私も日本国憲法買いましたよ、本を。
改めてしっかりね、漠然とじゃいけないしとか思って、
改めてこう読んでみようと思って買って読んだけれども、
それはやっぱりどういうことがあっても、
核の傘とか言うけど、その傘で本当に守られてるかどうかということもね、
ふるかす寿司を引くようになってまた60周年とかね、そういう区切りだけ取ってつけたみたいに取材が多かったりする。
今年は何でもないように思うし、福島の事故にしても今年あったわけじゃないのに、
そういうふうになっているのは、やっぱりね、みんながある程度おかしい空気を本能的に感じて危機感を感じているんだと思うんですよ、人間としての。
だからこのままでいいかなとかいうのを感じて何とかしなきゃとかね、思うようなその思いとか力をね、もうちょっと大きく一つにまとめないとね、
個人個人こういうふうに思っているだけじゃなんかいけないんじゃないかなとか思って、
正式に人の前で話したことなくても、体験とか思いを自分の思うままにね、
喋ってもらった方が説得力があると思っているんですよ。
人の前で喋ったこともないですよ、ようなおじいさんおばあさんで戦争原爆を体験してその後ね、辛い思いをしたり、
そういう人ももうちょっとね、掘り起こしてまとめて、そういう力をなんかね、今のこういう世界の空気、流れ、その辺を抑止するような、
核抑止論じゃなくて、もうそういうのを止めるような空気になる力にね、できないかなとかね、は思っている。
最後に何て言うんでしょう。50年後、100年後、これ500年後聞く方もいるかもしれないですよね。
林さんの末裔かもしれないです。僕の末裔かもしれないです。
そういう人に、今このね、今日の9月19日現在でもいいんですけど、改めて何て言うんでしょう。
こうしたメッセージってちょっと大きくなっちゃいますけど、これ聞いてる方になんかやっぱりこれだけは伝えておきたいっていうことがもしあれば最後にいただきたいなっていう。
だからとにかくね、これからの子孫に対して言いたいのはもう有言だと思ってほしいんですけれども、
人間が人間同士ね、殺し合うような戦争はね、絶対ない世の中にするという目標を持って、目的を持って世の中を生きてほしいと。
人間は誰でもね、どんな金もしてもどんな偉い人でも絶対いつかは死ぬわけでしょ。
だからあえて不本意に殺されたり殺したりする必要はなくてしたらいけないんで、とにかく戦争するような世の中にしたらいける。
それをとにかく欲から出てることでしょ。いろんな欲とかエゴとか。
で、正真者だから気が小さいからそうなる。
だから自分の影でもお化けに見えたりするような感じに見えるような私に言わせれば。
自分の影なのにお化けに見えてひいて踏もうとしてるみたいに。
それってすごくね、弱虫、正真者よね、とか思うのね。
大したものも自分のものとか、まあああいう劣等の話じゃないけど。