1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 【記憶3】早志百合子さん/Memo..
2013-10-27 1:10:22

【記憶3】早志百合子さん/Memories3_Yuriko Hayashi

【記憶3】早志百合子さん/Memories3_Yuriko Hayashi


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早川洋平です。今日はですね、広島市浅南区の早志百合子さんのお宅にお邪魔してお話ししております。早志さんよろしくお願いします。
早志さんよろしくお願いします。
実は僕の住処の近所だったんですけども。
そうですね、たまたま。
普段近くに行ってて、日立も近くて、突然のご要望にもかかわらず開学いただいてありがとうございました。
はい、よろしくお願いします。
このインタビューを収録させていただいて、今ちょうど9月の19日。
広島では忘れられない、8月6日からちょうど1ヶ月以上過ぎてますけども。
8月6日、毎年迎えて、今年戦争から68年ですよね。
改めて、当然忘れた日は1回もないと思うんですけど。
早志さん、8月6日、早速本題に入ってしまうんですけども。
1945年の8月6日っていうのは、どこでどんな状況だったのか?
そうですね、9歳ですね。
だから、当時は小学校のこと、国民学校って言ってたんだけども。
国民学校3年生、9歳ですね。
爆心地から1.6キロの土手町っていう町なんですけど、今はひじやま町っていう風にね、町名変わってるんですよ。
そこで、ちょっと屋内ですけども、両親と私と、それから2歳の弟。
4人で同じ部屋にいたんですけど、それで被爆したんですよね。
ちょうど8時15分っていうことで、その時はまだ学校には?
本来はね、もう学校行くのに出てる時間だったんですよね。
父ももう仕事に行くのに出てる時間。
弟はもう朝早くから外に出て遊びに行ってるのがもう習慣だったんだけど。
なぜかその日に限って、いろいろなそれぞれの事情があって、家の中にたまたまいたんですね。
いつも通りの行動だったら、もう誰かが亡くなってたと促死してたと思いますけどもね。
たまたま4人とも屋内にいましたね。
だけども、一瞬で中何十メートルも飛ばされて、一瞬真っ暗になって明るくなった時に、そこがどこかわからないぐらいのところに飛ばされてたから、
もう何もだんだんだんだん明るくなってきて、こう見るともう空が見えるんですよね。
2階建ての家の中なのに、もう何もなくてボウボウ燃えてましたけどね。
なかなか思い出させるっていうのはちょっとあれなんですけど、その瞬間って覚えてます?
覚えてますよ。
ちょうど例えばそれこそ、何かを飲もうとした瞬間だったとか、どういう今、記憶が?
その時の落ちるまでの状況はね、母が私が学校に来て行くための洋服のボタンをつけてくれてたんですね、玄関先で。
で、父はもう出かけようと思って、玄関で靴を履こうと思ってて、弟はそこらにいたと思うんですけど、そういう状況でもうピカーって光ったんですよ。
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僕何でも光は感じましたよ。
で、何秒かして、それこそピカドンって言うでしょ。
光って光ってやっぱり何秒かあって、ドンとなったら真っ暗になったんですよ。
暑いも痛いも全然わからずに。
で、一瞬静寂みたいな感じで静かになって、それからだんだんそこからが浴び狂感っていうかな。
そういう状況はもうはっきり昨日のことのように覚えてますね、9歳だから。
真っ暗になったって今お話ありましたけど、それこそ記憶も飛んでしまったのか、記憶失ったとかは一切なかった?
じゃなくて真っ暗くなったんです。
だから一瞬にしてバーンと爆風で上から熱線も降りてくるし、放射能も降ってくるし、家は全部潰れるし、ほとんど木造でしょ、当時はね。
大きなビル以外は木造だから一瞬にして至るところに火がバッとつくわけですよ。
でぺったんこになるでしょ。だからそれ土ぼこりも含めて真っ暗になったんだと思うんですけどね。
そしてその瞬間までご家族一緒にいたんですけど。
普通の日常がそこにあったわけでしょ、その一瞬まで。
だから何が何か全然ね、わけわからん。
爆弾か何かちょっとわからん。
普通自分たちはそれまで想像してた爆弾とは違うので、
だからまずB-29が来て警戒警報、空襲警報になると近くの防空壕に避難してみたいな日常だったんですね。
それが空襲警報も警戒警報も解除されたから安心して防空壕から出てきて家に行ってみんなも出てきてほっとして、
そのところに落ちたから余計被害は大きくなったっていうか、死んだ人も多くなったし。
だから本当にほっとしてるような普通の日常がそこにあって朝ごはんを食べていたかもしれないし、
そういう時間ですよね、80分っていったら。
今のところ日常って話出たんですけど、戻ってしまいますけど、それまで私も広島生まれじゃないので、
今その射手に空襲警報とか解除されている日常があってありましたけど、
その日常と当然今の日常って全くもちろん違うと思うんですけど、
当時小学校3年生くらいですから、その時の原爆10日の前の戦時中ですけど、
意識とか認識というか子供として、例えばいつ死ぬかわかんないとか、どのくらいのどういう意識?
それなんですよ。今の3年生くらい、9歳くらいってそこまで生とか死を意識してないと思うんですけれども、
当時は常に上に敵機が来るわけですよね。だからいつ攻めてくるかわからない。
小学校3年生から集団疎開は義務付けられてたんです。必ず行かなきゃいけないと。
私3年生だから本来は疎開をしてたはずなんですけど、体が異常に弱かったんですよね。
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今からは想像できないんですけど、それで疎開をできるような体じゃなかったので、疎開をしなかったから直接被爆をしてしまったと。
だから同級生は直接被爆してる人はほとんどいないんですよ。みんな田舎に疎開してたから。
田舎に自分の縁庫がある人は縁庫疎開、心霊がある人は。
なかったら集団疎開でお寺とか小学校とか、そういうところに疎開するというふうに義務付けられてたんですよ。
でも私は行かないけども、どうせ長生きをするような体じゃないので、それなら1日でも長く両親と一緒にいて、
やられても爆弾が落ちて死んでも両親と一緒の時間が1日でも長い方がいいと。自分でも3年生なのにそういうふうに思ったんです。それを言ったんですね。
先生も親も邪悪をしようということで、広島に残ってしまったというので、
当たり前に死ということは常にありますよ。日常的にね。
今死ぬかもしれない、明日死ぬかもわからないという日常ですよね。子供でも。
だから普通が毎日そうなんですよ。戦争になってからはね。
今で考えられない日常か日常でも日常。
やっぱりそれこそ、僕も率直な思ったことをお聞きするのもある役目かなと思ってるんですけど、
それこそ眠るときとかも安心して眠る?
もちろんいつ起きてもいいようにちゃんと着物は着て、枕元に防空頭巾を置いて、持って逃げるものを置いてあって、
だからもう今の防災グッズみたいなものじゃないですけれども、爆弾が降ってくると思ってたから、
防空頭巾の分厚いのをすぐ被って、防空壕へ逃げる準備はして、いつでも起きられるようにして寝ますよね。
そして8時15分で原爆で真っ暗になって、その時に真っ暗だけどいわゆる少し静寂のあたりっていう、その時はもうかなり飛ばされてて、ご家族がみんなバラバラ。
そうそう。それで弟は何かのタンスか何かの下敷きになってたらしくても、
それを父が一生懸命探してしたから引き出して、母も飛ばされて、
飛ばされる途中にこういうガラスの戸とか窓とかがあるのを突き破って飛んでるんで、体中にガラスが突き刺さってました。何十箇所ね。
だから全身が血だるまで、本当に血だるまみたいになってましたよ。
だから外じゃないので、熱線を受けてないから、火傷はしなかったんですけど、怪我はもちろんしてますし、
でも少しの怪我だったら当時はもう怪我のような気がしないし痛くもないし、血だらけの人そこら中にいるんで。
09:03
母もだからいっぱいガラスが刺さって、何十年も体に入ったまんまのガラスもありましたね。
何年も経ってどこかがチクチク痛くて、そしたらそこからガラスがちょっと覗いて出てきたとか、今ではちょっと考えられないような状況ですよね。
それでも別に病院もないし、お医者さんも被爆してるしということで、そういう日の海の中を地獄の中をひじ山に逃げて、
次の日かな、夜中かな、向こう側へ降りて、ひじ山の向こう側は焼けてなかったんで、降りてずっと東連平所の方を通って、
口で言えばすぐですけど、その間は地獄をいっぱい見ましたし、私の原爆のこの手記にも書いておりますけれども、
本当にもう数え切れないぐらいの死体は見ましたし、普通に死んでるんじゃないから、だからちょっと口にはできないような死に方を知っているのを見ても、
麻痺してしまって、怖いとか気持ち悪いとか、そういうふうには全然感じないんですよね。
火の中を歩いていったはずなのに、足の裏も裸足ですけど、暑いとかどうとか全然思わずにずっと歩いて逃げましたけど、
ひじ山に逃げたら死体の山がすでにいっぱいできてましたね。そこにどんどん積み上げていって火をつけて、
燃やせないけど油も何もないからなかなか燃えないから匂いがすごいんですよ。
暑さとか匂いとかいうのは後からの映像とか記事とかでは感じられないけれども、
その時の夏の暑さとそれから放射能とか熱線が上から降ってきて、巻き上がったものが何時間も経ってザーッと焼けながら落ちてくるんですよ。
重いものでもトタンとか。この間は竜巻じゃないけれども巻き上がってそれよりもっと高く巻き上がって、
それが火がついてるわけですから、それが落ちてくるのを避けながら下も火だし周りも燃えてるし、
本当にその中をよく逃げられたなとかね。逃げながら父はいろんな死にそうな人に防火用水の腐ったような水を飲ませながら逃げていきましたけどね。
その時は弟さんも怪我をしながら?
弟は2歳で怪我してたんだけど、ちょっと父がおぶってたり、うちの使用人がたくさんいたので、
その人たちがおんぶしてくれたりとかしながら連れて行って、母も全身も怪我で手も動かなくなってて血だらけですから、
自分が歩くのがやっとだったからね。そして私はもうしっかり歩いたと思いますね、9歳だから。
12:00
その時って、それこそもう映像という形式としては口に出すのもっていうことも話ありましたけど、
逆に感じたことというか、歩いていく中、どのくらいですか?時間って歩いていく中。
長く感じたけどね。
実際より多分長く。
この間ね、ちょっと取材でそこを歩いて行ったんですけど、近いんですよ、逆にすごく。本当は。
普通に歩けばすぐなんで、でも何時間もかかった。そこに、ひじ山にたどり着くまでね、何時間もかかって。
ひじ山にたどり着いてからが、防空壕の中に入るまでがまたそういう地獄を見たし、
でも、死体の上を踏まなきゃ逃げられないので、死体かね、焼けてるも健在かなんか分からずに踏むんですよね。
ずっとこうね、向けたり、人間だったら。でもそれをどうのこうのとか考えるような言い取りがなくても、
やっぱりそういう時って神様がね、限界を超えたらね、なんかそういうふうな感覚をなくしてくれるんかなとか思うんだけど、
暑さとか怖さとか気持ち悪さとか、あと考えたら大変なことしたなとか思うんだけど、
そうしながらずっとひじ山まで逃げていって、防空壕に一旦入ろうにも入れないんです、もういっぱいで。
死んだ人とか怪我の人とかやけどの人でうめき声、叫び声、そういうので入れない状況で戸口の方に無理矢理に突っ込まれて、
でももう匂いと暑さとおめこごいと、もう本当に大変でしたけどね。バタバタ回り死んでいくしね。
実際はそれが8月6日で、もう日にちをそんな数える余裕もなかったかもしれないですけど、
それこそその10日、ほぼ10日後に終戦があったわけじゃないですか、その時までってどういう、記憶がどういう?
そうですね、打ちたまま焼けてないところですから、東の方ですからね、逃げましたけれども家があるわけじゃないし、食べるものがあるわけじゃないしね、
着るものもなく裸のまんまで何も持たずに逃げて、野宿ですよね、何日も土手の方に野宿で、
夏だからそれで我慢できたんですけれども、食べるものもないし、今みたいに配給が来るわけでも弁当が来るわけでもないしね、
だけど周りは焼けてないところですから、おむすびか何かの差し入れをしてもらったのかもしれないです。
逃げていく途中にね、練兵場に三越製菓っていうお菓子の製造工場があったんです。
それで父がちょっと関係してたんで、そこで甘パンがね、わーっと燃えてたんですよ。
それを父が拾って、ちょっと持って行った、焦げた甘パンとか、食べながらとか、
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そしてあの、今三越神社っていうのが二幡の里ね、あそこの線路があって、そこに貨車がね、バーンと倒れてて、
それから米がね、だーっとこう流れてたんです、燃えながら、貨車から。
でそれを父が焼けた米も拾って、で当分だからね、焼けた甘パンと米、そこらにある草とか、そういうもので食いつないで、野宿でね。
だから暑い間はまだ野宿でずっといたと思いますね。
だからそれが10日ぐらいだったのか1ヶ月だったのか、ちょっと全然覚えてないし、
いっぱいそこの道路を焼け出された孤児みたいな、もう父さんも母さんも死んで、
そういう子が通ったりするんですよ、逃げてきて。
でそういう子を呼び止めてね、自分のとこに行って、そしてなんか与えたりとかしながら、
誰が誰か分からずにいっぱいその辺に、そういう人がゾロゾロね、通って、焼けてないとこ焼けてないとこみんなが逃げますんで、
だから自分はそれこそ焼けたり出たり、毛がだらけたりした人が通って、
でお父さんもお母さんもどこ行ったか分からずに、子供がね泣きながら歩いたり、そういう本当に地獄みたいな絵ですよね。
さっきの草を食べたとかもあったって今のお話。
草なんかもう良い方ですよ。
ほんと虫も食べたし。
先ほど原爆が落ちる前からもう使徒となりやすいというお話がありましたけど、
実際は原爆を投下されて、それが原爆だったってことも多分ね、分かったってことは、
分かってないですね、大人も。
普通じゃないっていうのは多分明らかにあれだったと思うんですけど、
その中でなんて言うんでしょう、
それこそさっきの話で言うともう完全に思考もある意味停止してしまったのかもしれないですけど、
終戦までってちょっと区切りが適切か分からないんですけど、
その時になんだろう、これ私死んでしまうかなとか、それこそ生き残れるかなとか、
なんかその辺の感覚ってなんか感じてた?
原爆の後、私も今考えると原爆症だったんだと思うんですが、
もう寝たっきりになったんですよ。
ほんとゲゲ吐いて吐くものないし、血も吐いたり、頭も毛は抜けるし、もう寝たっきりで起きられないし、
もちろん食べるものもないし、あったとしてももう受け付けない感じで、
毎日毎日ね、校庭とか公園で死体を焼くんですよ。
その匂いがかざしもになった時にワーッとくるから、
そういうのもあったりして、とっても食欲なんか分からないし、
もう体がそういうふうに原爆症みたいになっているので、
食べる気もしないし、絶対もう100%近く死ぬと思ってましたし、周りもそう思ってましたし、
私自身ももう死ぬなと思ってましたね。
だからそれはもう終戦とかじゃなくて、もっと何ヶ月もそういう状況だったから、
学校へ行くような状況じゃないし、このまま死んでいくなとかね、思いましたね。
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母がとにかくそこらにある草とかいろんなもので、なんか煎じたものかな、
今でかっこよく言えば青汁みたいな、そういうものを薬代わりに飲ませるんですよ、私に。
でもそれはとても飲めた代物じゃないんで、母が見ていないところにはバーッと捨てたりしてましたけども、
でも後考えたらそういうものが結構毒素を流してくれて効果があったのかなとかね、
分かりませんけど、とにかく生きる使命があったのかなとかっこよく言えば。
だんだんだんだん、そうですね、小学校の後3年生だったんだからもう3年ぐらいあったはずなのに、
その辺の記憶がほとんどないんですよ、実は。
写真一枚もないし、家はない、食べるものはない、着るものはない。
周りからちょっと恵んでもらった服を着たり、学校行ってもだからとってもいじめられたり、
不当な扱いを受けたから、何かがあっても出してもらえない、
修学旅行もあったかもしれないけどもちろん行けるような状況じゃないし、
学芸会みたいなものがあっても衣装は作れないから出れないし、みたいな感じで。
もう小学校の時のクラス会しようとかいう話があったんですが、
私が何組だったか、先生が誰だったか、男だったか女だったか、
クラスメイトがどういう人がいたかとか、向こうはそのまま中学・高校が一緒になったから、
向こうは私のことを知ってるんだけど、私は小学校のことを全然覚えてない。
そう、今でも。
どうしても思い出せないんですよ。すっぽり抜けて数年間がね。
中学の2年ぐらいの時にこの原爆の子っていう本を書いたでしょ。
その頃から少しずつ自分、これがもう初版本なんですけど、
少しずつね、ちょっと自分を取り戻したかなとか思いますね。
それがだから、昭和26年に出たんだから中学2年ぐらいの時に書いてるんですね。
9歳に被爆した体験を書いてるんです。
だから3年生から以後だったらもう疎開してるからほとんど直接被爆の人がいないから、
先生に言われて、宿題みたいにしても本当に書きたくない思いをしながら、
当時のことを思い出して書いて出したのがそういうふうに。
本になると思ってないんでね、みんな正直に書いてますよね。
まさに今ちょうどお聞きしようと思ってたんですけども、
伝えること、今日のこのインタビューもそうですけど、
例えばこの原爆のこの周期の時も、ちょうどそうすると、
小3で今度中2ぐらいとおっしゃいましたけど、何年経ったかな。
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5、6年ですね。
こういう話が、話というかタイミングが来た時ってどう思いました?
やっぱりもう書きたくないって。
書きたくないと思いましたね。
クラスに2人しかいなかったんですよ、被爆したのが。
他の人は疎開して帰ってきたら両親が亡くなってたとか、そういうのを書いてますよね。
私と男子が1人と2人しかいなかったからどうしても書いてくれと。
その辺からは覚えてて、女の先生で国語の先生。
その先生に言われて宿題みたいにして、いろいろなこと書いたんですけれども、
それはとっても書きたくなくて、すごい時間がかかりましたね。
ずっとその時のことを忘れたことはないんだけど、忘れようとしてるわけですよ。
原爆にあった日のことだけじゃなくて、あったためにいろいろなその後の嫌なことがあったわけじゃない。
その数年間のことは本当に思い出したくないから、閉じ込めようとしてたんだと思うんですよね。
だから潜在的にはこの辺にあるんだけど、
そういうのを書こうと思ったらそこから引っ張り出して思い出さないといけないでしょ。
それがとっても嫌でつらくて、書きたくないんだけど、
もう中学ぐらいになってたら、ある程度の大げさなことじゃなく、使命感じゃなくて、
ああいう思いをしたことをね、やっぱりそんなにたくさんはいないんだから、
自分のためにもね、書いておいた方がいいかなという思いも半分ぐらいあって、
書いてそれをどうされるか全然聞いてもなくて、
先生もまだその時ね、本になるとかはおっしゃらなかったし、
大定さんの本からもそういうふうに言われたわけじゃないからね。
知らないうちに本になったんだから。なって出て初めて知ったんだから。
その時の気持ちってどんな気持ちでした?
本になった時の気持ち?
あのね、本になったの分かったのはこれ26年出てるけど、
そういう情報がバーッとある時代じゃないですから、
その翌年の昭和27年の2月に、2月にこれをもらう会が広大であったんですよ。
そこへ行って105人が行って、
大定新田先生にこれを一冊ずつ手渡しでもらった時に、
ああ書いてよかったのかなとか初めて思えて、
ここに幼き神のこの声を聞けと、
大定新田先生のサインが入ってますでしょ。
だから書いておいたものがこういうふうにね、
その時に1000いくら集まったのかな作文が。
その中から105人のがここに載ってますよね。
だから書いておいてよかったなと思ったんだと思うんですね。
その頃から学校でもやっぱり自分らしく、
それまでほとんど誰でも喋らないみたいな感じで、
24:03
もう自分を消してしまいたいみたいな。
記憶もないし。
その頃から昭和26年に広島で国体があったんですよ。
その開会式にその年の国体から初めて、
学生のマスゲームを開会式にやるのが初めてだったんです。
今では当たり前に開会式でマスゲームあるでしょ。
その時が初めてマスゲームをやるということが決まって、
私がダンスとかそういうのが好きだったので、
体育の実家にやってるのを見て、
女性の先生だったですけど体育の。
メイポールというか中心になる分に選ばれたんですよね。
周りでその他大勢もいるんですけれども、
上中中学ですけど、そのメイポールになって、
この本が出たり、そういう国体があったり、
その辺から少しずつ自分を取り戻していったみたいな感じですかね。
その中で取り戻していったっていうのも今お話ありましたけど、
僕はこの前、林さんが過去に取材されている記事をいくつか拝見して、
そこですごい印象的だったのは今も冒頭にも少し話ありましたけども、
当然終戦までも大変でした。
当然原爆が落ちたことも直接すごく大変だったと思うんですけど、
それ林さんが言った言葉で、記者が書いてた言葉かもしれないですけど、
その後、戦争終わった後の方がある意味むしろ大変だったっていうものをすごく見て、
そこがすごく印象的だったんですけど、
それは本当に数えきれないほど、
例えば林さんご自身の体だったり、心もそうですよね。
お母様だったり、身の回りだったり、いろいろあると思うんですけど、
そのあたりを改めて伺えないかと。
原爆にあったことそのものはもちろん不幸なことだし、大変な体験ですよね。
だけどそれがあったための後の数年間っていうのは、
一言で大変とか言えるような状況じゃなくて、
移植中すべて、それとも精神的にも本当に参ってしまうぐらい、
屈辱的な日々をずっと送りましたんでね。
そういう意味でも、お母さんも原爆症みたいになって、
体もボロボロになって、ちょっと治療してくれるらしいとか言うので、
学校か何かに行って長いこと並んで、やっとしてもらったのが赤チンを塗るだけ。
赤チンって本当は行けなかったんだけど、赤チンか食用油を塗るだけ、
治るわけないですよね。
そういう思いをして、なんでこんな思いをするんだろうとかね。
原爆まではうちは割と裕福だったんです。
いっぱい使用人もいたりして、
だけどもう本当にゴロっと手のひら返したみたいに、
周りの人の私とかに対する態度とか扱いとか、
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自分が悪いわけじゃないのに、そういう思いをするわけでしょ。
だから、結構もうプライドどころじゃなくてズタズタですよね。
悪気はないんですけれども、
学校なんか行ってもやっぱりもう今だったら大変な問題になるなとかいうようなことを
いっぱいね、扱いを受けました。
先生からも同級生からも周りからも。
でもそれはしょうがないんだとか、
思うように自分に思い込ませるようにしましたけど、
でも悔しいやら悲しいやら、そういう思いをずっとしたから、
森吉なんかも佐藤私以上にそうだったと思うんですよね。
その辺の方がもっと大変だったですよね。
だから、年に1回ぐらいこれを書いた人が集まるんですけど、
その時他の人がおっしゃるのも、やっぱり幾度に同じようなことをおっしゃいますね。
そういう体験があったからこそ、
今普通の生活ができるのがとても大きなこと望むわけじゃなくて、
普通に食事ができて家があって、何も贅沢したいわけじゃなくて、
穏やかな普通の生活がいかに平和なか、
幸せなことかいうのをつくづく感じると、
もうみんなそういうふうにおっしゃるんで、
それをぜひね、今いろいろなことが起きますけれども、
政治家とか、そういう人にね、若い人とか、戦争体験してない人とか、
そういう人にそういう話をね、聞いてほしいなといっつも思う。
今そのお話が上がって、本当にもう人が悪いという時代がそうなってしまったかと思うんですけど、
いろんな不当な扱いを受けたりとか、いろんなことがあったと思うんですけど、
そんな中で、耐えしのんだのかもしれないですけど、
支えになったものとかこと、それこそご両親かもしれないですけど、何か思い出せることってありますか?
私自身で言えば、両親が非常に愛情深い人間だったんですよね。
しお兄の中にも、当時は朝鮮人ですよね。
そういう人もいっぱいいたんですけれども、
父は戦争中から本当にね、日本人と同等な扱いをして、
一切差別をしなかったんですよ。
当時だったら珍しいんですね、今考える。
私たちは当たり前と思ってたけども、
一切そういう差別もしないで、同じ人間じゃないかという感じで、
一緒に逃げる時もそういう人たちも連れて、
近所の人たち、おじさんおばさんも連れて、一緒に逃げて、一緒に野宿して、
だんだん囲いを作ったぐらいの家です。
バラックともまだ言えないんですよ、周りを囲っただけ。
そういうとこも知らないような、近所の人とかみんなを、
本当に分け隔ってなく、そういうふうに愛情深い人間だったから、
それが支えというか、生きられたと。
絶望せずにね、生きられたと思うんですよね。
やっぱりそういうふうなずっと生活してたから、
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他の人も慕ってくるし、よくしてくれるし、
物質的にはもうどん底ですけれども、
いろんな意味でね、支えになってくれる人もいっぱいいたし、
それで支え合いながら、生きてこれたのかなとかね、思いますけどね。
お父さんとかお母さんの、これは無理やりって言うわけじゃないですけど、
もし何か印象的な当時の言葉とかって覚えてることはありますか?
言葉はとにかく、人の悪口言ったり、憎むようなこと言ったりが一切なくて、
自分とこも食べるものがないような感じなのに、
人が何か、使用人だったりする人が恵んでくれとか言ってきたら、
今日食べるものがないのに、家にありったけのものを渡すんですよね。
米とか何か食べるものとか、お金でもあったらちょっとでも全部渡してしまうとか、
もうそれが自然なんですよね。
そういうところは私たちはずっと見て育ったので、
だから、そういう目にあっても人を憎んだりとか、
悪口言ったりとか言うのはなかったですから、
そうでないとちょっと生きていけない状況だったんですよ。
とてもじゃないけど。
先ほど、早さんご自身も今思えば、あれは原爆後遺症だったかもって話がありましたけど、
お母さんだったり早さんご自身もですけど、
いろいろ体もってことがあったと思うんですけど、
その辺はお聞きしづらいんですけど、やっぱりそのスタイルっていうことでは、
心とか以外もダイレクトにも体にもあったっていうのを改めて。
だから何年か経って母も原爆症、いわゆる甲状腺癌になりましたし、
私も乳がんで、右の乳房全滴ですし、
そういうふうに放射能というものの怖さは何年か経ってわかったわけですけどね。
当時は原爆という言葉もわからなかったし、
特殊爆弾、新型爆弾って言ってたんですよ。
放射能のことをガスと言ってたんですよね。
放射能という言葉も知らないし、ガスを吸ったと。
こういうふうに下痢をするんだとか吐くんだとか思ってたんですよ。
ガス吸うとお腹がパンパンになるし、
川にいっぱい浮かんで死んでる人みたいなの、全部お腹がパンパンだったんですよ。
川の幅いっぱいに死体が浮かんでましたからね、逃げていく途中から。
ガス吸ったからお腹があんなに膨らんだんだねとかね、みんな言ってたんですよ。
だからそれは原爆の後遺症とはまた違って、原爆症そのものですよね。
放射能の直接の原爆症。
私もずっと寝たきりになったし、
もうとてもじゃないが、
乙女心の頃、ABCCにずっとね、
33:00
戦後何年くらい経ってからだったんですかね。
6、7年経ってABCCができたのかな。
出来てすぐぐらいから連れて行かれて、ABCCに。
もうずっと検査が、当時はまだ最初はアメリカ人の管轄だったんで、
日本人の医者もいましたし、共同だったわけでしょ。
すごく屈辱的な検査を、人間扱いじゃないんですよ。
こっちはもう中学生ぐらい、高校生ぐらいになってて、
とても恥ずかしいのに、ものすごい何人も、
アメリカ人の医者さん、日本人の医者さん、そしてインターみたいな、
若い研修員みたいなのがいっぱいいる中でも、
すごくガラス張りだったんですから、
明るいところで真っ裸みたいな感じで立たされて、
全部脱いで、なんか白いちょっと下の着せられて、
でも四方八方から見られて、いっぱい検査して、
だからそういうときのことを演劇、原爆の子という演劇で、
もう本当にボルモットだよねとかね、いうセリフがあったけども、
まさにその通りで血をいっぱい抜かれるし、
そういうふうな扱いを受けましたよね。
だからそのときも原爆症だったんじゃないかなと思うけど、
それを知らせてもらうこともないし、
何年か行ってから高校生ぐらいのとき、とっても恥ずかしくて嫌だから、
逃げ回って途中から行かなくなったんですけどね。
最近まで行ってます。またものすごい電話がかかってきて、
だから一人の人ずっと継続して、検査しないとデータも出ないし、
向こうとしたら意味がないわけでしょ。
だからずっと被爆している人、何十年にもたって検査して、
そのデータをどういうふうに利用するか知らないけど、
血液はずっと永久に保存させていただくという念書がいっぱいありましたけど。
勉強不足じゃないですか。今はもうなんですか?
今は。
連絡が来て。
もうここ何年?毎年行ってます。2年に1回行ってます。
ついこの間も行きました。
ある意味この表現が違和感ですけど、昔の扱いよりは、
全く違う。
もうその時には全く人間としては見てないですよ、向こうは。
自分たちが落とした原爆が人体にどういうふうに影響しているかを調べるだけですから、
本当にモルモットだったと思いますよ、向こうにしたら。
その中に心があるなんて思ってないみたいな扱い。
だけども恥ずかしくて恥ずかしくて。
それでとうとう私が本町高校の時にジープでね、
米兵が迎えに来るんですよ。でも逃げ回ってもう行かなかったんですよね。
何年か行かずに大人になってから、
もう日本の今度はね、原爆放射の影響研究所になったでしょう。
そしたら女性が行く場合には女性の医師が見られて検査する人も迎えに来る人も、
36:03
タクシーの送り迎えで全くね、応対が違うんですよね。
これなら来てもいいかみたいな感じで、
何かの役に立つのかなと思って行くようになったんですけれども。
さっきのこの原爆の子で、その時が直接伝えたくて書きたくて書いたわけじゃないかと。
今のABCCの話もそうですけど、
今も受けられててちょっと驚きだったんですけど、全然知らなかったんですけど。
それも逆に言うと今もそういう打診が来ても当然強制ではないわけですよね。
強制ではないです。
むしろやりたくないという人も多分いるわけですよね。
低調に根性されるんですよ。
一回嫌な思いしたらやめてもいいわとか思って行ったら、
あらゆること、血液から尿からレントゲンから全部調べられるので、
それがいろいろなことに治療はしませんので、役に立つのかなとか思って。
そういうデータが今度の福島のチェルノブイリなんかにもある程度参考にしたみたいですけども、
そういうふうに役に立つのかなと思って行くことにしようと。
今度は後でそのデータ全部詳しいのが来るんですね、回答が。
私が見てもちょっとよくわからないので、かかりつけのお医者のそこに持って行って、
そしたらコピーさせてくださいねと全部向こうに保存していただいて、
それで悪いところがあったらそれで見てもらおうとか思って私なりに。
早井さん、やっぱりお人柄だと思うんですけども、
さらっと役に立てればということで今も言ってるって話がありましたけど、
先ほど戻してしまいますけど、やっぱり人によっては、
僕なんかもし同じ状況だったら、何十年経っていくら低調に扱われても、
やっぱりって気持ちはあるんですけど、
ご自身の中でもいろいろ変化があったりあるのかもしれないけど、
何がそういう気持ちに、もちろん戦争を起こしてほしくないというか原発になっていくことはあるんでしょうけど、
何かその真にあるものって何かあるんですかね。
性格もあるかもしれませんし、
その後やっぱりこれを書いたことによって原爆の教築会という会を作りましたよね、
この執筆者の会をね。
それの会長というのを何十年かやらせてもらってるんでしょう。
その中で皆さんが毎年集まっていく中で、
もう最近はどんどんどんどん数が減っていくって言い方も変ですけど、
亡くなられたり病気になられたりして集まる人が少なくなってきますよね。
中澤刑事さんも私の言の、序文の方に載ってるんでこれのね、会員なんですよ。
いつも来られてる方がどんどんどんどん減っていくしね。
その中でいろいろな話が出てくるのを聞きながら、
39:01
今があるっていうことはどういうことかっていうのをみんながおっしゃるので、
この会を少しでも本当に小さな楽しみでもいいから、
ここに来た時だけ本音でいろんなことが喋れるので、
身内にも自分の結婚相手にも話してない。
ましてや他県に行った人なんかはほとんど話せないみたいで、
そういうことも話せないような愚痴でも弱気なことでも、
ここに来た時だけは同じ痛みを体験した者同士だったら何でも話せるんで、
ほっとすると、めったに会わないのに。
それでいつもみんながおっしゃるので、
私の役割とか、この会を続けていく役割とか、
いまその辺にあるなとか思うのもあって、
そして私が体験したことは本当に不幸なことなんだけれども、
それはどうしても事実なんだから、
それをある程度伝えていくには、
こんなに怖かった、こうだった、ああだっただけではダメだと思うんですよね。
だからその後どうなったかとか、
体も含めて心身ともにどうなったかというようなことも含めて、
やっぱり残していく、伝えていくということは大事だなというふうに、
残ったものの責任というか使命、
そんな大げさに考えているわけじゃないんですけど、
じゃないかなとか、
だって何も言えずに、何もわからずに一瞬にして死んだ人が14、5万いるわけでしょ。
その後1ヶ月、2ヶ月、1年経った間にもっと亡くなっているわけでしょ。
何も悪いことをしていないのに。
そういう人は何も言えないわけじゃないですか。
私もそういう目にあいながらも生き延びられたと。
その後もそういう不二元爆症みたいになって、
生死の境をずっとさまよった状況があったにもかかわらず、今があるわけでしょ。
ノーノーと何も言わずに生きているということはやっぱりいけないんじゃないかなとか、
そういう人の思いも一緒に私が、
この手記を集めたときもそうだったの。
ずっと集まってくるのが私にズシーンとのしかかってきたんですよ。
そのときにみんなの思いを私は受け止めて、
それをやっぱり何かの形にしないといけないなと思ってこういう本ができたんですけど、
だから、ちょっと責任もあるし、使命もあるし、
今まで生かされているということは、
何も言えずに死んでいった人の分も生かされているんだから、
それを何も言わないのはやっぱり卑怯というか無責任というか。
今、そもそものきっかけが原爆の子があって、
42:02
その後、林さんが今ちょうどまた書いている版出ましたけど、原爆の子その後っていうところがあって、
ここはむしろどちらかというと主体的にというか、
当然むしろ会場さんですし、そこのところの間、
つまりさっきの話があって原爆の子のときは、
当然別に書きたくて書いたわけじゃないです。
結果的にこれ良かったのかなという少し心の変化があって、
そこから逆に本当に伝えるという、むしろしかもそのリーダーとしてというか、
そこのところって何かターニングポイントとか何かあったんですかね。
この原爆の子を書いたときも、昭和26年にできたときも、
書いて良かったなとかすごく思ったわけじゃなくて、
今カッコよく言ったらそうなんですけど、
こういうふうな本になるなら書いて良かったなとかね、
はっきり思ったわけじゃないんですよ。
でもまあ、ああいうふうに書いたことが形になったんだな、
でもそのまんまが人に読まれるのもあんまり嬉しくはなくて、
本当はね、だけどもうなったものはしょうがないわとか、
その後、世界20何カ国かな今訳されて出てるわけでしょ。
一番直近がロシア語かな、出てますから、
読まれると思われるか知らないけれども、
これを読んだ人がね、これを書いた、
そんな残酷な体験をしたことが書いてある人たちは、
今どうしてるんだろうと必ず思うよねと思ったんですよ。
書いた人がね。
その人たちが毎年、これを書いて20年後ぐらいからかな、
集まって昭和47年ぐらいから、原爆の教築会にしたわけでしょ。
その中で出てくる話を聞いてるうちに、
その後の今の状況とかを話してくださるわけでしょ。
これを書いただけで終わったら、
これを書いた人たちはどうしたんだろうと人が思うときに、
その後どう生きたかどう考えてきたか、
それは何とかならないかなとかね。
最初だからビデオで、映像でと思ったんですよ。
それも撮り始めたんですね。
日本あっちこっち東京とか栃木とか行って、
インタビューして、映像でもね。
まさに僕よりも。
10人ぐらい撮ったんですよ。
NHKで編集させてもらったり。
でも、どうも映像ではいまいち構えてしまうというか、
前にどんと据えてそこで座って、構えてしまうなとかいうのがあって、
それと同時進行で、
じゃあ何かメモでもいいし、何でもいいから書いてもらえないかなとか。
それでもなかなか出てこなかったから、
今度はこっちがいっぱい説問というかね、
インタビューじゃなくてアンケート形式。
それで書いてもらおうかな。
家族構成とか、いつ結婚したとか、職業とか、
思いとか、子供はどうだとか。
そういう形だったらどうかなとか思ったんだけど、
それだとあんまり心が出てこないなとかね。
だから結構ね、出してもらうまでに10年ぐらいかかったの。
45:00
こういう現行になるまで。
やっぱりその後どういうふうに生きてきたか、
その後のほうが私は大事かなとかね、思ったんですよ。
だからこういう体験した人たちが、
孤児になった人だったり、大火傷した人だったり、
親戚に預けられてただいまわしされて、
その親戚そのものにも子供がいて、
食べるものもないのに預かったわけですね。
親が亡くなって。
別に邪魔にされたわけじゃないんだけれども、
鉛筆1本、ノート1枚買ってもらえんで、
自分は不幸なものですとか言って、
書いたのがこの原爆の子に載ったわけよ。
世間に読まれるとは知らずにそのまま書いて。
だから悪口言ったわけじゃないんだけれども、
子供だからそのまま書いたんですよ。
食べるものもなくて、学用品も買ってもらえなくて、
本当に原爆にあったばかりに不幸なものですとか。
書いたら預かってた親戚に追い出されたりした人もいるんですね。
その人今東京に行って会いに行って話聞いたりしましたけど、
今立派になられてますけど、
そういう話をずっと聞いて歩いてるうちに、
その後そんなつらい思いしたりして、
だからまさか結婚できるとも思ってなかったし、
子供ができるとかそこまで思ってなかったのが、
結婚もしてもらえて、子供ができて、屋根のある家に住めて、
3食食べられて、もうこれほど幸せ。
これ以上望んだら罰がたるとね。
全然違う人なのに、みんな同じこと言われる。最後の締めが。
じゃあこれかとかね、もう私は思って、
そこのところやっぱりちょっとね、何でもないことなんだけど、
いかにそういうことが幸せかっていうことを今の人は全然感じてもいないし、
だからあまりにも体験が残酷で不幸で、
普通のことじゃないことを体験したっていうのは、
普通ならちょっとした不幸だったら忘れてしまったりしますよね。
でも絶対忘れられないような原爆にあったことよりも、
その後の忘れられないような体験があったからこそね、
今の普通の生活がありがたくて幸せだと感じられるんだなとかね、
思ったからそこを変えてほしいと言ったんですよ。
だからもう私はこのその後の本がとっても意味を持つなとかね、
いうふうに今は思ってます。
聞いたらね、それぞれ違う体験をしてらっしゃるんだけれども、
なんか思いはみんなね、一つはずっと一本に続いているところがあって、
中心になる思いはね、そこにすごい感動してね、
私すごい反省したり話聞きながら、
なんかチャランポランだったかなとかね、
48:01
思ったり一生懸命生きるのは生きてたつもりですけれども、
やっぱりみなさん謙虚で素直なんですよ。
だからそこをすごく表したかった。
なんかそのね、一人一人は全く違った体験をしてるけど、
思いは共通するそんな部分があるって言いましたけど、
それを改めて一言で難しいと思いますけど、
それっていうのはどういう?
だから今の自分を本当にありがたいと思えるという素直な、
そういう感じですよね。
だから変にこう、戦争反対とか原爆を憎むとかね、
米営鬼畜とか言ってたけど、そういう風なんじゃなくて、
本当にこう人間愛に溢れてるというか、
あまりにもね、辛い体験をしたがゆえに、
そういう風な境地に至るんだなとかね、思えた。
あの聞いてる方に伝えてもよければ、
せっかくだったのでこれも読んでいただきたいので、
聞いてる方にも原爆のその後っていうのを、
改めて簡単にどういうことを書いてあって、
どういうところを読んでほしいのかっていうのを、
もし逆に伝えても構わないってことで、
せっかく多くの人が聞くと思うので。
これはね、7月に出たばっかりで、
原爆の日の前に出したかったのでね、
大急ぎでこれ編集して、
1999年には慈悲で出版してたんですよ。
でも一般に販売するわけじゃないので、
多くの人に読まれたわけじゃないので、
でもこう読んでみると、
絶対にもっとね、多くの人に読んでもらうだけのね、
価値があるなと思ったんで、
今回本野泉社さんが協力してくれて、
こういうふうに出すことができたんですけど、
37人の式が載ってますが、
それはみんなこの原爆の子を書いた人ですから、
その後どのように生きたかは、
どの人の一人残らず、
ちゃんと読んでもらったらすごくね、
なるほどなとか思っていただけると思うので、
できれば英訳したり、
いろいろ原爆の子と同じようにね、
もっと世界の人にね、
訳して読んでもらえたらいいなと思うので、
もし大学生なんかでもね、
ボランティアでこれを英訳してあげましょうとかね、
いう人がいたら、
して欲しいなとかね、
世界中ね、
読んでもらいたいなと思います。絶対に。
ぜひ。
このピースポスターを、
寄付していただいた片岡修さん、
ご存知と思いますけど、
グラフィックデザイナーのね、
これを書いてくれた人も、
ここらの骨元とかだって、
もう死なれる直前にお会いしました、
東京の病院で。
だけど本当に前向きなね、
すごい意思の強い人なんですよね。
だからもうそういう人の言葉とか、
でも全然そういうことを苦にしたり、
恨み事を言ったりじゃなくて、
今をどう生きるか、今からをどうするか、
というような話ばっかり。
そういうのにすごい私自身も勇気づけられて、
これは絶対本にして残すかな、
51:01
何かしないと思う力になったんですよね。
だから今のお仕事は、
これをとにかく一人でも多くの人に
読んでもらいたいと。
日本だけじゃなくて。
これはもう子供でも読めるような本ですので、
読んでいただきたいなと思います。
今ちょうどおっしゃったように、
やっぱり僕、この率直な疑問というか、
今年もいろんな戦争の映画とかいっぱい。
なんで68年にこんなにいっぱいあるのかな、
って今年は思って、
あるんですけど、今まさにアメリカだったり、
天皇だったり、
その国の当時の軍部の上の人だったり、
すごいシンプルに考えると、その時に、
それも人それぞれだと思うんですけど、
その時に感じてた感情と今、
逆に境地に達したってありましたけど、
大平さんご自身はどう思ってましたか、その時。
例えば8月15日の、
全国ちょっと変わったかもしれないですけど、
そんなことそれこそ考えてることも。
まだ子供ですし、
そんなに戦争そのものについてとか、
それがいいか悪いかとか、
そんなに思ってないけれども、
周りの大人が毎日竹槍を持ったり、
いろいろそういう訓練をしてたから、
それに戦争というものは相手を倒すものだと。
だけど戦争は勝っても負けても、
超不幸なことでいっぱいマイナスがありますよね。
でも父が町内会の会長をしていて、
団長さんみたいなので、
もう米域地区Aとかやっつけて、
そういう戦争じゃないのにすでに。
でもそういうふうに日本人は思ってたわけです。
もうほとんど負け戦っていうのはみんなわかってたんですよ。
1、2年は後半の。
だけどそういう訓練してたから、
憎む気持ちとかね、当分は。
母なんかもそういうふうになって原爆症になって、
やっぱり原爆が憎い、戦争が憎い、
アメリカが憎いとかね、
言ってた時期もありましたから、
こういう目に合わせてねとかね、
いう思いあったけども、いつの頃からかな。
アメリカ人というものを知った時には、
一人一人はアメリカ人すごくね、
本当にさっぱりしてて、大らかで。
だけどなんでそうなるのかなというのを、
すごく考える時期があって、
一人一人の人間は何人であろうが、
同じようにみんなね、いい人であっても、
やっぱり国として何かにあった時、
何がどこでどう狂ってくるのかなとかね、
すごく疑問に思うことがあって、
ある程度中学高校ぐらいになって、
これを書いた人たちが集まる原爆の子共の会というのがあって、
いろんな活動をしましたよね。
その中でやっぱり大人の入れじげがあるんですよね。
自分たちではあんまりよくね、
その辺が左とか右もわからないんですけど、
54:00
ああいう活動をしているものはね、
ちょっと左翼がかっているとか右翼がかっているとか、
いろいろね、差別を受けたり、
悪口を言われたりしたんですよね。
どう判断したらいいのかなとかね、
そういうふうに思った時期があって、
でも、人間が人間を殺すというような戦争をすることだけは絶対にね、
いけないと。やる方もやられる方も絶対不幸なんだから、
後まで、今でもそういうことがあるけれども、
やったことを消したいから、
ああいう時期はなかったと言おうとしていたりするじゃないですか、
日本人のことでも。
本当のことは知らないけど、
左翼は体験しているけれども、
そういう歴史上の認識とかいうのは体験していないから知らないじゃないですか。
だから中田刑事さんが私の現場の中の実感に書いているようなこと、
あれにしても、
あれは中田刑事さんが体験したことじゃなくて、
いろんな話を聞いたり、本をいっぱい読んだりして書いたんですけど、
中田刑事さんと私はちょっと友達で、
飲み屋さんで一緒にずっとね、本音で話したりとか、
会社にも来られたりとか、いろいろしているので、話しているので、
原爆のことの体験を書いているところは、
子どもが読む漫画だから、まだあれでも手加減して、
もっと残酷なのに、加減して書いとるんじゃとかね、
言われたんですよ、本人が。
それと歴史上の認識とか、
すごくアメリカのこととか天皇のこととかいろいろで、
この松江の教育委員会のこととか、
ものすごいもうフェイスブック上でもすごかったですけども、
そういうところも全部私聞いてるし、
本当に言いたかったんだけど、
中田さんはとにかく純粋でシンプルな考え方の人なんですよ。
そんなにこりくつこねるような人じゃなくて、
だからそういうのはとにかく、
そういうふうに普通の人間が戦争ということになった時には、
もう全然頭が変になって、
鬼になったり悪魔になったりして、
天壁で人を殺して殺すことに喜びを感じたりするように、
ゴロッと変わってしまうというところが、
戦争の怖さなんだから、
そこを書きたかったと。
で、やったかもしれんし、
だからそういうことをね、
起こしてしまう可能性があるのが戦争なんで、
だからやっちゃいけんのだと。
で、何か遺体に無地が割いたとか、
そして皮膚が焼けただれてとかいうのが残酷なと、
そういうことじゃない、
それは私も知ってるけど、
遺体じゃなくて生身に割いたのよ、
うちの母でも、
傷口にウジが。
生身に割くわけよ。
それをピンセットもないから、
箸とかそこらへん切り入れで取っても取っても取っても、
ウジが割いてくるんですよね。
生身にウジが割くなんて平常事で信じられんでしょう。
それが夏だし、すぐ肺がたかるから、
すぐウジ虫が割いてくるんですね。
で、皮が垂れてたとかいうふうに、
57:01
あれが残酷とか言われてたけど、
皮じゃなくて、
身が焼けてえぐれて、
もう骨が見えるわけ。
真っ赤色だから身だから、
こんなになってたもん。
内臓も飛び出たり、目も飛び出たり、
ブランブランに目の玉が。
とてもじゃないと言えない。
そこまでは中田さんも描けないんで、
だからあれでもまだ加減して描いたんじゃと、
言われてたんですよ。
でもそれでも残酷すぎるから見せちゃいけないと
親は言うでしょ。
教育者も言うでしょ。
で、被爆人形のこともね。
あれ、あんなに物とか着てないもん、本当は。
真っ裸でこんな、真っ赤で、
もうダランダランだもん。
だからそういうのがね、やっぱり、
なぜそこまで描いたかとか、
めちゃくちゃ天皇のこともね、
戦争責任者なんとかで描いてるのも、
私はその辺をどう理解したらいいのかなと当時は思ったけど、
今はね、ある程度自分の中ではまっせりできてるけれども、
何が悪いのかなとかね、
誰の言葉が本当か、本当も嘘もないと思うんですよね。
やっぱり言う言葉とか手段とかは違ったとしても、
みんな体験してつらい思いをした人は、
そういうことを誰にもしてほしくないと。
今後、誰にもしてほしくないと思いだけなんですよ。
だからそのためには、
なぜそういうふうな思いをしたくないというかというと、
こんなに戦争とか原爆とかいうものはね、
こんなに残酷なんだから、
それが自分の身の上とか周りの人とか愛する者の上にね、
起きたらどうするんだという思いでそれを知らせようと。
知らせて、それでもなお戦争をするのかということがやっぱり言いたいわけですよね。
だからそれをずっと考えたときに、やっぱり知らせたほうがいいなと。
全部が全部、それこそみんな被爆者が言うように、
あんなもんじゃなかったというのが合言葉みたいにあるでしょう。
そういうもんなんですよ。
自分の口で言うのも言ったらもう言葉が頭に残ってしまって、
ずっと中で響くわけ、後々まで。
体験を話しに行った後、2、3日病気になるんですよ、私も。
ずっと残って頭に。
話しに行く前も、ある程度頭の中で、
あんまり私、文章に書いてそれを読むとかしないんですよね。
頭の中で整理して、みんなの顔を見ながら話しするんですけど、
それが行く前にやっぱり整理して、
何分とかいう限界があったらどの辺をどういう風に話そうかなとか、
相手は中学生だし大人だしとか考えるでしょ。
考えてる間はずっと意識を戻してるわけでしょ。
その期間がつらい、すごい。
1:00:02
話してる時もだけど、その後もね。
話してたら終わりじゃないから。
話したら、ずっと本当はここに収めてたのに、
それを引っ張り出してもうつらいつらい作業をして、
みんなに話しして、
それはずっと頭の中とか体に残って話した言葉が、
ずっと要因ひくんですよね。
倒れたことも何回もある。バタンと。
だから、本当はもっと言えないような
つらい残酷なことも見たりしてるのに、
こないだ集まった時、こうだったりなあだったりというのを
みんな聞いて、記憶に出してなかったことを一人が言って、
そうだった、私もそれ見たとか、体験したとか言う言葉が
みんな体験してる動詞だったら出てくるんです。
だからそうだったよねとか、でもそれを誰も書いてないよね。
書けないの。
だからそれをね、分かってほしいよねとかね。
これは伺いたかったんですけど、
僕はまさに当然戦争を知らないですし、
親も戦後間もなく生まれたんで、やっぱり当然リアルでは知らないんですけど、
ただやっぱりおととしの震災あってからこの原発とかも一回、
もうそれをゼロにしようって、恥ずかしながらそれこそ
これだけ原発があることも知らなかったし、ほとんど県にあるじゃないですか。
それもやっぱり無関心が一番まずいなって思ってるんですけど、
ただ震災のことも含めて、戦争の例えば8.6もそうですし、
8月15日もそうですけど、僕自身の事態も含めてですけど、
特に広島離れちゃうと、余計やっぱりその瞬間は思い出すけど、
どんどんやっぱり風化されていく中で、
いろんな意見があると思うんですけど、
今この2013年の特に日本を見ていて、
それこそ当時はハヤサンも小さかったんであれだと思うんですけど、
例えば、なんだろう、じゃあ直ちには日本が戦争になるとか、
そういうことはもちろんないと思うんですけど、
なんかその空気というか、ハヤサンが感じるものってありますよね。
それこそこの前行くとなんか危ない空気を感じるとか。
感じますね。
戦前みたいな、戦争が始まるちょっと前ぐらいみたいな、
その辺はまだね、5、6歳ですから、
そんなにあれじゃないんですけれども、
いろんな話を聞いたり、本を見たりすると、
あの時にちょっと似た状況になりつつあるよねとかね、
いうふうなのを感じますね。
集団的自衛権のこともだし、96条から9条とかその辺もね、
私も日本国憲法買いましたよ、本を。
改めてしっかりね、漠然とじゃいけないしとか思って、
改めてこう読んでみようと思って買って読んだけれども、
それはやっぱりどういうことがあっても、
核の傘とか言うけど、その傘で本当に守られてるかどうかということもね、
1:03:04
私は危ういものだと思う。
本当にいざという時になったら守られるものじゃないと思うし、
その下にまたぬくぬくと無視してたとしたら、
それは矛盾してると思うんですよね。
で、同盟国がやられたら、
自分のところになんかされたわけじゃなくてもね、
応援に行くとかいうことはとんでもないことだし、
一番いけないのはやっぱりアメリカという国はね、
この地球上でその一番アメリカだけ特別で偉いんだとか、
予想が持っちゃいけないけどうちは持っててもいいんだとか、
そんな矛盾してるのに何で他の国がその辺を突っついて攻撃しないんかなとかね、
ちゃんと議論で。
だからそういうふうな武力で攻撃しようとかするじゃないですか、すぐアメリカは。
で、自分どこが一番たくさん核も持ってて実験もね、
オバマが演説してる最中でも実験してたりしてたり、あとは勝ったでしょ。
だからそういうのもね、どうだろうとか思うんですよね。
だから核が現時点でもあるわけですから、
それをすぐ無くするっていうのはまた莫大な費用もかかるんでしょうし、
危険も伴うんでしょうけども、もうそれはないことにしてあるということ。
あれば人間ってやっぱりボタンを押したくなったりする欲望を持つものでしょ。
男性って割とそういう攻撃的な気持ちを持つものだと思うんですけれども、
やっぱりそのところ私は楽観的すぎてそれはね、夢物語よと言われたこともあるんですけれども、
やっぱりそういうことは絶対無理だと、
今の評論家なんかでも、ラジオでとにかく影響力のあるような人が言うじゃないですか。
だけど夢物語かもしれないし、理想論かもしれないけれども、
じゃあなんでそういう夢物語でいけないのかと、理想論でいけないのかと思うわけよね。
絶対に戦争になってもいいんかとか思うんですよね。
核には核をとかいうことではね。
人類がとにかく核を持っていけなかったのに、今持ってしまったから、そこが不幸なことだなとか思うんだけれども、
やっぱりそれを何とか早くしないとね。
だからそれが今はね、たぶん68年経ってるけれども、
体験したものがもう10年か20年だなというね、タイムリミットみたいな時をちょっとみんなが感じて焦るよ。
今何とかしなければというのが湧いてきて、体験を語らなきゃとかね。
いろいろなことがなんか68年という区切りでもないのに。
やっぱり感じますからね。
感じます、すごい。
取材とかでも、わりと50周年の時とかは海外からフランスからみんな映画館とか来てすごい取材されましたけれども、
1:06:03
ふるかす寿司を引くようになってまた60周年とかね、そういう区切りだけ取ってつけたみたいに取材が多かったりする。
今年は何でもないように思うし、福島の事故にしても今年あったわけじゃないのに、
そういうふうになっているのは、やっぱりね、みんながある程度おかしい空気を本能的に感じて危機感を感じているんだと思うんですよ、人間としての。
だからこのままでいいかなとかいうのを感じて何とかしなきゃとかね、思うようなその思いとか力をね、もうちょっと大きく一つにまとめないとね、
個人個人こういうふうに思っているだけじゃなんかいけないんじゃないかなとか思って、
正式に人の前で話したことなくても、体験とか思いを自分の思うままにね、
喋ってもらった方が説得力があると思っているんですよ。
人の前で喋ったこともないですよ、ようなおじいさんおばあさんで戦争原爆を体験してその後ね、辛い思いをしたり、
そういう人ももうちょっとね、掘り起こしてまとめて、そういう力をなんかね、今のこういう世界の空気、流れ、その辺を抑止するような、
核抑止論じゃなくて、もうそういうのを止めるような空気になる力にね、できないかなとかね、は思っている。
最後に何て言うんでしょう。50年後、100年後、これ500年後聞く方もいるかもしれないですよね。
林さんの末裔かもしれないです。僕の末裔かもしれないです。
そういう人に、今このね、今日の9月19日現在でもいいんですけど、改めて何て言うんでしょう。
こうしたメッセージってちょっと大きくなっちゃいますけど、これ聞いてる方になんかやっぱりこれだけは伝えておきたいっていうことがもしあれば最後にいただきたいなっていう。
だからとにかくね、これからの子孫に対して言いたいのはもう有言だと思ってほしいんですけれども、
人間が人間同士ね、殺し合うような戦争はね、絶対ない世の中にするという目標を持って、目的を持って世の中を生きてほしいと。
人間は誰でもね、どんな金もしてもどんな偉い人でも絶対いつかは死ぬわけでしょ。
だからあえて不本意に殺されたり殺したりする必要はなくてしたらいけないんで、とにかく戦争するような世の中にしたらいける。
それをとにかく欲から出てることでしょ。いろんな欲とかエゴとか。
で、正真者だから気が小さいからそうなる。
だから自分の影でもお化けに見えたりするような感じに見えるような私に言わせれば。
自分の影なのにお化けに見えてひいて踏もうとしてるみたいに。
それってすごくね、弱虫、正真者よね、とか思うのね。
大したものも自分のものとか、まあああいう劣等の話じゃないけど。
1:09:01
だからね、そういうのを思うときに、やっぱりこれから20年先、30年先も私たちがいなくなったときに、
ザーッとそういう体験がなかったり、こういう話もなかったら、もう普通に戦争が起きるかもしれないわけでしょ。
そういう思いをするような人が絶対今後出ないような世の中にしてねっていうのを中学生ぐらいの子に、
私は一生懸命言うと、その頃が大人になったときにね、もうしないような言うのが、
あのときにあのおばちゃんが言ったよなんて、今は全然頭に残らなくても、
絶対何かがあったときに食糧不足になったり電力不足になったりしたときに、
ふと何かを思い出すかもしれないから、私が今いろいろ体験を言ったことを聞いといてね、
今その真剣に聞かなくてもいいけど、絶対一つでも二つでも思い出すかもしれないんでね。
大人になったときに、そういう場合のときに、ああいうふうにね、物がないときに、
草も食べて虫も食べてカエルも食べて、でも今まで生き延びてきてこうだったよと、
とにかく戦争しちゃだめよと言われたよねとかね、思ってもらえたらいいよねとかね、
ということだけをね、ほんとシンプルなものなんですよ、難しい理屈の向き、
それを優位言みたいにみんなね、伝えていきたいなと思う。
林由里子さんのご自宅にお伺いしてお話を伺いました。林さん長時間でしたけど、どうもありがとうございました。
いいえ、うまく伝わりましたでしょうか。よろしくお願いします。ありがとうございました。
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