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日々お伝えしているニュースや話題の中から一つのテーマに絞って、専門家や当事者に話を聞く週替わりの特集コーナー
Weekly Close Up。今年で終戦から81年を迎えます。
戦争を経験した世代も少なくなっている中で、その経験談、聞ける機会というものも少なくなってきました。
今日はですね、今週はですね、語り継ぐ戦争の記憶というテーマでお送りしておりますが、今日は
福岡県辞め市にあります平和の日についてです。 福岡県辞め市星野村で浄光釜という釜をですね、営んでいらっしゃいます
山本拓郎さんにお話を聞きました。 今も星野村に平和の日が守られているわけですけど
その平和の灯で灯される前っていうのは、どのような形で
火を守ってこられたんですか? 星野村にね、火が行く前は僕の実家というか山本家でずっと
陶磁火鉢とかかまどで灯したり、それからこたつ。 いろんな形で火を父が守ってきました。
子供の頃、拓郎さんはお父様からこの火の意味っていうのは聞いてたんですか?
子供の頃っていうかね、小さい時はね、戦争の話は父はよくしてくれたんだけども
広島の原爆の話は全然しなかったね。
他の戦地での話と原爆っていうものはお父様の中では違ったんですか? 違ったんだと思いますね。全然違ってたと思う。
当時の星野村で被爆者は父一人だったんですよ。
だから父が彼に広島の話をして、父は拓郎って言いますから、愛称拓ちゃん、拓ちゃんって意外とみんなに伝われてたんだけども
拓ちゃんも広島で新型爆弾に受けてだいぶ頭がおかしいなっちゃうとか、そういうこともあったらしくて
だから父はもう口を閉ざしたというか、一番はやっぱり家族にいろんな偏見とかね、そういうのを恐れたんだと思います。
だから僕なんかもその父が持ち帰った日のことは知ってたんですよ。
うちには2軒家があって、僕らはおもやに住んでて、もう一軒おばあちゃんの院際っていう家があって、
ひいおばあちゃんになるんだけど、隣にいて暮らしてて、そこにひいおばあちゃんが火鉢に火を入れて、そしてそれを本当に絶やさなかったんですよ。
だから火鉢にはもう本当にね、春夏秋冬、もう夏でもちゃんと火が入ってて。
で、僕と姉がね、その火鉢に指差しながらね、姉と一緒に、あれが原子爆弾の火でなって、あの姉とそういう会話してたから、原子爆弾の火っていうのは知ってたんだけど、どうしてそれがね、そこにあって、どんなあれなのかっていうようなことは知らなかった。
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じゃあどうしてその原爆の火だっていうことの経緯を知ったんですか。
昭和41年に福岡の高校に行ったんですよね。
で、その時、ここから通えないもんだから、おばさんとおじさんの家に下宿したんだけども、その8月6日の朝日新聞の記事にね、かまどに灯る原爆の火っていうのが出て、で、父が写真入りで載ってたんですよ。
で、それを読んで、あ、原子爆弾の火っていうのはこういう火だったんだって、そこで初めて知ったっていう。
で、初めてね、父は原爆にあってね、こんな思いでね、火を持ち帰ってたんだっていうのがだんだんこう分かってきた。
けど、父と直接こう膝を交えてね、話聞いたことは一度もない。
ただ、僕はなんでいろんなそういうことを聞けたかっていうと、みんな取材に来られて、横で手伝いしたから、だから父が話すのは一応聞いてる、全部。
お父様が記者の方などで話されている中で印象に残っているのはどんなお話ですか。
やっぱりね、広島の惨状はやっぱりね、僕もまだ若かったし、やっぱり今でも心痛いよね。
父なんかは、当時の話をするとね、8月6日の朝、父はちょっと離れた中途にいたんですよ。
そこから広島市内の宇品、そこに本体があって、司令部があって、そこに毎日命令を聞きに行くっていうのが父の日課だったらしくて。
それで父はね、寝坊して、で、もうそのまま走って大森駅から次の汽車に乗ったちゅうんですよ。
だから父は助かったんですよ。
もし間に合ってたら。
もう広島駅に着いてるから。
だから父は爆心地から4.5キロぐらい離れた矢野駅ってあるんだけど、暮れ瀬にね。
そこを過ぎたぐらいで被爆してるんですよ。
だから父は助かったんですよ。
ただ父はほら、走って広島市内に命令事業に行くわけですよ。
それでもまだ命令を待つ。
そりゃもう兵隊だから、軍人だから。
ところが市内からは、裸足のゲインなんかにあるじゃないですか、もうこんなやつでね。
急に刺されてしまったりとか。
黒く焼かれて、そういう男か女かわからんような人たちが、もうずるずるずる逃げてきて。
そしてもう父みたいにその兵隊を見ると、兵隊さん助けてくださいとかね。
水をください。ほとんどの人が水をください。
風邪切れん人に水を与えたけど、みんな死ぬって。
で、水筒の水はすぐ無くなって。
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で、あとは口に唾を溜めて、それを口に移して。
もう顔が焼けてしまっているから、どこが顔か口かもわからん。
軍装だから菓子缶で軍頭下げているわけ、父たちは。
だから早く首を切ってね。
もう早く楽にしてくれって。そういう人たちもたくさんいて。
これはね、息子として父の性分だと思うけども。
早く逃げないと自分も焼き殺されるというのに、やっぱりそういう人たちに会うと父は立ち止まって手を合わせておねんぶち唱えながら首を締めて。
そういうことをずっとやりながら父は逃げている。
だからそういう話だからね。
子供とか家族にはしたくなかったっていうよりもできなかったっていうことが。
話せばその時の光景がまたね。
フラッシュバックするしね。
ずっとそのことを思いながら生活してきたわけだから。
その個人で守ってきた火を村が引き継いで守っていこうっていう話が来た時っていうのは
お父様や卓棟さんはどう思ったんですか?
僕はもう家を離れていたからね。下職にいたから。
その時の現場にはいなかったんだけども。
もうその火をすぐ消してくれとか、もし消さなかったら俺が消しに行くとかいうような人が来たりしてね。
そういう時期があって。
今までは本当に自分の心の中だけで恨みの火でもあるし、
仇討ちの火でもあるし、供養の火でもあるし、
命を占めた人たちへの懺悔の気持ちとか、
そういう自分の中だけで灯してた火なんだけども、
いろんな人がその火に関していろんなことを言い出す。
そしたら自分なりにやっぱりどうかしなきゃいけないって思ってた時に、
当時のこの村の橋爪貴三郎という村長さんが、
星野村もね、西戸戦争からずいぶんと戦死者も出してるし、
だからできたらその戦争、犠牲者の慰霊と高級平和を願ってね、
村の方でね、引き継いで灯していきたいという申し入れがあって。
それで父はそれならということで、
結局星野村が灯していくようにそこで決まっていた。
それが昭和43。
昭和41年に日が朝日新聞に出て、
2年ちょっとはもう大変だと思う、父は。
今はね、星野の人たちはね、これは本当に大事な火として、
みんなでやっぱり平和を願う火として灯していこうという風になってきたから、
感無量ですね、今僕としてはね。
いろんなことを見てきたから。
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我々は平和の火として認識して星野村にそれがあるということが前提になっているけど、
そこに行くまでどういう道のりをたどってきたかというのを今回ね、
星野村にお邪魔して話を聞きましたけど、
本当に想像絶妙ないろんな経験と思いがあったってことですよね。
本当にそのご本人からずっと話を聞いてきた卓棟さんの言葉っていうのが、
心に響きましたよね。
やっぱりその達和さんの思いに少しでも触れたい。
直接ね、原爆の話は聞けなかったけれども、
その記者の方に話すのを横で聞いて、それを知ったっていうこともありましたね。