自己紹介と活動
こんにちは、自分でデザインする家事リスト、リセッターリストの山本香織です。あの人の毎日は、家事や暮らしをテーマにしたポッドキャスト番組です。
さて、今日はちょっと久しぶりに自己紹介会をやってみたいなと思っております。
この番組も今回で245回目を迎えているので、最近聞き始めてくださった方もすごく増えているので、一度ここであの久しぶりの自己紹介をやってみたいなと思っています。
このポッドキャスト番組は、リセッターリストの私が活動の一環として始めたものなので、基本的には家事や暮らしのことがテーマになっていて、
あんまりね、それ以外のことっていうのは、よっぽどイレギュラーな時、私が東南アジアにね、ちょっと滞在してた時期があったりしたので、その時はちょっとまた違った切り口で話したりしてたんですけど、基本的には家事とか暮らしの話をテーマにお届けしてるんですが、
実は私はイラストレーションとかグラフィックデザインっていうところも活動の柱としてやってたりするんですけど、あの学生時代はね、アメリカにいてた時期も長かったりしたので、改めてそのあたりの話、リセッターリストを始める前のこととかを中心に、あの今日は話していけたらいいなっていうふうなことで、ちょっと撮ってみようかなと思っております。
はい、じゃあちょっと始めていきますね。
えっとまず、出身は私は実は大阪で、大阪市内に実家があります。
今は長野県松本市というところに住んでいて、13年くらい前に移住してきました。
これまではいろんな町をね、てんてんと暮らしてきた10代20代30代って感じだったんですけど、松本は長くて、そうもう13年も暮らしております。
年齢は1976年生まれなので、今48歳で、今月3月生まれなので、えっと2025年3月に49歳になります。
はい、で家族構成は同い年の夫と、あと中学3年生の娘が1人で3人家族になっています。
もうね、春から高校生になることが決まっているので、もう本当に自分の子供が高校生なんて信じられないなっていう気持ちで、はい日々過ごしておりますけれども。
えっと、あとなんだっけ、そう、夫はえっと学年が一緒で、職場が東京にあるんですけど、
なので松本とね、東京行ったり来たりする生活、2拠点で暮らしているっていう感じになっていて、
なので普段は私と娘が2人でね、松本で過ごしているっていうことが多かったりします。
アメリカでの留学体験
はい、で私の娘がね、今度高校生になるんですけど、私の高校生活、10代後半ってどうだったかなっていうのをちょっとお話ししてみると、
アメリカで過ごした経験っていうのが、学生時代は私の中でとても大きい体験として記憶にも残っているっていうところがあるんですけど、
最初にアメリカに行ったのが、高校1年生と2年生の間の春休みを利用して、初めてホームステイでアメリカに2週間ほど行ってきました。
最初に行ったのがカリフォルニア州のサンフランシスコ郊外、ターロックっていうね小さな町なんですけれども、
その時は私は高校1年生の時にECCっていう英会話スクールに通っていたので、そのECCのホームステイプログラムっていうのがあって、そこで申し込んで行きました。
バイトをしてね、お金を貯めて行ったっていう記憶がありますね、はい。
まだね当時は関西国際空港、関空もなくて、大阪からねスーツケース抱えて新幹線で東京行って、で成田から出発するっていう時代でしたね。
90何年?91年?2年とかそのくらいですかね、はい。
でこの時にね初めて大阪以外のお友達がねたくさん同じプログラムに参加している人が全国からね集まっていたので、
友人ができた体験をしましたね。なので今もね緩やかにつながっていますけれど、高校時代は結構その友達たちに会いに、
あの大きなね長期休暇ごとに新幹線乗って会いに行ったりみたいなことをよくやっていました。
はい、でこのホームステイの時の体験がとても良くて、
お父さんとお母さん、ホストファーザー、ホストマザーと、あと子供が3人、小さいね子供が3人いるご家庭でとても良くしてもらって本当に楽しい2週間を過ごした記憶があります。
日中は地元のね公立高校に通って、アメリカの高校生の人たちと一緒に英語の勉強やったり交流イベントやったりっていう感じで一緒に過ごして、
なんかすごく強烈に覚えているのが、この時に初めてピーナッツバターとジャムのサンドイッチをランチに詰めて、
ランチの茶色いねペーパーバッグに詰めて学校に通うみたいな、あとあのリンゴと、あとなんだっけあの小さい赤い箱に入ったレーズン、
これはアメリカで暮らしたことある方だったらあるあるだと思うんですけど、あの小さいねレーズンを一緒に入れて通うっていうのを毎日やってましたね平日。
でそこがもう本当に楽しくて、あの高校でその地元の高校生の人たちもだけど同時に交換留学生の子たちもいたので、そこでもうね交流があって、私はガーナ出身の女の子とすごい仲良くなって、
でまだねメールもインターネットもない時代だったので住所を交換して、日本に帰ってからも手紙をたくさん送り合ったっていう思い出がありますね、高校1年生の頃、2年生の頃かな。
そう、で私もともと英語にはすごい興味があったんですけど、その理由っていうのが英語に興味があったっていうよりも、やっぱり英語が話せると英語を介していろんな文化の方と話せるっていうことにすごく興味があって、そのツールとして英語をね勉強したいなっていうのがあって、
もう中学の頃にそれを思っていて、高校入ったら英語をしっかりやるんだって思って、えっと過ごしていましたね、うん、でそれを思って中学から高校入って、高校1年の間で勉強をたくさんして、で実際にホームステイをしたことで、そのいろんな人と話せるツールだよねって思ってたことが、
あの実体験として自分の中でこう、やっぱりそうじゃんっていうのがすごいね、あの楽しくって、そういう思い出とともに、あの違う文化に触れられるって、同世代の女の子たち、男の子たちと話す楽しさみたいなことで、やっぱり火がついたみたいなところがあって、
そうで、あの引き続き帰国してからも、えっとね、バイトしてバイト代貯めて、ECCのグループレッスンじゃなくてプライベートレッスンを申し込んで、当時ね、今だったらね、あのほんとズーム繋いで海外の先生と一対一で話すなんて、本当にあのリーズナブルにできるようになったけど、当時はそんなのなかったから、
あのプエルトリッコ出身の先生だったかな、とマンツーマンでね、毎週放課後にね、あの話しに行くっていうのをやってて、もうそれが本当に楽しかったですね、高校2年の時かな、うん、でえっと私もね、やっぱりもうちょっと長くしっかり行きたいっていう思いがどんどん募って、でいろいろリサーチして、結局高校3年生の1学期まで日本の高校に通って、そこから休学して、
アメリカの高校に1年、向こうは9月から始まりなので、1年行って、で次の年の夏に帰ってきて、行ってる間に同級生たちはみんな卒業しちゃったので、
1個下の学年の皆さんと一緒に高校3年生の2学期から復学して、で3月に卒業したっていう形になります。はい、なので高校は全部で4年間行ってましたね。
で、高校留学で行った先っていうのはインディアナ州っていうアメリカの中西部のエリアなんですけど、一番近い大都市はシカゴですね、でも車で多分3時間くらいかかるくらいの、はいすごいもう
あのカントリーサイドっていうところにいたんですけど、この時もホームステイをして1年間過ごしました。家族構成は、えっとね、
お母さんホストマザーとホストシスターと2人だけっていうこうシングルの家庭で、そこに私が入って女3人暮らしっていうのを1年間、はい、やりましたね。
はい、でたまにねホストマザーのボーイフレンドが泊まりに来るっていうお家で、で当時はホストシスター6年生で、
えっとね、確かクリスマスの時期とかに、えっと自分のお父さん、本当のお父さんの家に、えっと1泊か2泊かちょっと忘れちゃったけど泊まりに行くっていうのをやってましたね。
だから私は高校3年生だったけど、そのね、あのホストシスターがいない間とかにホストマザーとね、いろいろその離婚の時の話だったりとか、
こんなことがあってねとか、こんな問題が起きてとか、で今のボーイフレンドの話はね、こんな感じでね、出会ってねとか、なんか本当にいろんな話をその時したのが私にはすごく印象に残ってて、
で私のこともそうやって大人、娘としてそのお家には入ってるんだけど、なんか大人として扱ってもらえたっていう感覚がすごく残っていて、
そうなんかすごくこう、女性の生き方とかね、その家族のあり方みたいなところをすごく考えるきっかけをくれたのはホストマザーだったなっていうふうに思っています。
で高校時代にやっぱりアメリカの一般家庭で1年間こう丸ごと過ごせたっていうのは、私の人生においては本当に本当にあの宝物的な存在になっていて、
あの、10代の柔らかい頭とか感受性で家族の一員としてその家庭に入って扱ってもらうっていうのは、その全く異なる文化を吸収する体験としてはもうやっぱりあの時だから、あの年齢だからできたことで、大人になってからだとねやっぱりなかなか難しいところがあるんだろうなっていうのを今本当に感じる。
で、ここでのあのリアルな、リアルなアメリカの一般家庭の暮らしとか、人間関係のあり方とか、家族のあり方とか、いろんなマイノリティに対する差別とか、日本と全く違う価値観、または日本と変わらない価値観とか、
なんかそういったものを本当にあの、もうなんていうのかな、現在進行形で体験しながら学ぶみたいな、それが本当にあの今ね振り返ると本当に濃い1年だったなっていうふうに思うんですよね。
でも何よりもそれはやっぱりホストファミリーが本当に温かくて、今もね交流ずっと続けているんですけど、娘にもね毎年クリスマスプレゼントをね、送ってくれたりだとか、私とか娘の誕生日にはカード送ってくれたりとかね、そういうのずっと続けてくれていて、
なんかもう本当にあの家庭での時間もとっても良かったし、であの学校生活、アメリカの学校生活ももう本当に最高に楽しくて、一通りアメリカの高校生らしいこと、
部活やったりとか、カフェテリアでの日常のこととか、ロッカーの中をね、いっぱい写真貼って飾り付けしたりだとか、卒業間際のプロムとか、いろんなこと一通り体験できたんじゃないかなというふうに思います。
先生方にも恵まれたし、友達もめちゃくちゃ恵まれたし、なんかホストマザーがやっぱり何より、あのとにかく友達と遊びなさいっていう感じの人だったので、もう全然あの厳しくなくて、もうどんどん遊んでおいでって外に出してくれる人だったから、本当に楽しい高校生活を1年間過ごしたなっていう感じです。
日本語をね、ほとんど話さない1年を過ごしたから、帰国した時はもうあのね、本当にうまく日本語が出ないっていう体験をしたんですよね。
話したいことはあるんだけど、単語が出てこないとか、発音の口の中の使う部分がちょっとやっぱり英語と日本語って違ってて、英語で考えて英語で話すっていうのを丸1年やった後だとうまくその使い分けができないっていう経験をして、その経験にすごいびっくりしたっていうのがありますね。
なんかこれはこれで貴重だったなっていうふうに今振り返っても思いますね。
で、そう実はあの私の夫も同じタイミング、あの高校1年、高校3年生の1学期まで学校行って、その後休学して交換留学行ってっていうのを同じタイミングで、あのエリアは全然違ったんですけど、夫もアメリカの高校に交換留学してたっていうことがあって、
そこでのね共通の体験とか、そのアメリカの一般家庭であの体験することで得られる文化的な学びみたいなのが、私たちはすごい共通、同じ時代に共通で共通の体験として、あの
2人とも経験してるっていうのがすごくなんか共通の、あの価値形成みたいなところに影響してるんじゃないかなっていうのは振り返ってみると思いますね。
そうで、えっと日本の高校帰国して日本の高校を卒業した後っていうのは、私はまた単身でアメリカに戻りました。
今度はカリフォルニア州のウエストロサンゼルスっていうエリアに大学で2年間、この時はグラフィックデザインを専攻してデザインの勉強しに行ってきました。
アメリカでの学生生活
はい、この2年間はもう本当にほとんどデザインの課題と、一般教養全部英語、もちろん英語なんで、英語の勉強でも追われて過ごしてたっていう感じだったんですけど、
大変だったけど本当に楽しい時間でした。あのやっぱ生活費ね、あの日本からアメリカの銀行に振り込んでもらった分で何とか苦面して暮らしていくので、
生活費を払って、家賃とか高熱費払って、あと食費払って、デザインの授業っていうのは半分コンピューターだったけど、半分まだ手書きのね、
ものがたくさんあったから、画材がいっぱい必要で、失敗するとまだ買わないといけないんですよね。その書くためのボードだとか、画用紙とか、紙をね、そういうのがもういちいち全部高くて、
そうだから結局画材と生活費でほとんどお金が消えちゃうから、その残ったお金で友達とコーヒー飲みに行くとかね、もうそのくらい、もう
アメリカだと映画もね、学生はすごい安かったから、あと映画はね、映画館見に行くとかそういうのはしてたけど、あとあれか、まだ当時はあの
ビデオ、ビデオテープの時代だったから、ブロックバスターっていうね、あの
アメリカのレンタルビデオ屋さんのチェーン店、あのネットフリックスが出てくる前はもうすごい強かったチェーン店ですけども、ブロックバスターで会員になってカード作ってそこでね、ビデオを借りて映画家で見るみたいなことはやってましたね。
そうだから本当にあの忙しかったしお金もなかったけど、でも本当にあの友達とたくさん遊んだり話したりっていうことで、
あのいろんな思い出が残ってるのが大学時代。で、あと車の免許取ったのもこの時期だったし、あのみんなでね、友達と車で遠出したりとか、
あとインターンシップでね、先生が紹介してくれたウェブ系のデザイン事務所に手伝いに行ったりとか、95年から97年ぐらいの頃だったと思うんですけど、本当に
あのもう面白エピソードが山のように、はいこの時期はありますね。はい、そんな大学時代を過ごして卒業して帰国したのが21歳くらいの頃です。
大阪から東京へ
なので私の学生時代、もう10代の後半から20歳前後っていうのはもう基本的にはもうアメリカでの学びとか体験っていうのが今も本当に大きく影響を残してるなっていう印象があります。
はい、でその後は新卒で大阪の、実家がね大阪なんで、実家から通えるところということで大阪の広告製作会社にグラフィックデザイナーとして入社をして、
えっと、そうだから駅張りのね、大きいポスターとか新聞広告とか雑誌の広告とか、そういった大きなマス広告の仕事に携わっていました。
具体的にはどんなことやるかっていうと、アイデアを出して寒風を作って、実際に撮影に行って入校データを仕上げてっていう感じの作業を一通りチームでやるっていう感じでした。
なので仕事は本当に楽しくて、でもめちゃくちゃハードで、もう多分この業界にその時代に働いてた人はみんな一緒だと思うんだけど、朝まで仕事してタクシーで帰ってシャワー浴びて寝てまたお昼に会社に戻るみたいな生活をずっとしてたけど本当に楽しかったっていう思い出があるのが20代前半。
はい。で、ちなみに私は実家というか、父もグラフィックデザインをやっていてグラフィックデザイナーだったんですね。
なので小さい頃は父のデザイン事務所で遊ぶのが大好きだったし、そこの事務所にある本棚にたくさん並んでるねデザインの専門書とかそういうの見るのがすごく好きだったし、
当時は全部手作業、まだパソコンマックなんかない時代だから、いろんな色のポスターカラーの瓶が棚に並んでたりとか、筆とか絵皿とか画材とかそういうのがたくさん並んでる環境。
そこで机に向かってね、デザイン作業している父の背中っていうのは今もすごく覚えていますけど、そういう環境が身近にあったこともデザインに興味を持った大きなきっかけというか導入になっていると思います。
はい。で、大阪の製作会社から今度は東京の個人デザイン事務所に転職して、職種としては一緒なんだけど仕事のスタイルが変わりました。
大阪にいた時は、複数のいくつもチームがある製作会社だったんだけど、東京ではボスがいて個人事務所っていう感じ。
ここも本当に最高の仕事環境で、場所は原宿の駅前にあるコーポーリンピアっていう有名な建物があるんですけど、そこの中に事務所を構えていたところに勤めていました。
で、そのボスはねもうちょっと前にね亡くなってしまったんですけど、もう本当に学んだことは数え切れないっていうか、もう本当に数え切れない。
私と一緒に働いた先輩もだけど、その元歴代の先輩たちっていうのがたくさんいて、第一線でね活躍されている方たくさんいるんですけど、
先輩方にも本当によくしてもらったし、私のデザイナーとしての基礎の基礎を本当に作ってくれた場所だなと思ってて、それは大阪の製作会社もそうだし、
東京の事務所もそうなんだけど、いろいろ何も知らなかった私を、一からね本当に基礎を叩き込んでもらった場所でもあります。
で、今もねどちらも先輩方たちとつながりがあったりして、お仕事を一緒したりとか、あとは同世代のね、横のつながりもすごい広がったから、当時から仲良くしている友人たちもたくさんいます。
シリアでの経験
っていう感じのスタートを切ったんですけど、そこからなぜか急展開で、25歳で今のね夫と結婚することになって、中東のシリアに行くことになったんですよね。
あの、それまでは私10代の頃ってアメリカにね、そういったりとかそういうの決断して自分で調べて動くみたいなことは、自分の手でこうハンドルして動くっていう感覚があったんですけど、
だからこう自分のことをまあまあこう外に飛び出していくタイプだなっていうふうには、自分で自分のことを思ってたんですけど、結婚した夫は私なんかよりもっとさらに飛び回ってるタイプだったんですよね。
もう本当にいつも、今も未だにですけど、本当にいつもどこにいるのかわからないぐらい、本当にあちこち飛び回ってるタイプのそういう面白い人なんですけど、
そうだから何年行くかわからないけど、シリアに行こうかなっていうふうに思ってるっていう話があって、
で、じゃあもう一緒に行こうかっていうことになって結婚して、そこから3年間シリアに行って暮らしました。
中東のシリアっていうのは本当自分一人だと絶対に接点のない場所だったので、これまでね学んできた英語も全く通じないアラビア語の世界なので、
アルファベットから必死に勉強して、で向こうではねアートスクールみたいなところにも通っていて、
でもう文化圏が全く違うので生活スタイルも全然違うし、
でイスラム教がねベースにある社会での暮らしっていうのももちろん初めてだったから、
アメリカに行った時のあの驚きとかカルチャーショックとはまた全然違う、
その文化のあまりにも違う何もかもが本当に面白くて、
なんか本当にいい経験をさせていただいたなと思っています。
で行ったのが2002年だったので、9.11が2001年だから本当その直後でイラク戦争がね始まる時期だったっていうのもあって、
日本の家族とか友人たちはね結構心配してたんですけど、実際にね
あっちで暮らしてみると本当に親切にしてもらって、もういい思い出しかない本当に素晴らしい体験を3年間しました。
あのあちら側から中東側から見る世界っていう機会が、やっぱり普通にね来てたらなかなかなかったと思うからそれはもう私の人生でかけがえのない体験だったなっていうふうに思っています。
なんかこれをねちょっと話してて、ちょっと振り返ってたんですけどこの収録の前に、
やっぱりこう自分にとっての私が今持っている価値、これを大事にしたいとかこれは絶対譲れないとかいろんなことの価値形成ってやっぱり自分の体験が元になっていると思うんですけど、
その現体験ってやっぱ2つあって、高校留学の1年とシリアの3年っていう気がしていて、この2つがやっぱりものすごく重要だったなぁと思ってて、
その2つともを夫とね共有できているっていうのが私たちの関係の土台にすごくある気がしていて、
さらに2年くらい前かな、3年くらい前になるのかな、半年間夫と私と娘、当時中学1年生になったばっかりの娘を連れて東南アジアに半年間行ったっていう経験があるんですけど、
そこでの体験も、行った先はタイとマレーシアだったんですけど、そこでの経験というのも私にとっては東南アジアでの暮らしっていうのは、旅で旅行で行ったことはあったけど、実際に暮らすっていうことは全くなかったから、
それがねできたっていうのが本当に良くて、こんなにアジアのものにアクセスできる場所で海外の体験ができるっていうのをやったことがなかったから、それもすごく面白かったし、
娘も最初はねすごくドキドキしてたけど、結局行っていろんなことチャレンジ娘もして、マレーシアでは向こうのね現地の学校にサマースクール参加したりもしてたから、かなりいろんな体験が娘にとっても良かったと思ってて、
最近もね、よく中学時代を一緒に振り返って話したりとか話し込んだりとかしてるんですけど、やっぱあの時行って良かったよねってことを本人もね自分ですごく言っているし、
大体のことはもう大丈夫になっちゃったとか、いろんなことを体験して乗り越えたっていうことが本人の自信にもなってるし、いろんな常識、こちらの常識は向こうの常識と違う、向こうの常識がこちらとは違うみたいなことを
もう体験としてね、刻まれたってことが本当に家族でね、行ってそれが体験できたことがとても良くて、
そうだから私と夫がすごく大事にしていることの、なんか欠片みたいなものが娘にもね、その半年間の東南アジアでの体験を通して伝わったような感じがすごくあるので、
それがね、私たち家族にとってはとても良かったなというふうに思っています。
はい、ちょっと長くなってきましたね、もう30分くらい喋っていますけど、もうせっかくなんで今日はちょっとこのままどんどん話していこうと思いますけれど、
そうで結局シリアに行くって決めた時点で東京の会社をね、辞めてしまったので、そこからがもう私のフリーランス人生がずっと始まっているから、もう25歳から今、
40何歳だっけ、8歳? だから20、もう23年間フリーランスをやってるんですけど、
私は今イラストを描いたりグラフィックデザインという話をしたんですけど、イラストを描く原点みたいなのもシリア生活にありました。
で、日本から見るその中東やシリアの印象と実際に暮らして人々と触れ合った時の印象に、やっぱりあまりにも大きなギャップがあって、
そこを私は埋めたい、伝えたいという気持ちがものすごく沸き上がって、で、イラストでシリアの暮らしを描くという活動を始めたんですよね、シリアにいる時に。
時間はねたっぷりあったんで、で、それをデザイナーの先輩たちや友人たち、私が仕事を始めてから知り合った人はみんなデザイナーたちなので、
見せてね、ちょっと意見をもらったりとかっていうのをしているうちに、イラストの仕事が来るようになって、っていうのが本格的にイラストを描くことになった流れなんですよ。
だから、あの時シリアに行ってなかったら、グラフィックデザインの仕事だけをやってたと思うから、
あの時やっぱり湧き上がる衝動みたいなものが自分の中になければ、イラストを描くきっかけっていうのはなかなか他になかったんじゃないかなって思うし、
そういうなんか、きっかけってどこに転がっているかわからないっていうのが本当に面白いなって思っています。
当時初めて私が仕事としてイラストを描くのをご一緒したアートディレクターの方が、今もねお仕事実はご一緒していて、
最近もこども家庭庁さんのお仕事でね、イラストを描かせてもらったところなんですけど、本当に、だから本当に23年の付き合い、
何度もねご一緒してますけど、いや本当にありがたいなっていうか、彼もね当時若かったんで、私と多分年そんな変わらないと思うから、
だから本当今もねそうやって活躍、当時はいたところからもう独立されてね、自分の事務所というか会社経営されてますけど、
そうだからそうやって一緒にねずっと長くお仕事できているっていうのは私にとってはとっても特別な方なんですよね。
シリアでの生活と体験
そうであとは、あの当時は、えっとね、暮らしの手帖っていう雑誌皆さんご存知だと思うんですけど、
そこでもねシリアの暮らしについてね、連載を何回かな3回か4回かにわたってね担当させてもらったこともありました。
なので、あとシリア、そうシリアの生活をね描いたイラストの展覧会を日本で開いたりってこともやってたし、
本当に原点がシリアでの暮らしっていうのが私にとっては大きな体験としてあります。
だからイラストもそうだけどリセッターリストもそうで、やっぱりこう、これをやろうと思ってから始めたっていうよりももう必要に迫られて、
もうやるしかないっていうか、それ以外にないみたいな状況に置かれて始まったこと、みたいなので新しい扉が開くっていうのが私は多いのかもしれないなって思うと、
またね今後も何らかの状況変化に合わせて新しいことを始めたりするのかもなぁなんて思ったりします。
はい、なかなかね、あのなかなか全然リセッターリストの欠片もない状況なんですけれど、
シリア生活が終わり、日本に帰国して、それから東京で先輩のデザイン事務所を手伝ったりとか、
あと英会話スクールのマーケティング部でデザインの仕事を手伝いしたりとか、あちこち声をかけてもらうことが多くて、
フリーランスでデザインの仕事、イラストの仕事みたいなのをずっと続けていました。
あとはなんかその頃はまだ子供もいなかったから、面白そうなプロジェクトに出会うとそうデザイン面とかで手伝わせてくださいって飛び込んだりっていうこともよくやっていましたね。
なのでその時に出会った友達とも、今もね仲良くさせてもらっている人がたくさんいて、楽しい時期でしたね。
当時20代後半、30歳になる前くらいかな、そんな感じで過ごしていました。
でその後、夫の仕事の都合で名古屋に引っ越すことになって、3、4年くらいかな、名古屋に住んでました。
この間は本当娘の出産があって、当時33歳で出産したのかな。
で子育てでもうバタバタしてたので、名古屋では仕事をいっぱいやったっていうよりも子育てで、仕事はすごくセーブしてた時期なので、子育ての思い出がいっぱいある思い出が詰まっているのが名古屋ですね、私にとっては。
はい、でもね名古屋で始まったお仕事、今も続けているのがあったりもするし、そこでね、名古屋にいる時に出会ったお友達、イラストレーターさんのお友達で、本当にずっと仲良くしてもらってる大事な友達に出会えたりとかっていうこともあったので、名古屋はね本当に好きで、私にとっては大事な場所の一つになっています。
リセッターリストの成長
はい、えーとそこからやっと松本ですね、はい松本に移住することになって引っ越してきたのが2012年で13年前です。
当時はね娘が2歳で、夫の職場は名古屋から東京に変わったので、夫の2拠点生活が始まって、私は娘との2人暮らしの時間が増えて、家事育児と仕事の両立がもう全然全然うまくできなくて、もう悩んで悩んで悩みまくった結果、家事を整えるっていうところに行き着いて、
自分のために行動を整理する、家事を整理するっていうところで、ワンオペでも困らない仕組みを作るのに家事リストを作ったのが、後にリセッターリストに発展していくっていう流れになります。
はい、なのでねここからはね結構あのこれまでのポッドキャストでも話しているので、そこからあの香織さんはリセッターリストを作っていったんだなぁっていう感じで、話がやっと繋がったっていう方がいるんじゃないかなと思うんですけど
そう、でもほんとこうやってワンオペ的な状況にならなかったら、やっぱり家事リストを作ろうっていう発想に全くたどり着かなかったと思うし、なんかこう最初はね自分の困りごとを解決のためだけに作ったものだったから、仕事にしようと思ったわけでもなかったし、なんか本当にその都度その都度目の前のことに対処していたら、今の形になったっていう感じなんですよね。
本当、だからあの私一人でねできる範囲でやろうと思って一人でずっと活動してた時期が長かったから、8年くらいは8年9年くらいは一人でずっとやってて、本当あのアドバイザー制度っていうのを始めたのがここ2年くらいなので、やっとね仲間が増えて自分一人でね頑張りきらなくてもいいんだっていう風になれたのが最近の大きな変化ですね。
でも私イラストやデザインの仕事も大好きで、同時にやっぱリセッターリストの仕事が本当に好きで、あの全く違うベクトルのやりがいとかワクワクとかあの面白さというか感動がいっぱい詰まっているのがリセッターリストの仕事だから、
なんかこうどっちかに偏るってことはやっぱなるべくしたくなくてどっちも大事にしたいっていう気持ちがあるから、そうなので今ね本当にあの同じプログラム私がやってるのと全く同じプログラムを開催してくれるメンバーそれぞれの個性を生かしてね進めてくれる仲間が今全部で9人いて、
みんなねあのフルタイムのお仕事されている方もいるし、リセッターリストだけじゃなくてお片付けの活動めちゃくちゃ忙しくされている方もいるし、全く別の仕事しながらリセッターリストの発信とかしてくれている方もいたりとかでそれぞれのペースで活動してくれてるんですけど本当に心強くて、
なんかあのもちろんそのイラストやデザインの仕事とのバランスっていう意味でもあるんだけど、それ以上に仲間を増やした理由っていうのが、あの私一人で活動してたら私がもし体調を崩したりとか、もし私に何かあったらもうリセッターリストっていうものがこの世から消えてしまうっていう風に、
あのことにすごく危機感を感じるようになってきたんですよね。なんかそれまでは自分ができる範囲のところで伝えられればいいかっていう風に最初はずっと思ってたけれど、でもあのやっぱり回数を重ねるごとにプログラムの受講生さんたちの変化がもうあまりにもすごすぎて、
私一人が、私たった一人が動けなくなるだけでその機会が失われてしまうなんてあまりにももったいないから、あの伝えられるのが私である必要ってそんなにないんじゃないかってことに気がついて、であの思いに共感して活動してくれる人が増えたら安心だなと思って。
でもとはいえね、やっぱ新しく仲間を増やすことへの不安とか、あの本当にできるかなとか手を挙げてくれる人がいるかなとかも含めて、あのクオリティーをちゃんとキープできるかなとかそういうことももう不安だらけだったけど、結局あの仲間をね募って任せてみたらやっぱりちゃんと結果がみんな一生懸命やってくれて結果出してくれてて、
もう本当どのアドバイザーさんのあのプログラムを受けても受講生さんたちがみんな変化していくからそれを見るたびにやっぱりこの仕組みとプログラムはすごいんだって改めてね本当に自信を持って持てるように、今までだって持ってたけどさらに自信を持てるようになったっていうところがあります。
だからフルタイム勤務の方もいるし、専業主婦の方も受講生さんにね、いるし、あの育休中のご家庭もあればお子さんがね不登校ですごくあの生活リズム作るのが難しくてっていうご家庭もあるし、あとはね親御さんの介護でめちゃめちゃ忙しいっていうご家庭もあったり、もうほんとそれぞれなんだけど、
それぞれのゴールに向けて大きな暮らしの変化がやっぱりあるんで、そうだから本当にもうこのプログラムはね楽しいんですよやってる側も。
そうだから私もねこれからも開催し続けたいし、あの1年に1回2回くらいはね一般の方向けにやりたいなと思ってるんだけど、あの同時にやっぱり仲間になってくれたアドバイザーの皆さんが安心して活動できる土台作りとかサポート体制とか
みんながこうますます力がつけられる研修制度とか、そちらはねやっぱり私じゃないとできない仕事の一つだからそっちも力を注ぎたいと思うし、あともう一個やっぱり私だからできる仕事としてはまだね諦めていない出版の方
はいこちらもリセッターリストの基礎とか考え方をまとめて伝えるっていうのはこれまでの10年分の経験をもとにねやっぱり話せることを伝えられることいっぱいあると思う私の仕事だと思うので、これは数年以内にはねやりたいなぁと思って
はい引き続きチャレンジ中です。ここでもね何回かねちょっとダメだったよとかそういう報告をねしているのでまだね諦めてないよってことをちょっとお伝えしておこうと思いました
はいだいぶ長くなってきましたけれども あとじゃあ少しだけ話して終わりにしようかと思いますが
アドバイザーのね活動に興味を持ってくださっている方がね 声をかけてくださるってこともあるので今年はまたねあの募集をしたいと思っています
今トレーニング内容を見直したりしている最中なので情報がまとまったらまたお知らせをします で確実な必須条件としては60日プログラムを受講済みであるっていうのが
あのあってっていうのは本当にそれを受講 自分が受講生として受講してみてこれをね仕事にする価値があるかっていうのを判断してもらいたい
っていうのがあるから受けてみてね全然違ったっていうことだとねあの資格取得だけにね 申し込んで先にね申し込んじゃうともったいないことになっちゃうしお互いにね
時間もお金も無駄にしてほしくないから そうだからぜひあの60日プログラムをまず受講してこれはあの
伝える側にね立ちたいっていう風に感じていただいた方にはねぜひ来てもらいたいと思うん ですけど
なのでえっと夏今年の夏ぐらいまでにね受講しておいてもらえると安心かなと思います どの講師のプログラムでも大丈夫です
はいあとはえっと家事屋で暮らしお片付け とかにねまつわるプロフェッショナルなあのお仕事経験がね
すでにもうあるよっていう方だとなお嬉しいという方感じだし あとは男性だったりとか英語が堪能な方とかも仲間に入ってくれたら
あの本当にチームの力がつくなっていう感じがしているので 嬉しいという感じですかね
はいまたね細かくはこれから詰めていきますけれど あのでもいろいろあるけどやっぱり情熱と行動力がある方が一番
嬉しいかな来てくれたらっていうふうに思っています はいそんな感じかな
であの引き続きねえっと私はイラストやデザインの仕事も今やっていて あの
そうでどんな仕事をやっているのっていうところで言うと えっともうね発売されてから何年も経っていて長いので
あの見たことあるよって方もいるかもしれないんだけど聞いてくださっている方 全国にいると思うので皆さんが手に取れる商品です思うと
リケンビタミンさんの「サラダデュオ」っていうドレッシングがあるんですけどその シリーズのイラスト
パッケージのイラストの部分を私が担当しています これはね全国のスーパーで取扱いがあるので
よかったら今度ねお買い物行くときに見てみてください はいあの概要欄にね商品ページのリンクも貼っておくので見れば
あこれかっていうのがわかるかなと思うのでぜひチェックしてみてください はい他にもねあの私が暮らしてたシリアの
での内戦でね様々なものをね奪われた女性たちによる 刺繍の手仕事を支援して生活の糧にしてもらうという「イブラ・ワ・ハイト」って
いう活動があるんですけど 8そちらの名刺とかロゴとかあとパンフレットとかをデザインするっていうのは私は
ボランティアワークとして支援してるんですけどそちらもね 内戦が集結したということでいろいろリニューアルする予定があったりだとか
あとはワインのパッケージ新種の音ワイナリーさんのパッケージだったりとか あと今やっているのはキャラクターデザインだったりとか
広告新聞広告の音デザインとか あとちょっとまた他にもいくつか動いているものがあるので
そうそちらも頑張っていきたいなっていう感じですね はいだからデザインだったりイラストだったり
そういったものもね社会とかクライアントさんの活動とか役立てることもたくさんあるから そっちはそっちで大事にしたいし
あとイラストレーションもね仕事以外のもの あの自分のねあの表現として書いていきたいっていうのもあるし
もっとうまくなりたいしとかもうやりたいことがいっぱいあってね そうだから
あのもうね40代最後の1年がもう始まるっていうことなので 50代をどう働くかとかどういうふうな仕事をスタイルにしていくかとか
自己紹介と振り返り
そのあたりもねしっかり考えながら過ごしたいなと思って だから何でも私は結構自分一人でやろうとしちゃうところがあるので
頼るのがね下手だったりするんだけどリセッターリストはね仲間がたくさんいるし みんなもねもっと私たちに頼ってねって言ってくれるから
そうちょっとね信じてみんなを信じて手放すっていうことを 私は練習していかなきゃいけないなって思うし
だけどサポートすべきところをサポートするっていう形にね そんな40代最後を過ごして気持ちよく50代に入っていきたいという感じで思っています
はいいや気づいたらもう50分喋ってますね すごいめっちゃ長くなっちゃった
いやー自己紹介のつもりで 自己紹介のつもりで話し始めて振り返ってきましたけどちょっと思ってない方向に話が広がってしまったんですが
どうだろうこれって聞いてて面白いのかちょっとわからないんですけど私自身はかなり 自分の振り返りができて整理ができたのでとっても助かりました
はいなのであの 私のことをねあのリセッターリスト代表として知ってくださっている方がこの
ポッドキャストを聞いてくれていると思うんですけど なので知らない話もねいっぱいあったんじゃないかなと思うんですけど私は
はいこんな人生を歩みながらあの今ねここに立ってるよっていうことを知ってもらえる 回にできたらなという自己紹介の回を今回ははい
お送りしてみました いやちょっとめちゃくちゃ長くしゃべっちゃったんであのはい最後まで聞いてくれた方がどの
からいるかわかりませんがはいあの聞いてくださった方本当にありがとうございます はいでは今日はここまでにしようと思います
リスナーへの感謝
今回のあの人の毎日はここまでとなります 概要欄にお便りフォームをご用意しています
感想質問トークテーマなど募集していますのでよろしくお願いします それではまた次回お会いしましょう
山本香織がお届けしました