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ゆいなわさんの聞く人ラジオ。みなさんこんにちは。ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。
今回は千葉県立山市でギャラリー&カフェ船形倉庫を営む佐生かおりさんにお話を伺いました。
地区100年の欧州石の倉庫を画家をされていたお父様 溝口和夫さんの作品を展示するギャラリー&カフェとしてリノベーション
2022年4月より営まれています。 まずはその船形倉庫という場所についてからお話を伺いました。
最初に僕がお聞きしたいなと思っていることはこの場所のことを 船形倉庫というところのことについてお聞きしたいんですけど
ここって何ですか?という変な質問ですけど
この船形倉庫というところはどういった施設というか 歴史のある建物というか
名称としてはギャラリー&カフェ船形倉庫と名付けたんですけれども 建物のお話をすると
地区100年と聞いてましてちょうど100年前が関東大震災があった年なので その年に
地震でここのあたり結構壊滅的な被害を受けたと聞いてまして まあそれで建てられたのではないかとその後に
防火倉庫だったそうなんですね 油のご商売をしている方が建てたものでこの中にはドラム缶とか
いっぱい並んで油が保管されていたと 一時期ガソリンスタンドもこの前にできましてガソリンスタンドの商売もされていた
その後人手に渡ったのが 売り物件として出てたんですね
それを知り合いの知り合いが
フェイスブックにアップしまして それをチラッと見かけたのが
巡り合わせだったというか 私がそれを見かけたんですね
最初はなんとなくスルーしてたんですけど なんかでもかっこいい建物だなぁと
説明に防臭石の倉庫だって書いてあったんで それもちょっと防臭石 ノコギリ山の石だなというのも
03:05
なんとなく引っかかるものがありまして
そのうちにちょっとひらめいちゃったのが 父が亡くなってたぶん1年ぐらいだったんですけど
この倉庫に父の絵を飾ったら とてもいいんじゃないかと思いついたのが
運の月というか
この天井の感じ この梁が剥き出しで 屋根の板がそのまま出てるっていうのも
すごく魅力的で この防臭石の感じとマッチしてましたし
この荒削りな武骨な感じがすごく好みだったんですね
そこから母に交渉しまして
母様に交渉
いわゆる資金繰りですね
父が亡くなって1年ほど経った頃だったんですけど
父が残したお金で せっかくだから父の絵を飾る場所を作らないっていうことで
母に言いまして
晴れてOKが出たという
そういうことですね
お父様が絵を描かされていた
その絵が今 中には飾られている
父は東京の出身だったんですけども
若い時に仕事でこっちに本院しまして 学校の先生をずっとやってたんですけど
こちらの風景に惚れたというか すっかり見せられたようでして
母と結婚したのもあるんですけども
こちらに今日構えてずっと 死ぬまでこっちで過ごしました
その自分が気に入った風景というのを
機会があって油絵を描くようになりまして
描き続けまして
亡くなった時に自宅に300点ぐらい 作品が残ってたんですけど
教師を辞めてから絵の方にも力を入れまして
職業画家としてそこそこ
食べていけるぐらいの化石はあったので
残った絵をその後も皆さんに 見ていただけたらなと思っていたところに
これができることになったので 本当に良かったなと思います
建物自体はそのまま 壁とかは特にない
カウンターとかこういったものを作って
06:00
そうです 私が内建した時には 壁とか天井とかは本当にこのまま
前の方が床とかはきれいにしてくれて
このコンクリートは前の方が売ったみたいなんですが
入り口にはいわゆる倉庫っぽい
錆びた鉄の扉がガシャンと閉じるような 扉がついていまして
それでまたすごくいい感じだったんですけども
ギャラリーにするということになって
相談した建築工房の方が 設計師さんを紹介してくれまして
素敵に改装してくれました
なので玄関とお台所のキッチン カウンターと後ろのバックヤードですね
収蔵庫というか そこを付け足しただけで
基本は本当に元のままを生かして使っています
オープンっていつなんですか?
昨年の4月にオープンしましたので ちょうど1年半ぐらいですか
そうか じゃあやろうって思ったのも そのちょっと前ぐらい
そうですね でも結局準備に 1年半2年ぐらいかかってますかね
今はじゃあ香里さんはここに 週末だけでしょうっけ?
ギャラリーカフェをオープンしているのは 週末だけなんですが
結局毎日ここにいます 基本的には
あとの日っていうのはここで
英会話スクールをやっていまして
生徒さんがいらっしゃって ここで英会話を教えていらっしゃる
場所としては一応ずっと動いているような形 この空間で
ライブとかも キーボードとかギターとかやるもん
この間やられたんですよね?
そうなんです
それはまあ趣味の域で たまたま仲間に恵まれまして
一緒にやってもらってます
仲間に集まって
場所としてはこの中田倉庫として カフェで
英会話スクールで たまにコンサートライブをやったり
いろんな使い方を
そうですね
そういった生活がオープンしてからスタートした
そんな感じですかね
生まれはどちら?
巨南町の
せっかくに言うと 生まれたのは富山町です
すぐに巨南に移って
巨南町の本田というところに 父が勤めていた
いわゆる健康学園というのが あったんですけれども
大東区立いわい学園という学園が
09:01
のこぎり山のすぐふもとにありまして
もう今なくなっちゃったんですけど
そこの職員住宅に家族で
私が10歳の時までそこに住まっていました
そうなんですね
父と母が家を建てて
隣町の勝山に移りまして
今でも母はそこにいますけれども
ですから巨南生まれ 巨南育ちですね
じゃあもう高層の方ということですね
そうです
英会話をされているということで
英語の勉強というかそういう
英語の勉強
私の時代なのでそんなに
子供の頃に周りに英語を話す環境なんて 全然なかったんですけれども
中学に入って英語をやるってことになって
英語の塾に母が行きなさいと
行かせてくれて
新しい世界が開けた
すごく英語に魅力を感じまして
ずっと好きだったんですね
中学高校好きで職位科目としてやってたんですけど
いろいろ曲折ありましたけど
仕事して23、24になる年に留学をしまして
ずっとずっとアメリカ留学っていうのが
私の憧れであったんですけど
存在してたんですけど
ちょっと仕事してちょっとお金が貯まったので
行ってくるよって言って
仕事辞めて行っちゃいまして
辞めて行っちゃったんですね
自分のお金で何とかやりくりして
帰ってくるつもりだったんですけど
行ってみたらばもっと痛くなっちゃったっていうのと
自分のお金も底付けちゃったので
ちょっと親にお願いして
その点今でも頭に上がらないですけど
4年生の大学に入れてもらって
司徒さんにサポートしてもらって
この大学に行ってきました
何を勉強したんですか?
そもそも何を勉強しようと思って行ったわけじゃ
全然なくて
行きたいのと英語を勉強したいっていうのが
もう大の目的だったので
とりあえず行って
大学に入ってみると英語を勉強するっていうのは
目的じゃなくなるわけじゃないですか
英語を使って何かを勉強するというのが
出てくるわけで
じゃあ何をしようかなって
その時点でもまだ決まってなかったんですが
たまたま高校生のサマーキャンプみたいなところで
日本語を教える機会がありまして
日本人だから
そういうアルバイトがありまして
それがすごい楽しかったんです
夏休みの5週間くらいかな
高校生に向かって日本語を教えたんですけど
クラスで自分が先生に会って
日本語を教えるっていうのがすごく楽しいな
12:02
ということに目覚めまして
じゃあ外国の人に日本語を教えるんだったら
言語学かなと思って
言語学を結局専攻しました
じゃあそれでもう言語学を勉強していくっていう感じ
そうですね
言語学って何勉強するのか
言葉の成り立ちとか音声学とか
あとは言語の歴史みたいなのも
英語自体の言語学じゃなくて
に限らずですね
言語学っていう大きなものを英語で学んでいくんですね
そうですね
そうすると言語を理解するための心理学とか
そういったところもちょっと勉強した
脳みその動き
言語の習得の仕方とか
子どもがどうやって言語を学んでいくかとか
そういったところもちょっと勉強したりとかして
なかなか楽しかったです
じゃあもうそこで
学校で勉強して言語学を習得して
まだずっといるのか帰ってくるのかとか
そうですね
習得したって言うほど
お勉強はしまして
一応卒業はできたので
とりあえず日本に帰ってこようと
本当はもうちょっといて
向こうで大学院に行くとか
大学院に行くっていうのは
普通の選択肢としてアメリカの学生さんってあるので
大学院に行くのには
アメリカでは結構
教授の助手とかすると
ティーチングアシスタントとかって言って
お給料がちょっともらえたりするんで
もうちょっといてもいいかなと思ったりもしたんですが
いろいろあって
とりあえず帰ってこようと
もうこっちで英語を教える予定は
とりあえずなかったんですけど
東京でちょっと勤めまして
ちょっと肌に合わなかったというか
5年間アメリカで
過ごした後に
東京に戻ってきたら
自分の生活のパターンというかリズムというか
ちょっと東京に
なじまなくなっちゃってたというか
そんなこともあって
じゃあもういいやと思って
ちょっとした方からのアドバイスもありまして
あなたなら別に
自分で英会話スクールとかやってもいいんじゃないの
ということをたまたまチラッと言ってくれた方がいて
あ、それもありかなと
割と人のアドバイスに流されやすい感じなんですけど
そんなことを言ってくれた方が
背中を押されて
やってみようと思って帰ってきたのが
始まりです
それで帰ってきて
15:00
それから英会話スクールを始めて
それをずっとやられている
1994年に始めましたので
来年で30年です
そうなんですね
英語を教える
やっぱり教えれば教えろと
お上手になってくるんですよね
最初の頃に比べれば教え方とか
生徒さんのタイプにもよるでしょうし
習熟度とかにもよるでしょうけど
教えるメソッドみたいなものは自分の中で
全然30年前は本当に恥ずかしいくらい
でも若気の至りというか
若い勢いで
始めた当時は英会話スクール
結構欲張りな立ちなので
英語を学ぶだけじゃなくて
国際交流とか
そういったところもせっかくなら
やっていきたいなと思って
インターナショナルオフィスという名前を付けまして
いろんな方が来て交流したり
それから地元の方が
国際的な感覚を養えるような場になると
いいなと思って
スクールのほかに
マンスリーギャザリングって当時言ってたんですけど
月一でいろんな方をお招きして
スピジョンのトークをしてもらって
それが外国の方だったり
日本人の方で海外の経験がある方とかをお招きして
話をしてもらって
結構やってました
あとやっぱり地元に住んでいる
外国の方にも情報提供をしたいなというのもあって
それがどのくらい実際ニーズがあったのかって
今考えると分からないんですけど
新聞も出そうと
英字新聞
英語で最初は月2回
地元のローカルのイベント情報とか
そんなものを中心に
全部英語で書いて
A3二通りか
で印刷してもらって
各地のレストランとかカフェとか
いろんなところに配布して
みんなに読んでもらったというのを
10年続けました
それを読んだ方は
それで知ってくださる方とかも
目新しかったっていうのもありますし
英字新聞だって言って見てくださった方も
いらっしゃったりはしましたね
それを基にしてまた出会いが増えていったり
外国の方って結構いらっしゃるんですか
いらっしゃった?分かんないけど
そうでもなかったと思います
18:03
その当時立山の山本っていう地区に
日本ファウンドリーとか
ミネベアとかっていう
半導体の会社があったんですね
そこに勤務されている
アメリカの方とかいらっしゃって
若干の英語圏の方が
いらっしゃいましたね
あと学校に赴任してくる
ALTの先生とか
そんなにいっぱいいらっしゃったわけじゃないですけどね
そうかそうか
じゃあそういった方々とも触れ合いながら
そして地元の郷村の英語の
英語というか国際交流をしたいみたいな人たちも
ちょっと集まって
そうですね
結構続けましたね
今まで英会話スクールは普通に続いていらっしゃって
生徒さんがいらっしゃって
何人くらいいらっしゃるんですか
今ですね正確に数えてないんですけど
たぶん4,50人
5,60人くらい
結構いらっしゃいますね
年齢層とかは幅広く
はい今はですね
大人の方だけしか募集してないので
8割方
高校生以上なんですけど
ここに移る前ずっと
小戸谷スーパーセンターさんの向かいの
コアっていうビルがあるんですけど
小戸谷ってどこの小戸谷ですか
マクドナルドのある小戸谷さん
わかりますわかります
ごめんなさいすごいローカルだから
わかります
そこの向かいのビルに2階を曲がりしていまして
結構便利な場所だったんですけれども
小学校とかにも近くで
そこにいまして
子供が結構多かったです
その時は
6、70人子供がいて
プラス大人も5、60人だという感じですかね
子供を中心に映画をやって
子供英語発表会っていうのを
結構力に入れてやってたんですけど
一年に一遍子供たちを仕込んで
英語ミュージカルをやりまして
南総文化ホールで発表をしていました
ミュージカルって言ったらだって
英語で歌うだけではなく
いろいろ振りとか
演技を振りして
踊りを挿して
振り付けて
子供たちに衣装を着せて
舞台じゃないですか
そうなんです
大変だけど面白いですね
それはちゃんと稽古して
時間を決めて
結構私の
21:00
いろんな
これまでの人生経験の中の
集大成になった部分が
あるのかなって思ってまして
ミュージカル
英語で子供たちに
舞台で発表させるっていうのは
すごい大事だなっていうのが
あったのでもちろん
そういうのが
第一義としてあったんですけれども
舞台芸術が
もともとすごい好きで
舞台芸術
それも元をたどると
多分父の影響なんですけれども
さっきお話しした
台東区立穂田学園っていうところに
私10歳までいたんですが
そこで
いわゆる学芸会っていうのを
年に1回やってたんですね
それこそ父だとか
その学園の先生だとかが
全部ディレクションをして
アラビアンナイトとか
白鳥の湖とか
そういった舞台を
学校の高等まで行かない
すごいちっちゃいところでしたけど
やっていたのを子供の頃から
ずっと見てたんです
それがすっごい大好きで
そうなんですね
父も絵を描いてただけじゃなくて
児童文学だとか
そういったものにもすごく興味があって
自分で台本を
100本も書いたりとか
してたのも残ってたりして
それも私も子供の頃にも
読んだり見たりして
影響を受けてた部分があるので
クラシックバレーが趣味で
子供の頃に見た
白鳥の湖は原点なんですけど
ずっとバレーというものに
憧れてて
大人になってから始めたんですけど
そんなのもありましたので
子供の生徒が増えて
発表をやりたいなと思ったときに
そういうのが自然に
ジャンミュージカル
歌わせて踊らせて演技させて
っていうのが自然に
思いつきまして
それはもう
それこそ自分の中で
いろんな思いを持ってして
その舞台を作り上げるっていうのは
たまらないですね
自分がやりたかったことを
全部子供たちに
やって頂戴みたいな
必要があれば出ましたけど
基本は子供が
またたまた
その頃はちょっと
生徒さんが多かったので
私のスクールで働いてくれてた
人もいまして
一人の女性の方が
すごくお裁縫が得意だったんですね
どうせやるなら
って言って
ミシンで子供たちの衣装を
作ってくれたんですよ
それが契機になって
24:00
サテンの
本当に仮の
紙とかで作った
衣装ではなくて
本格的なドレスみたいなのを
作ってくれちゃったら
舞台の見栄えが
全然違って
そうしたら後には引けないじゃないですか
クオリティーここまで上げちゃったら
もうちょっと落とせない
それからもうバージョンアップしかない
なるほど
最初そこまでやってしまったものだから
もうそれは
文化ホールさんっていう素晴らしい箱があって
あそこは
お願いすると全部照明もやって頂くので
そうすると
サテンの衣装と
照明がきれいになって
子供たちにとっては
夢のような世界ですよね
それをやられたんですね
すごい
一番楽しんでたのは私ですね
それがいいんじゃないですか
それこそ大事なことで
楽しんでるのが伝わると思うので
やった皆さんも
それは楽しい感じ
音楽も
やってるんですよね
それがそこにもつながるのかな
音楽は
何というか
例えばパートとか楽器とか
それもですね
子供の頃
エレクトーンを習わせてもらってまして
中学3年くらいまで
続けたのかな
もともと音楽は大好きで
中学の時にも
ギタークラブというのができまして
若い先生が
ギターなんか弾いてくれちゃったんで
そんな影響も受けて
中学の時の
ギタークラブの延長で
高校に入って
バンドをやりまして
その時は
女子だけど
ドラムをやってたんですね
そうやってまして
話すと長くなるんですけど
その一個下に
吉木
林吉木さんがいまして
そんな環境もあったんで
バンドが
ブームだった時期っていうんですけど
盛んにされていた
みんなでやろうよみたいな感じで
それがベースになった
そうなんですね
今もみなさん
仲間の方とやられていて
やりたいことをちゃんとやってる感じ
に
聞こえてしまって
ちゃんとそこに向かって
やってる感じですね
向かって
やってるっていう意識はあんまりないですけど
なんだろう
たまたまいろいろ
縁があって
選んできたら
そうなったというかね
そっか
だからやっぱりこの
中田総合自体は
最近スタートされたと言えば
そうですけど
27:00
しっかりここでもそれをちゃんと生かして
っていう形ですよね
あとはお父様の絵は
ちゃんとあるような状態
絵を描いてるお父さんはもちろん
普段から
見てらっしゃったんですよね
絵を描こうにはいかなかったんですか
いかなかった
わけではなくて
実は高校の
進路を決める段階で
英語に行こうかどうしようか
ちょっと悩んでたんですけど
たまたまそこでも
絵が上手だから
そっちに行けばって言った人がいたんですね
そうなんですね
人に背中をされてなんですけど
得意じゃないそういうの
って言われて
そう言われれば
父も描くし
じゃあそっちにしてみようかな
って思った
なんでしょう
単純な思考回路で
結局
美大も
美大を
受験しようと思って
ちょっとだけやったんですけど
そのツケ牙じゃ
かなわないそんな甘いものじゃないので
見事落ちまして
専門学校に行って
デザインの専門学校に行きまして
卒業して
デザイン会社に入れてもらいまして
いわゆるグラフィックデザイン
3年ほど仕事として
はやりました
ちょうど
バブル
エコノミーの
前あたりで
たまたまそこのデザイン事務所は
不動産関係のパンフレットだとか
印刷物を
主に扱ってたので
結構
歯振りがよくって
ボーナスいっぱい
いただいたんですね
お仕事もすごい大変で
真夜中まで毎日のように仕事はしてたんですけど
結構
人山高が
たまってきまして
ここまでたまったら
アメリカに行くかもしれないって
思っちゃったんですよ
そういうことか
なるほど
そこで最初の話に戻って
行くってことなんですね
そういうことか
デザインの仕事も楽しかったんですけど
でも私英語もやりたかったよな
と思って
デザインの仕事はもういいやと
3年でやめます
アメリカに留学します
そうなんですね
もしかしたらそっちの道も
行ってた可能性もあると言えばある
はい
ちゃんとこういう場所で
いろんなお客さんがいらっしゃって
お飲み物を出したり
とかしながら
こういう場を作るっていうのは
すごいいいなと僕は思ってしまうんですけど
やっぱりいろんな方が来て
いろんな方がここどういうところですかと
お聞きになる方もいらっしゃるでしょうし
そうですね
30:01
英会話でいらっしゃる生徒さんも
前からの付き合いの方もいらっしゃると思うんですけど
実際にこういう場所に来ることで
刺激されるというか
っていうのもあるように
思いますね
というか
僕も初めてこの間来させていただいて
独特の雰囲気と言いますか
おっしゃったように
無骨な感じの
絵と調和するというような感じも
すごく受けましたし
これが100年
100年なんだとか
すごくいいものが
ちょうど揃ったみたいな
感じが
見えたんですよね
ここの場所が
手に入れられたというのは
本当に私にとって
すごく大きなことだったんだな
って今
感じますけれども
ここで私が
集大成をしているというか
いろいろ今までやってきたことが
まとまってきて
ここで
私を表現できているのかな
という気がします
もっとここでこれから何かしていきたい
みたいなこともあったりするんですか
今は今のところ
そうですね
この先どうなのかな
もうちょっとイベント的なことを
やっていけたらいいかな
と思ってまして
音楽イベントも
まだそんなに回数できてない
んですけど
コロナも
収束してきましたし
英語関係の
イベントといいますか
コーヒーサロンというのを
再開したんですけれども
よく東京にイングリッシュカフェって
あるじゃないですか
マスターが外国の方だったりして
英語でおしゃべりするような
カフェみたいなものを
今
土曜日の朝1時間
ちょっとその枠を取って
2,3回再開したところなんですが
元前にいたところでも
コーヒーサロンというのは
ちょっとやってまして
英語の生徒さんとか
外部の方もどうぞと言って
1時間英語でしゃべる時間
ミートークの時間というのをやってたんで
そんなこともちょっと再開したりして
いろんな方に来ていただく
っていうのが
いいかなと思ったりとか
イベントも
33:00
自分のバンドだけじゃなくて
他の方とも
やってもいいのかなと思ったり
あんまりそのほかは
思いついてないですけど
いろんな可能性が
あるように感じると
場所がちゃんとあるわけですから
雰囲気もあるわけですから
いろんなことができるだろうな
という感じを受けますね
例えば写真1枚撮ったとしても
すごく映える場所というか
絵になるというか
って思いますし
今すぐこれっていうのは分からないですけど
まだ初めてその間もない中で
ちょこっと始めていく中で
きっといろんな方が
いらっしゃるとか
ご縁が繋がって
何かになるのかなという感じがします
コンサートやって
ライブやって
お客さんがいらっしゃって
みたいな感じだった
そうですね
何人でやるんですか?
先週の土曜日にやったら
5人いまして
ビートルズを演奏するんですけど
演奏者が5人いて
お客様がこの間は
23名入ってくださったので
もう結構いっぱいいっぱい
そのいっぱいいっぱいな感じが
楽しかったです
イベント的なことはようやく
みんな復活してきて
みんなが集まって楽しさを
再発見
再認識
しばらくできなかったから
いいよねっていう感じ
それもね
ここ作らなかったら
できてないわけですから
そう思うとまた
いろいろ感慨深くなるというか
この場所をオープンしたとき
最初はパッと見て
何もない状態のところを見る
時があったわけじゃないですか
オープンこれを全部
しつらえてできたという時が
あるわけじゃないですか
思われたんですかね
そうですね
何て言ったらいいのかな
作り上げている段階から
その日を
夢見るというか
妄想して
いつかその日が来るんだ
っていうのが
自分の中ですごく膨らんでたので
何て言ったらいいんでしょうね
でも実際に来てみると
その時って
勘無量な部分もありながら
すごく慌ただしい部分も
あったりして
いろいろオープンして
自分はカフェの業務も
36:01
全然慣れてないのに
いろいろやらなきゃいけないとか
そんなこともあったりして
バタバタしつつ
しばらく経って
振り返ってみたら
この場所ができて
ここにいるっていう
そういう感じだったんですかね
実感みたいなものが
ちょっと遅れてやってくるのか
最初はオープンのとき
バタバタして
慌ただしくなっている中で
次第に体に馴染んでいくような
今はもう
すっかり馴染んでいる
そうですね
自分の居場所っていう感じになってきて
お客さんも迎えできる
余裕がちょっと出てきたかな
っていう感じですね
だんだんここが
自分の場所みたいな形で
例えば
扉を開けたときの空気感
空間に入る感じとか
がだんだん自分のものになっていく
帰ってきたみたいな
空間ってそういう場所になる
最初ってやっぱり
どことなくよそよそしいものがある中で
そこに通い続けたり
時間が積み重なっていくと
この場所は
自分にとっての特別な場所
になっていきます
そうですね
これからまた
一つずつ
積み重なっていくのかな
みたいな
この建物との
出会いが
本当に
偶然なんだけど
偶然とは思えないのは
この建物が
防臭石でできているところが
本当に私にとっては
すごく大きなことなんですけれども
10歳まで
ノコギリ山のふもとに
住んでたっていうのがありまして
ノコギリ山の
日本人側っていうのは
私だと妹が2人いるんですけど
私たちにとっては
裏山みたいな感覚で
子供の頃育ちましたので
父にとってもすごく
身近な山でしたし
実際父の作品もノコギリ山を描いた
作品がいっぱいあるんですね
いっぱいでもないけれども
防臭石の倉庫に
父の絵を飾るっていうのは
とても特別なこと
な感じがするんですよね
その当時の自分は
当然知らなかったけれども
そこで取られたというか
ノコギリ山が作られた建物に
何か縁があったんだな
ってすごく思います
確かに考え深いものがあります
たまたまこれもご縁なんですけれども
私はノコギリ山の
39:00
ガイド事業の仕事もさせていただいていて
ノコギリ山が
日本遺産の候補というのになってまして
3年間の事業が
候補として
ありまして
今3年目で来年
いよいよ日本遺産になるかどうか
という審査があるんですけれども
その事業で
ノコギリ山のガイドを育成しましょう
というプロジェクトが一つありまして
そこのお仕事もさせていただいていて
ノコギリ山に
すごく縁があるというか
3年前から始まっているんですけど
ここに来て
3年前から深く関わるようになりまして
その中で
この建物が
何か不思議なものが
繋がっているような気がしますよね
確かに
何かその先に何かがあるような
感じが
こないだ
10月かな
行ってきて
何十年ぶりに
知り合いが
10歳は11歳くらい
小学生の高学年なんですけど
共通のお父さんと
行こうと言って
行ってきたんですよ
金谷で降りて
歩いてそのまま登っていく
ルートで登っていって
あのルートで登ったのは初めてで
こんなにこんなすごい
とこだったなみたいなのを
再発見して普段立山なので
通過はするんですけど
見上げてすごいねって言いながら
立山だったんですが
ちゃんと登るとなかなか
通してすごいって思って
やっぱあとあそこの
石の削られた場所とかの
圧倒的な
圧巻の感じ
ああいうのをやっぱり体験すると
わーって
なりますよね
あそこを今そういう風にしよう
って動いてるんですよね
私も育ったのが巨南川だったので
ほぼ日本人側しか
知らないんで大仏様とか
あっち側しか知らなかったんですけれども
金谷川は
今おっしゃったように石切りの
産業がずっと栄えてたところなので
切り立ったね
石を切り出した後の岩壁とかが
本当に見応えがありまして
そちらの歴史も
語ると
すごく面白いんですよ
それを語れるガイドを
今やってきていて
こちら側も日本人の
歴史を語れるガイドというのを
両方
説明できるガイドさんというのを
育成するということなんですね
育成ってことは人が
教えるってことですよね
今研修生が
20名くらいいまして
その方って
何の方って言ったらあれですけど
2年前に募集をしたんですね
ノコギリ山の優勝ガイド事業ということで
やる人って手を挙げましたら
10名くらい手が挙がりました
それもすごかったんですけど
42:00
神奈川、居南側また関係ないところから
いろいろ手が挙がりまして
結局辞退される方が
あったりとかして結構研修も
ガシガシ
去年と今年で
やってるんですね
今残ってるのは20名
でも数字がね入りの
ノコギリ山
ラブの人たちがいっぱい残ってまして
すごい楽しいんですけど
はい
私今事務局にちょっと入れていただいて
皆さんのいろんな研修の
プログラム作ったりとか
自分自身もいろいろ学びながら
そっかそっか
いらっしゃる方にガイドできるようになるのはゴールというか
そうですね
日本遺産って
日本遺産になりますと
文化庁の
お仕事で
地元の
いろいろな
ものを活かして
地元で稼いできなさいというのが
主な目的なんだそうです
なのでお金を
極端に生み出すような
システムを作っていくのを
助けますよね
だから日本遺産認定しますけど
そういう風に動かしてください
というシステムらしいので
ガイド事業もボランティアではなくて
そうかそうか
地元の人たちが
経済的に
売るような形に
ということで
優勝ガイド事業ということなので
結構
お金いただくからにはちゃんとしたガイドを
安全管理とか
そうですよね
そういったところも考えて
研修結構頑張って
今やっているところです
この間行った時とかも
土日だったからだと思うんですけど
すごく混んでて
こんなに混むんだってぐらい
びっくりしちゃった
今結構注目株で
外国の方は当然
今どこも多い感じだと思うんですけど
外国の方も多いし
地獄のぞきは並べ過ぎて
行けなかった
すごく並んでらして
ちょっとそこまで
だとは思わなかったので
すごいなと思って
実際歩くと
こんなにもいろいろあるんだって
やっぱり再発見したので
多分僕が小学生とか
そういうのの修学旅行
修学旅行でもないかちょっとバス旅行ぐらいで来た
ってから多分来てなかったんですよ
だからそういうのを改めて
知って
面白いなと思ったっていうのはあるんですけど
多分歴史とかも
すごく
いろいろあるんだろうなっていう
例えば石切りのこと
一つとってしても
ちょっと物が残ってたりとか
これってどういうことなんだ
これなんだろうみたいな
いろんな深いところまで
これはちょっとすごいね
っていうようなものとかは
面白いだろうなって
思ったんです
45:00
それを語れるガイドさんを今
育成して
なるほど
その後
いろいろされてますね
そう
それを言われると
いろいろ
結局
つながってるんですよ
私の中では全部つながっていて
表れとしては
いろいろやってはいるんですけど
一つ
某主義史のルーツを見たところから
お父様の絵のこととか
英語もそうですし
それらが集まって今ここに
みたいな感じがすごくしますね
でも
ノコギリ山のガイドの話は
そもそも通訳ガイド
っていう資格があるんですけど
それを
英語をスクロール
やってて英語の
通訳翻訳みたいなのもちょっと
受けたりもしてたところに
アメリカのカリフォルニアの
方から
団体を連れて行くんで
ガイドしてくれないみたいな
あったところで
必要に迫られて
通訳ガイドの資格を取ったんですけど
その方たちが何回か
団体で来てくれたときに
ガイドする経験が
ありまして
通訳ガイドって資格を取ってたところから
ノコギリ山の
ガイドの
手伝いを
っていう話があったりとか
なので今の
有償ガイドの研修は
英語を
行ってますけれども将来的には
既に外国の方がノコギリ山に
来てますので
外国の方も
お連れできる
インバウンドを対応できる
ガイドさんも
つながっていくんですね
5円があってあって
5円でつながっていって
面白い
そうか
そう思うと
やりたいことをちゃんと
そちらに向かってやっていく中で
いろんな5円が入って
導かれていって
さらにその先も何か
導かれていくような
不思議なものが
無理してやってるわけでもないじゃないですか
すごく自然な感じで
赴く感じで
こうやっていたらそういうのが
導かれていく
なんでしょうね
わかんないけど
そうか
楽しいですよね
楽しいです
私もカフェをやり始めてから
カフェの
マスターの
仕事の一つって
本当に人の話を聞くことなんだって
すごく実感してます
それはやっぱり
やるまでは
もしかしたら想像してたかもしれないけど
実感することですよね
48:01
改めて気づくというか
話したい
話したい人がこんなにいるんだ
っていう実感です
ここに来てすごいですね
どういうところですかって
聞いてくださる方もあって
それも私もお話
何回も何回も同じことを話すような
こんな経験も今までなかったことなんですけど
それもありますけど
そこのカウンターに座って
お話ししたい人っていうのは
結構いらっしゃるんだなって
私はニコニコして聞いてればいいんだ
そうですよね
聞く人です
そうか
ギャラリー&カフェ
そして英会話スクールをされている
船方倉庫
という場所が
自分の集大成のようと
おっしゃる佐藤さん
建物との出会いは偶然ながら
ノコギリ山をルーツに持つ
ご自身にとって
それは偶然とは思えない
というお話が
印象的でした
佐藤さんありがとうございました
それではまた次回
ゆいなおさんの聞く人ラジオで
お会いしましょう