発達障害と人間関係
では、発達障害あるある34回目、話していきたいと思います。
人間関係が相対的である、自分が絶対じゃないと
学ぶ時期は、普通であれば3歳とか、物心を作る時ですね。
でも、発達障害は、そんなものを身につかないんだ。
っていう話、以前しましたが、それと同じことで
物事は絶対だと思ってしまう。絶対物があると思ってしまう。
これもね、哲学的な話になるんだけど。
健常者はどうかっていうと、だから、基本そうじゃないんだろうね。
ただ、宗教やってる人で、一神教の人は特にそうだけど、絶対な物がある。
一神教の前に、神様を信じてる人っていうのは、絶対な物があると固く信じれるんだろうけど。
健常者っていうのは、そこそこに捉えてても、絶対な物はないっていうのが基本概念なんでしょうね。
だから、こういったこともある文献で書いてありました。
例えば、親が3時に帰ってくるっていうふうに伝えられると、
もうそれが絶対だと思ってしまうから、5分でも遅れたらパニックになるんですよ。
この世界は全部絶対でできてるんですね。
絶対この人はこういう人なんだとか、関係性でできてるってなかなかわからないんですよ。
関係性でできてるとかわからないってことは、つまり、
物事って条件次第でいくらでも変化するってことはわからないってことですね。
人と比較するときも、別に別の人と比較すれば、また捉え方も変わってくるとか、そういうことはわからないわけですね。
だから上には上がいて、下側には下がいるとか、そういうことも理解しづらいだろうし。
絶対ものがあるということは、つまり目指すものがあるゴールが明らかに決まってると思っちゃってる。
だからゴールにもうたどり着けないとなったら、もう遅刻は決まってて、後は歩いても走っても同じだよって考える中学生と同じような状態になっちゃうんですね。
完璧主義っていうのはこういうところから発生してしまう。
正義感が強すぎるのはこういうところから発生してしまう。
正義なんてものは時代、国、人によって違うわけだけど、それを理解できないですね。
理解できないって言ったら頭でわかってるかどうかじゃなくて、体感しづらいっていう意味ですね。
これが暗くから理解しづらいのが、まさに前回話した未来から過去に時間って流れてるっていうのととても関連があるんだけど、
現代人は未来の状況次第では過去の出来事の捉え方を全然変えてしまうっていうのはわかってるわけですよね。
だから自分の発言があの時好感色だったからあればよく受け取られたんだとそう思ってしまうんですよ。
その人の将来の気分次第で、未来の気分次第ではそれもまた歪められるっていうことがなかなか今なによくわかんないんですよ。
でも条件によって相手が絶対喜ぶはずのことは喜べなくなる。
だからいずれ一般で考えたら、これが良しとされることも人によって違うし、しかもその人の中でもですよ。
例えばですね、その人が好きなアニメはこれだとわかっていて、そのアニメの話をして、当然こちらとしてはそれは正解だと思いますよね。
会話の中の。
でも何か理由があって、そのアニメは今言ったとき好きじゃないかもしれない。
あとはその人がハメスタッカーとして今病気で話をしてほしくないかもしれない。
でもそういう条件次第で物事って、相手の気分って変わってしまうことは理解できないんですね。
で、他の健常者どうやってやってるかというと、何でかわかんないけど、せっかくハメスターの話してあげたのに、機嫌悪かったけど何かしらあるんだろうなと考えて何とかするんですよね。
でもそれを食らっては理解できないんですよ。
頭のおかしい人だとしか思えないんですよ。
例えばこういう勘違いがあったとしてもですよ。
それも含めて、包括した上での、でもそういうことがあるというふうに捉えられるのが健常者であり、
それは不正解だと、ゲームオーバーだと見直してしまうのがクラッキー、そして発達障害なわけですね。
自己理解の重要性
でも実はそういうことも頭ではわかっていて、すぐ諦めちゃいけないなとは思うんだけど、
頭で理解してもね、それで何とかなったことは特にないですね。
だから諦めちゃいけないとかそういう話じゃないんですよ。
こういうことを考えていると、泥沼に入って抜け出せなくなり、発達障害は間違いであり、周りのみんなは正解であり、
っていうふうにね、単に自信をなくすだけじゃなくて、ちょっと歪みすぎた偏った考え方に陥ってしまうのも発達障害あるあるだと思いますね。
そこまで間違いだと深く悩む必要もないんですよ。
次は発達障害のあるあるですが、これは世間のあるあるなんだけど、
発達障害は、なんか飛び抜けた部分があるとか、引いてたものはあるっていうイメージはあるけども、すごい頭がいいとか言語能力がすごいあるとか。
でも発達障害自身はですね、苦手なものがあるか何とかなるものがあるか程度に思ってます。
クラッキー自身もそうです。
ただね、これはこれでまた間違いもあると思ってて、
なんとかしがみついて他の人と同レベルでできるものが、これは現状者にとってもそうかもしれないけど、
その一つが、実は他との何か関係性によってものすごくすごい成果を生むってことはあると思うんですよね。
そういうイメージはね、凸凹の凸の部分が、たとえ平均的だとしても、何か引いてたものがある、そう捉えるのは間違いではないんですよ。
ただ発達障害はそれって得意な部分もあるから、プラマイズラだみたいに捉えるのはおかしな話であると思ってて、
本当に生きるほどに困難がありすぎるという認識は持ってほしいところではありますよね。
楽器演奏の難しさ
でも自己肯定感を高めてあげるには、
自己肯定感じゃなくていいんですよ。
ちょっとした自信というかね、自分を認めてあげるには、やっぱり周りの親とか少しでも凸凹の部分を褒めてあげた方がいいし、それで勘違いするのもあれだけども。
では次ですが、さっきも話したけど楽器はダメだと思うんですね。
特にリコーダー、鍵盤ハーモニカだっけね、あれ?
もうダメなんだけど特にリコーダー、ダメですね。
まず音符、楽譜覚えるのがダメだから楽器ダメだし、
特に協調運動っていうらしいんだけど、協調性運動障害があるから、
ドラムなんかもできないでしょうし、リコーダーも両手使わなきゃいけないから協調させていく必要がある。
もう点でダメですね。
ほんとリコーダーはダメでした。なかなか穴を抑えられなくて。
でも球技はなんとかできたんですよ。
なんとか、球技はできると言っても反復作業だからキャッチボールは。
野球はなんとかできたんだけど。
他の部分でカバー、カバーできるという考え方はあまり好きじゃないけど、なんとかこまかせてたってことですね。
あと裁縫なんかもこれと共通するのかな。
20歳の場合は家庭工は難しいというのはあるあるなようですね。
あと靴の紐結ぶのがどうしてもダメでしたね。
そこまでひどいわけじゃないけど、でもできてる感じではない。周りと同じようにできてる感じではない。
なんとかこまかして結べてるかなって感じでした。
よくほどけるんでね。無理して変な結び方またするんですよ。
それではしたっけ。