時間の哲学的考察
今回は哲学回になるんですが、話していきたいと思います。以前ですね、
アインシュタインの、以前の、それ以前の物理学の常識ではですよ。
月っていうのは、あるかどうかわかんない。
見てあるからあるんだっていう。だから、昼間はないから、見えないからない。
夜だってあるかどうかわかんない。現代人から考えてみたらありえないですよね。
これと同じことで、例えば、その頃スーパーがあったかどうか置いといて、
家からスーパーに向かった場合、スーパーに家を出て行って、
スーパーがあったから、スーパーがあるんだって、これ認識論の話なんだけど今回は。
でも現代人はどうですかね。自分がスーパーに行こうが行かなかろうが、スーパーありますよね。
今の話は、別に自分が行ったからそこでスーパーが建設されるとか、その以前はなかったとか云々の話じゃなくて、
ちょっと、理解しづらいと思うんですけど、そういうことだと思ってください。
とにかく、全く認識の仕方が現在とは違ったわけですね。
まあ過去から未来に時間が流れるっていう考え方だとこうなんだけど、
でも現代人って過去から未来に時間は流れると思ってるし、時計も秒針がどんどん、秒針というか秒針、長針、長針と長針と秒針と、
1、2、3、4っていう、どんどん増え、移動していきますよね。
でも、江戸時代以前はですよ、逆に数字の方が動いてたわけですね。
だからそうですね、アインシュタイン前ですもんね。
ある意味、江戸時代前の人の方が正しかったんじゃないかと思うけど、
西洋では、以前は過去から未来に時間が流れるっていう考え方。
現代人、未来から過去に時間が流れるって、なかなか考える人はいないんだけど、でも実際そういう捉え方をしてる人もいるわけですよ。
そういう捉え方をすることもあるんですね。
それは後で話しますが。
もちろん、過去から未来に時間が流れる。
これは間違いというわけではないんですね。
この捉え方じゃないとできないものもある。
例えば、木のサメ思いをしたから、次の日風邪をひいてしまった。
これは正しいんだけど、因果関係。
過去から未来に流れるっていう時間軸じゃないと、この因果関係成り立たないし。
でもある意味間違ってるんですね。
実は、熱を出したことと、サメのところにいたこと、関係ないと言えば関係ないわけですよ。
過去から未来に時間が流れるって考え方をすると、
さっきの例で言うと、家から出たから、
家を出てスーパーに向かって、
で、恋をしたから、
って言うとちょっと語弊が回るけど、
家を出てスーパーに行ったから、
スーパーっていうものがあるんだっていうことなんですよ。
ちょっといまいち頭では理解しにくいと思うんですけど。
これはあくまでも空間の中で何があるかっていう話じゃなくて、
これはあくまでも時間の話だからですね。
ここで大事なのは、あくまでも空港があるかないかの話ではなくて、
A地点からB地点に行ったときに、空港のあるB地点なのか、
あ、違う、スーパーのあるB地点なのか、スーパーのないB地点なのか、
そういうあるないのことを言ってるわけじゃなくて、
なんだけれども、なんていうのかな、すごい難しい話なんだけど、
家から出てスーパーに向かったから、
スーパーにたどり着いたという、
そしてそこにスーパーがあるという、
そしてスーパーで買い物をするという、
因果関係になってしまうんだけども、
そのときにスーパーはもともとあるじゃないかと思いますよね。
でもここから未来に流れるって考え方は、ある意味ではですよ、ある意味では、
さっき言ったアインシュタイン以前の人と同じようにですね、
現代人ではありえないんだけど、
ありえないからこそちょっと分かりにくいんだけど、
一応スーパーもなければスーパーにたどり着けるのかさえ分かんない。
そういうB地点という空間が、
すっぽり抜けてる、抜けちゃってるようなイメージっていうのかな。
未来から過去に時間が流れるとすると、
自分が家から出て、
そういう過去があるからスーパーに行って買い物をしてっていう、
事実があるっていう考え方じゃないから、
最初からスーパーってものは存在するし、
じゃあ過去から未来に時間が流れると考えても、
スーパーはあると思うじゃないかと思うかもしれないけど、
本当にね、でもね、過去から未来に時間が流れると、
それがもう、ベースにある人って、本当に月はないと思ってるわけですよ。
外に行って、見て、
ああ、月はあると。
これもう時間的な今話でしかないから、
それだけ認識を歪めてしまうことになるんですね。
だから、現代人は、
というか、
現代の物理学の
暗記から言わせれば、それ自体、
人間のこの世界の捉え方でしかないんだけど、
その常識的な捉え方からすると、
未来から過去に時間が流れてる。
だから、
人間は、
捉え方からすると、
未来から過去に時間が流れてる。
と考えるのが妥当なんじゃないかと思うんですね。
家からスーパーに行ったから、
そこにスーパーがあると認識して、
あるんだなと言うはずだっておかしいからね。
因果関係と時間の捉え方
過去から未来に時間が流れるとすると、
本当にスーパー、これ未来のことなんだから、
スーパーがあるとか買い物するとか、
そんなものは未来にしかないわけだから、
スーパーがあることも買い物することも、
全くない状態なんですね。
そういうことになってしまうわけですよ。
例えば、
一生懸命勉強したから東大に受かった、
と言うこの因果関係。
普通にしてしまってるけども、
ある意味では変てこいのことをしてるわけですね。
一生懸命勉強したことと東大に受かったこと、
実は関係ないんですよ。
未来から過去に時間が流れたとすると、
東大に受かったから一生懸命勉強してるに感じられるっていうだけ。
もし落ちてたら、
何を無駄なことしてたんだとなるだろうし、
全く違って見えてくるわけですね。
これあくまでも認識論の話なんだけど。
もちろん勉強してたっていう事実は、
過去の事実は変わんないだろうと思うかもしれないけど、
でも事実を人間って思ってる以上に歪んで捉えてしまってるんですね。
というか、主観的な捉え方でしかないというか。
それでは明日っけ。