ニーチェの解釈
今回はニーチェの言葉の話なんですけど、名言で、まあ素晴らしいものもあるんですけど。
ちょっと、ん?と思ったのがあって話したいんですけど。 まあ事実なんてものはなくて解釈しかないんだな。
って言うと、いかにもこの世界はフィクションでできている、幻想の世界だ。 みたいに捉えるかもしれないけど。
解釈はいろいろあると思います。 存在論的なことで
言ってるのかもしれないし。 ただ、ニーチェで現実主義者とも言えると思うんで。
これも解釈なんだけど。 だとしたら
あるはままに現実は、目の前の現実っていうのはあるっていうのは分かると思う。
そういう考えではあると思うんですよね。
ただ、だとしたらその
日本語訳される時点で間違えれば、おかしくなったわけでもないだろうし、どういうことなのか事実
なんてものはないと。現実世界はないと、いうふうにも聞こえるけども。
もうちょっとニーチェの言葉にあいめいだって考えてみると
なかなかうちらの先入観を知らなきゃ分かりにくいんだけども。
単にね、現実世界なんてないんだって、なんてことを言ってるわけではないのが分かるんですね。
最近お話しした通り、目の前にもしみかんがあったとして
まあこれは みかんだから
もしかしたら品種が分かっていたらこういう色で
だいたい全部共通してますよね。オレンジ色、黄色
で
条件反射的にね
大気が出てくるんですよ。飛ぶんですよ。酸っぱいのを想像して
オレンジほどではないかもしれないけど
これ非常に難しい問題なんだけど
それはあくまでも自分の捉え方でしかないんですね。自分の過去にいろんなみかんを食べてきて
でみかんはこういうものだっていうね。これもクラキューも本当にこれ理解するの何年もかかったんだけど
他の人には違うように見えてるわけですね。何言ってるか分かりませんよね。
哲学者によってはね 実際は存在しないかもしれない
いやこれはねちょっと現代人はそんなことはないって
分かりますよ。例えば月なんかはね昔は
相対性理論以前は 1の2分の1の確率だったんです
見てない間はないかもしれないから
まあだから現代人は進んでさすがにみかんがないという人はいないかもしれないけど
それが正しいわけですね これは科学の進歩ですよね
なんだけれども ウチらが思ってる以上に
客観的に捉えられてると思っていると思うんですよ ここにはみかんがあるだろうと。これ子供だったり大人だったりみんな同じように思いますよ
誰が見たって
まあ好き嫌いとかいろいろあるかもしれないし
多少見え方は違うかもしれないけどここにそういう物体があるのことは目で見て取れるんだから分かんないだろ
分かるだろうと思うかもしれないけどそれにしてもね
ウチらが思ってる以上に 物体そのものを見てるわけではないんですね
事実と解釈の違い
そもそもみかんと理解している人類でそうなんですよ 最近話してるブッダの処方物が
から言っても
これはみかんだという実体なんかなくて いろんなことの関係性
でできてるんですね。つまり今言ってる 自分の
みかんという概念を見てるに過ぎないんですよね
だからブッダなんかはね
あの人は別に宗教の人ではないんだけど
コースの人が宗教化しただけで ブッダはあくまでも現実的なんだけどそれでもこの世界を幻想というぐらいですからね
別に目の前にあるものがないと言ってるわけではないんだけど そういうことを言ってましたあとはですね
出来事 ってことですよね事実は
今度はじゃあ事実、出来事 過去にあった出来事
ここからが本題ですけど
それもね 別に録音するまでもなくはっきり記憶してるとこれは事実だとだから
解釈ではないだろうと すべては解釈である事実ではないのだ
おかしいと思うじゃないですか でも今言ったリンゴの例なんかよりも逆にこっちの方が分かりやすいと思う
実際そこで行われてるってことって 会話をしてるっていうこと
人間はね 言葉っていう点でもそうだし
それこそ例えば会社の 調子と部下の会話他の人が見てても
部外者が見てても 何の会話かよくわからない意味をなせないですよね
ゲスタルトはできないですよね でカエルからしてみたら
会話をしてるっていう認識さえ ないでしょうね
発声してるってことぐらいは分かるかもしれないけど いやでもねカエルの視点からしてみたら
発声をしてるってことさえ どっから音が出てるかさえ分かってないだろうし
だから実際行われてることって まあ
一番抽象的に考えると あそこには宇宙があるみたいな まあそこまで抽象的に考えないと
まあ生物と生物がいて 何か
音を出してる これが事実ですよ いや事実っていうか
現実というか 仏陀がいたかどうかだが
事実っていうのはそういうことだった そこでどういう会話があったかなんていうのは
解釈でしかないという そういうことなんですね それではしたっけ