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2025-10-01 25:38

第4545回 坊さんに物申すブッダ釈迦の諸行無常諸法無我を都合よく捉えてしまっています超簡単仏教雑談その3 メンタルヘルス回

発達障害当事者です。そして宗教2世でもあります。ハイブリットなこの生きずらさによって起きた過去にあった学校や家庭での事件や悲喜こもごもな話を赤裸々に語ることによって、特性や特異な考え方をすることを知ってもらいたいです。

発達障害の特異な感性ゆえに世の中の理解できないことや、宗教をやめてから哲学的に考えてきたこと、そして音声配信者としての苦悩などの話もPodcastでしています。

発達障害専門家、当事者、興味がある人が発達障害を考える材料になればと思い、日常の考え行動を細かいところまで話しています。番組登録よろしくお願いします。コメント待っています。

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雑談・人生・生活・暮らし・おじさん・トーク・愚痴・吐きだめ・心理学・脳・1人配信・メンタル・podcast・ポッドキャスト・ネットラジオ・ラジオ・フリートーク・一人喋り・一人語り・毎日配信・まったり・ゆるい・コミュ障・ライフスキル・シンプルライフ・前向き・怒り・残念・ネトラジ・闘病記・日常

サマリー

このエピソードでは、ブッダの教えである「諸法無我」と「諸行無常」について深く掘り下げ、これらの哲学が日常生活にどのように影響を与えるかを探求しています。また、教えの抽象性や誤解についても取り上げ、自己の存在や生活に対する意味を再考させる内容です。さらに、現代人にとってのメンタルヘルスへの影響や、人間の不完全さ、比較することの無意味さについても議論されています。

諸法無我の基本理解
今回もシリーズの3回目で、諸法無我の超簡単哲学の話ですね。
ということで、原始仏教の話なんですが、
本当にYouTubeで諸法無我、諸行無常に調べていて、
あと、ブッダについての簡単に解説している動画だったり、
坊さんのお話聞いてて、本当にもう、
焦ん通してますね。
例えばですけどね、
サムネイルでよく出てくるのが、
一人では生きてはいけないんだみたいな、
たくさんの人に支えられているみたいなことですよ。
確かに諸行無常というのは、実体が存在しないということなんだけど、
あらゆる全てのものは実体が存在しないであって、
というものすごく抽象的な教えなんですね。
だから、人間だけに関することじゃないし、
いかにもね、あなたは親に感謝していないでしょう、
もっと感謝しなさいみたいな風な、都合よく捉えているけれども、
あえて言ってしまうと、もうさすがに、
ちょっとこれは言い過ぎかもしれないけど、
頭で理解できるようなもんじゃないんですよ。
ただね、クラケが思うには、
やっぱりフッターが言っていることって、
他の哲学と同じで、生活に生かせないのではないかと、
思ってしまうこともあります。それぐらい抽象的なことなんですよ。
教えの実生活への応用
もう全く、
だから例えばですね、これもついでに話しちゃうと、
よくね、これも今日、昨日も、
バーッとおばあさんの話とか聞いてて思うんだけど、
どんなにつらいことがあっても、逆に喜びも、
ずっと続くものではないって言うんだけど、
別にフッターが言っていることは、そんな時間的なね、
ことっていうのは一切、関係ないというか、
だから、悲しみも3日続くかもしれないけど、
1週間後どうなっているか分からないとか、そういう教えじゃないんですね。
かといって、
この一瞬一瞬変化しているとか、そういうことでもなくて、
時間的な感覚は全くないんです。だから、
この予定でないって言ってしまうとあれなんだけど、でも抽象的なことなんですね。
時間的に、
そう長くは物事って続かないですよ。
1秒後には変わってますよって、そういうことじゃないんですよね。
これは昨日、前回話した、
細胞レベルで変わっているとか、科学が進んでね、
細胞レベルで変わっていることも分かるし、物理学が進んで、
原子レベルで変わっていることも分かって、
物理学に追いついたとかいう人もいるんだけど、
別に人間の細胞が変わっているようがどうだろうが、
それと処方無我のね、処業無常の変化するとは全くなしが関係ない話であって、
抽象度が違うんですよ。
だから空間的にも時間的にも、抽象度が違うんですね。
だとすればね、
日常生活に活かせるのかって思うかもしれないけど、
ここがね、他の哲学と違ってブッとの言っていることって、
もちろん素質的な話でいくようなものではないんだけど、
でも、全く生活には活かせないっていうことではないんですね、やっぱり。
でもそこはね、もう決めつけてしまわない方がいいと思いますね。
柔軟な心で。
時にはこんなの抽象的すぎて、
うちらの生活とはちょっと別だろうと。
前回も話しましたけど、
例えばさっき言った細胞、これ細胞の変化すると、
その説明の仕方もね、この処業無常ということを言うときに、
一理あるんだけども、
ただそれに対して、
それも生物学でもある意味間違ってると言えて、
例えばDNAがあるわけですからね。
現実的なことを言うと、
人間の能力とか性格とかなんて、
一生ほとんど変わらないわけですよ。
詳しくは今回話せないですけど。
そう考えるとブッとの教え、
現実と照らし合わせるとどうなのかって、
そうとも言えるんですよ。
これも前回話した通りでも、
やっぱり現代人でも、
一度はこの考えに触れとく必要もあるし、
時々立ち向かえる場所としてやっぱり、
根本には置いとく必要があると思うんですね。
自己の存在に対する再考
例えば犬とか猫とか、
これ、ついでに話しちゃうと、
この世界は都合よくできてますよ。
ブッダの原始仏教以外も、
仏教というのはできてますよ、人間が救われるように。
それに比してブッダが言うことって、
冷めてる人もいたいし、
時にはそう感じられるかもしれないし、
それに比して、
人間に寄り添ってくれる暖かいものではないですよ。
本当にある政治家が言ってましたけど、
この世界の本当のことを言うことほど、
それほどひどいことはないと、
人に嫌われることはないと、
それにとれないんですよ。
この世界の事実を、
人間に言うことほど、
本当のことを言うことほど、
事実を知ることほど、
人間につれないことはないですよ。
そんなブッダの教えが、
人を導くことがあるんですね。
命を断とうと思っていた人が、
このとても、
考えだしたらもうちょっとキリがないようで、
非常に冷たいように感じる、この考えに出会うことによって、
自分なんか存在しないんだと、
ちょっと今まで考えすぎていたんだと、
だから逆に、
人生に意味を感じすぎちゃったんですよ。
いやいや、あなた、
自我が強くなりすぎているだけであって、
本当は自分なんか存在しなくて、
こんなことをね、
俗世間の人が普段考えたら、
こんなね、ひどい話ないと思うかもしれないけど、
命を断とうとしている人が、
この教えに触れたら、
なんだ別に、
自分が生きているかどうだろうか、
そんな大した感はないなら、
自分を全うしようという気になったりするわけですよ。
今まで本当にプレッシャーに感じていたような人が、
なんだそんなに、
人生そんなね、
自分が生きているかどうかって、
そう囚われる必要はないという風になるわけですよ。
では次の話ですが、
あとは今日、本当にクラキアはもうね、
悪気に取られてましたもん。
処方無我ということは、
それすなわち、
こうあるべきという、
そういう価値観の潜入感に、
自分というものは存在しなくて、
他との関係性の中で生きている。
だからね、前回も話しましたけど、
この自分がないけど、
自分というのは何なのかというと、
その実態はないんだけど、
一時を切り取ったようなものだとか、
仮の姿だとか、
ブッダもね、
こういうことだと言ったり、
集合体だと言ったり、
いう人もいたり、
ブッダが言ったこと、お弟子さんだったり、
ここまでの中でいろいろねじ曲げられてね、
どうしてもね、自分というものを分かろうとしたいんだね。
それが人間なんですよ。自分もそうだと思います。
それで結果的に、
前回話した、自分は父親であったり、
いろんな条件によって立場が変わるとか、
おかしなことを言う人もいるんだけど、
たとえ話だとしても、
ちょっとその捉え方は無理がありますね。
というか間違って理解されると思うんですね。
やはりこれをもっとブッダが言いたいのは抽象的な意味だし、
理解しにくいかもしれないけど、
その時によって社会的な立場が変わるなんて、
そういう教えじゃないですから。
実態がないってことは、
自分はこういう人間だっていうんじゃなくて、
人から見たら優しそうに見えるし、
人から見たらきつそうに見えるしとか、
そういう教えじゃないですからね。
なんだけどさっき言ったようにそういうねじ曲げられて、
結果、
潜入感にとらわれなくなると、
確固たる自分なんてものはないんだから、
この世界のすべてのものが確固たるもの、
実態なんてないからとですね、
自分もそうであるし、
人間もそうであるし、
だから、
絶対的にこれが正しいと言えるようなものはないということでしょう。
いかにも正しそうだけど、
それ自体が正しいかどうかは、
棚に置いといて、
ブッダが言っている諸法無我はそういうことではないですね。
あともう一個ありました。
もう聞いているたんびに腹立ってきてしょうないんだけど、
一番腹立ったのが、
腹立っちゃったんですよ、どうしても。
おかしな解釈すぎて。
というか哲学と違って、
いろんな解釈が生まれるというものじゃないですからね、これ。
純粋に理解すれば、普通に理解すれば、
でも宗教化してしまったらもうあれなんですよ。
都合よく捉えてしまったら間違えるんですよ。
才能がなくても、
その才能がないという事実も変化すると。
いや、それ言い出したら、
もうこれに関して、
何言ったっても、
この考え自体は、
何言ってもちょっとバカバカしい話になりそうだけども、
これ言い出したらね、
自分も3日後には、
腕が5本になっているかもしれないとか、
そういうことですからね、これ言っているのは。
これは生物学の範囲の話であって、
才能がない人が変化するかもしれないから、
商業無常でそんなこと言っているわけじゃないんですね。
才能はどうか知らないけど、厳密には、
あらゆるものは変化しているんだよという教えですから。
才能もね、
移転で決まっているかもしれないけど、厳密には、
あらゆるものは変化しているという、そういう教えですから。
あとあったのは、
自分が、
商法無我だから、
でもその前にね、
確かに不完全性定理と同じで、
クラキも不完全性定理って言うから、
物事って絶対的な考え方なんてないんだなって思うし、
それと同じように、
その、
自分が、
その、
この考えにね、立ち返った時に、
一回、
独世間の常識から離れてみた時にですよ。
実際は、
この世界の事実としては、
これが正しいなんていう、
考えなんていうものはなくて、
常に変化しているということは、
でもこれもね、はっきり、
こうだなんて言えるもんじゃなくて、
少しずつ感覚的に、
これ言葉で分かるもんじゃないからね、
クラキがどう説明したところで、
あまりあるかもしれないけど、
アプローチの仕方としてはですよ。
今まで、固定概念で捉えてきて、
これが正しいっていうものがあると思ってたけど、
実際は、
世の中が変化している、
ということはすなわち、
これが正しいというのは、
一時のものであって、
今、あえて、
分かりやすいように1秒後って言い方するけど、
1秒後は、またその考え方も、
人間には変わってないように見えるけど、
実際は変わってるんだ。
ついでに話しちゃうと、
ブッダの教えの重要性
でもね、
世の中の価値観なんてそんなに変わらないですよ。
だけど本当に、
考えすぎているとき、
本当の真相真理を探そうという
心理状態のときは、
この考えが大事になってくるんですね。
いくら探しても、見つからないことが分かるから。
つまり、
真相真理だという言い方をする人がいるんだけど、
逆に真相真理なんかないんですよと。
まさに不完全生定理と同じことなんですよ。
2500年前にこれが分かってたんですね。
数学が証明する前から。
真相真理なんかないんですよという
教えなんてしたからね。
あの、
一切皆苦だって、
この苦しみって不完全って意味なんだけど、
ブッドはね、ここでも
人間は不完全な存在だと
空気は吸ったり吐いたりしなきゃいけないし、
物を取らなきゃいけないし、そういうことを言ってますね。
この諸行無常諸法
無我からもそれを伺うことができますね。
そういう教えなわけですよ。
だからね、
探求してる人にとかね、深く考えてる人に響くんですよ。
すごいあの、
考えすぎてる人とか。だからね、
命を断ちたいっていう人以外がね、
自分がない、自分なんて存在しないと言われても
ポカンだろうけど、アゼンとしちゃうんだろうけど、
人生について深く考えてしまう、
死の恐怖を持ってる人なんかが
この考えであると
救われるんですね。
あとこの考えを
学ぶ上で
大事なのは
日常生活で生かそうなんて考えないことと
俗世間の価値観に照らし合わせたりしても
あんまり意味ないですし、
あとはですね、柔軟な心で
受け止めることですね、やっぱり。
思い込んだり
逆に疑いすぎたりしないってことですね。
あとブッダのことの話になるんですけど、
彼は肉体擬をしたり
逆に王室にいた頃は
もう何でも手に入れるような状況で
その中立っていうことを学ぶわけですよ。
修行して
過酷なことをやっても救われないし
楽を求めても
楽ばかり求めても快楽を求めてもどうですよね。
快楽主義の国の人たち、これ聞いたらどう思うのかなと思うけど
日本人はその逆ですよね。
あまりストイックな人が多くて
どちらでも救われないんだと、この中立がいいんだと
原理に例えて言ったりもしたようですが
クラキも宗教に入ってた頃から
よくそういうことの話は聞かされてました。
中立がいいんだと言うんだけれども
結局、値反尺状で死ぬ前は
一切快愚ですから
そうやって飲食をするということ
排泄をするということも
それは苦につながるんだと
いい思いをすれば
また欲が出るから
だから断捨離なんかもこういうところから来てるんでしょうね。
まあいろんな、大丈夫けど
いろんな捕らえ方しているんだろうな
なんて考えながら今日聞いてましたが
クラキも変な
宗教やってる頃から変な修行をやらされてました。
仏陶はね
そうやって肉体業をしても
救われるわけではないと
まあ
似てやなもんなと思っちゃうんだよな
でも違うんだろうね
それは中立なんでしょうね
現代人のクラキからすると
そうやって
だから絶食みたいなことですよ
同じ肉体業なように感じちゃうんだけどな
こうやって矛盾も感じるんだけど
柔軟な心でっていうのはそういうことですね
だからもう縁を切るっていうことでもないし
都合よく信じるということでもいけないし
あと
今日非常に息取りを感じたのは
さっきの話
話、価値観の話と
あと
人と比較してはいけない
っていうことが分かると
人と比較しすぎないってことですね
これなんかどうだろうな
話聞いてるときは非常に息取りを感じたんですけど
そんな教えじゃないよなと思って
だから処方無可で自分なんて存在しないわけですから
そんな固定的で実質があるものじゃないから
それこそ人と比較できるようなものではない
メンタルヘルスへの影響
っていうことなんだろうけど
無理にその独世間の価値観に押し込もうと
しちゃいけない
おかしくなると思うんですよ
あくまでもたまに立ち帰る場所であって
そういうことだと思うんですよね
でもしょうがないんですよ
人間が仏陀の言うことを
理解
解釈して
後世に伝えてきてるわけだし
脈々と伝えられてきたわけだし
だけど仏陀の言ってることは
はっきりしてますんで
この仏陀も人間でありますしね
でもこの世界の事実は変わんないわけですよ
仏陀がその
難しく分かりやすく
分かりづらく説明してるわけでもないですし
あくまでもそれを
無理矢理変に解釈してるだけであって
仏陀が言ってんのはあくまでもこの世界の
全て変化してるっていうことだけですから
実態はないですよっていうことだけですから
ということはこうですよね
こういうことですよねって
お弟子さんがそう解釈しただけですからね
俗世間で生きてたらそれ
比較してしまうもんだし
それを比較するなっていうのもおかしいし
一度仏陀の教えに立ち帰ったら
比較しても意味ないんだなっていう風に
気づかせるようなそういう教えじゃないですからね
そういった解釈の仕方をする人はいても別にいいんだけど
でもそれを諸行無常ってことを
言語的にではなく感覚的に分かるようになってきて
比較してたのもどうなのかなって
その人自身の中で気づくだけであって
比較しても意味がないということを
教える教えではないんですね
自分も以前10年以上前に
諸法無我という考えに出会ってから
もしかしたら人と比較しても意味ないって
思ったかもしれないけれども
それは徐々に徐々に感覚的に分かったことであって
だと思うんですよね
クラキだったらね
比較しない以前に
人も他の動物も物も
すぐに分かり合って
他の動物も物も
すべて同じであるというか
区別できるものでないって
そっちが先に来ると思うんですけどね
他の人と学力で比較できないとか
そういう発想になるかなと思ってしまうんだけど
最終的にそういう風に思うかもしれないけれども
あと空気を吸わなきゃいけない食べなきゃいけない
だから人間は不完全なんだ
っていうこの考えはどうかと思いますね
じゃあ他の生物で
例外的なのがいたらどうするんだって話だし
これはだからこれも生物学的なこと
の範疇の話であって
たとえ話として分かりやすく考えたら
話として分かりやすく伝えるにしろ
ちょっとこれは間違いなんですよね
そう都合よく捉えようとする人いますよね
呼吸をしなくたって
食べ物を食べなくたって
人間の不完全さ
完全な存在ですから
もちろんブッダはね
断食したりとかやってるけれども
だから矛盾するかっていうとそういうことではないんでしょうね
ある意味矛盾してるのも感じるけど
でも少なくともブッダが言いたいのは
食事したりするから不完全であり
食事しなかったら完全なんだとか
そういうことではないんですね
だから食事しないことを3日間したら
3日間の間完全でいられるとか
そういうことを言いたいわけじゃないんですね
それではシタケ
25:38

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