例えばね、処方向かってたから実体がないってことは、
今日もお坊さんで知ってる人が言ってました。何の根拠があるのかわかんないけど、
実体があるっていうのとは、実体がないから魂はないっていう説もあるけれども、
ここで都合がいい考えが混じっちゃうんですよ。
あらゆるものによって、関係性によってできてるわけだから。
だから魂だって同じようにできてるってわけがわかんない論理展開で、だから魂はあるんだと言い張ってるお坊さんがいましたが。
あとどんどん話していきますけど、この処方向かって、
人間も川と同じことで、川っていうのは実体がない、すなわち流れていって、
一時として留まっていなくて、
人間の身体が流れていって、
人間の身体が流れていって、
一時として留まっていなくて。
だから今そこにあると思っている川も、1秒後にはまったく別物になっていると。
でもわかりにくいですよね、これじゃあね。
さっきと今とでは全然違うんだから。変化してるから。
だから本来はそこに処方無我はないですね。川なんてものは存在しないんだ。
いやそれはわかりにくいんですよね。逆にわかりにくいんですよ。
別に、なぜわかりにくくなるかっていうと、
一日川だなんて限定すると間違いなんですね、それは。
わかりやすくしてるつもりなんだろうけど、
ブッダが言う処方無我っていうのは、ブッダのことだからわかるんですよ。
目の前にあるものが1秒後にはどうなってるとかそういう話じゃなくて、もっと分子レベル、原子レベル。
ただね、この物理空間のことを言ってるわけだから、
物理空間のことを言ってるわけだから、
もっと分子とか原子とか、もっとそれよりも抽象的なものなんだとか言ってしまうと宗教になってしまうから。
まあでもそういう別に分子原子がどうののこんな話じゃないんだけど、
まあそれは科学が当時まだ進んでなかったから、
そういう曖昧な表現をしたっていうことではなくて、
クラキオもだから、とにかくあらゆるものという表現をするしかないんだけど、
まあそこで分子原子レベルっていう表現であってるのかわかんないけど、
イメージで言うとね、分子とか原子とか、そういうレベルのものがあらゆるものが変わってると、
物理学的に言うとそういうことですから、それでいいのかな、だから。
あらゆるものは絶えず変化してるっていう、そういう教えなんですね。
でも分子原子が変化してるっていうか、そういうミクロレベルでもマクロレベルでも、
もうとにかく全てのものは変化してるって教えなわけですよ。
だから1秒後にはその川は流れて下のところにあるから、川は川ではありませんとか言うと逆にややこしくなって、
わかりにくくなるんですよね。
川だとかなんだとかっていうふうな区分けの仕方も人間がただしてるだけですから。
ブッダが言ってんのは、とにかく全てのものは厳密にはですね、常に変化してるっていうそういう教えなんですよ。
川の例えはダメだと思いますね。
川の例えはダメだと思いますね。
川は変化してる。1秒後には。
イメージはしやすいですけどね、人間はこうやって細胞が入れ替わるなんか目には見えないから、巷は流れてるから分かると。
ちなみに有名なんだけどやくないから分かりにくいんだよって言ってみたらね。
こうやって細胞が入れ替わるのが目には見えないから、皮は流れてるからわかると。
ちなみに有名論っていうのがあって、すべてのものは名前をつけて一般化しているだけであって、
実はここのものは全く別物なのだと。
例えばクラキもクラキっていう名前で一人の人物として認識しているだけであって、
っていうことですね。人間は人間ということで名前をつけてるけど、
人間と馬とでは違うと認識してるけど、
人間と馬を区別できるものでもないし、だからAさんとBさんと区別できないと、
馬のAとBと人間のAとBを区別できるみたいな、こういうことなんだけど。
これでももう説明できちゃうんですね。
シナンの川っていう名前があるからそういうふうに認識してるだけで。
そういう名前の川として認識してるだけで。
そもそも川っていうの自体が、有名論的にはね、
単に人間が川だと認識して他のものと区別してるだけなんですね。
ながら実体は存在しないんですよ。
シナンの川っていうふうに人間がそういった概念で理解してるだけで。
そんなことを言うまでもなく。
で、川は。
人間はもう動かないもの。
これが川だと認識してるわけですよね。
まあでもこの例ちょっと、やっぱり逆に分かりにくいと思います。
では早速次の話ですが。
えーとですね。
今日ちょっとある人の話聞いて驚いたんだけど、
ブッダは、
クラキと全く同じ考えでした。
どんなに悟っても実際生活してて、
生きるってこと自体は、
ブッダであってでもですよ。
諸法無我では生きれないと。
自我のまま生きるしかないと。
クラキもそう思うんですよ。
クラキもいつも言ってますよね。
ニヒリズムになるんだけど。
常にそう考えればとても生活してられない。
という話してますが、
ブッダもね、
お弟子さんにそのように言ってたようです。
こうやって食べたり排泄したりこうやってやってる時点で、
自我があるわけですと。
あなたたちにそんな、
常に、
諸無我の状態でいなさいなんてことをさらさら言うつもりはありません。
一時でもそういう状態があったら救われると。
あとはですね、驚いたのが、
諸法無我とか諸行無常によって、
そうやって自我を小さくしたことによって、
人間は苦しみを少なくせげるんだと。
ブッダがそんなこと言うかなと思うんですよね。
クラキがね、そうやってニヒリズムになったり、
諸行無常ってことを意識するのは、
別に苦しみを減らそうなんて思いはなかったんですよ。
で、ブッダはね、
今日知ったんだけどこういうことも言ってたようです。
まあでも、欲を捨てるって、
こういうことだからまあまあ言ってたんでしょうね。
苦しみは、
喜びっていうのは苦しみの1ページだと。
喜びがあることによって苦しみが始まると。
逆に苦しみがあると、それは喜びの始まりでもあると。
ということはですね、苦しみを避けようとする。
ってなんかどうもその考えから矛盾してるような気がするんですけど。
まあまあでも苦しみを小さくしようと。
でもそこに必死になる意味ってあるのかなと思っちゃうんだけど。
クラキはね、諸行無常とかニヒリズムとか意識してるときって、
苦しみを小さくするっていう思いは晒されないと思ったけど、
でもそういうことなんでしょうね、結局は。
都度のつまりはそういうことなんでしょうね。
ただやっぱりちょっとそこは違うのかなって感じもするんだけど、
本当にブッダはそんなこと言ってるかなとは思うんですけど。
かといって自分を成長させるなんていう思いも晒されないですし。
それで救われる人もいるんだろうけど、
ぶったが言ってることは程遠いわけですね。
そういう解釈が別にあってもいいけど。
あとやっぱりどのお坊さんとかも、この人も説明の仕方で、
人間もこうだし他の人もこうだして、やっぱり人間ってものを特別視して。
だけどとにかく、それは前話した通りね。
生物学的に言っても、
いつも話してるね、体が2つある。
けど頭は1つっていうのは、
1人なのか2人なのかっていう問いもそうだし、
そういう意味で自分なんても存在しないんだっていうことであって、
ぶったが言ってるのは、人間がどうのこうのじゃないですからね。
あらゆるものは自分はないんだと。
だから人間も動物も自分はないんだっていう言い方は間違ってるんですね。
わかりますかね。この人も自分がないしこの人も自分がない。
ということではないんですよ。ただね、
ただ、人間ってのは自我があるから。
そういう意味で、
その人一人一人に、特定の一人一人に、
あなた自身がっていう意味では、自分があると思ってるけどそうじゃないっていうのはあれだけど、
人間もこうだし動物もこうだしみたいな言い方はそれは間違いなんですよ。
まず人間とか動物とかそうやって区分けしてる時点でね、間違いですから。
実体はないって言ってるんですから。そうやって区分けしてるのは人間が単に名前をつけてるだけですからね。
あとはですね、
ぶったはですね、お弟子さんに、じゃあここにいるこれはどう見ても自分だけど、
そうなりますよね。
この教えを聞いた人みんなそうなると思います。
人類これは何なんだと言ったら、死というなら
明かりの姿だ。
死というならっていう言葉を使ってますけど、
要は人間って、さっき言った生物学的な意味でもそうだし、
ここからここまでが自分だなんてことできないんですよ。
例えばストーブなんかもそうじゃないですか。
クーラーなんかだって。
じゃあこのスイッチはストーブなのかクーラーなのか。
人間だってね、じゃあ体の上についてるこの埃はどうなんだ。
髪の毛なんてね、どうせ一週間後利用して言って切るけどこれは自分なのか。
さっき食べたものは自分なのか。
体内にあるから自分なのか。
呼吸をしたら二酸化体操入ってきたけど1秒前は外にあったわけだけどそれは自分なのかとか
別にこれへ理屈言ってるわけじゃなくて
これもいつも通り話してる通り
一応戸籍を与えられて便宜上これがAさんBさんって言ってるだけで
生物学的に見ても
これ自分なんて存在しないわけですね。
これはこれでいいと思います。
次の話ですが
今日話し切ったら病気になって自分で治せるわけでもないし
だからそういう意味でこれは自分だと思ってるけども
自分でないっていうのはそれは無理があると思いますね。
この商業無常と商法無我を結びつけて教えてくれるお坊さんってあまりいないですね。
考えつつ
だから自分は商法無我
実体なんて存在しない
還元すると
そもそもここからあらゆるものに影響を受けて存在してるっていう
論理展開もよくわかんないし
自分ってものも変化している
多分変化している
そして自分ってものは存在しないから
それはすなわちあらゆるものに影響を受けてるんだっていう
そこの結びつきはね
多分ちゃんと探求してる人ってあまりいないのかなと思いましたね。
あとは一時こうやって商法無我とかで考えに立ち戻るのは大事であっても
俗世間に生きてたらそんなことは無理だと
いうことを真摯に受け止めてる人ってあまりいないですね。
それじゃいくら解いても意味ないと思うんですけど
ブッダはねそういう風に言ってるわけですから
あとはブッダはね
一瞬だけれどもその大事の前で悟ったっていう風に
まあいろんな宗教でそうやって言われてるんだろうけど
神様じゃないですからこれはもう
他の宗教が深刻化してるだけでブッダはもう人間ですから
超能力の持ち主でもありませんし
ちょっと硬い評価じゃないけども
何か神秘的な意味合いだったり
アンニュイイななんかことをイメージしてるんだろうけど
違いますから
自我がね全くなくなったり
悟ったっていう言い方はしますけど
そういうことはそれに近いか何て言うんだろうな
例えばゾーンに入るとかね
これスポーツ選手でもありますよね
そういうことですからね要は
そんな深刻化したりするのは大間違いで
そういう表現してる人っていると思いますよ
ブッダは他の人とは違う特別なんだと
ありえない境地まで行ったなと
いうのは間違いですね
それではしたっけ