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2025-10-02 16:57

第4560回 坊さん仏教信者に物申すブッダ釈迦の諸行無常諸法無我を都合よく捉えてしまっています超簡単哲学雑談その5

発達障害当事者です。そして宗教2世でもあります。ハイブリットなこの生きずらさによって起きた過去にあった学校や家庭での事件や悲喜こもごもな話を赤裸々に語ることによって、特性や特異な考え方をすることを知ってもらいたいです。

発達障害の特異な感性ゆえに世の中の理解できないことや、宗教をやめてから哲学的に考えてきたこと、そして音声配信者としての苦悩などの話もPodcastでしています。

発達障害専門家、当事者、興味がある人が発達障害を考える材料になればと思い、日常の考え行動を細かいところまで話しています。番組登録よろしくお願いします。コメント待っています。

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サマリー

このエピソードでは、諸法無我の教義を通して自己の存在に対する誤解や仏教の本質について考察しています。特に、ブッダの教えが苦しみをなくそうとするものではなく、中庸を重視している点が強調されているとのことです。また、ブッダの教えの中での諸行無常と諸法無我の概念についても深く掘り下げており、実態が存在しないという考え方や物事の認識が人間によってどのように構築されるかが議論されています。

諸法無我の教義
今回も人生哲学の話になるんですが、なるべく簡単に話していこうと思うんですが
早速ですが、
これは今回ので、4回目かな?5回目かな?
最近、久しぶりにある農機能学者の話を聞いたり、原始仏教について勉強したりしてるんですが
ただ、そこから何か言おうなんてつもりもないし、そこに何か正しさを求めてるわけでもないし
何かまでも好奇心で調べてるんですけど
今回もね、諸法無我の話の続きなんですけど
諸法無我はこの世界には実体なんて存在しない
だから人間にも、ここに自分ってものは存在すると思ってるけど
これは自分に見えてるだけで、その実体なんてないんだ、本質なんてないんだと
っていう教えなんですけど
でもよく考えてみてください
あくらきはいつもね、これ言ってる
自我は存在するけど自分は存在しないっていう
でもね、自我があるのってどうですか?
他の動物もほとんどありませんよね
他の花も木も自我なんてありませんよね
自分はここにいるなんて思っていませんよね
もちろん意識もないわけですよ
で、ぶったんはこの自我があって
この自我っていうのはもう
自分があると誤解するってことですからね
実質が
実体が
で、この世界の事実とは
真逆という言い方が正しいかわかんないけど
実質とはもう大それている
捉え方をしてるわけですよね、人間の脳っていうのは
実体がないのに
自分がここに
だってどう考えても自分ってのはね
どう理屈をこねられても
ここに自分がいるだろうと思うじゃないですか
目の前に人がいたら
いやそこにいるのは一人の人物だと思うじゃないですか
いやちょっと疑問に思う
すら思わないんだけど
普通だったら疑問に思うと思うんですよ
なぜ人間だけそうやって
この世界の事実とは
真逆な捉え方をしてるようにできてるのか
って思うかもしれないけども
そういうことではなくて
人間がこの世界を捉えようとした時に
正しく捉えようとした時に
ブッダの言うところの諸法無我っていうのは
因縁でできていて
縁起っていう言い方をするんですけど
あと空とか言い方もするんですけど
苦しみと中庸
存在っていうのは空であると
そういう考え方なんですね
西洋哲学は
すべてのものが
存在があって
その上で関係性が成り立つけれども
そうではなく最初に
関係というのがあって
その結び目であるとすべての存在は
自我というか
自我というのもそうであると
人間というのもそういう
何かというとそういうことなんだと
結び目でしかないんだと
ちなみに人間は
その結び目であるとかいう説明の仕方するんだけど
あとハネシンゲなんかだと車は
この関係性によって
車というその状態を
車と呼ぶんだとか言うんだけども
厳密に言うと
人間を人間と定義しているのは
人間が定義しているわけであって
そもそも人間なんていう概念はね
人間の頭にあるだけの話だから
人間というのはその関係性によって
成り立っているってそれぞれはもう
人間的な捉え方
人間的というか
人の頭でそう考え
そういうふうに認識しているだけであって
つまり自我なんていうのは
自我と処方無我って別に関係ないんじゃないかなっていう
思ってしまうんだけども
それはちょっと考えすぎかもしれないから
ただに置いとくとして
っていうか何言ってるかもう分かんなくなると思うんで
自分でもちょっと分かんなくなるし
話戻りますが
そういうものであると
存在っていうのは
っていうふうに
人間はこの世界を
人間の脳から見たら
捉えられるんだけども
だからつまり
うち人間だけが運が悪くて自我が存在してしまう
だから苦しいんだとかいう
ことではなくて
確かに人間だけが自我があるから
あるんだけども
たまたま運が悪い
ものなのかというとそういうことではないんですね
他の動物より
それで運が悪いとかいうことじゃないんですね
では次の話ですが
YouTubeでただ見てるだけだけど
ブッダのことを説明してるお坊さんとかの話を聞いてると
とにかく苦しさを軽減させる
いかにして人生苦しく生きないかっていうことを説いてるような
ことなんだろうなっていう印象をつけられるんだけども
でもねブッダの
という人物からして
そんなそんな苦しみを
遠ざけて
楽をするじゃないけども
そういうことをしようとして
教えを説いてるとはとても思えないんですよね
幸せの
苦しみの1ページ目は幸せ
快意である快感である正しみ
喜びであると言ってるわけです
そんな苦しみを
なくしましょうなくしましょうなんていう
教えを説くかなと思うんですよね
でもお坊さんの話を聞いてると
いかにして苦しさをなくして
いかにして苦しみを軽減させるかっていうことを
ひたすらブッダは言ってるように聞こえるけども
苦しさをなくそうとした瞬間に
苦しみが生まれるって言ってる人ですよ
そんなそんなね最終的な結果的にはそういうことなんだろうけど
そんなそんな苦しみをなくそうなくそうと
してるわけじゃなくてそこはね
ブッダも言ってる通り中庸中立
だと思うんですよね
苦しみをなくすとか楽しみを増やすとかそういう
ことをやろうとしてるわけじゃないと思うんですよ
でもブッダが言ってることを解釈したお弟子さんやなどに
いろんな宗派なりがね
ブッダはこういうこと言ってると言ってるので
原始仏教自体もそうやって伝わってきてるから
まあしょうないんでしょうねだって人の苦しみをなくすのが宗教ですから
どうしてもそういうふうに都合よくなっちゃうんでしょうねきっと
でもクラケはあくまでもブッダを信じてるんで
信じてるというかブッダのどういうことを言ってたか
ということを知りたいのであって
そういう解釈はどうでもいいんですよね
なんだけどそういう変でこりんな解釈が
巷に溢れてるようですね
あといろんなお坊さんがね
まあ正しいんですよこうやって人間は
そんな実態なんていうのはなくて
関係性の中で存在してると
関係がまず先にあって
そっから
仮の姿と言ったりするけど人間の
っていう
その結び目ですよね
そして存在
存在している
だから時には
娘にとっての父親である時には生徒にとって
ブッダの教えの探求
生徒から見たこの人は教師であり
その時によって立場が変わると教師になることもあれば
でもその点がね教師になったり親になったり
そういうことじゃないんですよね
本人はどういう理解なのか
わかりやすく説明をしたことによってそういう
おかしな
つじつまの話になっているのかは
どういう問題なのかわかんないけどみんなこうやっているんだけど
その時によって父親であったり
お兄さんになったり教師になったりっていう
その人の役柄だもん職種だな
人から見たその
立場が変わるとかじゃなくて
関係性の結び目ですから
確かね弟からしてみたらお兄さん
結び目ってからしろ父親そうやって
無数にある結び目があるわけですよね
その日食べた食べ物も関係性があります
昨日かかってきた電話の人も関係性があります
その人が住んでる家
あそこに住んでる
衣服とかいろんな関係性がありますね
こういう場合ね
住所とかもその人の説明にはなるんだけど
これって概念ですよね
人があくまで考えてる概念
これも情報的なことも
関係性と言っていいのかな
ブッダが言うところの
そこは疑問ですが今回は
ただに置いとくとして
いろんなネットワーク
関係性の結び目であるっていうだけの話で
つまりそれだけで成り立ってるわけで
その実態は何か確立したものがあるんじゃなくて
実態と認識の関係
いろんな関係性の中で
一瞬起きるとってみたら
確かにその人として見えるけど
常に流動的に変化してるから
実態なんて存在しないんだっていうことであって
時にはお兄さんになるとかそういうことではないんですね
あと最後ついでに話しちゃいますけど
クラキは今まで言ってきました
ストーブなんて存在しないんだと
人間が定義付けして
これはストーブだとそういう概念を作り
人間の頭にストーブってもあるだけで
言ってみれば物
他の物と区別された
これも実態がないってことと繋がるのかな
これはストーブだみたいなものはないわけです
そうですね関係性によって成り立つという意味では
人間の頭が
なんとなくこれ見てストーブだと
これはクーラーだと
言ってるだけであり
じゃあどこからどこまでがストーブなんだ
これは
灯油が入ってなければストーブじゃないのかとか
そういう話になるわけであって
ブッダが言ってる消耗無化っていうのは
ストーブは存在してるんだけど
それは因縁によって
縁起によって存在してる
これは空であると
実態自体はないんだと
これ同じことのよう
結局根本的には同じことなんだろうけど
言い方が違うだけであって
でもちょっと違うことを言ってるような気もするんですよね
クラゲが言ってるのは実態は因縁じゃなくて
そもそも人間が定義付けしてるだけで
人間が作ったもんだし
人間が作ってこれをストーブと呼んでるだけで
ストーブは存在するとかいったところで
存在してるのかって話で
でもブッダが言ってるのは
もっと抽象的なことなんでね
ただその抽象的なことなのにもかかわらず
ブッダは本当にそういうふうに
解いちゃうのかわかんないけど
そこから人間の苦しみを取ろうとしたり
するわけですよね
それはちょっとまた棚に置いとくとして
ブッダが言ってるのは実態がないということですね
結局はストーブがないということを言おうとしてるわけですけど
両者同じなのは
存在してないとかいうことを言ってるわけじゃないんですね
そこに物があるのはあるんだけど
ストーブだと認識してるのは人間だっていうだけで
ブッダが言う実態はないっていうのは
本質がないってことですね
いくら探して掘り下げていっても本質はない
あるように見えて
存在してるように見えて
存在はしてるんだけど
かっこたる他のものとは分離された
そういった単体のものではない
人間は同じなのかな
それで人間もどこからどこまでは人間なのか
境目なんていうのはないんだと
だから色即是空って言いますけど
あとは空とは宇宙のことであり
いかにも宗教っぽくな話になってしまうんだけど
自分でもあると
物理学でもそういった考え方はありますけど
だから境目なんてないんだと
真っ黒な視点であれば
人間ってのは宇宙なんだと
いうことになるわけですよね
普段こんなふうな考え方はしないと思いますけど
それではしたっけ
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