引きこもりと直感的理解
今回話す話は、必然なのかもしれないけど、引きこもりになるってことは人と変わらなくなるんで。
山の中で暮らしてるのとさほど変わらなくて、浮世離れした状態なんですね。
こうか不こうか、大げさな言い方すると悟ってしまうような、言い過ぎかもしれないけど、そういうことがあって。
引きこもりになる前からですね、これも自分の性格的なことなんだろうけど、でもね、もともと宗教に入ってて。
なので、そういった意味で至極当然なのかもしれないですけど。
今回いろんなことを気づいたという、まあそういう話になってますが。
まあそんなことで、早速ですが、学生時代からいろいろ、性格的なこともあってね。
別に瞑想してるわけでもないのに、後にね、ブッダが言ったこと、その教えを知ると、
あ、それって経験的にわかってるなと、気づいてきたことだなと気づくことがあるんですよ。
まあもちろんそんな、ブッダですよ、お呼びにもつかないし、みんな同じことを悟ったとはとても思わないけども。
とは思うんですが、まあもちろんね、日本人ですから、仏教の根幹となることはもともと入ってるから、
それなしにはもちろん気づかなかっただろうし。
今朝もね、いつかこれ気づいてたなと思ったのが、本当に感覚的なことではあるんだけど、言語が難しいんですけど、
最近よく話してる、修行無常ですね。あらゆるものは変化してる。
ということで、食事中はですね、そうなんですよね、以前から思ってたことなんだけど、
集中して味に集中しようってことをやってたらもう極めに極められてしまい、
この味を感知する。そして、美味しいと感じて脳内でドボミンが出てくる。
これって、それをしてる最中って、もちろん味を感じてはいるんですけど、あまり意識してないんですよね。
だから、もっとね、美味しく味わえてるんだとしたら、美味しく味わえてるっていう感覚をもっと意識化したいなと思うと、
これはいつも話してる通り、そうすると集中力が切れるわけですよ。
しっかり味わえてることを意識しようとするとダメなんですね。
だからつまり、味とか、その快感とかって、気づいたときがなくなってる。
で、この連続なんですよ。一時として、意識化できないのは愚か、気づいたらもう過去になってしまってるんですね。
これも諸行無常ってことなんですよ。常にこの世界のあらゆるものは変化してるっていう、そういう教えなんですよ。
で、これって言葉の世界の中では、つまり人間の理性の中ではなかなか分かりづらいことであって、
クラゲの場合はそうやって感覚的に気づいて、逆にそれが言語化されて、後からぶっ飛ばす、やっていったんだと気づくことはありますね。
あとも軽く、これはもう10年以上前なんですけど、
ここを卒業したあたりで、軽く諸行無常っていう言葉に出会って、あらゆるものは変化するんだと、そこからいろんなことが気づくんですね。
で、どうしてそう思ったのか覚えてないけど、あらゆるものは変化してるんなら、
完全なものはなんてないんだなって、つまり神なんていないんだなって気づくんですね。
完全なものはなんてないんだなって、つまり神なんていないんだなって気づくんですよ。
で、そのうちに数学で不完全性定理っていう定理があって、神はいないと証明されてた。
しかもこれ最近わかったんだけど、ブッダが一切皆無という言葉で、
一切皆無。この句はね。
一切皆無って、諸行無常の言葉と違って、苦しむのって動物だけ、あるいは人間だけですよね。
人間的な苦しみっていう意味では。そういう意味では、これ完全という意味で取られててもいいと思うんだけど、
全てのは不関連だということ。だとしたらやっぱりブッダも不関連だと言ってるし、
あと全てのものは関係性に言うと成り立つっていうことなんだけど、諸法無我は。
それもクラー家が直感的に気づいたことなんですね。
そういうことに気づくのって、自分の中で探求してるっていうこともあれば、でもやっぱり直感的になんですね。
気づくときって。点と点が結びついたような感じで。
自分の経験が何かを気づかせるんですよね。もしくは何かに集中して瞑想してるようなことが続いた場合。
瞑想してるわけのと結構同じことなんでしょうね。
でもそこまで集中するって大抵の人ないんだろうけど。
しかも集中してるときにいろいろ自分なりの施策があるんでしょうね。だからそうやって気づくんだと思うんですよ。
自分の精神という。だからブッダが菩提寺の前で悟ったのと同じように言ったら本当にこがましいんだけど、
そういう悟りとは違うんだけど、いろいろ気づくことがあるんですよ。
だから自分の精神と向き合ってるようなことなんですね。食事でさえそうですから。
あと行動の一つ一つとか。
ただもう幼少期から何か気づいてたなんてこともあるのかもしれません。
これだけは生物学的に考えてたんですけどね。
自分なんて存在しないだろうということは前のエピソードで話しましたが、
これ何かをブッダは処方無我という言葉で言ってるんですね。
だから自分の精神と向き合ってるような。
自己と他者の関係性
こうやってね、自分で気づいたら、気づいたらというか、
ああ、こうだよなって直感的に気づいたこと。
あとでああ、仏教でそんな教えがあるんだって気づくことが何度もありました。
本当に何度も気づくことがあって、
だから人間には価値観があるけど、人間は物でしかないし、
そもそも物と人を区別してるのは人間なだけで、
これも最近言われてるんですけど、
人間の価値観は人間の価値観だけで、
人間の価値観は人間の価値観だけで、
人間の価値観は人間の価値観だけで、
区別してるのは人間なだけで、
これも最近有名論ってやるのがわかって、
これは仏教じゃないんだけど、
これもそうだし、
で、後にわかるんだけど、
ブッダもね、目の前にあるペンと母親と、
価値観で判断してどっちのが大事だ大事じゃないって話してるけど、
それとの違いしかないんだと。
気付いてましたね。
別に自分がすごいと思ったことは大事でもなくて、
とにかく不思議だなと思うんですよね。
あと、宗教やってて思ったのは、
この世界に真理なんてないんだなと。
これだって諸行無常ってそういうことですから。
荒れるものが変化してるってことは。
真理なんてないと。
まあはっきりね、
ブッダの言うことが真理だという人もいたり、
はっきり言うと真理がないと、
仏教では言われてるわけではないけど、
ただ不完全性定理で真理がないと言われてますから。
あと、
楽しいことがあるから苦しいことがあるんだな、
あるいは楽しみを求めるから苦しいことがあるんだな、
これなんかもね、
これは一切回復っていう考え方ですから。
あと、
おそらく、
この世界の真実を、
事実を言い表したら、
すごい冷たいことなんだろうなと思ったけど、
やっぱりブッダの教えもそうなんですよね。
そのことも気づいてました。
中学、高校生のあたりからかな、
物事って見る側面によって、
全く別物になると、
これはこういう、頭でわかってる人がいると思うんだけど、
そういうことをすごい実感してた時があるんですよ、物事って。
でも大抵の人は、見る側面によって違うけれども、
でも何か絶対的な、
これはこういうもんだっていうものがあると信じてるんだろうけど、
見る側面によって全く別物になると思ってたんだけど、
この考え方っていうのは、
この考え方っていうのは仏教でいう、
仏教でというか、
ブッダが言うところの、
これ諸法無我ですね。
あれも因縁できてるっていう、
与えられた条件によって、
違うという、
実態はなくて、
その時のその時のその状況で、
変わってしまうっていう、
そういうことをブッダは言ってるわけですよ。
あと宗教やってる時から気づいたけど、
人間である以上、
自我がゼロになっていればしないっていう、
これをブッダは悟ったとか言うんだけど、
これも不完全性定理で言う通り、
もう絶対的にこれ、
全くなくなるっていうことではないんですね。
そういうことはあり得ないんですよ。
そのこともわかってました。
あとこの世界っていうのは矛盾でできてるな。
人間も当然、
矛盾でできてるな。
ってことはある時から、
気づいて、
もう完全に矛盾でできてると、
もうそう思ったんですね。
で、これなんかも、
ブッダが言うところの、
諸法無我ですね。
単体で存在してるものはないと、
あれも関係性でできてる。
だからどうしても矛盾が生じてしまうし、
あとは不完全性定理でも、
この考えが絶対だと言えるようなものはなくて、
必ずどっかで矛盾は生じてしまうという教えなんですね。
矛盾がないように見えてもどっかでしょ。
矛盾は必ずあるんだと。
あとですね、
中立は、
中立というのは、
何だかんだしてバランスをとっているようにできてるし、
それが人間にとって一番、
ある意味いい状態なのかなと思ってたら、
仏教でも中庸と言われてると、
ブッダが言ってるということは、
前に入っていた宗教の本で書いてありました。
あとね、食事中、
お腹が空いてると、
お腹が空いてると、
お腹が空いてると、
お腹が空いてると、
お腹が空いてると、
お腹が空いてると、
どうもね、
人間は食欲があるはずなのに、
気づいたら、
お腹がいっぱいになって、もういいわとなってる。
これがどうも受け入れられないというか、理解できなくて。
その疑問を持つこと自体がね、
普通は持たないだろうし、
これも仏教的な説明に使われるんですよ、今みたいなことは。
自分なんて存在しなくて、あるのは自我だけだっていうのも、
まさに最近聞きましたし、これも最近聞きました。
苦しくなくなろうとするのが、
不幸の始まりだっていうのも、
このクランキーもわかってましたし。
それでは、この辺で。
それでは、したっけ。