輪廻転生とその哲学
今回も人生哲学の話になりますが、以前話した通り、すごい理屈だなと思うんだけど、輪廻転生、仏教であるというものとないものと言っているものもあると思うんだけど、
その宗派によっては、因果応報だから、誰かが亡くなっても、その人の生きていた頃の影響というのは他のところにあって、
誰かがその人の命を感じる、ある構想の光を見たとか、これでも生まれ変わりなんだとか、それが輪廻転生だと考えているみたいで、
いやー、ちょっと驚いたんだけど、その理屈で輪廻転生があると言ってしまえるのかと思って。なんですけどね、ちょっと思ったんですよ、今日は。
穴勝ちおかしい?まあその宗教のあれはわかんないけど、穴勝ちでもそういった仏教の輪廻転生って、穴勝ちおかしい場合でない可能性もあるなと。
いやいや、でもその輪廻転生なんかもちろん信じてませんよ、倉木は。
でも物によってはその魂が来世もあるっていうことばかり言ってるわけじゃない。
まあそれを言ったら輪廻転生の定義とずれてるだろって思うんだけど、
もちろんね、この意識はもう死んでらんなくなるんだけど、ただ、とても面白いなと思うのは、
これ倉木なりの論理の立て方なんだけど、
ブッダは自分なんてものはないと言いました。だから、要は魂なんてものはないわけです。
なのに輪廻転生をする?っていう発想をもしするのであればですよ。
逆にそれならまだ可能性はあるんじゃないかと思って、魂が来世に行くとか言ったら、これはもう本当にただのオカルトでしかないけど。
例えばあの日本人ならちょっと馴染み深い考えだと思うんだけど、
この人間の体もね、土になり、木は根を張ってで水ができて、
で、水は蒸発して空、空気になりで空になり、また雨を降らしてみたいな。
あらゆるものは循環していくみたいな考え。
それも魂なんてものはない。人間はこの体だけなんだと考えるからこそ、
なるほど、ある意味万物流転してるというか、いかにもスピリチュアルっぽい話になって、
やっぱりこの話あんまりしたくなかったけど。
別にそんな信じるとか信じないとかじゃなくて、
仏教によってはそうやってね、うちらが思っている輪廻転生とはまた違うような教えだけど、
輪廻転生といえば魂が、魂というか意識がね、また別のところで子供として生まれて、
っていうイメージだから多分ごっちゃになってるんでしょうね、そこらへんね。
本当にそうやって真を継いだこと、
いう構想もいるんだろうけど、
それとオカルトと混じられてしまうんですね。
自己と自我の探究
まあその人自身でもね、それを輪廻転生と言ってる時点でどうかとは思うけど、
もう一度言いますよ、
魂がないのに輪廻転生、するわけないだろうと思うけど、
逆にそれだったら、ある意味である輪廻転生、定義は取れてくるんだけど、
まあこれはな、いったもん勝ちというかね、
そういうふうに言えばそうだろうし、
いろんなものはルーティンしていくという意味では。
でもね、単にオカルトじゃなくてそうやって深い意味で、
人間っていうのはそういうふうになってるんだと。
言ってる人もいるってことですね。
自分は魂だという考え方からしたらね、
クラケはもともと輪廻転生を宗教で信じてて、
でも魂がないとなれば輪廻転生なんかあり得ないんだけど、
でも今言った諸法無我、
ウータの諸法無我からしてみたらね、そもそも、
自分がいると思ってるけどこれは自我であり、
単なる自我であり、
この時点でなかなか頭で理解しようとしてもできない。
っていうことは輪廻転生もね、そういう意味じゃ、
もちろんその魂とかじゃない輪廻転生、
あるかどうかっていうのはなかなか計り知れるものではない。
もちろんね、この意識は死んだらなくなるんだけど、
痛みもかやみもなくなるんだけど、
でもそもそもがね、生きてる時点でこれ自我が、
自分ってものを作り出してしまって感じがしてるから、
頭で考えてもそこら辺はわかんないと思うんですよね。
それではしたっけ。