道徳と自尊心の関係
今回は道徳の恐怖ということを話していきたいと思うんですが、まず その前にですね
人間が誰かに負けていると考えてしまう場合
負けている場合って言った方がいいですね、負けている場合
それじゃあ 自分というものを保てないで、自分という基盤をね
人間は保ちたくなるわけです、そういう時。そうすると
ここでは勝っている
試合で負けたけども、相手は思いやる気持ちは勝っているとか
冷説に欠けることもない
とか
人間的には勝ってるとか 自分なりの基準で
相手に勝とうとするんですね これが擦り替わってしまうことがあるわけです
道徳とか正義感とか、例えば
スポーツマンシップには則っているとか だから自分たちは素晴らしいとか
相手は勝つことばかり競争心ばかりだけど自分たちは献身的であり
相手は物ばかりの心があると だからそういう面では勝ってるから別にいいんだと
それでバランスを取ろうとするんだけど どうでしょうかね
道徳はこんなことに使われて
道徳
まあ基本的に持ってた方がいいかもしれないけど いいことばかりじゃないですよね
正義感なんかも、これを正義感って呼んでいいんでしょうかね こうやって何かに負けている場合
道徳というものを持ち出して相手に勝とうとするのは人間なんですね
こういった道徳正義感に関しては
相手はないけど自分は勝ち悪い だから自分たちも負けていないと
と思う材料になってしまうんですね
なんと 醜いことがあっても
誰でもこういうことは起こり得るわけです 無意識のうちにこういうことをしてしまいますから
ということはですよ すごいこの人献身的だなぁって見えてても
何かの部分でコンプレックスがあって 例えばなんだろうなぁ
怪我してしまい部活ができないとか いう場合
なんとか取り戻そうとしたり あるいは自分のライバル視している人に勝とうとしたりして
こうする でクラゲはね学生時代からこういうことってあるなぁと思っていました
トモロコ氏なんか見てたらねそう思いましたね
高校受験で インフルエンザになって落ちて
今の高校行って大学行って 今の仕事に就いて
これこの自分を制度化したい この世界線で良かったと思いたい
だから あいつら
の方が優秀だけれども自分は宗教に入って献身的で ボランティアなんかも頑張ってると
っていう自分なりの基準をね作ってそれは なおかつ道徳
にのっとった生き方 をしてるからあいつらにも負けていない
ここまで言語化できてないけど そんな風に理解はしていましたね
利己的な人間の本質
多分そういうことなんだろうと だから表面上を見てもね
本当にこれは単に道徳でやっているのか どうなのかわからないですね ちなみに
人助けをしている人 本当に相手のことだけを思ってやってるか
って言うと クラキはね思うのは
人間って利己的な生き物ですから あり得ないんじゃないかなと思う
で人助けしている場合はの話ですけど
人間って利己的ですから ですからね
そうやって人助けしてもですね
なすべきことをしていると 道徳にかなったことをしているとも言ってもいいかもしれないけど
まあ正義感でもいいけど にかなったことをしている
するために助けているわけですよね なすべきことを
なそうとして助けている っていう意味ではやっぱりね
うーん これ結局
どんなに人助けしてても 自分のためなんですね
まあだから人間って 正義を貫きたい
っていう本能はあるし それは利己的な欲求からくるものだし
あと正義を利用して相手に 勝ってると思い込むしどうでしょうかね
まあそんな話でした それではお疲れ様でしたっけ