自分の存在についての考察
最近、人生哲学への音で、別に宗教寺みたいな話じゃないんですけど
仏の言った諸行無常、諸無我の音を話してきて、今日は改めてお話したいんですけど
やっぱり自分というものが存在する、その単体で存在して、単体で存在するということはつまり、関係すると
周りと切り離されたかもながら、やっぱりこういう考えって
もう日本人が古からつないでいる仏教的な考えとも、キリスト教とも違って、ホント
ちょっとぶっ飛んでるというかね。全然それでも言い過ぎな表現ではなくて
あの
まあありえないわけですよ。そもそも普段
自分というものは当たり前だろうし、だから還元すると
自分がいる
そういった切り離された、外界とは切り離された
何の影響も受けない単体のものがある、そういうことですからね。自分がいると思い込んでいると
それってどういうことかってあんまり考え、あんまりっていうか、考えたことないと思うんですよ
それって実はすごいヤバいことなんですね。その考えって
あくまでも違うからね。この体を自分だと考えるならまだいいんだけど
実は突飛だし、まあ
とんでもない考え方なわけですよ
皆さん分かると思うんですよ、感覚的に
まあ現代だと物理学の素養がなくたって
周りから影響を受けてるってそういう実感もあるだろうし
特に日本人って仏教的だから 必ず
その理解ってあると思うし。で、いつも言ってる諸行無常ってことは
普遍なものはないってこと。諸法無我も同じことです。普遍的なものはないと
でもう一つ言えるのは
実体ってものはないってことですね。これも全く同義です。別のこと言ってるんで。もう一つなんだけど
これと同義なのが因果っていうのができてる。 暗きもいまだにこの意味は分かんないけど
ただキリスト教の考えとは全く違うわけですね
キリスト教っていうのはね、神が
今起きてる事実を全部ね 起こしてるという
まあ宗派にもよるだろうけど だから神の啓示だーっつってね
衝動的に何かやったりするわけじゃないですか 選挙に出馬したり
まあそんなの一部だろうけど 思い立ったら吉日ってところの差わけじゃないですよね
まあそりゃいいわ いいですけど
仏教的っていうとなんか宗教寺見てるけど 因果これはまあでも
まあ現代人のほとんどがでも こういう感覚だと思うんですよ
何かの事象の背景にはそれを起こす 要因があると
風がひいたとしたら風がひいた何か理由があると
先生に怒られたら
自分が何か悪いことをしたわけでもなくても
別にこれ医学的に捉えたもあれなんですよ いいんですよ
脳科学的に捉えたもんね 脳の中でそういう怒りを出す物質が出たから起こっていると
必ず原因があるわけですね っていう理解の仕方でいいと思うんだけど
因果出てきてると これを全否定するような考え方なんですよね
自分があるって考えるのは だから現代人の考え方
からしても突飛でも
程があるっていうね さっき言ったキリスト教の考えって日本人からしてみたらね
因果の関係と現代の理解
全く理解できないと思うんですよ もうすでに
軍医論って言うんだけど もうすでに全てが決められていて
まあそういうことって聞いたことあると思うんですけど そういう考えの人っていますからね
ちょっと日本人からしてみたらわかんないと思うんですよ こうやって自分で体を操作してるじゃないか 生きたように生きてるじゃないかと思うじゃないですか
それと同じレベルで それよりもっとですね
とんでもないこと言ってるわけですよ 現在物理学の観点からも
さっき言ったその因果の ちょっと自分でもよくわかんないけど
うちらが思っているような常識が 通用しなくなっちゃうからね
だから自分に振りかかっている出来事は
自分が見ている世界ということですけど 因果関係なんかで成り立ってない
自分は単体で 存在してるから
無理って言葉がそうなんだけど 仏教的に言うと
因果の関係から離れていて 永遠普遍のこと 真理
真理を求めるってこと自体も同じことだってことですね
永遠普遍ですよね まあだから自分の周りだけ
人間の周りだけ?
なんか軸が歪んでるようなイメージを 暗くは持ったんだけど
因果関係が当たらない
だから自分にはどういう風に出来事がやってくるのか イメージがつかないけれども
まあとにかく自分がいると
考えるってことは本当にとんでもないことなんですね
あるのは心にあるからだ
脳も含め 心ってのはあくまでも現象ですから
その奥に魂があると言い出したら宗教 ただの宗教なんで
そんなのはクラキは知らないけど ここにあるのはこの体であり
その奥に自分なんて探してもやっぱり 自分って考えるはずは
本当にヤバいってことですね それはしたっけ