死後の世界への疑問
今回の倉木の話は、これも疑問なんだけど、前回に引き続き。
これは割と小学生なんかでもね、子供でもこういう疑問に応じとっていると思うんだけど。
うーん、割とまともな疑問だと思うんだけど、
死後の世界があると思ってるなら、今生きることに執着しなくていいんじゃないかと思ってしまうんですよね。
この命別に亡くなったって、死後の世界があるんだから。
こんな話をしていきたいんですが、多分ゲームだってね、RPGで何体もいると分かったら大事にしないでしょ。
それと同じですよね。
まあ、宗教やってる人からしてみたら、コンデで生きる目的があって、来世とコンデで違う。
死後の世界とコンデでは、いろいろな違いがあるのも分かるけど。
ただ、多かたの、死後の世界なんとなくあると思っている人にとってみれば、
一番大事なところは、命が亡くなっても、もっと本質な部分は続くっていう、それぐらいのことだと思うんですよ、多くの人の理解の仕方。
だとしたらですよ。
それ自体に意味があると思うんですよね。死後の世界があるっていう考え方の。
でも、だとしたらですよ。
要は人間は亡くなって、そうやって意識がなくなることを恐れているのがあるから。
それの今の延長線があって、形を変えるという、そういう世界がある。
イメージとしては、だから延長線っていうイメージが正しいと思うんですよ。
だとしたら、こんな必死こいてね、なんとか生きるために頑張って、やる必要もないし、人生誰でも辛くなることはあると思うけど、
自分を全うする必要もないという発想でいいだろうし。
古代人の視点
だから、もっと昔のホモサピエンスの前の人類の人たちからしてみたら、
死後の世界があるなんて、バカバカしいと思うと思うんですよ。
未来の現代人を見て。
うちらは必死にね、1日1日生きてるわけですよね。
その人たちからしてみたら、そういうことですよね。
現代人とは違い。
未来の人たちも考えてる余裕もないぐらい、1日1日必死ですよ。
まあ都合のいい考え方だと思うだろうね。
でも当時の人たちも、死ってものは意識できてただろうし、他の動物と違って。
クラキは他の動物も死ってものはわかってるんじゃないかっていう持論はあるんだけど。
よくそんなこと考えてる余裕があるなっていう感じかな、なんだろうな、きっと。
もしね、原始時代の人とかニアンデルタル人がいたら、そういうと思いますね。
うちらはこうやって生き延びるために、生き延びるために飼料してるとかそんな感覚さえないかもしれないけど、必死すぎて。
生き延びるためにこうやって毎日頑張ってるんだと。
死後の世界何を優柔ながらと言ってるんだと。
死んだら終わりじゃないかと多分言うと思うんですよ。
なんかその途中のまともな、より現実的な感覚な気がするんだよな。
死後の世界なんてものを作り出して、それを信じる余裕ができたのは幸せなことなのかもしれないですけどね。
まあ原始人が聞いたらびっくりするだろうね。
笑い転げるかもしれないし、何を言ってるんだとあんたたちは。
死後の世界なんてあるんだろ。
わしらはこんな必死こいてしがみついて何とか生きていこうとしないし、あんたたちも何で今生きてるんだと言うだろうね。
それがまともな感覚だと思います。
それではしたっけ。