今回は、倉田百三の手紙を集めた『青春の息の痕』
代表作である『出家とその弟子』が生み出される前後、彼が22歳から27歳の頃に友人と交わした手紙集。彼の小説や随筆もいいですが、手紙にこそ滲み出るありのままの姿があります。人は病を背負い、身内の死に嘆き、その中で育まれるものは何なのか。
一緒に味わいたいと思います。
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サマリー
本エピソードでは、倉田百三の若き日々の苦悩と成長を綴った手紙集『青春の息の痕』が取り上げられています。病や身内の死といった過酷な現実の中でも、人生を呪うことなく、むしろ感謝すべきものとして捉えようとする倉田の姿が、友人との手紙を通して描かれます。特に、愛の本質は犠牲にあるという深い洞察や、自己のエゴを乗り越えようとする葛藤は、読者に人生の困難に立ち向かうための視点を与えてくれます。
「青春の息の痕」とその背景
こんにちは。今日はですね、前回引き続き、倉田百三さんなんですけど、「青春の息の痕」っていう本がありまして、これを扱いたいと思っております。
で、これは、「青春の息の痕」っていうのは、彼が青春時代に感じていた苦悩のため息の痕、ないしは涙の痕みたいなものなんですよ。
で、これはね、1914年、彼が22歳の時から27歳までの5年間ですね、間に書いた手紙が一冊になってるんですよ。
22歳っていうのは、ちょうど彼が欠格を患って、一校を退学して地元広島の小原市に帰ってきたっていう年なんですよ。
ちょうどその時の思いが書かれてあるし、出家とその弟子を書いたのは26歳だったんで、その前後の話ってことも手紙の中に含まれているという感じなんですね。
この手紙のやり取りしているのが2人いて、久保雅雄さんという方と久保健さんという方で、これどっちもたまたま久保なんですけれども、親戚ではなくて、たまたま苗字が同じだったという方で、この2名との手紙が収録されているんですね。
このお二人がまたすごいね、倉田役堂さんと気が合ったんだと思うんですよ。
久保雅雄さんってトルストイの本とか、アッシーのセイ・フランチェスコのこととかを翻訳したり、それについて文章を書いたりしてる方なんですよ。
久保健さんも狂弁を取ってたしっていうので、たぶんその地下心だと思います、世界観がね。
で、この手紙に、倉田役堂はやっぱり支えられたんだっていうことが書いてある。
で、その友情が立派な友情で、本当にこれに支えられてきたんだっていう、十分な青春自体は。
で、この本を僕が読んだときに、本当に良かったですね。
倉田役堂のことをもっと知りたいと思って、他の作品とか、随筆とかね、随筆もちょっと有名な随筆があるんですよ。
愛と認識との出発とかね、あるんですけれども。
で、それも良かったんですが、やっぱね、手紙が一番いいですね。
小林秀夫がゴッホの手紙っていうのが、本当に真の告白文学なんだって言ってたのを思い出されるんですけれども、
やっぱり手紙とか日記とかって、他者に見せるように書いてないじゃないですか。
自分のため、ないしは特定のその人ためだけに打ち明けてるものだから、本当にありのままの姿が出てる。
倉田役堂を理解しようと思ったときにも、この手紙を読む方がありありと感じてきて、
良い。
僕やっぱ手紙と日記好きだなって、本当に感じるのは、こういうところなんだよな。
本当にその人の心の声が出てる。透明な、純粋な。
そこに胸を打たれますね。
病床からの手紙:苦痛と祈り
最初、序文があって、その序文を読むとね、
これ、手紙を書いたときから25年経って、これ本を出すことになったと。
当たり前だけど、当時はこれが本になることなんて思っても見ないときですよ。もちろん。出家とその出しすら書いてないから。
なんて書いてあるかと言うとね、
これすごくないですか。
25年も前って、全然まだまだ青かったなって感じじゃないですか。
でもこの手紙を読んでると、この純粋さに本当に自分でも心を打たれて、今の自分と比べると自分は墜落したんじゃないかって思った。
すごいですね。すごい。
よく本で、若いときの本が文庫本になるってことで、今の自分から見たら色々手を入れたくなるんだけれども、
まあでももう入れるわけにもいかないし、恥ずかしい思いもあるけれどもこれで出版しますっていうね、後書きとか序文とか見るのよく見るんですよ。
でもなんか、でもその通りだと思うんだけれども、そうじゃないっていうね。
こう終わりたいですね。
なんか捌いてないもんね。
つい過去の自分を捌いて、今の自分より下に見てというかね、未熟なものとして見て捌きたくなるものがね、自分の間違いに沸き起こりそうなものだけど。
これもうこの一文だけで倉田役堂さんの魅力が出てますよね。
いやーすごい。本当にすごい。
こういう言葉を言えるってすごいな。
まあそしたらちょっと読んでいきましょうかね。
じゃあまず最初の方から順番に読んでいきますね。
いきますよ、読みますね。
ちょっともう一言だけですけれども、えっとね、あれだな。
俺まずね、手術をね、何回か2回していて、私はあさってまた3度目の手術を受けなければならないことになりましたっていうところから入るんですよ、この手紙が。
で、その手術っていうのがもう本当に大変だったと。
で、それでこの前の手術の後72日間の日々、絶えし飲んだ苦痛はまた虚しくなりました。
私はまた新しき忍耐を要求せられましたって書いてるんですよ。
うーんっていうね。
うーん、まあそういう状況にいる。
人生への感謝と宗教的境地への憧れ
で、その中でね、こんな言葉が出てくるんですよ。
どうぞ、私のために祈ってください。
言葉が出てくるんですよ。
うーん、すごい。
でね、この手紙の最後の部分にね、またちょっとこれ、何て書いてあるかっていうとね。
まことに私の周囲には哀れむべき人々がたくさんおります。
それらの病友、病友ってあれね、病院の友達ね、病友の中には、私の静かな愛の言葉によって、わずかに医者を感じているものもあります。
医者、慰めですね。
を感じているものもあります。
哀れではありませんか。
昨夜も、私の隣の隣の部屋には、13歳になる少年で、汽車に挟まれて足をくじき、切断された患者が入院しました。
その悲鳴はよもすがら、私の眠りを破りました。
その父親は気が動転して、一時発狂状態にありました。
その父親のごとき境遇にあって、愛じの苦痛を目としつつ、愛する子供の苦痛を見つつ、いかにして人生を感謝することができましょうか。
しかも、人生は美であり、調和であり、感謝であると信ずることのできる宗教的境地、それを私は憧れ求めます。
っていうんですね。
13歳の子供で足を切断されたっていう子供が入院してきて、それに対して父親も発狂して。
こういう状況の中に、こういう現実の中に、いかにして人生を感謝することができましょうか。
できることなんて感謝することはできないと。
だけども、それでもなお、人生は美であり、調和であり、感謝であると信ずることのできる宗教的境地、それを私は憧れ求めます。
っていうんですね。
続き、死力を尽くして生き切るときに、運命を呼び覚まして、真の神の助けを受けることができるでしょう。
私はまだまだ絶望してはなりません。
今日は手術のことが心配で、気を落ち着けて手紙を書くことができません。
不安と恐怖と戦わねばなりません。
手術後はまた動かれなくなり、当分しみじみと手紙も書かれますまい。
また辛抱せねばなりません。
いつまでも、いつまでも、人生を愛して生みますまい。
生みますまいって、人生を愛し抜きたいと思いますってことですね。
っていうんですよ、手紙で。すごくないですか。
人生を呪えないという信念
私は人生を呪うことができません。これ、私の最新の恵みです。
これだから、この呪うことができないっていう、ある種の信仰って言っていいと思うんですけど、
これ自体も恵み、つまり、そういうふうに与えられたって。
これの1個前の手紙に、同じ言葉があるんですよ。
これ、ちょっと待ってね。今の手紙も久保県宛でしょ。
久保県さん宛で、前の手紙も久保県さん宛だな。
前の手紙もね、同じ言葉書いてあってね。ちょっと読みますけどね。
2度目の手術の時ですね。
手術後で今日は50日目なのに、まだなかなか言えそうにありません。
毎日痛い目をしのんで生きています。
歩行すると出血するので散歩もできません。
しかし県さん、私はこのような生活をしていますけれど、人生を呪う気には土台なれません。
それに反して、人生がある善逸な、積極的な幸福なものでなければならないという根本信念が、私の心の底に日に日に育っていくのです。
私は新人深くなります。
私はこのように病心なのですから、一生外ほとんど病院暮らしをせねばならぬかもしれません。
また、私の生涯は長いものではありますまい。
それにしても、私は私に許されたせいを楽しんで感謝して暮らしたいと思います。
って書いてあるんですよ。
すごくないですか。
これなんか僕はやっぱりここを読んで、すごく大事だなーって思ったのは、
こういう、なんで病気になったんだとか、一校退学して本当は自分はもっと学びたかったのに、なんで学べないんだとかね、
いろんなことがあるのに、それでもなお人生を呪うことはできませんって普通言えないじゃないですか。
それでもなお人生にある善逸的な積極的な幸福があるって言えないじゃないですか。
これ言えないがゆえに、そういうふうに進行すざるを得ない状況になってるんですよね。
あれは。そうしないと生きていけないんですね。
積極的な幸福なものでなければならないとの根本信念が私の心の底に日に日に育っていくのですって言うんですよ。
つまり彼はこの病気の実になって、絶望を感じるたびにこの進行が育っていくのを感じるのですって言っているんですよ。
この一文を読んでも、前回出見をその弟子の最後に扱った、進行ってどういうことか、信じるってどういうことかってことを考えるときに、
やっぱり絶望とか人生に幸福があるなんていうのはもう嘘だっていう、そんなことは信じられないっていう気持ちが強まれば強まるほど、
でもそう思わないともう生きていくことができないからそういうふうに信じていくってことが初めてスタートしていくんだっていう。
もちろんそういうふうに信じられなくて、自殺してしまうっていう人もいるんだと思います。
けれども倉田百造はそっちにはいかなかった。
彼を支えたのもやっぱり進行だったって。
すごいな。
言葉がとってもなんか、透き通ってる感じしません?
こういうふうに書いて、自分に言い聞かしているっていうところもあるのかもしれないですけどね。
こういう感じなんですよ、この手が。
なんか、いろんなことを塞がれている状況だからこそ、光が強く出るというか、入院中で病気中だからこその純度の高さなのかな。
いやーすごい、なんかこういう人が本当にいたんだっていう。
つい100年ぐらい前でしょ?
おじいちゃんと同い年かな?違うか、もっと前だな。
でもそれぐらいの人じゃないですか。
こういうふうに生きてる人がいるんだっていうね。
愛と許しへの祈り、心の聖地
もうちょっと別の手紙読んでみますね。
うーん、読みますよ。
この人の深い感動を抑えることができず、愛したい、許したいと涙をこぼして神に祈りました。
って書いてあるんですよ。
急にですよ、これだけ急に。
急にこういう言葉が出てくるんですよ、なんか。
いやーちょっとすごいな。
しかもこれこの手紙のちょっと前にね、
私はどうも周囲の出来事に心を乱されずに生活することはできません。
そして周囲が幸福でなくては私も幸福になれません。
って言うんですよ。
宮沢賢治と同じ言葉言ってると思ってね。
でもね、これ賢治の本まだ出てないからね。
賢治の本、賢治のこと知らないまだ、倉田役像は。
でも同じ言葉を言ってる。
私は私の心の奥に聖地を築きたい。
そしてそこに最後の魂のいこい場所を見出したいと存じます。
いやーすごいな。
本当に病気して入院して、この環境じゃなかったら
果たしてこの境地とかこの文章は生まれたんだろうかっていうのもやっぱり思いますよね。
なんか元気で大学に通ってやりたいことできて
バリバリ働いてみたいな
そういう道だったとしたら
この手紙のこの言葉っていうのが
果たして生まれたんだろうかとか
そうだよね。
自分の思い通りにならない、そして自分に苦しみが降りかかってくるっていうことに対して
それを恵みだと受け止められるかって相当難しいじゃないですか。
でも倉田百造さんのこういう文章を読むと
そういうことが可能なんだっていうことに
喜びを感じているのかな。
こういう本を読む喜びがあるのってそういうところなのかな。
視点を変換させてくれますよね。
愛の本質は犠牲
自分が苦しいなとか辛いなと思った
そこに飲まれているときに
そういう人を思い出すと。
本当にこうありたいですね。
こうありたい。
これ本当は苦しいときに読む本なのかもしれない。そういう意味では。
ちょっとまた別の手紙読んでみますね。
読みます。
愛は楽しいよりも苦しいものですね。
私は愛の中に含まれる犠牲というものをこの頃は深く感じます。
そして愛の必ず十字架になることを思わずに愛を語っていた愚かさを知りました。
愛の本質は犠牲です。
そして私はこの頃の多くの人々のように
何者も自分の欲しいものを捨てずに人を愛そうとしていたのでした。
そしてその結果は何人も愛することはできないのでした。
って書いてあるんですよ。
もう一回読みましょうか。
愛は楽しいよりも苦しいものですね。
私は愛の中に含まれる犠牲というものをこの頃は深く感じます。
そして愛の必ず十字架になることを思わずに愛を語っていた愚かさを知りました。
愛の本質は犠牲です。
そして私はこの頃の多くの人々のように
何者も自分の欲しいものを捨てずに人を愛そうとしていたのでした。
そしてその結果は何人も愛することはできないのでした。
いいですね。
なんかもっと聞いてみたくなる。
どういうことって感じ?
何が倉田百造さんにそれを言わしめているのかを
なるほど。
もうちょっと聞いてみたほうがいいかな。
なるほどな。
確かに。
看護師おきぬさんとの関係と愛の葛藤
これね。
倉田百造、これ病院の時におきぬさんっていう女性が現れてくるんですよ。
それで倉田百造は病院の看護師さんっていうのは全然機械的でね、人間味がないと。
なんだけれどもおきぬさんっていうこの方、クリスチャンの方なんですけれども
来た時に私が会ってた人はこの人だって思ったくらい
自分の大事な魂に触れてくれる人が現れてきてくれた。
彼女の純真さに心を打たれたんだってことが書いてあると。
でね、おきぬさんは倉田百造に恋をしてしまうんですね。
だけどもこの恋は周囲の人が望まない恋なんです。
で、倉田百造はこの人とくっつくと自分の親戚が悲しんでしまうと。
ここにいる病友の人たちも悲しんでしまうと。
で、おきぬさん、あなたは私に恋をするがゆえに本来あなたがすべき看護ってことももう遅かになってしまっていると。
それは良くないことですと。
そういう手紙もあるんですよ。別の本にその手紙が載ってあるんですけれども。
あるし、このおきぬさんについて久保さんに手紙も書いてるんですよ、そういうふうに。
でね、自分はこれ全部おぼろげながら話してるんですけど、
その周囲の人が悲しみ、周囲に平和がもたらされない恋というものは良くないものだと思っていますと。
だからあなたと一緒になることはできないのですと。
もし運命が私たちを結ばしてくれるんだったら、今離れてもきっと結び合わせてくれますと。
それは周囲の人も調和の状態で受け入れてくれる状態が来ると思いますと。
でも今はそうじゃないんですと。
という話が書いてあるんですよ。
でね、愛の本質は犠牲ですというのはね、
だからその周囲の人たちとか家族とかを犠牲にしてまで付き合ったらいいじゃないかということじゃないんですよ。
そうではなくて、これはエゴイズムなんですよ、やっぱり。
愛はエゴイズムを超えたところにあるんですよ。だから犠牲だって言ってるんですよ。
自分の思うがままにっていうことじゃない。その思いを犠牲にしなければならない、本当の愛っていうのは。
ってことが言いたいんですよ。
だからおきぬさんのことで言うと、おきぬさんあなたが果たさないといけないことは隣人愛でしょっていう。
その隣人愛っていうのは犠牲の上に成り立つのです。十字架の上に実現されるのです。
その十字架犠牲っていうのは、自分は本当は倉田役像と一緒に暮らしたいっていうその思いをあなたは捨てなさい。
そうじゃないと本当の意味での隣人愛は果たされないのですってことなんですよ。
ちょっと究極的なことを言ってますよね。
自己犠牲と愛の実践
かなり究極的ですよね。
でもこの手紙に書くってことは、相当つかぶられたんじゃないかなって。
そうですよ。
揺れに揺れて、ようやく自分でつかんだというか、境地というかね、やっぱりこれを選ぼう自分はみたいな感じで書いてるのかなとか、なんかそんな気がする。
この手紙のもうちょっと飛んだところに、ちょっとこんな文章あるんですよ。読みますね。
自らの欲しいものをごとごとく神の祭壇に捧げずには、愛の実行は終わりあるものとして完成せられないように見えます。
そこにキリストの十字架はあるのでしょう。自ら一度死なずに人を愛することはできないように思われます。
これ自ら一度死なずにっていうのは、肉体的に死ぬっていう意味ではなくて、さっきのエゴを殺すってことですよ。
その思いを一度殺さなければ人を愛することはできないように思われます。
自らの欲しいものをごとごとく神の祭壇に捧げずには、愛の実行は終わりあるものとして完成せられないように見えます。
このような平凡なことさえ、私はしみじみとはこれまでわからずにいたのでした。
私は十字架を追わずに人を愛そうとは思いますまい。
けれど、何よりも苦しいのは、私の心の底にある美的な欲求が十字架に釘付けられる時です。
私はどうしても、今私の住んでいる部屋を美しいと満足することはできません。
けれど、父母を愛するためには、私の住む場所を私の家の外に求めてはいけません。
私は、私の来訪を喜ぶ二つのファミリーに、そのファミリーが美的な空気を持っていないために、
口実を作って寄らずに帰りました。そして恨まれました。
これちょっとわかりにくいと思うんですけれども、どういうことかって言うとね、
二つのファミリーっていうのは、父母と妹のことなんですよ。
口実を作って、その家族のもとに寄らずに帰りましたって言ってるんですね。
だからね、本当は会う方がいいんだとは思ってるんだけれども、
会いたくないんですよ。自分はね。
だから、本当は会った方がいいんだろうけれども、自分は会いたくないと。
だから本当の愛ってことを考えるときに、自分の会いたくないっていうことさえも一度殺さないと、
本当に愛を実現するってことはできない。
だから自分は、さっき言った、本当の愛っていうのは犠牲の上に立つっていう、
自分は一度、自分の欲しいものはことごとく祭壇に捧げないといけないはずなのに、
そのことを頭ではわかっているんだけれども、自分は実行することがなかなかできないんだってことが書かれてあるんですよ。
ここに。
これですよね。
別の手紙にもね、性欲っていうのはね、結局やっぱり自分としては良くないものだと思うって書いてあるんですよ。
性欲のない関係性っていうことが本当の愛なんじゃないかって自分はやっぱり思ってますって言うんですよ。
それは倉田百相の考えながらそれでいいんですけれども、
本当はそういう、エゴイズムを超えた愛、犠牲という愛に行きたいんだけれども、
でも倉田百相は、別にやっぱりコロナと子供を作るし、
頭ではわかってるんだけどなかなか実行できないっていう人なんですよ。
それが、出家の弟子の新乱を生ませてるわけなんですよ。
前乱の、最後まで自分の感じているものを手放さなかった姿勢を描いた人だよな、この人はとか思いながら。
なるほどなるほど。
成熟と葛藤の深まり
でも、この愛が犠牲の上に立つ、愛の本質は犠牲なのですって、ここまで見通しているっていう宗教的ある感覚はすごいですね。
だって普通の人はそんなこと考えないから。
でもあれですね、自分の身に起こることで、ここまで考えてというか、
なんかすごく悩んだり、精一杯生きたんだなっていうのが、すごく伝わってきますね。
本当だ。青春の息の跡って本当はその通りですね。
いやー、だから改めて今あれだな、これ話しながら改めて実感したんだが、前回の出家とその弟子でも話したけれども、
こういう本当に成人のようになっていく人っていうか、
人間って成熟するとどんどん生きやすくなってくるって僕は思っていたんだけれども、
実は抱える葛藤っていうのがもっと深くなってくるっていうね。
こういうことが本当に成熟していってるってことなんじゃないかっていうね。
それを感じますね。だってこんなことで悩まないもん、普通の人は。
なんか本当に目を逸らさずに直面していく器が大きくなる。
なんかそういうことなのかって思いますね、成熟していくって。
だから一個一個直面していっちゃうというか、せざるを得ないというか。
そうなんですよ。
ちょっと別の手紙読みましょうかね。
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