今回は、倉田百三の戯曲『出家とその弟子』
本書は、大正時代に大ベストセラーとなり、ロマンロランからも大絶賛された。
浄土真宗とキリスト教のエッセンスをいれた親鸞とその弟子たちの話です。
宗派を超えた宗教の本質に迫る、戯曲。
私はこの本を読むと、「カラマーゾフの兄弟」を彷彿します。
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サマリー
本エピソードでは、倉田百三の戯曲『出家とその弟子』を紹介。この作品は浄土真宗の親鸞と弟子の遊行を軸に、宗教の本質と人間の葛藤を描き、大正時代に大ベストセラーとなった。作者の倉田百三は、若くして結核や失恋、身内の不幸に見舞われながらも、26歳という若さでこの戯曲をわずか40日で書き上げた。作品は、登場人物の会話を通じて人間の心の闇や誠実さを深く掘り下げ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を彷彿とさせる重厚な人間ドラマを展開する。
『出家とその弟子』の紹介と作者・倉田百三について
こんにちは。
今日の本はですね、倉田百三の「出家とその弟子」っていう本を持ってきました。
出家。
出家とその弟子。
親鸞とその弟子の遊園。
丹利賞っていう親鸞の原稿録みたいなものを弟子の遊園が書いたっていう、そういう関係性がある親鸞と遊園たちのお話が書かれてあるというものになってます。
で、これは1917年に岩波書店から出ていて、当時大ベストセラーになった本なんですよ。
これね、僕持ってるのは岩波文庫のやつなんですけれどもね。
岩波文庫の中でもこれ1回改訂されてて、どっちも持ってるんですけれども、
一つ目出たやつ見るとね、昭和38年の時点で第419ズリとかね。
ペタが違う。
違う違う、49ズリか、これは。間違えた、間違えた。
ものすごく売れて、これ出た当時って岩波書店が立ち上がったばっかりの時だったんですよ。
初期の岩波書店を支えたのは、この本と夏目漱石の心って言われてるぐらい、この本でめちゃくちゃ売れたんですよ。
にもかかわらず今あんまり知られてないでしょ。
初めて聞きました。
夏目漱石と比べると全然ですよね。でもそれぐらいものすごい良い本なんですよ。
この本ね、確か前々回、僕、亀井克一郎さんの家族ということの時にちょっと触れたんですよ、確かこれ。
信頼の話ありましたね。
そうそう。その時もちょっと話したかもしれないんだけども、この本って海外でももう訳されていて、英訳もされてるし、フランス語訳もされてるし、
ロマン・ロランが大絶賛したっていうことで今有名なんですよ。
岩波文庫の新しく改訂された方にもロマン・ロランのコメントが入ってるんですよ。それもいいですよ。
で、ちょっと倉田百造さんっていう方の紹介から入っていきたいんですけどもね。
この方は1891年、明治24年に生まれてます。
で、広島県の小原市ってところに生まれてて、御服屋の長男として生まれてるんですよね。
で、高校が少し離れたところにあったのか、おばさんの家から帰ったんですよ、高校は。
で、おばさん・しずさんっていう方なんですけどね、この方が熱心な浄土新州の神徒だったんですよ。
で、倉田百造はこのおばさんにとっても影響を受けて、それでその当時、短日章を繰り返し繰り返し読んで惹かれていったんだっていう。
のが書かれてるんですね。
で、高校主席で卒業して、旧姓の一校、今でいう東大にあたるところなんですけれども、進学して文学部に所属して、公有会の雑誌の編集員とかもされてたと。
だからこの時代なんでね、同期に芥川龍之介とか木口勘とか、結構有名な文学者と一緒にやってたんですね。
で、一校時代に大恋愛するらしいんですよ。
読んでると恋愛の影響でどうも落題しちゃうほど大恋愛していて、それが失恋しちゃったみたいで、随分本人が応えたみたいなんですね。
で、恋愛とか失恋とかってちょっと絡んじちゃう感覚がある気がしてるんですけれども、これとっても大事な話で、結局この本にも恋と愛みたいな話とか、その清らかな信仰と愛欲みたいなものとかっていうね、
矛盾する、相反する気持ちが人間の中にはあって、そういうものをどういうふうに抱えて生きていくのかってことが一つのテーマにもなってるんですよ。
だから結構、倉田役像のこの失恋みたいなものもとても大きい。やっぱり倉田役像の人生にも大きいし、この作品にも色濃く出てるんですね。
で、古今東西ね、恋愛は宗教の入門だって言われるぐらいなんですよ。
僕の好きな遠藤修作さんの小説深い川にもね、オーツっていう男の子が失恋して神父を目指すって話が書かれたりするんですよ。
だからね、なんかその辺の話、主人公、まあこれ、新蘭にしても遊園にしても恋の話が出てくるんですけれども、いいですね、その辺も。
なんか今ヘッセのシッタルタのカマカラーマ、なんだっけ。
そうだね、恋したやつね。
あそこに溺れていく、でもその体験こそがすごく後半重要になってきたりとか。
そうなんですよ。
そうなんですよ、うん。
だからやっぱり恋愛とか恋って本当自己形成にとってはもう関わせないもので、そういうのもちょっと見ていきたいと。
でね、倉田薬造さんの話に戻すと、22歳の時に一高在学中に欠核なっちゃうんですね。
療養するために退学すざるを得なくなってしまったと。
23歳で地元、広島に戻って療養するんですけどもね、そこでキリスト教に興味を持ち始めて教会に通うんですよ。
倉田薬造さんってね、聖書と短二章をすごく大事な本にしていて、結局この本の中にもキリスト教のエッセンスと仏教のエッセンスがとってもたくさん入ってるんですよ。
短二章で使われている言葉遣いとかエピソードとかもふんだんに入ってるし、キリスト教的な言葉も入っていってるし、っていう感じなんですよ。
だからロマン・ロランはね、好んだところもそこで、ロマン・ロランの言葉ちょっと読むつもりなかったんですけど読むとね、
フランス語訳の序文にロマン・ロランが言葉を残してくれてて、そこに何て書いてあるかっていうとね、
ここに紹介する作品は芸術のユーラシアが生み出した最も美しい典型の一つであり、
そこでは西洋の星髄と極東のそれが結び合わされ見事に調和していると。
それはキリストの花でありブッダの花である。すなわち百合であり蓮の花である。
今日のアジアにおいてこれほど純粋な宗教的芸術作品を私は知らない。って言うんですよ。
っていうね、そういう見事に調和されているっていうところに感動していると。
で、プラタ・ヤクゾスの話を戻すと、そうやって結核の養生のために、本当は学びたかったと思うんですけど断念して地元に戻って養生して、
やってる時に2年後の25歳の時にそのおばあさんが亡くなってしまい、
プラタ・ヤクゾス兄弟もいるんですけどお姉さん2人もこの年もう亡くなっちゃうんですよ一気に。
失恋して学びたかったのに退学せざるを得なくなって、発病して身内の不幸も重なってっていう、
こういう人生の悲哀みたいなものがね、この時に極度に高まった時期で、この悲哀と無情に満ち溢れて生み出されたのがこの本なんですね。
26歳の時にこの本を書かれて、27歳で出版、岩波書店から出版されてるんですけれども、
これたった40日で書き上げたって、なんか調べると書いてあって、すごいなと思って。
もうね、26歳で書いたとは思えない深みが書かれてあるの。
これが不思議なとこだな。
だから僕も今書き手として作っていってるんですけども、自分の人間としての未熟さゆえに作品がやっぱり軽いというふうに思っちゃうんだけれども、
いや今じゃないと扱えないものがあるってやっぱり考えないとダメだなと思っていて、
倉田役蔵さんもこの時の若さでこれを生み出して、その後もいくつか作品出していくんですよ。
倉田役蔵さんって51歳で亡くなってるんで、まだもうちょっと生きてるんですよね。
亀井克里長さんが倉田役蔵論っていうのを書いていて、それも読んでいるとね、亀井さんにとってはね、
その後から生まれてきた作品もね、まあいいんだけれども、やっぱりこの出家とその弟子を超えるものはないって言うんですよ。
で、万人ちょっと健康になっていくところもあるんですけれども、やっぱり病が一番熱かったこの時、26歳の時が、
彼にとって作品を生むにあたっては一番大事だったんじゃないかっていうふうに言ってるんですよ。
不思議だなぁ。そういう感じで生まれてきた作品なんです。
作品の魅力と構成
まさに彼に書かせるがために、人が怒っているかのようにね、怖い感じてしまう。
そうなんですよ。
で、また嬉しいことに、こういう深い作品が当時やっぱり多くの青年たちに響いて、大ベストセラーになったっていうのが嬉しいですね。
円溜めじゃないんだろうなっていう。まだ読んでもないのに。だから嬉しいっていうのが。
やっぱり読まれるべき本がね、大ベストセラーになるってもう今ますます難しくなってきてると思ってて。
そう思うと、まだやっぱり大正時代って、まだちょっと今よりかは、読まれるべきものが読まれる時代でもあったのかもしれないなぁって思いますね。
当時は文学しかなかったからね。
まあまあそういうことなんですよ。
この本の魅力は何かっていうとね、一つは宗教の真髄に触れられるってことだと思うんですよ。
仏教とかキリスト教を超えてね。
もう一つは、僕はね、やっぱりね、これ儀局で書かれてあるんですけれどもね。
儀局っていうのはずっと会話帳に、舞台とかで台本とかに使えるようにずっと会話帳で書かれてあるっていう。
それを儀局って言うんだ。
ゲイテのハウスとかね、そういうのもすごい解読してたみたいですけど、儀局中に書かれてある。ずっと会話だけで成り立ってるんですよ。
儀局の魅力っていうのは、会話だけでその人の人となりだったり、その時の情景みたいなのを立ち上がらせてくるっていうことなんですけども。
だからね、読んでるとね、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟が彷彿してくるんですよ。
文学ラジオの一番の招待作だったと思ったんですけど、収録としても。
あそこで出てくる主人公は両者とか、そのお兄さんのドミニトリーとかね、立ち上がってきますね。
僕びっくりしましたね。だから、そうか、ああいうものが日本人を描くことによっても出てくるんだって。
ああいう性格、気質の人はロシアだけだろうと思ってたけど、いやいや、日本人にもいるし、日本人にもそして書けるんだなーっていうのにも、僕は驚かされたところがあって。
本当にのめり込まれますね。
そういうところかな。
あとちょっと、もう一個だけ申し送りとして、ちょっと話しておきたいなと思っているのは、
この本って、やっぱり信蘭がベースになっているから、
倉田彦祖さんももちろん三二章を読んでたし、信蘭にまつわる本をたくさん読んでたので、
信蘭の史実に基づいて書かれてあるところもあるんだけれども、やっぱりどうしても史実と違うところもたくさんあるわけ。
そういうのにも、ちょっと非難っていうかね、そういうのも上がったっていうのもあったんですよ。
大ベストセラーになるといろんな声が上がってくるんでね。
だから後ほどね、倉田彦祖さんも、これはあくまでね、私の信蘭なんですよっていうことが言っている。
だからちょっと違うところもあるんですけれども、あんま関係ないですね、そういうのはね。
僕らは別に信蘭を正しく理解するために研究したいわけじゃないんでね。
ということで、ちょっとじゃあ中身に入っていきたいんですけれども、
これ第1幕、普通の小説でいう第1部ってことなんですけれども、第1幕から第6幕まであるんですね。
もうね、涙ながらに、思わず涙ながらに読んじゃう感じになってくるんですけどね。
第3幕ぐらいから一気にちょっとね、もう深まってくる感じなんですよ。
いきなりちょっとね、僕ね、第3幕から扱いたいなと思ったんですけどね。
ちょっと一応、第1幕、第2幕から入っていきたいと思ってます。
第1幕:親鸞と遊行の出会い、左衛門夫婦の葛藤
まずね、第1幕からいきたいんですけれども、第1幕は、場面設定はどういうことかっていうとね、
その信蘭とゆいえんが出てくるんですけれども、初めて信蘭とゆいえんが出会う場面なんですね。
まずゆいえん、この当時、これ出家してゆいえんってのが載ってるんで、本当は松岡っていう名前なんですけどね。
このゆいえん、松岡がまだ11歳の頃なんです。
信蘭61歳なんで、50歳年が離れてるのかなっていう時なんです。
これ、第1幕のメインの主人公は、このゆいえん若松のお父さん、さえもんって言うんですけど、
さえもんと、その奥さんおかねが対話する場面なんですね。
この家にある日信蘭が訪れてくるっていう話なんですよ。
ちょっと僕が朗読したいんですけどね、ちょっと飛ばして、最初から読まないんで、
どういう場面設計があって、今僕がここを読むのかっていうところだけ最初に話しておきたいんですけれども、
まずこのゆいえんと、このお父さんお母さん、さえもんとおかねっていうのが3人で暮らしているんですね。
さえもんっていうお父さんが日に日に気が荒んできているんですよ。
それをお母さんおかねは嘆いてるんですけどもね。
ある日、お母さんおかねがゆいえんとさえもんの帰りを待ってるんですね。
そしたらまずゆいえんが帰ってきたんですよ。
ゆいえんと話していると、ゆいえんが他の百姓の友達にいじめられるんだっていうんですよ。
なんでいじめられるのかっていうとね、ゆいえんのお父さんはね、お前のお父さんは他の人をいじめるんだ。
悪いやつなんだって。だからお前をいじめるんだっていう話が出てくるんですよ。
お父さんの振る舞いの悪さによって子供がいじめられてるんですよ。
なんてことだって。
で、お父さんさえもんが帰ってくる。
そこでさえもんとおかねの夫婦の会話が始まるんですよ。
さえもんがね、仕事終わったその日の夜なんでお酒を飲みながら話してるんですけどもね。
今日も借金の取り立てをしてきたと。
でも全然返せないから強く言ってやったんだと。
言ったら奥さんのおかねが、あんたなんでそんな厳しくするのって。
昔はそんな人じゃなかったじゃないっていう話をするんですよ。
っていうところの場面の続きをちょっと読んでいきますね。
さえもん。
おかね。
わしもな、ひどいことをするのは元来好きな立ちではないのだ。
小さい時から人の喧嘩をするのを見ても胸がドキドキしたくらいだよ。
だがあんな風にして殿様に見捨てられて、老人になってこちらに渡ってきてから、
私は世間の人の腹の悪さを嫌になるほど知ったからな。
人は皆悪いのだ。
信じたものは売られるのだ。
心の良いものは馬鹿な目を見させられて、とても弱たりはできないのだ。
私は躊躇したいような気がするのだ。
私は思うのだ。
私の優しい性格は弱さだ。
私はそれに打ち勝たねばならない。
ひどいことにも耐える強い心にならねばならない。
私は自分でひどいことを自分にならそうと努めているのだよ。
まあそんなことをする人があるものですか。
自分の心を良くしようと心がける代わりに、悪くしようとして骨を折るなんて。
私は悪人になってやろうと思うのだ。
善人らしい面をしている奴の面の皮を剥いでやりたいのだ。
皆嘘ばかりついていやがる。
私はな、これへ時々考えてみるのだよ。
死んでしまうか盗賊になるか。
この世の渡り方は二つしかないと思うのだ。
生きているとすれば食わねばならぬ。
人と争わずに食うとすれば戸敷にする他はない。
世の中の人間が皆物の分かる人間なら戸敷は一番気持ちの良い暮らし方だろう。
だが嫌な人間から犬に物を投げてやるようにして、
憐れみの目で見られて残り物をもらって生きるのは一番つらいからな。
そして世の中の人間は皆そのような手合いばかりだからな。
戸敷もできないとすればむしろ力づくで奪う方がいくら気持ちが良いか知れない。
どうせ争わねばならぬのなら、
私は慈悲深そうな顔をしたり、また自分を慈悲深いもののように考えたり、
虚偽の面をかぶるよりも、私は悪者ですと銘打って出たいのだ。
っていう風に始まるんですよ。
伝わってきました?
うん。
なんかどういう?
自分で。
これはもうなんかちょっと見せられますね、この会話だけでね。
なんかこれ読んでるとね、
このお父さん、サエモンなんでこんなことなってんだとかって思ってたんだけれども、
サエモンは実はこういう自分が悪人だから悪人になったというよりも、
悪人にならざるを得なくてなってるんだっていう話だったわけですよ。
とってもなんか誠実なんですよね。
私は慈悲深そうな顔をしたり、また自分を慈悲深いもののように考えたり、
虚偽の面をかぶるより、私は悪者ですと銘打って出たいのだ。
ある種の誠実さを感じます。
悪人だから悪になったというのじゃなくて、傷つきすぎたために、
こういう世の中が腐散でいるために、悪にならざるを得ないっていう話なんですけどね。
なんか信蘭って悪人正規っていう話がやっぱり出てくるじゃない?
信蘭の中では、本当が悪人が悪人なんだろうか?
何だったらもっと言うと、善と悪って本当に人間は判断できるんだろうか?
それはある一部分を切り取ってるから、そういうふうに判断できてるにすぎないんじゃないんだろうか?
ってことを深く見抜いてる方なわけですよね。
だから、今だって罪を犯した人が裁判所で裁く。
それだけで本当にいいんだろうか?って思うじゃないですか。
信蘭ってそういう悪人に対する温かい眼差しがあるから、
こういう本でもね、もう第一幕の最初からこういうことが描かれるんですよね。
それがすごいこの本の魅力だなぁと思ってね。
親方に出会う前ですよね。
そうなんですよ。
家庭内でのお父さんお母さんの会話ってことですもんね。
どうなってくんだろう。
こういう場面を見ると、こういうアクション感っていうシステムをどうやったら変えられるんだろうかって本当に考えたいですよね。
例えば銃を持つってこともそうだし、今だと核兵器を持つのかみたいな話とかだってさ、
どんどんいろんな国が持ち始めて、持たないと守れないみたいなことになってきて。
でも本当は日本社会って、みんな銃捨てたほうがいいじゃないかってところに行けてるっていう。
そっちにどうやって触れるんだろうかって。
この話は日本はアメリカにも守られてるからっていう前提があるからそうできてるっていう見方もできるから、
こういう悪循環をどうやって本当に変えられるんだろうかって。
さっきの話を聞いてても、ずっと目には目を、歯には歯をみたいな。
同じフィールドで、同じ目線に降りていくみたいな。
そういうイメージが湧いてて、そこを含んで越えていく話が始まるのかなっていう感じが期待感としてあるんですけど。
でもその差というのは個別具体、いろんなケースによって考えていったほうがいいからね。
この本の中では、それを扱えてるわけじゃないんで。
今日読まないんですけどね。
これじゃあ第一幕どうなっていくかっていうとね。
この後ね、新蘭がね、いろいろ巡礼してるんですよね。
たまたまこの日大雪で、大雪の夜で新蘭と弟子一行はさすがに雪がひどすぎて、
もうどっかで休まないと、これはもう凍え死んじゃうというので、
たまたま見つけた家がこの左衛門たちの家だったわけですよ。
入ってくるんだけれどもね、この左衛門はすさんでるからね。
僧侶たちが嫌いなわけ。
どんまいたちなんかをね、家に入れるわけにはいかないと。
なんだったらぶつわけ。
で出ていけっつって。
でもそこでお金さんが、あなたなんでそんなことを?みたいな感じになるわけ。
そういうのを遊園は見てるんですよ。
11歳ながらにして。
もう11歳だとよくわかりますよね。
で、どこまで話そうかな。
その日寝るんですけれども、左衛門は夢でうなされちゃうんですよ。
で、パッて目が覚めて、酒も抜けつつあるところもあってね、
いや自分は悪いことをしてしまったってなるんですよ。
で、家をガラガラって開けて探しに行くんですよ。
そしたら家にまだいたんですよ、家の抜け下で。
もう歩けなくてこれ以上、できるだけ抜け下で休んでたんですよ。
で、家に入れて夕中。
で、すまなかったすまなかったって、その左衛門と新蘭の会話が始まるんですよ。
もともと左衛門、この人も本当に立派な人ですからね、いい家庭ですからね。
で、もう左衛門が、私も出家しますっていう話になるってくるんですよ。
第1幕の展開と第2幕への移行
左衛門、あ、そうなの?
左衛門自体もね。
左衛門も、あ、そうなの?
もうもう、そうそうそう。
でもそういうお父さんの姿と新蘭の関わりっていうのを見て、
このユイヤンもね、新蘭についていくっていうことになるんですよ。
まあこの時はまずならないですよ。
ならないんですけど、第2幕はね、
もう15年後の世界に飛んでるんですよ。
この劇局面白くてね、第1幕、第2幕ってこれね、どんどん飛んでいくんですよ。
続いてるんですけども、一つ一つがもう短編小説みたいな感じで、
一つの完結を迎えて感動する感じになってるんですよ。
学びがいがある感じになってて。
だけども、全6幕読むとさらに深いものが立ち上がってくるっていう、
まあそういう魅力的な構成にもなってると。
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