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#118 親鸞の最後。信じるとは何か / 倉田百三「出家とその弟子」朗読解説その6
2026-08-08 34:13

#118 親鸞の最後。信じるとは何か / 倉田百三「出家とその弟子」朗読解説その6

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今回は、倉田百三の戯曲『出家とその弟子』


本書は、大正時代に大ベストセラーとなり、ロマンロランからも大絶賛された。
浄土真宗とキリスト教のエッセンスをいれた親鸞とその弟子たちの話です。
宗派を超えた宗教の本質に迫る、戯曲。
私はこの本を読むと、「カラマーゾフの兄弟」を彷彿します。

感想

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00:01
こんにちは。
はい。ちょっと収録日が、我々としては 跨いだんですけれども、
出家とその弟子の続きを やっていきたいと思っております。
で、前回が第3幕までは使いまして、
ゆいえんがね、親鸞にお願いしに行って、 前鸞と会ってください、というお話だったんですけれども、
いや、会えないんだ、っていう、 まあ、そういう話になりましたと。
それで、第4幕、第5幕が、 ゆいえんの恋の話に入っていきますと。
ここ、ちょっとね、 ゆいさんもぜひ扱ってほしいってことだったんですけど、
ちょっと今回パスさせてもらおうかなと思ってますと。
はい。よかったら読んでください。
で、第6幕ですね。
これ最後の幕なんですけれども、
今日ここを扱いたいと思ってます。
前回もちょっと話したかもしれないんですけど、
第3幕で扱った、ちょっとね、 この親鸞、前鸞の親子関係の最後を扱うって感じになってくるんですよ。
っていうのも、第6幕は親鸞が90歳。
親鸞で実際90歳まで生きたんですよ。
鎌倉時代に。
すごいですよね。
すごいですね。
なので、親鸞が五輪獣になるっていう場面なんですよ。
そこを扱います。
ちょっとね、まず早速第6幕、いい場面読んでみたいんですが、
これどういう場面かっていうと、
もうその親鸞がね、もう本当に五輪獣なくなっていく場面なんですよ。
で、バタバタしているんですけれども、
親鸞がちょっと一人になっている場面で、
一人で、これはね、心の声だと思うんですよ。
の部分をちょっと読んでみますね。
だから、親鸞が本当に亡くなるときに、
誰もいなくなって、一人で何を感じていたかっていう、
そういうことですね。
読んでみます。
誰も避けることのできない運命なのだ。
死のことですね。
自分が死ぬってことが、もう本当に間近になってきたときに、
死ぬということは、誰も避けられることのできない運命なのだと。
何十年の長い間、私はその日を待っていなかったろうか。
長い、絶え間ない、
罪と悩みの生涯の終わりに来る、
あの永遠の静かな安息を。
虚しく待つことの多い、
この世の希望の欺きの中で、
これのみは、確かな、必ず来るものとして、
私は待っていた。
それを考えるに慣れて、親しさができてきた。
03:03
私はしばしば、思わなかったろうか。
私のこの苦しみと忍耐とは、限りなきものではない。
必ず終わる日が来る、と、
そしてそう思うことは、
私の唯一の慰めではなかったろうか。
ついに、その日が来た。
それなのに、この不安はどうしたものだろう。
この打ち勝ちがたき不安は、
死は私にとって損失ではない。
私は長い間、墓場の向こうの、
完全と調和とを命として生きてきたのだ。
私はそれを信じているのだ。
それなのに、私の生命の中には、
まだ死を欲せぬ何者かが残っている。
運命に反抗する心が、
おお、私はまだ生きていたいのか。
この病みほうけたわしが、
九十歳になる老人が、
この世に何の希望が残っている。
何の協楽が。
煩悩の力の必要なことはどうだろう。
今さらながら恐ろしい。
って言うんですよ。
ちょっと朗読だけで伝わってきました?
おおむね。
ただ最後の一文が、
もう一回聞きたくなりました。
これ、
もう本当に死が間近になってきて、
生きていることは苦しみと妊婦の限りだから、
大変なんだけれども、
死が来ると、
そういうものからついに解放されて、
調和された永遠の静かさを手に入れることができると。
だから私はこの日を待っていたんだと。
望んでいたんだと。
これこそが唯一の慰めなんだと。
そう信じてきたんだけれども、
いざ死ぬってなった時に、
まだ死にたくないっていうものが、
自分の中にあるんだ。
ってことを言ってるんですね。
運命に反抗する心が、
私はまだ生きていたいのか。
この病みほうけたわしが、
九十歳になる老人が、
この世に何の希望が残っている?
何の協楽が?
煩悩の力の必要なことはどうだろう?
今さらながら恐ろしい。
この世に何の希望も残ってないのに、
自分はまだ生きたいっていう、
この煩悩の力のしつこいことが、
今さらながら恐ろしいと、
言ってるんです。
必要な。
そう、必要な。
06:08
そうなんです。
これいいですよね。
なんか、
新卵で、
かつ、
九十歳ですよ。
九十歳になった人が、
まだ、
死にたくないっていうね。
気持ちがある。
最後の最後まで、
煩悩として、
生きている。
煩悩が消えることがないんだってこと。
言ってくれてる感じがしますよね。
いやー、これがなんかいいなと思って。
なんか、
死後の世界は、
完全で、
イメージとしては、
まんまる、
まんまるな、
の世界が待ってる。
けれども、
欠けた自分っていうか、
生の側、
生きている世界は、
自分は、
完全ではない、
不完全な自分なんだけど、
そちらの方への、
渇望みたいな、
をすごく感じます。
すごくいい。
いいですよね。
いいですよね。
なんか僕、
人は、
成熟するにつれて、
死が怖くなくなってくるとかね、
そういうものがあるのかなと思ったんだけど、
いや、そうじゃないのかもなーって思ってきますよね。
どこまで行っても、
やっぱり死を恐れる自分がいるってことを、
受け止めていくっていう方に行く。
っていうかね。
なんかこういう心論見てると、
なんだろうな、
成熟するにつれて、
悩みは、
少なくなってくるもんだと思ってたんだけども、
でも違うんじゃないかなって気がしてきて、
成熟すればするほど、
悩みは深くなるんじゃないかなと。
悩みが少なく感じるのは、
09:00
悩みを単に、
見ないようにしてるだけとか、
なんか忘れてるだけなんじゃないかなという気がしてくる。
心論を見てると。
悩みを悩みのまま直視できるっていうか、
そういう力がついてくるのかもしれないですよね。
成熟すると。
ちょっとその成熟していくにも、
いろんなパターンがあるのかもしれないんですけどね。
本当に、
死は恐れの対象と見ずに、
見ない人もいるんでしょうけれども、
心論の場合は、
どこまで行っても、
そういうパターンではなくて、
こういう、
自分の中にある、
エグイスティックなところとか、
煩悩とかの、
あるってことを認めて、
受容していくっていう、
そっちの人なんですね。
90歳になってよ。
だってもう、
僧侶の人じゃなくても、
90歳になったらもういいですわって言うじゃん。
心論90歳になっても、
まだ死にたくない自分が確かにいるんだって。
これすごいですね、やっぱね。
なんか前半のところで、
病気してるんですか?
そんなことはない?
病みほうけたはしがって。
病みほうけたが。
病みほうけたってどういう意味ですか?
もう、
病んだわしがってことなんじゃないですか?
それは、
老いるっていう意味と病むっていう意味は、
ちょっともう、
あんまり区別がないっていうか、
だんだん耳を聞こえなくなってくるっていうのは、
老いるってことでもあるし、
病ってことでもあるっていうか。
そういうことなのかなと思いますけどね。
そういうのをより、
背負ってなお、
そこから解放されたいっていう、
体も不自由になってくるだろうし、
例えばどこか痛いところも出てくるだろうし、
そういうのを背負ってまで、
なお、
ここから解放されたいよりも、
さらに生きたいっていうか、
生きに行くっていう気持ちが、
ああ、そうかって思いますね。
なんか、話ちょっとずれちゃうんですけど、
12:01
ちょうどNHKスペシャルで、
養老武さんのドキュメンタリーやってたんですよ。
まさにこの心乱の姿と重なるところがあって、
がんを患って、今90歳に向かっているところなんですね。
なるほど、そうかそうか。
養老武さんも60歳ぐらいのときに、
あの人もずっと生と死を扱ってきているから、
60歳ぐらいのときには、
もう死ぬことは決まってますからって、
全員、誰しも。
それを受け入れていくだけのことですよって、
言ってるシーンなんかも、
ドキュメンタリーの中でかっこのものを流しつつ、
でもなお、生きようとする今の姿を、
ドキュメンタリーで流すのもいいかもしれないと、
本人が言ってるシーンがあって、
すごく生きるってことに、
しっかり執着してたというか、
やっぱりこの年になって、
こんなに病気にもなっても、
生きたいっていう姿を見られたことと、
今のこの心乱の姿がすごい重なって、
本能の力の必要なことが、
さらばなら恐ろしいっていうのが、
本当にグッとくる。
いいですよね。
ちょっとじゃあ、シーン飛んで、
第6幕の続きやったんですけどもね、
やっぱりあれですよ、
前欄が登場してくるんですよ。
というのも、もう心乱ご隣中なんで、
急いでね、各方面にご連絡してるんですよ。
心乱がいよいよ今年でなくなってしまうので、
最後見に来てくださいということ、
お世話になった方々にご連絡していて、
前欄にももちろん連絡してるんですよ。
前欄と心乱は結局、
あわずじまいでもうここまで来ちゃったから。
ユイエンとしてもう絶対死ぬ前に
会っておかないといけないってことで、
使いをお願いして前欄を呼びに行ったと、
いうことなんですね。
しょうしんっていう方が出てくるんですね。
これユイエンと一緒に心乱の下で修行している僧侶の方ですけれども、
しょうしんっていう方が前欄、
早く来ないか来ないかって庭をうろうろしてるんですよ。
15:00
そしたらいよいよ来たと、前欄が。
いよいよ来たってなって、
しょうしんが前欄に話しかける場面なんですね。
読みますね。
しょうしん。
前欄様。
前欄。
おお、しょうしん殿。
父は、父は。
しょうしん。
もはや御臨終でございますぞ。
前欄。
おお。
しょうしん。
御歓喜は解けました。
あなたをお待ちかねでございます。
前欄。
父は会ってやると申しますか。
しょうしん。
許すと言って死にたいと仰います。
前欄。
奥へ書き込もうとする。
しょうしん。
お待ちなさいませ。
ただ一つ。
あなたは仏様をお信じなされますか。
前欄。
私は何もわかりません。
しょうしん。
お父上はたいそうそれを気にしていられます。
きっとあなたにそれをお尋ねなされます。
前欄。
私は何も信じられないのです。
しょうしん。
信じると言ってください。
信じると。
お父上のお心が休まるために。
前欄。
でも私は。
しょうしん。
この世を去る人の心に平和を与えてあげてください。
前欄。
ええ。
という場面が入って。
門に入っていくと。
ということですね。
伝わりました。ここやりとり。
うんうん。
はい。
仏様を信じるのかということをね。
新欄は気になっているから聞かれると思うと。
そこで新欄を安心させるために。
信じると言ってくださいと。
でも前欄は私は何も信じられないのですって。
でも言ってあげてくださいねって。
におもしされてるんですね。
で、ええと。
で、次いよいよその前欄が入って。
新欄と合う場面ですね。
ゆうえん。
前欄様がお越しなされました。
前欄。
父上様、前欄でございます。
わかりましたか。
私でございます。
父上様。
新欄。
おお、前欄か。
前欄。
相当ございました。
お許しください。
私は。
新欄。
18:00
許されているのだよ。
誰も裁くものはない。
前欄。
私は不幸者です。
新欄。
お前は不幸せだった。
前欄。
私は悪い人間です。
私ゆえに他人が不幸せになりました。
私は自分の存在を呪います。
新欄。
おお、恐ろしい。
我と我が身を呪うとは。
お前自らを祝しておくれ。
悪魔が悪いのだ。
お前は仏様の姿に似せて作られた仏の子じゃ。
前欄。
もったいない。
私は多くの罪を重ねました。
新欄。
その罪は億劫の昔、
阿弥陀様が先に償ってくださった。
許されているのじゃ。
許されているのじゃ。
私はもうこの世を去る。
お前は仏様を信じるか。
前欄黙る。
新欄。
お慈悲を拒んでくれるな。
信じると言ってくれ。
私の魂が天に還る日に安心を与えてくれ。
前欄。
魂の苦悶のために真っ青になる。
新欄。
ただ受け取りさえすればよいのじゃ。
一座緊張する。
聖神は顔青ざめ、
目を火の如くにして前欄を見ている。
前欄。
唇の筋が苦しげに痙攣する。
何か言いかけてためらう。
ついに、絶望的に。
私の浅ましさ、
分かりません。
決められません。
新欄。
お、お医者さん、
どなた様も今が御臨終でございますぞ。
新欄。
微かに唇を動かす。
苦悶の表情、顔に現る。
やがてその表情は次第に穏やかになり、
ついに、一つの静かなる、
恵まれたる者ののみを持つ平和なる表情に変わる。
小さけれど確かなる声にて、
それでよいのじゃ。
皆、助かっているのじゃ。
よい、調和した世界じゃ。
大平和、
21:00
最も遠い、
最も内の、
生みたぶつ。
お医者さん、
もはや、
古時で遊ばしました。
って言って終わるんです。
これでこの出血その弟子が終わるんですよ。
えぇ。
これで。
この結局が。
といいですよね。
なんか。
すごいね。
本当にこれは。
前欄は正直に分かりません。
決められませんって言って。
これ新欄もすごいですね。
信じると言ってくれって言って
分かりませんって言われたら。
それでよいのじゃって。
すごいな。
これやっぱりね、
信じるってどういうことなのかっていうことが大事で。
信じると信じないって対義語になってるから、
どっちかのように見えるんだけれども、
実際は両立するんですよ。
グラデーションの中にあるっていうか、
信じる気持ちと信じない気持ち両方があって。
それこそ信じない気持ち9割、
信じる気持ち1割みたいな世界だと思うんですよ、
本当のところは。
自分でも本当は信じられないんだけども、
信じられないが故に信じたいんですよね。
それを新欄は分かってるんだと思う。
新欄自身も、
これちょっと前に扱った、
自分がやっぱり死ぬのが怖いって言ってるのは、
まだ死にたくないっていう自分がいるっていうことなんだけども、
それは言葉を変えると、
やっぱり死後に永遠の静けさがあるっていうことを、
信じきれてない自分もいるんだと思うんですよ。
だから怖いっていう気持ちがあるんじゃないかと思っていて、
自分の中にも実は信じられない気持ちがあるっていうことを分かってる。
だから前欄が信じられないっていうのもそれでいい。
24:01
信じられないっていうことが確かに、
信じるってことに繋がっていくってことも分かってるんだと思うんですよ。
うん。
なんか、前欄が気休めでもいいからっていう方を選ばずに、
最後まで正直にいたところもグッときたし、
そうだね。
途中挟まった正真の、
めらめら火。
そうね。目が燃えてね。
ゆえ!っていう。
その、なんか、ね、正真。
それが挟まったのが良かったし。
いやー、ほんとそう思うと、前欄すごいね。
だって前欄の中にも、信じるって言ってあげたいっていう気持ちあるでしょ?
なのに、自分に嘘をつくことができないっていう、
そっちを優先したっていうね。
すごいね。
なんか、なんだろう、それこそ自分を信じてるというか、
なんか、その優雅ない核みたいなものが、前欄にそれでいいって言わしめてるという。
そうなんですよ。
これから信じられない、わからないんですって言ったことのことで、
で、かえって、新欄に別の境地をもたらして、別の安心をもたらして終わってるって感じがしますよね。
そうそうそうそう。
それでいいんですっていう。
だって私の中にも信じられない、わからない気持ちがあるじゃないかって思ってんじゃないかな。
自分の感じてることを手放してないっていう、その強さが、
前欄は安心っていうかね、それでいいって思う、お前はそれで大丈夫だって思わせてるように感じて。
遠藤修作さんのエッセイとかにもよく出てくるんですけど、やっぱり信じられないとか疑うっていうことがない、信じるっていうのは信じるじゃないんだってこと言うんですよ。
やっぱり妄信してるだけであって、本当に信じるってことは疑いが出て初めて始まるんだっていうことを言ってて、本当にそうなんだと思うんですよね。
27:17
だから、私は仏を信じてますって言われるよりも、わからないんですって言ってくれた方が、信仰が深いんじゃないかってことさえ言えるのかもしれない。
いやー、いいですね、本当に。
終わり方もすごい。
ね。
亀井克一郎さんがね、倉田百造論って書いてるんですよ。
それ僕読んで、すごいよかったんですけどね。
そこで出家とその弟子は何だったのかってことをね、亀井克一郎さんはなんて捉えてるかっていうとね、
亀井克一郎さんの文章を読んでみますね。
出家とその弟子の根底にあるものは、このような種類の祈りだと私は思う。
矛盾大きい人生を矛盾のままに生き、ついにそれをそのままの姿で肯定せんという人生への大肯定の苦に立たんとする祈りだ。
還元すれば、矛盾大きい人生とそこに不動する人間への温かい思いやり、深い目、
この目をもたらすものが、すなわち出家とその弟子に現れた祈りであるといえよう、っていうんです。
だから、信じると信じられないというこの矛盾するものがあるし、
特にこの出家の弟子は恋の話が多かったから、
この肉体的快楽や性欲的なものと一方で清い愛情っていう、
この矛盾する気持ちもどう扱ったらいいんだろうかっていうのもある。
いろんな矛盾があると。
その矛盾大きい人生を矛盾のままに生き、
ついにそれをそのままの姿で肯定しようという人生への大肯定の苦に立とうとする祈りなんだ。
こういう目をもたらしてくれるのが、出家とその弟子なんだと言ってるんです。
30:07
だから、葛藤してるほうが健全な姿って感じがしてきますね。
結局、さばいているのは自分の自我が自分自身をさばいていると思うし、
自分の自我っていうのは、人間である以上排除できないものだから、
じゅんさんの言ってたグラデーションで、
疑い心、疑う気持ちが共存しながら、
そういうものとして全体を肯定するっていう、そういう視点って、
すごい多くの人を救う気がする。
弁償法とかって、定罪、アンチ定罪あって、
アウフェーベンしていくじゃないですか。
分かんないですけど、信じるってことも疑うってことを踏むことで、
踏むことでないと深まらない領域ってものがあって、
信じる、疑う、そしてアウフェーベンされていく。
それはもはや、信じるとか信じられないとかではない、
何かになっていくんじゃないかっていう。
信じるとか信じないって言ってるときは、
二元のところでどっちどっちっていうのを見るんだけど、
両方一つ上の次元で、両方ともを含んで、
超えていくみたいな、
取り込んで自分としていくみたいな、
含んで超えるみたいな感じがすごいしますね。
これ、新卵、ナミヤミダブーツって言ってなくなっていくんですね。
集約されていくんですね。
独語感がすごい。
すごい大作。
ナミヤミダブーツで終わっていくっていう。
一日ぼーっとしちゃう、そんなの。
ほんとね。
ほんとに。
この議局をこの6時に最後詰め込んで終わるってね。
倉田役像さんのこと、僕理解したくて、
彼の他の作品とか図筆とか読んでいってるんですけど、
手紙の中にね、
33:02
お姉さんが亡くなった時の手紙があるんですよ。
それが一番良かったんですけど、僕としては。
そこに書かれてるのは、
お姉さんも最後、病で苦しみながら亡くなっていくんだけども、
本当に最後の最後はとても安らかだったって言うんですよ。
死ぬ直前は。
で、安らかな表情で、
ナミヤミダブーツって言って亡くなっていったんだって書いてあるんですよ。
なんかそういうのもありそうですね。
重なってそうですね。
体験からの思いくらいのエンディングなのかもしれない。
じゃあ、その辺で終わりましょうか。
めっちゃ良かった。
めっちゃ良かったですね。
めっちゃ良かった。
めっちゃ良かったですね、本当に。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
34:13

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