500_500回配信してもバズらない場に、なぜ身を置いているのか。
2026-09-19 13:48

500_500回配信してもバズらない場に、なぜ身を置いているのか。

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500回目の配信です。今回は、ポッドキャストというメディアの性質を正直に話します。登壇直後や逆張りタイトルで再生数が跳ねることはあっても一過性で、一分で離脱される方も少なくありません。それでも聴いてくださる方はじわじわ増えている。この場になぜ身を置いているのか。本名で発信することのこわさ、デジタルシティズンシップと自己ブランディングの問い、AI時代に国語科教師が生身の声で話す意味を、答えが出ないまま考えます。

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#ポッドキャスト  #国語教育  #デジタルシティズンシップ  #教員の発信  #500回

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サマリー

ポッドキャスト配信500回を記念し、バズらない場に身を置く理由を語る。再生数は一過性でも、継続リスナーは増え続けており、このメディアの性質を考察。本名での発信の怖さや、AI時代に生身の声で話す意味、デジタルシティズンシップと自己ブランディングの重要性について、答えは出ないまま問い続ける。

500回配信の現状とポッドキャストの性質
皆さん、こんにちは。今日も明日も授業道、黒瀬直美です。この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育についてゆるっと配信しています。
今日は500回。500回配信してもバズらない場に、なぜ身を置いているのか。というタイトルでお届けしたいと思います。
とうとう500回がやってきました。今日は500回を記念して、メモリアル的なベスト配信5本とか、今までの振り返りとか、そういったことではなくて、500回続けてきた今の率直な気持ちをもやもやしたままお話したいと思います。
いわば本音トーク会となります。それでは今日も国語教育をゆるっと語っていきましょう。
はい、それじゃあ早速配信続けましょう。500回配信してきましたが、再生数が右肩上がりに伸びていくということは全くありませんでした。もちろん再生数が跳ね上がったということは結構あります。
大きなイベント登壇した直後とか、タイトルを逆張りに振りすぎて引っかかった時とか、バズった時とか、はっきりと数字が動きましたね。
ただしそれは決まって一過性で、数日から1、2週間ほどでごく普通の日常の再生数に戻ってしまいます。
つまり、バズは時々来るけれども、それは継続しません。
そして正直に言えば、その逆張りのタイトルっていうのが、私が数字を取りたいと意識してつけている面も確かにあります。
バズを取りに行ったことがないとは言えないんですね。
一方で聞かれ方っていうのをちょっと見ていくと、1分も経たずに離脱されるっていうそういうパターンも相当あります。
そういう別のところでは、定期的に聞いてくださっている方がじわじわと増え続けているなっていうような感じですね。
跳ね上がった数字はすぐに消えていくんですけれども、定期的に継続して聞いてくださっているリスナーの方っていう、この増え方っていうのはじわじわときている感じがします。
伸びるところでは伸びず、消えないっていうところはしっかり消えずに残ってくれる、これがポッドキャストっていうものの性質なんじゃないかなと今は考えています。
私自身の評価を効率よくとっていくメディアとしては、あまり効率的ではない部類です。
しかしあんまりガシッと集まらない代わりに、減りもしませんね。
こういう非効率的なメディアであっても確実に残るものがあるっていうのが、このポッドキャストの性質なんじゃないかなって思っています。
ポッドキャストを続ける理由:話し方の鍛錬と緊張感
じゃあ、何のためにやっているのかっていうことですね。
一つにはいつもこの配信で言ってるんですけども、話し方が鍛えられるということがあります。
声の調子、間の取り方、即興で組み立てる力、そういったものが鍛えられているなっていう、そういう感じはあります。
でも話し方を鍛えるだけであれば、こうやってポッドキャストを公開するっていう必要はなくて、非公開で録音して聞き返せば足りることなんですよね。
さらに私たち教員は教団に毎日立って授業っていうことをしているので、話す場がある。
そこで本気で話せばいいと、そういった反論もできるんじゃないかなと思います。
それでもこうやってポッドキャストを公開しているのは、不特定多数の聞き手がいるという状況でしか得られない何か、本気になれない何かがあるんじゃないかなと思っているからです。
よく知っている生徒相手の授業とは違って、事情も文脈も知らない方たちが聞いています。
ですから、聞き応えのある話をしなければすぐに切ってしまわれるんじゃないかっていう、そういうふうな状況、これがポッドキャストだと思います。
で、パソコンを立ち上げさえすれば、その緊張感のある場に立つことができるっていうのも、手軽なポッドキャストの特徴だと思っています。
また、マイクを通して声を届ける話し方っていうものが、これからのデジタル社会では一つのアドバンテージになるんじゃないかなっていうふうに考えています。
結構マイクの使い方って大事じゃないかなと私は思っているんですよね。
で、私、あんまりこういうふうなデジタル機器っていうのに精通しているわけではないので、
あとね、何気に耳が良くないと言いますか、音楽を聞く習慣がないので、音っていうものへのこだわりとかがなくて、
若干鈍感な部分もありまして、その辺まだまだ自分としては標準レベルには到達していないと思うので、
もうちょっと音にはこだわっていきたいなと思っているんですけれど。
本名での発信の怖さと、それでも続ける意味
ということで、国語教育について聞きたいと思っている、私がよくわからない誰かがいる、その誰かのいるということで一生懸命話そうという気になります。
次に本名で発信するっていうことについて正直にお話ししたいと思います。
まだ発信していらっしゃらない方がポッドキャストに参入しにくいっていうのは、やっぱり参入障壁が高いっていうことだと思うんですよね。
特に本名で発信するとか、あるいは自分の肉性を晒すっていうことが率直に言ってリスキーだということだと思います。
いわゆる見晴れ問題ですね。
Xとかスレッドとかインスタとかフェイスブックだったら文字情報だけで発信するので、いわゆる見晴れする確率っていうか危険性というものは低くなります。
でもポッドキャストっていうとかなり見晴れしてしまう確率が上がってしまうために、
管理職や同僚からどう見られるか、職場でどう受け取られるか、もっと言えば生徒に見つかったらどうなるかっていう懸念があると思います。
そして一度言ってしまった言葉っていうのは半永久的に残ってしまいます。
出現があったとしても、言い間違いがあったとしても、削除しても削除したっていう事実の方も残ってしまったりもします。
さらに音声は文字よりも内面が出てしまいます。
声の調子とか言い淀み、その人の考え方や機嫌まで伝わってしまうという、そういったものもあるんじゃないかと思います。
そういう意味では、SNSの文字面よりもはるかに自分がさらけ出されるメディアではないかなって思っています。
私自身この500回の中で言い過ぎてしまったこととか、これ間違ってるんじゃね?みたいなことが一度もないかといえばそれは嘘になると思います。
聞き返したら、やっぱりこの捉え方は間違っていたとか、これは言い過ぎだったとか、これは自分自身の偏見によるものだったとかいうことは絶対にありますね。
だから怖くないっていう話はできないと思います。
ある意味、リスキーだけれどもそれでもやる意味があるというふうに私は思っています。
それじゃあ、リスキーだけれどもそれでもやる理由についてお話ししたいと思います。
これから生徒たちは教室の中や会社の中だけでやり取りする世界の中では生きていかないと思うんですよね。
インターネットを通して広く不特定多数に向けて発信する場にいずれ身を置くことになると思います。
デジタルシティズンシップ教育には自分をブランディングするという項目が含まれているそうです。
つまり本名を出して責任を持って不特定多数と渡り合える自分をどう作るのかという問題です。
ではそのスキルとは具体的に何なのか。
私はまだはっきりした答えを持っていません。
そして自分でやってみないことには生徒に何も教えられない、何も伝えられないというのが正直なところです。
もっと正直に付け加えるならば、発信を続けた結果として実は講演の依頼とか仕事につながった面は確かにあります。
なので自分をブランディングするという効果は確かにあるのではないかと思います。
このブランディングするということによって自分自身がスキルアップする機会をたくさんいただいて、
それが仕事に広がりを持たせてくれたという面は確かにあります。
そういった自分自身のステップアップ、そして自分の考えや思いを自由に表現できる場があるということ、
これに喜び、手応え、充実感があるんです。
これは本名で発信するということによって責任を持つというところが大きく、その充実感や手応えに影響していると思います。
だけども費用対効果で始めたなら500回というのはちょっと効率的すぎるなというふうにも思いますね。
生身の声で話すことの価値と国語教育への示唆
それじゃあ次は生身の声で話すということについて、肉声で話すということについてお話ししたいと思います。
AIの音声はすでに相当自然になっていて、間の取り方とか言い淀みまで再現されつつあります。
なので生身の声はデジタルには代替できないと言い切るのはもうちょっと難しくなってきたなという部分もあると思います。
でも言葉というのはやっぱり身体性を伴って発せられるものだと思っているので、
いくらデジタルで代替できるようになったとしても、デジタル化されない情報というのが、
これが代替されない限りはやっぱり生身の声で話すということについてはまだまだ人間の方にアドバンテージがあると思っています。
だけども将来アンドロイドが誕生してすごく人間の身体に近づいていくことになると、
一体人間が生身で話すのとアンドロイドが話すのとそういう差はどこにあるのかという問いが出てくることになるんじゃないかなと思うんだけれども、
それはちょっと置いておいて、そういった中で国語化は話すこととか聞くことというのを指導領域として持っています。
でも教える側が自分でその領域に身を晒しているのかというと、実際にはそういうことはあんまり薄いんじゃないかなって私は思っています。
書くことというのは残るけれども話すことは消えていってしまうからです。
だからこそ検証しにくくて鍛えにくい領域じゃないんじゃないかなと思っています。
ポッドキャストは消えていくはずの話し言葉を残して、自分で繰り返し聞き返せる形にしてくれています。
500回分の自分の話し方が記録として残っているというのは国語化の先生としてはかなりちょっと変わっていて、そして貴重な資料になるんじゃないかなと思っています。
これからの国語教育において話すこと、聞くことの位置はもっと重くなるべきだし、問い直さなければならないと考えています。
そのためにも自分自身がその領域に立っていたいなというのが続けている一つの理由です。
問い続けたいテーマとリスナーへのメッセージ
こうして振り返ってみるとやっぱり500回続けて分かったのは、何らかの成果が確実に出たとかそういうことではなくて、やっぱり新しい問いが残ったかなというふうに思います。
一時期跳ね上がった数字は消えていき、じわじわ増え続けたリスナーの方たちというのは残りました。
たぶんそういうふうに一気にバズるという現象がないのがこのポッドキャストの鍵だと思います。
大量情報時代にこういう狭さというのは逆に可能性なのではないかとうっすら思うようになりました。
500回配信してもバズらない場になぜ身を置いているのか、私はまだまだこの問いに確実な答えはないので問い続けたいと思っています。
そして1分で切られる場、1分で離脱される場に立ち続けることでしかわからないこと、これがあるんじゃないかなということだけはお伝えしておきたいと思います。
感想やメッセージは概要欄のメールフォームからお気軽にお寄せください。
それでは今日の配信はここまでです。聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。
さようなら。
13:48

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