古典不要論の背景
皆さん、こんにちは。今日も明日も授業道、黒瀬直美です。この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育についてゆるっと配信しています。
今日は219回、「古典不要論について語ってみる」というタイトルでお届けしたいと思います。
この古典不要論というのは、今、いろいろと単元構想している中の一番後半の山場に持ってこようと思って、この本を読んでいるわけなんですけれども、
なかなか深いなと思って、単元の中に入れられるのかちょっと不安になってきましたけれども、それとこれとは別にして、今更ながらこの本を読んでいます。
この古典不要論が真っ盛りな時は、主には新聞記事とかネット記事で、この情報をキャッチしていて、いろんな戦いが繰り広げられているのを面白く拝見させてもらったり、
この討論会がある時に、たまたまZoomか何かで中継があったんですね。それをリアルタイムで聞いていて、本当に面白かったんですね。
その時はその時で話が流れちゃって、今更ながら思い出して読んでいます。そもそも古典不要論が出てきたのは、やっぱり現代の国語が導入される時期に合わせて古典不要論が出てきたと思うんですね。
特に高校生の間では、実生活において役に立たない古典っていうのを学ぶ意義があるのかっていう、そういう疑問も出てきているということで、私は本当に今までずっと古典を教えてきて、古典不要だっていう生徒に一回も巡り会ったことがないので、
これ本当にそんなに不要って思っている生徒がいるのかっていうのを逆にびっくりしたんですよね。今日はそれについてこの本を読んで、ちょっと思っていることを語りたいと思います。
まず古典不要論の立場に立つ人っていうのは、主にアメリカの教育と比べて、どうも日本の国語教育、主に古典教育っていうのは、実際の社会に出た場面に役に立ってないじゃないかっていう、そういうふうな立場の人多かったですね。
例えばアメリカでは、実用的なスキルを教えることが中心になっていて、プレゼンの方法であるとか、話し方のスキルとか、時にはディベートについてスキルを磨いたり、そういうテクニック、スキル、それを取得することがかなりアメリカでは大きな位置を占めている。
そういうふうな教育の中で、やっぱりディベートなんか特にアメリカでは大会が開かれたりとかして、優劣がついて、一回本気になってディベートについて勉強した時期が20年ぐらい前にあったんですけれど、優劣がついちゃって、相手をまかすには相当な理屈を、こちらの方が論理武装して、
ちゃんと相手の好きをついて調べてきて、相当な綿密な分析と考察でもって相手をまかす。これ本当に論理的思考力つくなと思ったんですけれど、どうも目的が相手より優位に立つとか、相手を任せてやるっていうためにあるわけで、
これって引いては、社会に出た時にビジネスの世界でより優位に立ち、より成果を出し、そしてより経済的に有利な立場に立とうとする。こういう評価、成果評価主義っていうものが結局のところ最終目的にはあるんじゃないかなと思いました。
実際、アメリカでは本当に効率的に、そしてさらに能力的に、とても評価が高いっていうのがアメリカの境遇だと思うんですよね。そっちにメインの評価が行ってしまうという、完全な能力主義、実力主義、評価主義です。
そういった中で、やっぱり資質能力っていうのを育てて、スキルを磨いて、実用的な聞く話す書くっていう、これをメインに据えた現代の国語っていう、そういう科目が新設されることになって、今、現代の国語っていう科目が聞く話す書くを中心に取り組まれているところだと思います。
ところが、私は思ったんだけど、このアメリカ型の実用主義の教育がどういうことを生んでいるかというと、結局実力主義、能力主義っていうのは格差を生んでいる。格差社会になっちゃって分断を生んでいるっていう、そういう問題もはらんでいるんじゃないかと思います。
特に、実力も運のうち、能力主義は正義かっていう、あの本を書いたマイケル・サンデル先生もそういうことを指摘なさっていましたので、こういったアメリカの教育が格差社会を生み、分断を生んでいて、やっぱり非常に苦しんでいる貧困層の方が多くいらっしゃるという、そういうふうな社会状況で、
ちょっとストリートを越えたら、殺人とか麻薬中毒とか、そういった犯罪が横行するような、そういう非常に厳しい状況があるんだということを、やっぱり光あれば影ができるわけですよね。そういうことを覚えておく必要が私たちはあるんじゃないかと思います。
加えて、アメリカでは幼稚園の頃から、こういう積み上げがあって、かなりシステマティックにスキルを磨いていくということが統計だっているということも大きいんじゃないかなと思います。
古典の重要性
日本では遅れて導入されて、盛んにプレゼントが言語教育とか言われるようになって、私は自分が教員になった頃よりも、生徒は遥かにプレゼンテーションの能力が上がっているし、例えば大きな会場でも堂々としゃべる生徒が増えたなと思うので、教育というのは投資しただけあって、それなりに地道ですけれども、少しずつ生徒のプレゼンテーション能力が高まっていると思います。
そういった中で、古典は不要なのだ、ではないかという話がたくさん聞かれるようになったわけですけれども、私の立場としては、そもそも私たちの言葉は古典、そういう昔の言葉からずっと積み上げたから今更来ているわけですし、今でもいろんな表現の中で漢文訓読帳でありますとか、漢文の抑揚文でありますとか、それから古典の言い回しであるとか、
そういったことは自然と私たちの、そういう言葉に染み付いているものがあります。その言葉を深く掘り下げていくことによって、やっぱり言葉の世界は広がっていくし、語彙力も豊かになるという、そういうふうな言葉によって私たちの思考力が広がっていくということは否めないと思うんですよね。
それから古典というのはある意味異文化です。異文化を知るということでは、自分の物の見方、考え方、相対化していろんな物事の解像度が高くなると思うんですよね。物の捉え方が多面的になって、その物の捉え方の解像度が上がるということで、これまた思考力を深めてくれることになると思います。
そして何と言っても、時間と空間を超えての文章を書いてある他者との触れ合いは、大きな他者理解、これを育んでくれるきっかけになると思うんですよね。
友達同士の世界でもなく、現代の世界でもなく、違った世界に住む他者との出会い。これによって生徒はいろんな物の見方、考え方、そして全然見たこともない人と理解し合う方法という、そういった他者とのアクセスという、そういう力も身につけてくれるんじゃないかと思います。
そして私が最近最もこれって本質なんじゃないかなと思っていることは、私たちずっと昔から何かの出来事をストーリーにして語って、ずっと語り継いできましたよね。
例えば何か大きな災害があったり、何かひどいことがあったりなんかしたら、それを教訓をストーリーにして、ちっちゃい子たちにずっと語り継いでいって、いろんな物語ができて、それが例えば古事記の神話であったりとかするわけですけれども、
そういった語り継ぐことによって、私たちは知識や経験、生き残るべき知見というものを蓄えながら、次世代に語り継いできた。そういうことは大きいと思うんですよね。
だからそれは評論文でもなく、説明文でもなく、文学、物語によって私たちは知識、経験をずっと語り継いできたというものすごいコンテンツの力が文学、物語にはあると思うんですよ。
そういった言葉の大きな世界、広い世界と、それからナラティブによってずっと積み上げていた物語の世界、この2つが古典にはあって、それが深い人間形成を生むんじゃないかと思うんです。
そういった古典を踏まえての私たちのこのコンテンツがずっと深く深く長い年月、醸成されていって、それで新しい文化を生んでいるわけなんですよね。
例えば今サブカルチャーが盛んだし、日本のアニメっていうのは経済的にもものすごく世界で評価されていて、経済的にも非常に稼いでいるという話をよく聞きます。
そういった深いコンテンツの醸成によって、私たちは外国にも評価される素晴らしい文化を生み出す力をつけてきているのがこの古典なんじゃないかと思うんですよ。
鬼滅の刃なんかもそうですし、絶対そういう風なコンテンツの蓄積によって新しいものを生み出す創造性を身につけていると思うんですよね。
私を教えてくれた大月和夫先生っていう国語教育の大会にいらっしゃるんですけど、その先生に5年ぐらい前に自宅を訪問したときに言われました。
そんな話になったときに大月先生は、だからハリウッドの映画はあの程度なんですよ。
まあこれはオーレコなんですけど、ハリウッド制作の人には申し訳ないんですけど、やっぱり私たちが作る奥深いコンテンツっていうのとはやっぱりちょっとこうね、
娯楽に傾斜していると思うんだけれども、そういった文化的背景の違いがコンテンツを生み出す力の差につながっているんじゃないかっていうね、そういうお話も大月先生から聞きました。
ということで、そういった中で私たちは古典を大切にしながら、ずっと言葉の世界を大切にしながら生きてきて、
多様性とか共感性とか、他者に対しての理解、相手を、
そんたくっていう言葉は悪いけど、相手に対する思いやりですとか、多様性を認めるとか、そういったことが知らず知らずの間に醸成されてきて、
こういうのが文化的にはおもてなし、おもてなしっていうのが良くないというふうにも言われてると思うんだけど、思いやりをかけたり、
他者を大切にしたり、共同体を大切にしたり、困っている人を助けようとか、災害が起きた時にはやっぱり秩序を持って本当に困難を乗り越えていこうとか、
そういった持続可能な社会を育む力になってるんじゃないかと思うんですよね。
といったことで、あれれれれ、力説しすぎて12分にもなってしまいましたけれど、やっぱり本当に古典っていうものは、私たちの文化を長く長く支えてくれた力だと思うので、
これを手放すっていうことは本当にしたくないなと、古典教育は本当に大事なものじゃないかなと私は思っています。
古典と現代文化
それでは今日の配信はここまでです。聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。
ご清聴ありがとうございました。