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2026/09/20:わたしがあなたを建てる

2026/09/20 聖日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第二 7:1-17

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サマリー

加藤満牧師は、人生と信仰の成熟とは「私が生きる」から「神が私を生かしている」へ主語が変わることだと語る。第二サムエル記6章では、ダビデが神の箱を新しい荷車で運び、ウザの死を通して、神は親しいが決して侮れない聖なる方だと知らされる。ダビデは恐れを学び、レビ人に箱を担がせ、自分を主のしもべとして喜び踊りながら神を迎える。7章では、神殿を建てたいというダビデの願いに対し、神は自分が民と共に歩み、ダビデを王にしたのだと示し、「あなたのために家を建てる」と約束する。ここでの「家」は建物だけでなく、王朝と子孫を意味し、ダビデ契約として神の忠実な愛、ヘセドが語られる。人間が失敗しても、神は契約に基づいて子孫を懲らしめ導き、恵みを取り去らない。ダビデはその圧倒的な恵みにひれ伏し、自分の家は軍事力や努力ではなく神の祝福によって歩むと祈る。説教は、人生の主語を「私」から「神様」へ変え、神が愛し、生かし、将来を支える恵みに信頼して歩もうと呼びかけて結ばれる。

信仰の成熟は主語が変わること
短くお祈りをいたします。 恵みと哀れみに満ちておられる、私たちの父なる神様、今日も私たちを主の御前へと招いてくださり、あなた仰ぎともに礼拝ができる幸いを感謝をいたします。
限りない愛をもって、あなたは私たちを愛し、巫女イエス・キリストを十字架に捧げ、その巫女の流された血潮によって私たちの罪を許し、神のことし、永遠の命、復活の命を私たちに与え、もはやあなたは一人ではない。
私があなたといるとあなたが語ってくださるがゆえに、日々様々なことが起きてくる中にあっても、あなたの支えと身力を信頼して、様々なことにも乗り越えて、今ここにあることを覚えて感謝をいたします。
主よ、多くのことが起きてきます。
ただ私たちは祈られたように、主の岩よと岩であるあなたを仰ぎます。私たちが揺れ動こうとも、あなたは揺れ動くお方ではないことを覚えます。
人は人に過ぎず、あなたは神であることを今一度教えてください。
今日の礼拝を祝し、あなたの御前にひざまずき、あなたの命の言葉をもって私たちを導いてください。
そして今一度ここから、様々な嵐が吹き荒ぶこの世界に、あなたと共に勇気をもって出ていくことができますように、力を与えてください。信仰を与えてください。お願いいたします。
祈られたように、世界で様々なことがあり、そしてまた私たちの周りにも様々なことがあります。主がすべてを握っておられることを信じて、なおもあなたを仰ぎます。
導いてくださいますように。ここに来たくても来れない方々の上にも、あなたの等しい恵みがありますように。何よりも主を見言葉を開いてください。期待をして、イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。アーメン。
東北にいたときのことですが、月に一回東北の教会で私は伝道礼拝をしました。
そのときは毎回100万人の福音という雑誌に載っている証を毎回読んでいたんですね。そのときにあるお証の中でこういう言葉がありました。
私は自分の力で生きているのではなく、神によって生かされていることに気づきましたというお証があったんです。私は自分の力で生きているのではなく、神様によって生かされているということに気づきました。
その礼拝が終わった後に、教会の最高齢のご夫人、本当に祈り深い素晴らしい方ですが、その方が私のところに来て、こうおっしゃってくださいました。先生、今日は本当に大切なことを教えていただきました。
私は生きているんじゃなくて、私は神様に生かされているんですね。ありがとうございます。ありがとうございます。そのように涙を浮かべて私に言ってくださったんです。
私は何気なく語りました。いい言葉だなと思って何気なく語りました。しかしそのご夫人にとっては、これほどまで深くこの方に届いたのかと私は驚きながら、しかし同時に主が必要なことをなしておられるのだなと思い、同時におそらくそのような境地には若い自分はなかなか至れないんだろうなということを思いました。
若いうち、健康なときは私がこの人生を切り開いていくんだという気概があります。しかし歳を重ねながら弱さや病を得る中で、私はもう終わりに向かうばかりだというそういう気持ちの落ち込みがあるときに、しかしそのような様々なものが取り去られて至る一つの事実、
この命は私が生きているのではない、神様が私を生かしているという事実、それが心の底からわかるというのがそのような境地ではないでしょうか。感動するばかりの生の現実、私は神に生かされているから今ここにある。
これはおそらく信仰生活においても同じことなのです。私たちの信仰は神様への信仰告白から始まります。私があなたを主と告白します。私が主を信じるというところから始まります。
しかし信仰が深まる、あるいは成熟するときに私たちに起こる変化とは何でしょうか。それはきっと私が神を信じる以上に、神様が私を生かし祝福し信仰を与えてくださっているという神様の臨在や身力が私の中で私が信じるということです。
私が信じる力よりも大きくなるということではないでしょうか。信仰が成熟するときに起きる変化は主語が変わるのです。主語が変わる。私から神様に変わる。
神の箱を運ぶダビデとウザの死
実はダビデもその道筋に立っていっているというのが今朝の歌詞を見るとよくわかります。今朝はご一緒に目を止めたいのは第二サムエル記の6章7章であります。
少し振り返ると、これまで見てきた5章では、5章でダビデはサウルの後の後継者争いに勝利をし、イスラエル十二部族から正式な王として彼は認められます。
そしてエブス人からシオンの要害を責め取り、彼は自分の都を定めるに至りました。いわゆるエルサレムを彼は定めるわけです。
王になった。都も定まった。彼の王国は万着になっていきます。
しかし、よりダビデの国が神様中心の国となるために、神様の国になるためにダビデが願ったことは、神の箱を自分の都に迎え入れたいということでした。
しかし、その過程において彼は実に、彼自身が神様に砕かれ問われ、成長しなければならなかった。
その道筋がここからよくわかります。私たちも今日6章7章を見ながら、主がダビデを砕き、成熟に至らせたその道筋をご一緒においたいと思います。
6章7章、一つずつ中心につべき言葉を注目してご一緒に見ていきたいと思います。
一つ目のポイント、6章で注目したいのは、8節にあります、ダビデの心は激したという言葉です。
神の箱をエルサレムへと運び入れる工程が描かれています。
神の箱というのは、それまでどこにあったかというと、これは第一サムエル記の6章7章あたりを見ていただいたらわかるのですが、
一回神の箱はペリシテの地に取られていきました。しかし様々な災いと裁きが神様によって起こされて、
神様の箱は牛に運ばれて、最終的にイスラエルとペリシテの境界線の町のキリアテエアリムという町のアビナダブという人の家にずっと安置されていたのです。
放置されていたと言ってもいいかもしれません。
しかし今日見ていただくと、2節にはダビデはユダのバーラタラと書いていますが、これはキリアテエアリムと同じ場所です。
ダビデはイスラエルの精鋭3万人を連れて、しかも後の箇所を見ると楽器隊も連れて、楽器隊も連れて、
そのような大軍勢を持って神の箱を迎えに行きました。そしてイスラエルサレムへと運び出そうとしました。
想像してみてください。すごいですよ。盛大な音楽隊と3万人の精鋭。
そしてこの箇所を見るならば、5節にはダビデとイスラエルの善下は喜びを取ったということが書いてあるわけです。
大勢の後皇神と音楽隊とそしてダビデ自身も喜び踊るというような、心から神様を敬う後神をもって、彼はこの箱を運び出そうとするのです。
ただ一つ懸念がありました。それは3節をご覧いただきたいのですが、一つの懸念は、
彼らは神の箱を新しい荷車に乗せて、それを丘の上にあるアビネ・アダムの家から移したとある。
神の箱を新しい荷車に乗せて運ぼうとした。新しいというのは彼の経緯のあらわれかもしれません。使い古しではない。
新しい荷車をもって、最大の経緯をもって神様を運ぼうとする。
しかし、旧約聖書を読んでいる方はご覧わかるかもしれません。神の箱というのは、本来運ばれ方があります。
それは出土エジプト記の25章にも書いていますが、神の箱、契約の箱というのは、もともと箱に金の輪っかがくっついている。
そこに2本の棒を通して、その状態のまま通して、その棒を人間が担いで運ぶ。しかも運ぶのは誰でもいいわけではありません。
神様に選ばれたレビ人で、神の箱を運ぶに訓練されたケハテ族という人たちが運ばなければなりませんでした。
しかし、ケハテ族は最大の注意をもって運ぶんですよ。なぜなら、6章の2節にもあります。
神の箱はケルビムの上に挿しておられる万軍の主の名でその名を呼ばれているとあるように、
出土エジプト記を見るならば、神の箱の上にケルビムが2つ向き合っているんですが、このケルビムの間から神様は離される。
それは主の臨在の場所、主の玉座、神様が出される場所です。最も聖なるものです。
そこには最大限の配慮と、何よりも主に対する恐れがありました。
一箇所だけ旧約聖書を、別の箇所をお開きしたいんですが、
民数記の4章の15節というところをちょっとお開きいただけるでしょうか。
民数記の4章の15節。旧約聖書の241ページの上の段にございます。
民数記の4章の15節。
ちょっとお読みします。民数記4章の15節。
宿泳が移動する際は、アロンとその子らが聖女のすべての用具を覆ってから、
その後でケハテ族が入って行って、これらを運ばなければならない。
彼らが聖なるものに触れて死ぬことのないようにするためである。
これらは戒犬の天幕でケハテ族が運ぶものであると書いてあります。
なぜレビビトでケハテ族でそういうのが選ばれていたのか。
聖なるものに触れると人は死ぬからです。
神様の臨在の場所というのは本来は危険です。
聖なるものは本来は危険です。
なぜなら、聖なる神は神であって、人間は人間でしかない。
それは決して混じり合わないからです。
普通の人間が聖なる神様に触れると、その聖に打たれて死ぬ。
その危険性がある。
立法はそのことを明確に定めています。
しかし、長い年月がその規定を風化させたのかもしれません。
ダビデは神の箱を新しい荷車で運ぶ。
そこには祝福をもたらしてくださる神様への敬意があったでしょう。
賛美も喜びもあふれていたことでしょう。
しかし、ダビデの最善と神様の最善は違っていました。
問題が起こります。
6章、戻って第2サムエル記の6章の6節から7節をご覧いただきたいと思うんですが、
6章の6節から7節にこういうことが書いてあります。
彼らがナコンの内場まで来た時、
ウザは神の箱に手を伸ばしてそれを掴んだ。
牛がよろめいたからである。
すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、
神はその過ちのために彼をその場で打たれた。
彼はそこで神の箱の傍らで死んだとあるのです。
主の怒りがウザに燃え上がり、その場でウザは打ち殺されてしまいます。
おそらくあたりは死んと静まり返ったことかと思います。
何が起きたのか。
神への恐れと礼拝の回復
しかし8節でこう書かれています。
ダビデの心は激した。
主がウザに対して怒りを発せられたからである。
その場所は今日までペレツウザと呼ばれている。
ダビデの心は激した。
この激したという言葉は他の聖書の箇所だと激怒しただとか
怒ったと訳されますが、
もともとの言葉ハラーというヘブル語は
火が燃え上がるということです。
これは怒ったというよりか感情が激しく揺れ動いたということです。
おそらく同様じゃないかなと思う。
激しく心が揺れ動いた。
なぜなら理由は主がウザに対して怒りを発せられたから、
ここちょっと注目しなければなりません。
ここで深海訳だと下に注釈が書いていると思いますが、
発説のところに主がウザに対して怒りを発したという
怒りという言葉はヘブル語だと通常の怒りという言葉じゃなくて
特別にこれはパラツという言葉が使われます。
これは破れるという言葉です。破れる。
いわばこれは水圧によって防波堤から水が破れ出るという
そんなイメージの言葉です。破れ出ていく。
神の力が抑えられているものが破れ出ていく神の力です。
実はダビデはこれを以前に目の当たりにしています。
それはどこかというと5章、ちょっと1ページ前の
5章の上の段、ペリシテ人との戦いのところを見ていただきたいのですが
第二サムエル記の5章の19節から読みますと
こういうことが書いています。
ダビデは主に伺ったペリシテ人のところに攻め上るべきでしょうか。
彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。
主はダビデに言われた攻め上れ、私は必ずペリシテ人をあなたの手に渡すから。
ダビデはバールペラティムにやってきた。
ダビデはそこで彼らを打って
主は水が破れ出るように私の前で敵を破られたと言った。
それ故その場所の名はバールペラティムと呼ばれたと書いてあります。
ペリシテ人との争いのときに
主に頼ったダビデは神様がまさにその破れ出る身力を持って
敵のペリシテ人を打ち破ってくださったという光景を目の当たりにしていました。
それはダビデにとっては自分のために戦ってくださる神様の力なんです。
だからバールペラティム、バールというのはペリシテ人の神様です。
ペリシテの神を神はあふれ出る力で打ち破られたという記念の言葉でこの地に名を付ける。
バールペラティム。
しかし発説でダビデの心が激したのはなぜか。
自分のために戦ってくださる神様の破れ出るその身力が
神様を迎えようとしている自分たちの陣営、自分たちに向かっても向かったという事実を見たからです。
神の力は私の敵だけじゃない、私に向かってもあふれているという事実を見たからです。
ダビデの心は激した。
これは、いわばこれまで自分が抱く神様の概念を徹底的に崩されたという動揺です。
神様に親しみつつも、でもどこかで神様は私のために戦ってくださるお方であって
私に対しては何もそういうことはなさらない。
そういうことを思っていた自分の姿を砕かれる動揺です。
え?
ダビデの願いを叶えてくれる。
そのような自分、私が、私の願いが、私の願うところが、
それが中心となる信仰の枠組みが粉砕された時の動揺です。
ダビデの心は激した。
一体何が起きているのか。
しかし彼自身は気づくのかもしれません。
ああ、私は神に対して何か勘違いをしていたのではないか。
神様は愛するべきお方である。
しかし侮って良いお方ではない。
神様は親しみを持って近づいてくださるお方であるし、
私たちも親しみを持っていいお方である。
しかし恐れを失っていいお方ではない。
神は私の願いを聞いてくださるが、神様はご自身の願いを実現される。
どこまでも神は神であって、人は人である。
そしてダビデの心に浮かぶのは、そのようなある種、
神様を神様として認めた人間に起こる自然な感情でしょう。
旧説をご覧ください。
その日、ダビデは種を恐れていった。
どうして種の箱を私のところにお迎えできるだろうか。
この激しい動揺というのは、種への恐れへと変わります。
神様の御前に立つことの恐ろしさを、
ダビデは骨の髄まで叩き込まれるのです。
侮ってはならない。
しかしこの恐れこそが、ダビデの信仰を成熟へと導く一歩でした。
神様はこの後、神の箱はオベデエドムの家に預けられます。
神様はその家を祝福なさいます。
神様はそこで、怒りの神ではない、
神は本来は祝福の神であるということがそこで豊かに表されます。
ダビデは二度目の反応を試みます。
ただし今度彼がやったのは、新しい荷車を持ってこなかった。
彼はちゃんと人を連れてきます。レビビトを連れてきます。
そしてレビビトが自らの方に箱を担ぎ、
書いてあるのは13節です。
主の箱を担ぐ者たちが六歩進んだ時、
ダビデは超えた牛を生贄として捧げたとある。
これは徹底的に神様の怒りをなだめる行為です。
主の怒りが私へと向かわないように徹底的に神様をなだめる。
そしてエルサイムに入場した際、ダビデは14節です。
ダビデは主の前で力の限り跳ね回った。
ダビデは天布のエポデをつけて頂きます。
エポデというのは大祭司が十二部族を代表するために、
十二個の鉱石をつけてみたいなエポデがありますが、
この天布のエポデとはそれとは違います。
天布のエポデというのはこれは聖女で使える一般的な宝舎が着る服なんです。
少年サムエルも着ていました。天布のエポデです。
しかしそれを着るというのは何か、
普通王様は着ないんです。天布のエポデなんて。
でもそれは、私は王であろうとも、
主よ私はあなたの前に一人の下辺に過ぎませんという信仰広告です。
そして彼は心の限り喜びを踊った。
全力で神様を喜び賛美してお迎えをした。
それはまさに神を神として認める人間の本来あるべき姿の現れだと思います。
正しくふさわしく主に対する恐れを持っている。
私はあなたの前に、私が私の願い通りにあなたをコントロールするのではなくて、
私はあなたの前に下辺ですという信仰広告と、
私はあなたを心から喜び賛美しますという大事なことだなと思います。
私は明太に教会の心は激したということがあればいいなと思います。
昔よく、うちの教団で正解が破られるという言葉がよく使われましたね。
正解が破られる。破られた正解は素晴らしい。
いかれて経験された方もいらっしゃるでしょう。
でもその破られた正解というのは一体何なのか。
主に対する恐れがあふれる。
跪かずには折れない。
私のあれやこれ、私のこうなってもらわなきゃ困るというような願いが全部吹き飛んで、
主がそこに立たれるのであれば大丈夫だと思えるような、
主の圧倒的な臨在に跪く、破れた正解。
それが必要じゃないかなと思います。
主の厳粛な臨在の前に恐れ、跪くことができれば、
それは何よりも幸いな礼拝ですよ。
信仰が成熟するというのは、
神様に私の願いを上手に叶えさせる祈りができるようになることではありません。
よく誤解をします。そうじゃない。
信仰が成熟するというのは、私は主の下辺です。
そして私の願いではなくて、
あなたの願いが私を通して表されますようにと祈れるようになることです。
そのような主への恐れ、
そのようなところに私たちが互いに立たせていただきたいなと思う。
私は一人の下辺です。
私の願いではなく、あなたの願いがなりますように。
ダビデの神殿建設願望と神の問い
ゲステマネノソノノイイエス様の祈りですよ。
ダビデはそのような恐れを学びました。
そしてもう一つのところを見てまいります。
7章に入っていきますが、ここで注目をしたいのは、
私が家を建てるという言葉です。
私が家を建てる。
聖なる神様への恐れを学び、
神の覇光エルサリムに迎え入れたダビデは、
この7章でさらに深い取り扱いを受けます。
1節を見ていただくとわかりますが、
この王国は主の守りによって安息が与えられていました。
主の守りです。
その中でダビデは言います、2節。
みなさい、この私が杉材の家に住んでいるのに、
神の覇光は天幕の中に宿っていると彼は言います。
主の祝福によってダビデの王国は安息が与えられて、
彼自身もレバノン杉の立派の王宮に住むようになった。
神様の覇光は幕屋に安置されている。
だから神様のために家、いわゆる神殿を建てたいと彼はここで願います。
ダビデの動機は誠実であり、
神様への愛と感謝に満ちていました。
しかしその夜、預言者ナタンに主の言葉が臨みます。
5節から11節というところを読みしますが、
ちょっと見ながら注目していただきたいのは、
ここではあなたと私という言葉がだいぶ意識的に使われているので、
ちょっと注目していただきたいと思います。
7章の5節から11節。
言って私のしもべダビデにゆえ主はこう言われる、
あなたが私のために私の住む家を建てようというのか、
私はエジプトからイスラエルのコラを手のぼった日から
今日まで家に住んだことはなく、天幕幕屋にいて歩んできたのだ。
私がイスラエルのコラのすべての歩んだところどこででも、
私が私のためにイスラエルを牧せようと命じたイスラエルの部族一つにでも、
なぜあなた方は私のために杉材の家を建てなかったのかと一度でも言ったことがあっただろうか。
今私のしもべダビデにこう言え、万軍の主はこう言われる、
私はあなたを羊の群れを追う牧場から取り、我が民イスラエルの君主とした。
そしてあなたがどこに行ってもあなたと共にいて、
あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。
私は地の大いなる者たちの名に等しい大いなる名をあなたに与えてきた。
我が民イスラエルのために私は一つの場所を定め民を住ませてきた。
それは民がそこに住み、もはや恐れを罵くことのないように、
不正な者たちも初めの頃のように重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。
それは私が我が民イスラエルの上に裁きつかすのを任命して以来のことである。
こうして私はあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。
最初に神様の驚きは5節にありますが、
あなたがと言います。
ヘブロ語の元の言葉を見ると、あなたがというのはだいぶ強調されている。
驚きの言葉です。
え、あなたがという感じです。
あなたが?
ダビデオ、まさかあなたが私に家を建てようというのかということです。
ダビデオ、まさかあなたが私に家を建てるというのか、
人間のあなたが天の天でも入れることのできないこの私のために住処を提供するというのか。
驚きの言葉です。
まさかそんなことできるわけないだろうという驚きの言葉です。
この神様の言葉におそらく当時の文化があります。
当時の世界では王様は神殿を建てたがるんです。
なぜかというと、王様は自国の神様のために神殿を建てることによって
王様自身の偉大さを誇ったり、神を神殿の中に閉じ込めて
自分の願いを叶えさせようとするような
いわば王の権威の剥付けのために神殿を建てるということは
当時の文化の一般でした。
しかし神様はそのように
そのようにダビデは願っていなかったかもしれませんが
しかしそうしようとするダビデに対して
真っ向から私はそのように扱い切れる神ではないと知りづけます。
そして続く言葉で繰り返されることは、これも強調文です。
私はです。私は私はです。
私がエジプトから導き出した
今日まで私は神殿になんか住んでいない
天幕幕屋に住んで民と共に歩んできたと言います。
一緒に歩いてきた神であると言います。
一緒に私は歩いてきた。
神様はどこかの神殿に縛られる不自由な神ではない。
ご自身の民と苦難を共に歩み寄り添い
共に生きてきた神である。
私はそうである。
そしてダビデよ、私が羊を追う牧場にいた無力な羊飼い
あなたを選び、あなたに会って敵を滅ぼし
あなたに私が大いなる名を与えてきた。
そして私は一つの場所を定め民を住ませた。
十節は感動的な言葉ですね。
神様が民を約束の地に導き入れようとしたのはなぜか
それはもはや彼らが恐れおののくことのないように
そして不正から守られるように
神様の守りによって安息を得て
みんなが立法を守って互いに愛し合って
平和と喜びに生きることができるように
神様は民を導かれた。
そして私が今の安息を与えているのだと語る。
ここで神様が言われることは何なんでしょう。
ダビデよ、あなたが私にできることがあるのか。
私があなたにしたことだけであなたは王となり
平安のうちに生かされているのではないか。
言葉を違えれば
ダビデよ、私があなたを私の祝福と
恵みによってのみ生かしてきたし
今も生かしているのだと語る。
神が建てるダビデの家と契約
そして7章の11節の後半から13節は
これはダビデ契約と言われる大切な箇所です。
主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を作ると。
あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき
私はあなたの身から出る四次の子をあなたの後に残し
彼の王国を確立させる。
彼は私の名のために一つの家を建て
私は彼の王国の王座を常しえまでも建てると言われる。
ダビデが私はあなたのために家を建てますと言った
家という言葉はヘブル語ではバイトです。
でもこのバイトという言葉には二通りの意味があります。
単なる建造物の家だけではなくて
王朝とか子孫という王国の意味があります。
これは言葉の掛け言葉になっています。
ダビデはあなたは私に家を建てると言ったが
私はあなたのために王朝を建てて子孫を建てると言った。
そしてこの七章の神様の言葉はダビデ契約と言われますが
まさに14節15節では契約の言葉です。
私は彼の父となり、彼は私の子となり
彼が不義を行ったときは私は人の杖
人の子の鞭を持って彼を懲らしめる。
しかし私の恵みは私があなたの前から取り除いたサウルから
それを取り去ったように彼から取り去られることはない。
あなたの家とあなたの王国はあなたの前に
とこしえまでも確かなものとなり
あなたの王座はとこしえまでも固く立つ。
注目したいのは15節の恵みという言葉です。
しかし私の恵みは
恵みというのは私が何度か話しますが
これはヘブル語のヘセドという言葉です。
ヘセドです。
それは契約に基づく忠実な愛とよく訳されます。
でもまさにそれにふさわしい驚くような契約内容ですね。
神明記から神様は祝福と呪いの道を置きます
祝福の道を選ぶならば祝されて
呪いの道を選ぶならば滅びていきますよ
だからあなたは命と死の道があるんだったら
命を選びなさいと語ってきました。
そして死の道を選んだサウルは知り避けられました。
しかしここで神様が言われるのは一歩進むんです。
人間は失敗をし罪を犯す。
しかしあなたの子孫に対して私はこの契約に基づいて
その子孫が道を誤ったとしても
私はその子孫の道を正していきながら
決してあなたの子孫からあなたの愛、私の愛を破棄しない。
もはや人間の努力や功績が祝福の根拠とはならない。
私がと言われる神様の一方的な憐れみと祝福だけが
あなたの一族を生かし、ダビデを生かし
その家を支える唯一の土台になるのだと言われる
圧倒的な恵みの契約です。
ダビデはこれをどう受け止めたかというと
恵みにひれ伏すダビデ
実に興味深いのは18節です。
ダビデ王は主の前に出て挫していった。
神主よ、私は何者でしょうか。
私の意は一体何なのでしょうか。
あなたが私をここまで導いてくださったとは。
ダビデ王は挫したと書いています。
神様の前に立つ人間の姿勢というのはパターンがあるんです。
立つか、ひざまずくか、ひざまずくかなんです。
挫したというのは初めてです。
ここしか出ません。
挫したというのはある仲介者から言わせたら
これはダビデは王座から下り
神の箱が置かれた幕屋の中で
神様の前にひたり込むように腰を下ろしたと言います。
ひたり込んだ。
ああ、と踊れたと。
それは神様の恵みの余りの大きさに言葉を失い
自分のちっぽけさと不適格さを思い知らされ
ただ唖然として神様の恵みの見舞いに
ただただ驚いているという姿です。
でもこれはアブラハムが星空を見せられて
主を信じたというのはあの時と一緒なんです。
圧倒的な主の恵みの約束の前にひたり込んだ。
ああ、主よ。
神主よ、私はそこまであなたにされるとは一体何者なのでしょうか。
そしてこのようにまた見ていただいたらわかると思いますが
ラビザはここから神主よ、私はあなたにただただ感謝します
ということを言い続けます。
そしてちょっと話しますね。
19節にあると
神主よ、このことがなおあなたの御名に小さなことでしたのに
あなたはこの下辺の家には遥か先のことまで告げてくださいました。
神主よ、これが人に対する身教えなのでしょうか。
人に対する身教えなのかという言葉は
人間に対する計画ですかということです。
遥か先まであなたが示してくださったというのは
ラビザはこの契約は私の家だけの話ではない
人類全体に向けて語られている神様の大きな契約の宣言なんですかとここで言う。
このヘセドの契約は私の祝福に終わらない。
これは全世界を祝福するための契約である。
ここで創世紀12章のアブラハム契約が結びついてくる。
あなたの子孫を通して私はこの地を祝福する。
そのように歩むダビデの拠り所はもはや主の祝福です。
7章の29節、最後です。
今どうかあなたの下辺の家を祝福して
御前に常しえに続くようにしてください。
神である主よ、あなたがお語りになったからです。
あなたの祝福によってあなたの下辺の家が常しえに祝福されますように。
ダビデは最後に宣言したのは
私の家はあなたの祝福によって歩みます。
軍事力ではない。力ではない。
あなたの祝福によって行きます。
あなたが豊かに恵みをもって臨んでくださるが故に
今もう分かりました。
あなた、私が、ではなくて
あなたが私を祝し生かしてくださっているから
今があるのですね。
人生の主語を神へ変える
私たちの歩みはどうでしょうか。
私たちの人生は
私たちの祈りは
私たちの命は
それを語る時に
その主語は一体何でしょうか。
私は生きている主よ、私はあなたに
私は私は
私がいるのかもしれません。
私がこれほど努力しているのに
私が教会や家族のためにこれほど奉仕しているのに
なぜあの人は認めてくれないのか
なぜ神様は私を放っておかれるのか
でもどうか
私たちが主を恐れることができるようにと願います。
神様が私たちを捉えている
私という主語
私という執着を砕いてくださるように
あなたがあなたの人生を建てるのではない
私があなたのために家を建てると言われる
けさ主はそう私たちに言われるのです。
人生の主語を私から神様へと変えましょう。
神様が愛してくださった
神様が私を生かしてくださっている
神様が私のために御子を十字架に捧げてくださった
イエス・キリストは私のために救いを成し遂げてくださった
そして神様が私の人生の将来を永遠に固く支えてくださる
その大きすぎる恵みのゆえに大胆に出ていきましょう。
そうです主よ
あなたの祝福によって私を生かしてください
私の恵みはあなたの前から取り去られることはない
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