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2024/11/23:強く、雄々しくあれ

2024/11/23 聖日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第一 30:1-6


サマリー

このエピソードでは、聖書のサウルとダビデの物語を通じて、危機におけるそれぞれの対応が描かれています。サウルは神に頼らず、霊媒を通じてサムエルに助けを求めます。一方、ダビデは神の前で正しさを求めつつ行動します。ダビデはアマレク人との戦いに徹底的に挑み、その過程で多くの犠牲を出しますが、彼の行動は思わぬ復讐を招き、苦境に立たされます。最終的に、ダビデは神から励ましを受け、信仰を取り戻し、逆境を乗り越える力を得ることになります。彼はアマレク人の攻撃から全てを取り戻し、神の守りの重要性を語ります。聴衆は、強くあれ大しくあれとのメッセージを受け取り、絶望から立ち上がる力を神によって得るべきであると感じるでしょう。

サウルの危機
それでは一言お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今日も私たち一人一人を、あなたの見舞いへと招いてくださり、
あなたは仰ぎ礼拝するようにと、この場所へと導いてくださったことをありがとうございます。
季節の変わり目、様々な体の弱さを覚えやすい、また心の弱さも覚えやすい私たちですけれども、
あなたは限りない愛をもって、私たちをその十字架の地球によって贖い取ってくださり、
神の子としてくださり、よみがえられた復活の命、永遠の命を今私たちに与え、
恐れることはない、私はあなたと共にいると、いつも私たちにそう語り、そう約束をしていてくださり、
倒れそうな時にも下には永遠のカイナを持って、私たちを支えてくださっている、
そのような永遠なると共に生きる人生が今始められているその恵みを覚えて、心からありがとうございます。
主よ、私たちはあなたからいただいている恵み、あなたから受け取っていることをもっと深く知りたいと願っています。
御言葉を開いてくださり、私たちの現実の中に、今日も語りかけられる主の言葉を聞くことができますように、
私たちの耳を開いてくださり、心の目を開いてくださいますように、お願いをいたします。
全世界においてもまた緊張感が高まっている最中にあります。
ただ主よ、この現実を冷静に見ながらも、この世界を術を収めておられる、この権威の上に立つ頭であるキリストを、
私たちはいつも見ることができますように、そしてそれは私たちの様々な問題の中にあっても、
常に力を持たれる主であることを覚えることができますように、助け導いてください。お願いをいたします。
ここに来たくても来れない方々がいらっしゃいますが、
どうか施設におられる方、ご自宅で霊波を守っておられる方、心痛んでここに来れない方、
所要があって今日は来れない方がいることも聞いています。
体調を崩していらっしゃる方もいらっしゃいます。
どうか主がお一人一人と共にいてください。
あなたの慰めの声を聞かせてくださいますように、癒しを与えてくださいますように、お願いをいたします。
御言葉を開いてくださいますように、あなたに期待をして、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
次週から宮谷教会、全ての教会がそうですが、アドベンツを私たちは迎えてまいります。
ですので、9月から皆さんと一緒に読んできました第一サムエル記は、
今朝で一応一区切りとさせていただきます。
今朝はこれまで見てきました、サウルとダビデという人たちの行く末について、
ご一緒に見たいと思います。
それは第一サムエル記の2章で語られていました、ハンナの祈りですね。
ハンナの祈りに表されていた、神は高ぶる者を退け、へり下る者を守られるという、
そのような原則が明確に表される最後です。
はじめそれはエリの一家とサムエルという対比の中でありましたが、
皆さんもお気づきでしょう、これはサウルとダビデという対比の中で物語は進展をしていきました。
さて、この物語の終焉はどうなるかといいますと、
このサウルとダビデが明確に対比をされていくんですね。
そしてそれは双方とも絶望的な危機の中で、
彼らがどのようになっていったかということで明確に分かれていきます。
危機の中で彼らは分かれるんですね。
そしてその中には、あの神明記、私たちは2年前から神明記から見てきていますが、
あの神明記、そして吉明記から一貫して続く神様のメッセージ、
それがこのダビデのうちにも現れてくるという、そのような結末をご一緒に見ていきたいと願っています。
今朝は3つのポイントでお話をいたします。
第一のポイントは、危機の中のサウル、危機の中のサウルということです。
彼は危機の中でどのような態度をとったのか。
今朝目をとめますのは、27章から31章の範囲を目にとめます。
このところの前に、私たちはサウルとダビデが相対峙するというシーンを見てきました。
二度にわたってサウルは必要にダビデの命を狙ったわけですね。
しかし、この苦難の経験を通して、ダビデが学んだ一つの霊的な現実がありました。
それは、この26章の23節というところで書かれていますけれども、
主は、神様というお方は、その人の正しさと真実に応じて報いてくださるという事実でした。
主はその人の真実と正しさに応じて報いる主である。
だから、ダビデはいかにサウルに襲われても、自分の手では復讐をしない。
裁きは主に委ねればいい。
今私が問われているのは、自分が復讐するかどうかではなくて、神の前に私はどうなのかということだけなんだ。
そこだけが問われているのだということをダビデは握りました。
これは、ダビデを自らの力で亡き者にしようとしていたサウルの姿とは実に対照的ですね。真逆なんです。
そして、この二人の対照的な姿は、二人が危機に陥った時に、その明暗を明確に分けるものになりました。
サウルの危機に少し目を止めるならば、彼の危機はどこであったかというと、
私たち商店舎記念礼拝の時に見ましたが、28章というところです。
28章の一節には、ペリシテ人はイスラエルと戦おうとして軍隊を召集した。
今やペリシテ人がイスラエルという国を攻めてこようとしている、そのようなタイミングなのです。
そしてここには、サウルがある種頼りにもしてきた部下ダビデはいませんし、
また彼を導いてきたサムエルも既に亡くなっていました。
まさに危機の中で、サウルはサウルという自分自身が問われる状況に置かれたのです。
この状況の中で自分はどうすべきかということが問われたのですね。
そこでサウルが頼りにしたものは何であったのか、神様ではなかったということを私たちは見てきました。
彼が頼りにしたことは、霊媒を通して死んだサムエルに会いたいということでありました。
そして前回見ましたけれども、サウルの前に現れたサムエルの言葉というのは実に辛辣でしたね。
28章の17節からそういうことが書いていますけれども、ちょっとだけ見ますと28章の17節からは、
主は私を通して告げられた通りのことをなさったのだ。
主はあなたの手から王位をはぎ取ってあなたの徒のダビデに与えられた。
あなたが主の御声に聞き従わず、主の燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。
それゆえ主は今日このことをあなたにされたのだ。
主はあなたと一緒にイスラエルをペリステ人の手に渡される。
あすあなたもあなたの息子たちも私と一緒になるだろう。
主はイスラエルの陣営をペリステ人の手に渡されるのだ。
サウルよ、あなたの過ちはあなた自身が知っているだろう。
私は生きている間にあなたには告げていた。
今のこの訪れている危機というのは、あなたが堅くなに私の言葉に聞こうとしなかったあなたの責任だ。
ただ、これは言い換えるならば、サウルよ、今あなたが対峙すべきなのは私ではないでしょうということかもしれませんね。
神様の前に彼は出て行こうとするんですが、神が答えてくれませんと言います。
でもそれは彼自身が神様の前に自分の姿を素直に認めて悔い改める姿を持たなかったということがあったからでしょう。
神の前に危機から助けてくださいと私たちは願います。サウルも願います。
ダビデの逃亡生活
しかし、おそらくこの時サウルに求められていたのは、神の前に自分はどうなんだと改め問われ、悔い改め出て行くということだったのではないでしょうか。
サウルは手遅れでありました。彼は明日死ぬと言われました。
しかし私たちも、ともすればこれは自戒を込めて申し上げますが、危機の中で目先のことが気になります。
このことさえ、この危機、この恐れ、これさえ乗り越えればと思って私たちはそこに目を止めます。
普通かもしれません。
でももしかしたら神様は、あなたが今相対するのはそこなのかと私たちに問われるかもしれませんね。
神の前に私たちはこの時こそ会いたいすべきなのではないかということを招かれているということは十分にあることだと思います。
私たちはともすればこのサウルの姿を見て、サウルのようになっていないかなということを互いに問われるものです。
ただ一方でもう一つの姿を見ます。危機の中のダビデ。
二つ目のポイントは、危機の中のダビデということです。
一方、ダビデはどうだったのでしょうか。少しそれに目を止めていきます。
実はこの時、ダビデにも危機は訪れていました。
ちょっとだけここまでの経緯を確認しなければ分かりづらいのですが、ちょっとお話ししますと、
サウルのところから逃亡したダビデですね。
彼は何度もサウルに相対しながら、和解をその時限りでするんですが、また別れて、
彼は逃亡生活を続けていきます。
そしてダビデの逃亡生活の最終的な拠点はどこになったかというと、
27章の2節というところに書いてありますが、
ダビデは一緒にいた600人の者を連れて、ガテの王、マオクの子、アキシュのところへ渡っていったとあります。
ガテっていうのは、これはペリシテ人の主要な都の一つです。
そのペリシテ人の都の有力者、統治者と言ってもいい、アキシュという人物のもとに身を隠すようになります。
27章の7節を見ると、彼は彼のところで1年4ヶ月間、庇護を受けたということがありますが、
その期間にダビデはアキシュからチクラグという町をもらうんですね。
チクラグというのがダビデたちの逃亡生活の拠点になりました。
この町はどういう町かというと、正確な場所はよくわからないのですが、
ユダの南の方で、ペリシテと国境境で、しかもテキアマリクという民族がすぐ近くにいるような場所だったと言われます。
ダビデはこの場所にじっと留まっていたわけではありませんで、
彼はどうしたかというと、このチクラグの町から密かに近隣のアマレク人を撃つということをするんですね。
ダビデの徹底的な戦い
繰り返しするんです。
しかも、このダビデがアマレク人を撃った行動というのは実に徹底的でした。
ちょっと読んだらお分かりかもしれませんが、彼はアマレク人を襲った町を男女構わず全滅させます。
皆殺しにするんですね。
ちょっと驚きます。
この戦い方というのは、私たちは神様が命令した清拙という戦い方に似ているなということを思うわけです。
確かにアマレク人というのは、かつてサウルに対して神様がアマレク人を清拙しなさいと命じた民族でした。
ですから、ダビデがそのことをやったのかなと私たちは思うわけですけれども、
しかし、27章の9節から11節というところをちょっとお読みしますとね。
27章の9節から11節というところを読みますと、
ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ロバ、ラクダ、また衣服などを奪って、アキシュのところに帰って行った。
アキシュが今日はどこを襲ったのかと尋ねると、ダビデはいつもユダのネゲブとかエラフメール人のネゲブとかケニジンのネゲブとか答えていた。
ダビデは男も女も生かしておかず、がてに一人も連れてこなかった。
彼らがダビデはこういうことをしたと言って、私たちのことを告げるといけないと思ったからである。
ダビデはペリステ人の地に住んでいる間、いつもこのようなやり方をしたと言うんですね。
この言葉をどう評価すべきか微妙です。
ただ、明確なことは彼は略奪品は神様には捧げてませんね。
アキシュにもしかしたら持って帰って行ったのかもしれません。
ここはやはりダビデは聖戦をしているわけではないんです。
おそらく隠れ身のとしていたアキシュに対するアリバイ作りですね。
そのために彼はアマレク人を皆殺しにしていくわけです。
これはちょっと理解に苦しむところかもしれませんが、でもダビデは確かに血を流しすぎる人間として後に描かれますね。
このダビデに訪れる危機とは何かというと、このアマレク人から復讐されるんです。
今日読んでいただいた30章というのはそういうことが書かれています。
ペリステ人とイスラエル軍がいざ戦争になるという時に、ダビデはペリステ側の兵隊としてその戦場に行きました。
でも、ダビデさんあなたイスラエルの英雄だったじゃないですかということで、信用されずに彼はチクラグにまた戻っていくんですね。
その期間は3日間です。しかしその3日間の間に、このチクラグの街がアマレク人に襲われるんですね。
ちょっとだけお読みしますと、30章の1節から6節の前半までお読みします。
ダビデとその部下が3日目にチクラグに帰った時、アマレク人はすでにネゲブとチクラグを襲っていた。
彼らはチクラグを攻撃して、これを火で焼き払い、そこにいた女たちを子供も大人も皆捕らえ、一人も殺さず自分たちのところへと連れ去っていた。
ダビデとその部下が街に着いた時、なんと街は火で焼かれていて、彼らの妻も息子も娘も連れ去られていた。
ダビデも彼と一緒にいた兵たちも声を上げて泣き、ついには泣く力もなくなった。
ダビデの二人の妻、イズレール人のアヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガエルも連れ去られていた。
ダビデは大変な苦境に立たされた。兵が皆、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからであった。
苦境に立たされるダビデ
ここまでにしますね。
ダビデが街に帰るともはや物気の殻であった。焼き払われていた。
アマレク人が襲ってきたと聞いたときに彼らは顔面蒼白になったでしょう。
ダビデがこれまで男女構わずに殺してきた相手です。やればやられるんですね。
その種を蒔いたのは他でもないダビデ自身でありました。
ダビデもその部隊も深く悲しみをここで描かれています。
おそらくすでに私たちの家族はもう殺されていると考えて当然でしょう。
もう自分たちの家族は殺された。
そして仲間であったはずの兵ですら、あまりの悲しみ上に、これはこの怒りと悲しみを誰かにぶつけなきゃいけないと、ダビデに対して意思を持ち始めたというのですね。
ダビデ自身も家族を失い、仲間が傷つき、そして仲間が今や自分に対して意思を構えているという状況に追い込まれていきます。
珍しく聖書はここで状況を語ります。
ダビデは大変な苦境に立たされた。
この苦境に立たされるという言葉は、ちょっとヘブル語を少し見ますと、これは苦しめられる、さあらるという動詞ですけれども、実はこの言葉というのは、詩式で特徴的に繰り返し使われていた言葉なんです。
詩式を皆さん思い出していただきたいのは、詩式というのは何回も同じことを繰り返す物語でしたね。
イスラエルの民が偶像をしたい、偶像をしたった民は敵に襲われて苦しめられる。
しかしその苦しみから解放するため、神は死死を使わしイスラエルを救うんだけれども、のども遠すぎればイスラエルはまた偶像をしたい、敵が襲ってきて敵に苦しめられる。
この苦しめられるという言葉は、この苦境に立たされたという言葉と同じ言葉です。
いわばサムエル記というのは、詩式の続きなんですよ。
いわばそれは、あのようにダビデが神に従っていたはずなんだけれども、よくわからないことをして、彼が神様からその誠実かどうかもわからないことをしたときに、彼は苦しめられる。
いわばあのイスラエルを覆った闇ですよ。
罪の力、負のスパイラルがダビデを捕らえようと、今ここで襲いかかるのです。
いわばそれは、ああ神を信じて戦ってきたのに全てが奪われた、神などいないということであったり、救いなど一体どこにあるのかと思わせるような、あの暗闇です。
神からの励ましと信仰の回復
目の前は真っ暗になったダビデを思ったかもしれません。
ああもうここで死ぬなら死ねばよい。
絶望ってやつですね。
しかし私たちはこれを神明記から続く神の一つのストーリーとして理解しなければなりません。
神様がこのサムエル記においてなそうとしておられることは何か。
それは神様はダビデを通してイスラエルをあの暗闇から回復させようとしておられる神であるということです。
あの暗闇から神はダビデを通してイスラエルを回復させようとしておられる。
どういうことでしょうか。
まさにその闇に囚われそうになっているダビデのそのただ中に、神の御業がここで働いているということを語るのです。
それは三十章の六節ですね。
ダビデは自分の神主によって奮い立ったという一言です。
ダビデは自分の神主によって奮い立った。
この言葉は元の言葉を見るならばダビデは自分自身を強めたという言葉です。
しかしその厳選は主によってです。
自分の神主によって。
実はこの奮い立たせたという言葉、これヘブル語では強めたという言葉ですけれども、
はざくという言葉ですが、これもまた神明記から続く一つの特徴的な言葉なのです。
なぜなら神明記ヨシワ記を通して繰り返されてこの言葉が使われていたのは、皆さんよくご存知でしょう。
強くあれ大しくあれというあの言葉です。
神がイスラエルに何度も何度も、さああなたたちは今からカナンの地に入っていくんだと語った、
あの時に主が何度もイスラエルに対して語られた言葉です。
強くあれ大しくあれ。
特にこの言葉が最初に出てきますのは神明記の31章の6節というところです。
神明記の31章の6節というところをお読みしますとこういう言葉があります。
強くあれ大しくあれ。
彼らを恐れてはならない。
おののいてはならない。
あなたの神主ご自身があなたと共に進まれるからだ。
主はあなたを見放さず、あなたを見捨てないということです。
神明記の31章の6節にそういう言葉があります。
神はイスラエルに対してそういう約束をなさっておられるんです、カナンに入る上で。
そして、ご自身の民を見放さない神ご自身が絶えずイスラエルの民に語られてきた言葉でした。
これは神明記でももう一回語られますし、特徴的なのはヨシワ記でしょう。
モーセは死んだ。でもヨシワよ、強くあれ大しくあれ。
人が変わろうと、何が変わろうとも、神である私は変わらないんだから、強くあれ大しくあれ。
神があなたを強めるのだからと。
ただ皆さんお気づきでしょう。この言葉は、詩式ではもう語られなくなっていくんですよ。
詩式でこの言葉は出てきません。
いわばあまりの闇の深さに、人々はこの神が絶えず語っておられる言葉を聞く耳を持てなくなったのかもしれません。
しかし、この危機のとき、まさにダビデを覆っているこの暗闇を切り裂くかのように、
ダビデの耳にこの声が響いたのではないでしょうか。
強くあれ大しくあれ。彼らを恐れてはならない。おのろいてはならない。
あなたの神主ご自身があなたと共に進まれるのだ。
主はあなたを見放しておられない。決してこの状況になっても、あなたを見捨ててなどいない。
ダビデは主によって奮い立ったというその言葉は、
現実はすべてが終わったかのように見えるかもしれないけれども、
神である私の中では何も終わっていないということを言っています。
何も終わっていない。
神の御手の中にあって、まだ終わってはいないのだということをダビデは語られる。
おそらくダビデの目には光が灯ったことでしょう。
ああそうだ、まだ終わっていないんだということです。
ここからダビデは主を仰ぐ信仰を回復していきます。
彼は自分の部下にエポデを着させ、主に聞きます。
三十章の八節に。
ダビデは主にうかがった。
あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。
するとお答えになった。
追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができると。
ダビデの勝利と神の守り
ダビデは兵を率き、アマレクの追跡をこの後始めてまいります。
そしてついにアマレク人に追いつき、彼らを討つのですね。
そして三十章の十八節から十九節というところを読みしますと、こういう言葉があります。
三十章の十八節から十九節。
ダビデはアマレク人が奪い取ったものをすべて取り戻した。
ダビデは二人の妻も救い出した。
子供も大人も息子たちも娘たちも分取られたものも、
彼らが奪われたものは何一つ失われなかった。
ダビデはこれらすべてを取り返したというのですね。
ダビデの家族も兵の家族も奪われたものは何一つなかったというのです。
これは言葉を変えるならば、神様は彼が取り返すべきものを守っていてくださったんですよ。
神様はそういうお方ですね、守っていてくださるのです。
さて三つ目のポイントを話してもう終わります。
私たちは今こそ強くあれ大しくあれと語られているということです。
今こそ強くあれ大しくあれ。
神様は今もダビデにそうであったように、私たちに対しても同じ方であるということを覚えたいと思います。
ダビデは大変な苦境に叩かれたという現実は、私たちにおいても起こる現実です。
私たちは互いに完璧ではありませんので、自分の蒔いた種によって何かが起こるということがあります。
もしくは自分が蒔かなかった種からも何かしらの不運が襲いかかってくることがあります。
そのぐらい私たちが生きている世界は不条理です。
失うものというものは時に起こることでしょう。
心を病みが多い私たちの中で思うことはもう終わったです。
もう終わった。
絶望、負のスパイラルに囚われることもあるでしょう。
ただ今朝、そういう私たちに対して種が語っておられることは、強くあれ大しくあれなんですよ。
耳を開いて、この言葉を聞かなければならないと。
強くあれ大しくあれ、彼らを恐れるな、おののくな。
あなたの神種があなたと共に進んでおられるのだ。
種はあなたを見放していない。あなたを見捨ててなどいないと語られる。
自分の中にまさに未人の強さも持ち合わせていなくともですよ。
自分の中に未人の強さも持ち合わせていなくとも大丈夫だ。
強さの力の厳選は神にあると語っているんです。
種によって彼は奮い立ったとここで語られているのですから。
光である神が私の闇を切り裂いて入り込んでくる。
そのようなことを私たちは見言葉を通して経験しますし、
今この言葉によって私たちのうちに起こる現実ですよ。
強くあれ大しくあれ。
そしてもしも私たちのうちに生んだ心があって、
しかしそれに種が光を灯してくださって、
種によって奮い立ったならば、
私たちはおそらく何事も諦めるべきではないのでしょう。
私たちが失った、私たちがああもう終わってしまったと思っているものがあったとしても、
しかし種はそれを取り返すように招かれているのかもしれません。
そして見言葉が語ることは、彼らが奪われたものは何一つ失われなかった。
神様は私たちが取り返すべきものを今も守っていてください。
そうだと私は信じます。
強くあれ大しくあれ
諦めてはいけないのです。
今も種は守っていてくださいます。
もう終わりますが、次週から私たちはアドベントを迎えてまいります。
闇の中に光として来られるイエス様を待ち望みます。
神様の御業というのは、いつでも闇を切り裂いて光を灯すという御業です。
そしてそれは、言い方を変えるならば、私たちの閉じた耳をも切り開き、
神の御言葉によって私たちの内に光を灯すということでしょう。
今朝ご一緒に灯されたい御言葉は、
この強くあれ大しくあれという言葉です。
彼は種によって奮い立った。
でも奮い立ったのはなぜか。
彼の耳にこの言葉が響いたからですよ。
神は今もあなたを見捨てておられない。
神によってあなたは強くなることができる。
私たちはそれぞれが種によって奮い立った。
種によって奮い立った。
これは神がなさる御業です。
でも神様を信じたいと思います。
私の暗闇の中に、私たちの今のある暗闇、終わったと思う現実の中に、
耳を開き、いや今こそあなたは強くあれ大しくあれ、
諦めてはならないと語っておられる種の言葉を御一緒に受け止めたいと思います。
一言お祈りをいたします。
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