1. かんどう和尚のはじめての仏教
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2025-05-14 13:56

【仏教誕生編#7】すべてを捨てた夜。ブッダが悟った「人間の本当の姿」

今回は、シッダールタ太子(菩薩)が「出家」という大きな決断を下すまでの葛藤と旅立ちについてお話しします。


  • ​出家か、宮殿での享楽か──揺れる二つの選択肢
  • ​異性や快楽への興味が薄れていった理由
  • ​夜の宮殿脱出と、ついに果たした出家
  • ​当時、出家は“社会秩序を乱す行為”とされていた背景
  • ​マガダ国王との出会いがもたらしたもの


仏教初心者のためのポッドキャスト『かんどう和尚のはじめての仏教』。


【アフタートーク】では、出家と現代日本の生き方との意外な共通点について語ります。


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サマリー

このエピソードでは、ブッダが出家を決意する過程が描かれています。ブッダは物質的な幸福から離れ、真の意味を探し求める道を選びます。出家生活の始まりとその重要性についても議論されています。さらに、出家を決意した背景や、その後の修行に向けた堅い決意についても語られます。特に、ビンビサーラ王との対話を通じて、出家の意義や仏教の教えが現在の価値観とどのように結びついているのかが考察されます。

ブッダの出家の決意
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、これから仏教を学んでみたいという方に向けて、
インスタグラムでフォロワー数2万人超えの臨済士の僧侶、私、かんどう和尚が、一から仏教を解説していく、そんなプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。ブッダの前期であるニラーナカターンに基づいて、ブッダの生涯についてお話ししております。
これまでと同様に、悟りに至る前のブッダは、菩薩と呼称します。
前回は、菩薩が老人や病人、死人と出会うことで、出家に気持ちが傾いたところまでお話ししました。
それまでの菩薩は、ありとあらゆる物質的な幸せを享受していたのですけれども、
やがて自分が死ぬという事実に直面した時に、そういう幸せを享受することに対する無意味さを感じてしまったんですね。
そういう時に、出家というものを志すようになるんですけれども、実はもう一つの選択肢もあるんですよ。
どうせ死ぬんだから、楽しいこと、気持ちいいことだけを追求して生きたらいいじゃないかという、協絡主義的な生き方ですね。
実際に当時のインドでは、そういう生き方を主張するという人々もいました。
でも、菩薩はそれは選ばなかった。
そこに菩薩の性質みたいなものが見て取れるなというふうに思うんですけれども。
では、今日のお話ですけれども、菩薩は29歳になりまして、気持ちが出家に傾いておりました。
そんな菩薩の様子を、お父さんのずっとお棚を察知していたんだと思うんですけれども、
お父さんにできることって、ひたすら快楽を与え続けるしかないんですよね。
いつものように、多くの女性たちが菩薩の主義を取り囲んで、歌や踊りで菩薩を楽しませようとしていたんですけど、
もう菩薩は興味がないんですね。
ずっと皆さん踊ったりしてるんですけども、退屈で眠ってしまう。
夜中に菩薩が目を覚ますと、それまで踊ってきれいな格好をしていた女性たちが眠っていたんですけど、
ある女性は吐きしりをしていて、ある女性はよだれを垂らして、ある女性はだらしのない姿で寝ていたと。
その様子を目にした菩薩は、嫌気がさしたと。そして出家を決意したんだそうです。
家族との別れ
これは、この女性たちの姿は、女性が汚いとかそんな話ではなくて、
人間の本当の姿みたいなものを暗示しているんだと思うんですね。
普通、女性に限らず男性でも、異性というのは魅力的な存在ですよね。
でも表面的なものなんだということを、この話は仏陵の作者は言いたいんです。
このあたりはお経の中で、後に仏陀となった菩薩が異性と接する場面があるんですけど、それを踏まえているんだと思います。
有名な話がありまして、ある時、仏陀になった菩薩を見染めたバラモン、司祭階級ですね、当時の一番階級が上だった人たち。
このバラモンの男性が、自分の娘と結婚してほしいという婚願をするんです。
この娘さんがすごく美人だったそうなんですけど、仏陀はこんなことを言うんですね。
表面的には綺麗かもしれないけど、その中には排泄物が溜まった、そんな袋に過ぎないと。
私はそんなものの足にすら触れたいとは思わないと言って拒絶をするんですね。
かなりきつい言い方ですね。
たまに仏陀はそういうきついものを言いなさるんですね。
そう言われた女性の方は、やっぱり大層恨みに思われたそうです。
ちょっと後々これが問題になったらしいんですけれども、これは女性だからというわけではないんですね。
人間の中にはこうなんだってことを仏陀は言われてるんです。
この相手がたまたま女性で、そういう場面だからそういうふうなことを言われてますけどもね。
表面的には綺麗に見えても、皮一枚剥いだら、その中身ってどうかというと臓器であるとか血液だったり、また脂肪とかね、そういうもので満ちてるわけですね。
決して綺麗なものじゃないですよね。
そういうものだから執着しちゃいけませんよということを仏陀は度々説かれるんです。
少しちょっと今脱線しましたけれども、出家するためにですね、そういう女性たちを見て出家しようと思って、
寝ていた漁舎、つき人を起こしまして、ちょっと馬を用意してくれと。
城から抜け出す準備を始めるんです。
最後に一回だけ、我が子のラフラの様子を見たいと思って見に行くんですね。
すやすや奥さん、ラフラのお母さん、ヤショウダラというんですけどもね、このヤショウダラと一緒に寝てるラフラを見てですね、抱っこしたいと思ったそうなんです。
やっぱり可愛かったんですね。
でもここで抱っこしてしまって、ラフラが目を覚まして泣いたりすると出脱しようとするのが妨げられるかもしれないと思いまして、
それで一目見るだけで抱っこせずにその場を去って宮殿からひっそりと抜け出しました。
無事に宮殿から抜け出した菩薩は身に着けていた飾りですね、送信具を外しまして、これも御舎に渡してお前は帰りなさいと返して、
その後ですね、髪の毛を剃って、一枚のボロキレを身にまとって森に到着します。
初めての出家生活
なんで森に行ったかというと、この当時はまだお寺という存在がないんですね。
だから出家した人たちは森で思い思いに修行するというのが当時のスタイルだったんです。
こうして菩薩は初めての出家生活に入られた。
出家というものについて改めて申し上げたいんですけど、
現代の日本人が考えるよりも、はるかに当時のインドにおいて出家することって重大なんですね。
古代インドでは人には年齢とか身分、カーストですね、こういうものに応じて責務というものがそれぞれあるんだって考えていました。
この辺りの考え方は、バガバット・ギーターという古代インドの有名な物語があって、
その中に如実に現れているので、ご興味ある方はそれを読んでいただければと思うんですけど、
興味ない方は全然覚えなくていいです。
インドでは人生を4つの時期に区切って、それぞれの時期に応じてやるべきことがあるんだって考えるんです。
若い時、これを学生と書いて学章って言うんですけど、学章期においては学ぶということが責務。
そして家族を持つような年齢になったら、家族を養って仕事に従事をするというのが責務。
そういうものに加えて、家族に応じた責務というのは、王族には王族のやることがあるし、商人には商人のやることがあると。
こういうのを全うしていくことで社会が成り立つんだって考えられていたんですね。
出家というのは、そういうものを全部無効化するんです。
だから古代インドにおいては、社会秩序を乱す振る舞いだとみなされていたんですね。
これ後々中国に仏教が伝わった際にも、やっぱり同じように捉えられるんです。
後取り息子が家を出ると大変なことになりますからね。
だから出家をみんながすると、とんでもないって話で非難をされるようになるんですけれども。
そういうふうな出家生活を菩薩は始めまして、初めて宅発というものを経験されるんですね。
宅発っていうと日本では人通りの多い道場だ。
京都とかでもね、角に立っている人たくさんおられますよね。
あと商店街とか言ってもね、地方でもそういう方たまに見ますけれども、
お椀を持ってね、そこでずっと立っているって姿を想像される方多いんじゃないかなと思うんですけど。
もともとの宅発ってそうじゃなくてですね、じっとしてないんです。
街とか村に行って、家々を回りましてね、食事の余り物をもらうんですね。
それをいただくっていうのが宅発の原型なんです。
ただそれぞれの家の食事の余り物をごちゃ混ぜにもらうわけですよね。
だから食べ合わせとかも全くよくありませんし、やっぱり混ぜることでね、味も良くないんですね。
それまでの菩薩って王子だったので、おいしいものしか口にしてないんです。
そういう中でそういうごちゃ混ぜのものを食べたので、余りの混ぜさんに吐き戻しそうになったって書いてあります。
でもその時に菩薩は思うんですね。
私は何のために出家したんだと。
出家の決意
家族や豪華な生活を捨てて、あの時の出家者みたいになりたいと思って出家したんだと。
だからこれを吐き戻しちゃいけないんだと。
そういうふうに自分を戒めて監修をされたと。
この菩薩が宅発をされた場所っていうのがラージャガハって言って、
マガダ国っていう当時の大国の都だった場所なんですけれども、
この菩薩が宅発する様子をその国の王様が見てたんですね。
これビンビサーラって言って、有名な王様なので後々も名前が出てくるかなと思うんですけど。
このビンビサーラ王が見てまして、
ちょっとこの人すごいなと思ったらそうなんです。
姿形は低髪してボロ綺麗をまとっているので出家者っていうのはわかるんですけど、
その振る舞いが貴賓に満ち溢れていると。
これただものじゃないなと思って会いに行ったんだそうです。
そこで対話をしていると、この菩薩がシャア家族の出身者っていうことを聞きます。
シャア家族は王族ですからね。
そこで出家やめた方がいいよって。
王族に戻りなさいって進めるんですね、ビンビサーラ王は。
そうすれば自分が軍事援助と資金援助をしますよって提案をするんです。
これはちょっと裏があると言いますかね。
純粋な思いではおそらくなくて、
当時のマガダ国っていうのは他の国と派遣を争っている最中なんです。
だから軍事同盟を結ぼうって提案したというふうに見てもいいかなと思うんですね。
当然のことですけど菩薩は断ります。
それで受けてたら出家した意味ないですからね。
その決意が硬いっていうことをビンビサーラ王も見まして、
じゃあそれならわかりましたと。
またこの後修行して、もし悟ったなら会いに来てくださいねっていうことを言って、
この二人はお別れをします。
出家の現代的意義
そうしてね、菩薩は本格的な修行に取り掛かるんですけれども、
次回は菩薩が取り組んだ修行についてお話をしたいと思います。
ここからはアフタートークです。
今回はですね、本編にちなんだトピックとして、
出家と現代の日本の共通性についてお話ししたいと思います。
本編で古代インドにおいては、
人にはそれぞれのカーストとか年齢、時期に応じて責務があるということをお話ししました。
これ考えてみると、日本も近代までは割とそういう傾向にあったんですよね。
一昔前まで家業を継ぐってことを当然されてましたよね。
これはね、それぞれのカーストにおいて責務を感じたインドに非常によく似ていると思います。
やりたいことをやるっていうのは現代ですけれども、
これは日本の歴史から見ると本当に最近になって認められてきたことですよね。
仏教の出家っていうのも同様でして、やりたいことをやってるんです。
だからその意味においては、現代の日本の価値観と仏教の出家っていうのは共通点があります。
ただ大きく違う点っていうのがやっぱりあるんですね。
仏教の場合は、みんなが出家するってことは想定してないんです。
だからいわば自分の好きなように生きる人っていうのは一部の限られた人にとどまるってことを分かってたんです。
なぜなら仏教の出家って欲望を捨てるわけじゃないですか。
この欲望を捨てるっていうあり方は、人間の本来の姿に反するってことをブッダはよく理解されてたので、
よく自分の教えは世の中の流れに逆らうってことをおっしゃってるんですよ。
これはそういう欲望から離れるっていうのが非人間的だってことをブッダは分かってたんですね。
だからそういうふうに言われてるので、みんなが出家するなんて全然思ってないんですよ。
でも、現代の日本はみんなが好きなことをやる社会なので、みんなが出家するって言ってもいいんですよね。
だから古代インドの場合はですね、一部の人間だけが出家してた、好きなことをやってたので、
社会の根幹が変わるってことは考えてなかったんです。
でも、現代の日本はどうかっていうと、やっぱりみんなが好きなことをやるので、おそらく社会構造が大きく変わっていきます。
今現在も変わってますけど、今私たちの世代から次の世代ぐらいになると、かなりガラッと変わると思うんですね。
これから仏教を学びたいと思う初心者の方に向けて仏教を解説するポッドキャスト、
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