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皆さん、おはようございます。
今日もいい天気の中で、一緒に守られて、また、主が私たちに教会に行こうという心を起こしてくださって、一緒に礼拝できますこと、本当に感謝いたします。
また、いつも皆さんが教会のために、あるいは福祉家庭のために、あるいは私の癒やしのために、祈ってくださっていること、本当に心から感謝いたします。
一つ、訂正のお知らせをしたいと思うんですけれども、
第一誠実に、今月から私の抗がん剤の治療が始まるというお知らせをお載せしましたけれども、
先週の金曜日の概覧に行って、先生ともう一度相談したところ、予定が変わりまして、10月半ば、あるいは末、あるいは11月からになるかもしれません。
ということは、患者の私としては、今、5月末から肺炎のために薬を飲んでいて、抗がん剤の治療を止めてまして、3ヶ月経っているんですけれども、
それで、ちょっと心配になるんですね。気になって、そのうちに何か起きたらと心配して相談していたところ、今のところ先生は大きくなっていないし、
その症状も血液の検査もいいので、急がなくていいということで、後になりました。
なので、いい意味で元気であるということで、感謝しております。
それで、多分10月半ばか、末頃からになるかなと思いますので、よろしくお願いいたします。
それで、水曜日とかに休むことを予定しておりましたが、今週の水曜日から、私がメッセージさせていただきますので、お祈りくださればと思います。
では、一言密着お祈りします。
天の父な神様、主の恵みよ、またお守りを感謝いたします。
あなたを愛して、心を尽くして、またこの世に集まっているこの群れ、一人一人を覚えてどうかしよう。
我々の礼拝が主が喜んで受け入れてくださっていることをしよう。
信じて感謝いたします。
また、私たちは賛美を通して、あるいは捧げ物を通して、また説教を聞く心の姿勢、身体の姿勢を持ってあなたを崇めます。
主よ、また、あなたに私たちが捧げるこの信仰を、それを主がご覧になって、
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どうか主よ、主のお言葉、主の掟よ、主のメッセージを、どうか一人一人に聞かせてくださいますように、お願いいたします。
礼の目を覚まして、肉の目も覚まして、主よ、あなたの御声をしっかりと心に、板に刻み付け、覚え、そして信じて、またそれに答えを行うことができますように。
その信仰の力も主がお与えくださいますように、お願いいたします。
主よ、感謝いたします。イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。アーメン。
はい、まだ緊急事態がですね、成立としては来週で終わると思います。
いろいろあってですね、礼拝に行くことも躊躇したり、あるいはまたお仕事をですね、多くの人が集まっているところに行きにくい、あるいは行けない、あるいは行けない、いろいろ事情があろうかと思います。
いじめしてもどんな形であろうが、自分の信仰は御霊によって、神によって守っていかなければなりません。
その責任は結局自分にありますね。
いや、2年間コロナのせいで私の信仰がこんな模様になったという言い訳は、神様の見舞いではできないと思います。
なぜなら、コロナであろうが何であろうが、その試練の中でですね、ますます信仰が成長し、燃える人は世界中に大勢いるからです。
だからですね、私たちは何しろですね、神の前には自分の信仰は御霊によって、自分の責任を自分が負ってですね、守らせていただかなければなりません。
ちなみにですね、皆さんにも祈っていただきたいと思いますが、コロナで多くの国でですね、患って亡くなる方も大勢いますけれども、そんな中でですね、私たちはクリチャンとして、また私は牧師でありながら選挙士でありますから、いろんな情報、正確な情報が入ってきていますが、
こういうコロナの中でですね、例えばアメリカの選挙士とか、あるいは主に韓国の選挙士がですね、東南アジアとか南米とか、あるいはアフリカとかですね、そこはこの医療とか安全とは言いにくい状況じゃないですか。
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だから一応ちょっと、逃げるんじゃないんですけどね、とりあえずちょっと身を避けて帰国してワクチンを打って、それから戻る選挙士もいますが、それすらできない、あるいはそうしないですね、その選挙地に残ってですね、結局そこで悲しくですね、コロナにかかって、
そして入院したり入院もできなかったりして、亡くなって殉教される選挙士が毎週増えているんですね。
その中でですね、本当に命をかけて、命を捧げて選挙をする、国会をする、教会を愛する隣人を愛するということは何であるかということですね。
本当に改めてですね、その情報がメールで入ってきて毎週見ていますけれども、本当にですね、心に痛いというか、刺激というかですね、それが来ています。
ですから私たちも良い環境や状況の中でですね、礼拝が本当に守られていることは、祈りの中にもありましたように当たり前ではない。
本当に、だからこそ私たちはあらゆる意味で守られているからこそ、ほかの本当に難しい状況の中で奮闘している人々に比べて、いく倍も命をかけて礼拝をしなければならないのではないでしょうか。
そういうことですね、この頃本当に思わされるところであります。
さあ、今日は創世紀の30回目になります。
天地の神、主を信じるとは、になります。
24章まで来ました。
だいたい50章までありますから、半分ぐらいまで来ています。
本当に感謝いたします。
天地の神、主を信じるとは、どういう信仰なのかをね、聖書の言葉から学んでいきたいと思いますけれども。
一つですね、例えとして、皆さんテレビの番組の中で初めてのお使いという番組、ご存知ですか。
4歳、3歳、それぐらいの小さい子供にですね、初めて一人であるいは二人でね、お使いしてですね、その奮闘ぶりを描いた番組がありますよね。
そしたら、そのお使いをする子供を見ている番組のゲストさんも見ている、私たちもハラハラとキュロキュロしながらですね、見るわけなんです。
子供が無事帰ってきて、お使いも成功したら、お母さんは涙をこみますね。
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これを見て、今日お使いということをちょっとね、連携付けて話をしたいと、最初ですね、始めていきたいと思いますが、
今日の聖書には、とても大事なお使いを頼んだのに、全然ハラハラドキドキしない一人が登場をします。
彼はアブラハムです。
アブラハムはですね、自分の大切な息子イサクの嫁を迎える、この重大なことでしょう。
息子の将来、このアブラハム一家の将来にかかるものですから、本当に重大なことだと思うんです。
それをですね、自分の家の中で年長の下辺に、もう全てを任せるんですね。
で、彼にお使いを頼むわけです。
さあ、その時にアブラハムがその下辺に話をしている時に、そこにですね、アブラハムの信仰が現れている言葉があります。
3節皆さんご覧くださいますか。3節も出してくださいね。
最初の部分だけを見ますと、私はあなたに天の神、地の神である主にかけて誓わせるとあります。
ここなんです。天の神、地の神である主にかけて。
さあ、アブラハムは神様を何と言っていますか。
ただの神じゃないですね。あるいは、ただの主じゃないんです。
天の神、地の神である主。つまり、天地の神主ということかです。
ですから皆さん、アブラハムは、自分が信じている神様は、天地の神だから、どうですか、全ての神様である。
そして、その神様は主であるという告白が、この言葉に含まれているんです。
それをまず今日覚えてほしいんです。
そしてですね、アブラハムはなんと、この10代の自分の100歳に得た息子イサクの嫁を迎えることをですね、
もう自分がいかない、あるいは自分に何でもできる、相当な財産もあるし、地位もあるし、権力もあるし、
このコミュニティで有名な人だと思うんですよ。何でもできる、そういうアブラハムだったと思いますけれども、
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なんと彼は、その息子の嫁を迎えることにあたって、自分の思い通りにしないんです。
自分の願い通りにしないんです。自分の希望通りにしないんです。
できるんですね、自分にですね。もしかしたらですね、周りの人々がですね、アブラハムさん本当に偉いから娘を持っている人がですね、
アブラハムさん、あのね、うちの娘はいかがですか。イサクさんの嫁にぜひぽつかせてくださいとですね、お願いもしている人がいたかもしれません。
しかしですね、アブラハムは一切そうしませんでした。自分にそれができる十分な能力や権力があったと思うんですけれども、
アブラハムは自分勝手な選びをしませんでした。
彼は天地の神、主に完全に委ねました。そしてそこにはですね、もう一切干渉もしません。
もうあの年長の下人にもう全部任せるんですね。
だから彼はですね、自分が一緒に行こうともしないんです。
信頼している年長の下人にですね、もう全部委ねました。
でもですね、それはもちろん彼はその下人を信頼していたからでしょうけれども、それを超える信頼があったからなんですね。
それは誰に対する信頼でしょうか。
アブラハムは天地の神、主が主御自身がこの下人に確かに遺作の嫁になる女の人に出会わせてくださるんだという確信を持っていたのです。
ですからアブラハムはですね、こんな大事なことを頼みながらもハラハラドキドキしないんです。心配もしないんです。
下人にですね、ああしなさい、こうしなさい、もう事項なくですね、もう支持することすらしないんですね。
私の国、新チョコロのところに行って遺作の嫁になる娘を連れて来なさい。それだけなんです。
すごいと思いませんか。皆さんがもしね、お息子さんのお嫁さんを迎えるようにですね、
皆さん見てもない、会ってもない人をですね、他の人に頼んで迎えることは絶対しないでしょう。
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アブラハムは天地の神、主に対する完全な信頼がありました。
だからしもべを送っても、このしもべにお仕えして頼んでも心配しない。
神様が、すべての主である神様が、天と地の神、主なる神様が、もうちゃんと約束の娘を出会わせてここまで送ってくださると、彼はすごく強い確信を持っていたんですね。
信頼を持っていたから、もう委ね切ったわけなんです。
でも皆さん、アブラハムは本当にもう生まれのときから、生まれつきのこんな信仰信頼を持っていたんでしょう。そんなことはありません。
彼はこの信仰成長の道のりを歩んで、歩んできた結果、今日のような信頼が育っていられたんです。
振り返って、さかのぼって見てみたいと思います。
彼はですね、神様から、空の星のように数え切れないほどの子孫を私が与えるよという約束をいただきましたね。
しかし、何年を待っていても子供が生まれなかったんですね。
だから、そのうち失敗もありましたね。はがるに子供を産んでもらう失敗もしてしまいました。
それでも神様は彼に、さらに改めて、もう一度二度約束を確かめてくださいました。
そして、いよいよ百歳のときに遺作が生まれました。
その後は神様の命令に従って、あの森屋の山でですね、遺作を捧げる者として捧げようとまでしました。
そこで彼は、アドナイイレの神を経験しました。
このようにですね、彼は長い間、いろんなテストを通して、
今日のような立派な信仰、信頼が育っていられたんですよ。
神様の様々なお取り扱いを受けて、彼は徐々にどんどん信仰成長を成してこれたと言えるでしょう。
そこにはもちろんですね、神様の忍耐や憐みが豊かに注がれたからなんです。
だからですね、神なしに信仰成長はありませんね。
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このアブラムの生涯を通しての信仰成長、信頼を考えるときに、
これはですね、私たちにも大きな励みと希望を与えてくれます。
私たちはどうでしょうか。
生まれつきの信仰どころか、以前は神様を知らない者たちでした。
ある場合は、信仰の信者の家族から教会の集会に、礼拝に何度も誘われても無関心なものでした。
あるいは反対していたかもしれません。
クリスチャンが教会が嫌いだったかもしれません。
あるいは私は無宗教だ、これでいいんだ、そういうふうに思っていた方が、ここにおられるかもしれません。
しかし、そんな私たちを、天地の神様、主なる神様がですね、私たちを信仰の中に招いてくださって、
あるいは声をかけてくださって、働きかけてくださって、今の私たちがいるわけなんです。
この信仰に至っているわけなんです。
そして神様は、昔も今も、これからもでしょうけれども、天地の神主はいろんなことを通して、
時には試練、テスト、あるいは苦しみ、あるいは嬉しいことを通して、我々の信仰を引き上げて成長してくださるでしょう。
ローマは一日してならずという言葉がありますね。
それを適応して、信仰は一日してならずと言いたいところです。
確かに神様は私たちを変わらせてくださるわけですけれども、ただ私たちが何もしなくても、信仰成長がオートマチックで成長するわけではないんですね。
信仰成長を目指して歩み続け、信仰のチャレンジをし続けていきたいところです。
例えば、アブルハムがモリアの山まで3日かけて行ったように、遺策を縛ったように、その遺策を祭壇の上に乗せたように、彼をホフロとしたように、
あるいは今日のように、約束を信じて、自分の国、親族の中から娘を、嫁を迎えるこのアブルハムのように、私たちも神様の命令に従う行いをやり続けていきたいんです。
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それが信仰ですし、それが信仰成長につながります。
だから、そういうふうにしていくときに、やり続けていくときに、アブルハムのように途中で失敗があっても立ち直って、また信頼し続け、行い続けていくときに、
ある日、ふと後ろを振り返ってみたら、自分の人生を、信仰を振り返ってみたら、
ああ、なんと神様は私の信仰をここまで成長してくださったんだなと思って、感謝して、主を褒めたたえるようになるんじゃないでしょうか。
では、このアブルハムを通して、この出来事を通して、天地の神、主を信じるとは一体どういうものなのか、2つでまとめてお話したいと思います。
字幕に出ますけれども、1番目、私は主人ではない。
2番目、私のものは一つもない。
この2つでまとめさせていただきました。
1番目、私は主人ではないことです。
確かにアブルハムは、天の神、地の神である主と指しています。主です。
誰が主ですか。神様が主です。
そしたら私たちは何者ですか。しもべです。
私はしもべである。私は奴隷である。
神様が主であり、神様が主人であるという信仰による自己認識をもって生きることです。
皆さん、これは新しい発想ではありませんよ。
天地の神、主を信じるということは、もはや私は自分の人生、自分のすべての主人ではないという信仰を告白をして、
主よ、神様、あなた様が主人です。あなたが主です。私はしもべです。
主のお命じになるとおりに私は指していただきますと信じて生きることなんです。
新しなしではありません。
先週与えられた御言葉、ローマ人への手紙14章8節、皆さん、心に残っているでしょうか。
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私がお読みします。
私たちは生きるとすれば、主のために生き。
誰のために生きますか。主のために生きます。
自分のためじゃないんです。主のために生きます。
死ぬとすれば、誰のために死にますか。主のために死にます。
ですから、生きるにしても死ぬにしても、最後は一緒に読みましょう。
私たちは主のものです。
もう一回、私たちは主のものです。
皆さん、お答えいただきたいです。私たちは誰のものですか。
誰のものですか。主のものです。
あなたのものじゃないです。自分のものではありません。
神様のものです。すべては神様のものです。
これが信仰です。これがイエスを信じることです。
アブラハムがイサクの嫁を選ぶことだけを見ても、
彼はすべてを主に委ねていることがわかります。
自分の考えや好き嫌い、希望すら持っていません。
自分は下辺だから、神様が主だから、自分で選ぶこともしません。
介入することすらしません。自分の意見を述べることすらしません。
神様が選んでくださる約束の娘を嫁に迎えるのだという、
委ねる信仰を持っていました。
アブラハムは、しもべ意識をしっかり持っていました。
これは大事です。
イエス様を信じるということは、かつては私たちは、
自分の人生、自分のもの、自分の家族、すべては、
そのオーナーは、主は、自分だと思っていました。
神様を信じる前にですね。
しかしですね、イエス様を信じてからは、それが変わるわけなんです。
いや、変わらなければならないんです。
自分が主で、自分がオーナーであった。
そこから、もうまるごと変わってですね。
私はしもべである。
神様が主である。
神様がオーナーである。
私は主のものである。
そこにチェンジする。
切り替えをするんです。
それが信仰なんです。
でもですね、こういう話を単純に聞いてしまったらですね。
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いや、私たちはロボットじゃないでしょうとかね。
いや、そんなしもべだったら、
もうそんな非人格的な神は好きじゃないね、みたいに。
そういうふうに考えないでほしいんですね。
なぜならですね、私たちは自分自身を皆さん、
かえり見ていただきたいんですが、
ついついと自分が主人であるかのように、
生きてしまいがちなものだからなんです。
本当の主人がおられることを忘れがちなものだからなんです。
主よ主よと呼びながらも、
実は自分が自分の人生のオーナーになって、
振る舞って生きやすいものだからなんです、私たちは。
しもべは一体何者なんでしょうか。
しもべはですね、自分の人生も能力も将来も、
すべてがですね、自分の所有ではありません。
主人の所有なんです。
その信仰による自己認識をもって生きることが、
しもべ認識、信仰なんです。
だからすべてのものは、天地の神、主のために使われるべきですし、
それがしもべなんです。
それが我々のクリスチャンのアイデンティーなんですよ、皆さん。
アイデンティー。
もう一箇所見ていきましょう。
ガラティア人への手紙、2章20節。
正書か前の字幕をご覧ください。
一緒に読みたいと思います。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉において生きている命は、私を愛し、
私のためにご自分を与えてくださった神の御子に対する信仰によるのです。
アーメン。
ここにですね、
信仰に入ってから私たちは死にました。
かつて自分がオーナーであって、自分が主であった我々はみんな、
もう全部その自我は死んでですね、主なるキリストが生きているんです。
だからですね、天地の神主を信じるとは、
もはやかつての私は死んだ。
そしてキリストが私のうちに生きているから、
生きているのは私ではない。
キリストが生きているのだということじゃないですか。
だから信仰、天地の神主を信じるということは、
30:01
この信仰告白をして、これを信じて生きているものということなんです。
皆さん、自分自身の人生を、歩みを考えてみていただきたいんですね。
本当に私たちは主人の意識を持っているのでしょうか。
しもべの意識を持っているのでしょうか。
いかがでしょうか、皆さん。
皆さんは本当に神様のしもべとして生きてきたのでしょうか。
皆さんの人生、子供、将来、家庭、収入、
失智、健康、病気、趣味、時間の誓い方などなど、
全て本当の主なる神様のために捧げて委ねきているのでしょうか。
死のために、主人なる神様のために持ちさせていただいているのでしょうか。
あるいは、委ねはしているんだけれども、
ハラハラドキドキしたり、感謝したりはしないでしょうか。
委ねてはいるんだけれども、
自分の好み、好きにさせようとはしてはいないでしょうか。
あるいは、あんまり委ねてはいないでしょうか。
正しい信仰による自己認識を持ってほしいんですよ。
もう一度繰り返しますが、私たちは主人ではありません。
しもべです。
これを早く切り替えて、自分が主人になろうとする思いを、
罪の性質を高ぶりを打ち砕いて、
それをもうやめさせて手放さなければならないんです。
そうしないと、神様は忍耐して忍耐して耐えてくださるんだけれども、
それでももう神様から見てダメでしたら、
すべてを神様が囮になることもあるでしょう。
家族を、健康を、金銭を、あらゆるものを主に取られてしまってから、
私は主人ではなかったんだと考えさせられ、悟らされることもあります。
しもべはすべてを自分の思い通りではなく、
主なる神様の思い通りにして生きるものです。
33:00
それがしもべです。
この信仰にしっかり立ちたいところです。
2番目は、天中の神師を信じるとは、
私のものは一つもない、私のものは一つもないという自己認識を持って生きることです。
いかがですか、皆さん。
油も考えてみてください。
何度もお話ししていますけれども、
実際に生まれたあの宝石のような大切な遺作を、
さばいて神に捧げようとした。
もうすでに捧げたということなんじゃないですか。
アブラハムはその遺作さえも自分のものではないんだという、
その信仰認識を持っていたんです。
だからこの遺作の妻を迎えることに対しても、
自分の意見を主張しないんです。
いくらでもできるでしょう。
でも一切しないんじゃないですか。
国のところ、新宿に行くことすら自分の意見ではないんですよ。
神様の御言葉通りなんですね。
だからアブラハムは実は何もしていないんです。
神様が言われた通りに、しもべに頼むだけなんですね。
実はウルにはそんなきれいな女の子もいないし、
ウルの隣の大阪の方がいいと思うから、
ちょっと境界線を越えて隣の町も見てみてねって、
そんな話もしていないんです。
あるいはあなたが出会った娘が、もし貧乏さゆえの娘だったり、
あんまりきれいじゃなかったら、
もう二人目、三人目も会ってみてね、そんな話も一切していない。
アブラハムは自分の主張をできるんですけれども、
もうすべて神様に委ねているから、
もう何の考えもないような、そういうふうに見えるくらいなんですよ。
それほど委ねているから、委ね切っているから、
アブラハムはある意味で平気なんですね。
心配しないんです。
ドキドキ、スワスワ、緊張、心配しないんです。
なぜでしょうか。
私のものは一つもないという信仰認識を持っているからなんです。
皆さんどうですか。
皆さんのもの、将来、希望、健康、病気、家族、金銭、
全ては本当に私のものは一つもない。
全て、主よ、あなたのものですと、
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そういうふうに委ねて捧げて生きているんでしょうか。
あるいは、口先ではそう言っているんだけれども、
実は握りしめているんでしょうか。
あるいは捧げようとして、
そういうふうに信仰に行こうと歩もうとしているんでしょうか。
どっちなんですかね、皆さん。
アブラハムは、ある意味ですね、
もう遺作を神様に委ね切ったから、
もう完全に委ねたから、
自分の息子なんだけれども、自分のものでない、
もう神のものなんだ、あなたの息子ですよ。
もうあなたに責任があって、あなたのものだから、
もう神様、あなたの思い通りにしてくださいねと、
そんなふうの父なんですね。
委ねることができるから。
これは決して無責任じゃないんですね。
全く信頼なんですよ。
これが私たちに欲しいんですよ、皆さん。
我が家の子とお話をさせてください。
我が家の子どもも今年で23、19、15歳になりました。
いつの間にかどんどん大きくなって、
就職先も決まっているし、
もうすぐ主たちもすると思うし、
また娘たちは少なくとも多分、
ためで10年以内には結婚もするだろうと思うんですね。
これらを考えるときに、
親としての願いやら、希望やらいろいろあるわけなんです。
もちろんどうでもいいこととか譲ることもできることもありますが、
もう譲ることができないことはもちろんあります。
例えば神を第一にすること、礼拝を第一にすること、
信仰を第一に優先にすることも他にもあります。
同時にこの説教を準備しながら、
アブルハムがイサクを神様に完全に委ねるこの信頼の様子を見ながら、
本当に私自身教えられましたね。
子どもたちは私のものではない。
私の所有ではない。
神様から預かったものなんだという認識ですね。
もちろん責任はありますよ。
ちゃんと信仰を植え付けて、指導して、教えて育てる責任はちゃんとありますね。
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でもどの親も子どもに対して、親としてのいろんな希望が、
希望というか願い、願望、あるいはそれを超える欲望があるかもしれませんね。
普通に一般的に言うならば、自分の子どもに対して、
できればいい成績をとってほしいとか、いい学校に入ってほしいとか、
いい職業を持ってほしいとか、いろいろあるかもしれません。
でもフリーシャンとして、神様から預けていただいたこの子ども、
子どもだけではないでしょう。
我々の人生を、健康を、賜物を、財産を、才能を、さまざまなものを、
神様から預かったものなんですね。
生きている間、80年、90年、
生きている間、神様から預かったもので、私たちが亡くなったら、
神の前でそれを生産をしなければならない。
私はあなたに子どもを3人預けました。あなたはどうしましたか。
私はあなたに90年の時間を預けました。あなたはどうしましたか。
私はあなたにこれぐらいの財産を預けました。あなたはどうしましたか。
私はあなたにこのような賜物、才能を預けました。あなたはどうしましたか。
と、必ず私たちは生産をしなければならないんです。
だから、このしもべの信仰認識を持っていきたいんですよ。
主よ、私のものは一つもありません。
全て主に完全に委ねますと、そう宣言してください。
そしてその通りに生きていってください。
もちろん途中で失敗があるかもしれません。
また、いつの間にか握りしめている我々が見えてくるかもしれません。
自分が大中のように振る舞っている自分が見えるかもしれません。
そこからまだ主から教えられて、悟らされて、また主よ委ねますと。
そういうふうに生きていく道が、成果の道であり、
しもべとして生きる信仰の道なんですよ。
メッセージを最後に一つの箇所だけ見て終わりたいと思います。
使徒の働き11章26節を見ていきましょう。
使徒の働き11章26節。
初代教会の時代にイエス様を信じる人たちを初めてキリスト社と呼ばれるようになったんですね。
その箇所がこの14章26節。失礼しました。
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14章26節。前の字幕皆さんご覧ください。
その最後にこういうふうにあります。
弟子たちはアンティオキアで初めてキリスト社と呼ばれるようになった。
ここのキリスト社という言葉です。
キリスト社、英語ではクリスチャンと書かれているでしょう。
日本語はキリスト社と訳されていますが、
この意味はキリストに、つまりイエス・キリストに属するもの。
あるいはイエス・キリストに所有されたものという意味なんです。
つまりイエスのもの、キリストのものという意味なんです。
だから皆さんが、あなたはクリスチャンですか。
はい、そうです。私はクリスチャンですと答えるでしょう。
私はクリスチャンです。私はキリスト社ですという意味は、
私はイエス・キリストに属するものです。
私はイエス・キリストに所有されたものですという意味なんです。
これが私たちのアイデンティティなんです。
だから私たちは種ではない、種目です。
私たちのものは一つもありません。すべて種のものです。
ただ預かったものです。すべては。
メッセージをあげたいと思います。どうか。
キリスト社、キリストに属するものという、この名にふさわしい生き方で生きていきたいところです。
私は種ではない、種目である。神様が種である。
私のものは一つもない。すべてのものは種のものです。
この告白をして、この自己認識をもって、
しもべとしてのアイデンティティを持ち続けて、
天と地の神である種にお使いしてまいりましょう。
お祈りします。