世間の権威とイエスの権威
今週の18日金曜日に、ある映画が上映されます。
警察映画ですけれども、踊る大捜査編、皆様ご存知でしょうか。
ドラマの頃から見ていた方もおられるかもしれません。
主人公の小田祐治演じる青島刑事がいますが、
彼が会議室で口論する警察上層部に向かって叫ぶ有名なセリフがあります。
事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ、という有名なセリフがあります。
これは、現場の苦労、状況よりも、安全な場所からルールを押し付けてくる
上層部の権威に対する青島の叫びであると思います。
事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ。
私たち夫婦の尊敬するある先輩牧師は、この青島の精神に憧れて
わざわざトレードマークのカーキ色のコートを購入して愛用しておられたということがありましたけれども、
私たちのイメージする世の中の権威というものも、この青島と似たイメージかもしれません。
安全な高い場所から現場の苦労を知らずに、それよりもルールを優先する。
そして現場よりもルールをもって私たちをコントロールしてくる。
そんなイメージがあるかもしれません。
私たちが生きているこの現実という現場にも、さまざまな声やルールが飛び交います。
それは家庭でも職場でもあるいは教会でも、そして何より自分自身の内側から聞こえてくる正しさの声があるかもしれません。
自分自身の内側には皆様にはどんな正しさな声があるでしょうか。
ちゃんとした信仰者であらねば、役に立てなければ自分に価値はない。
あんな時した失敗は許されない。私は正しくあれなかった。など。
一見するとこれは自分を鼓舞するための声とも言えるかもしれませんが、
気がつくとそれは私たちの心をすり減らし、神の前に自由に立つということを妨げる重荷になってしまうことがあります。
どれほど正しく立派に聞こえる声であっても、私たちを恐れとプレッシャーで縛りつけるならば、それは福音ではありません。
家様は私たちが神様の前に立つために正しさを振りかざしたり、重いルールを課したりはなさいませんでした。
地なる神様から委ねられた誠の権威をもって、私たちを縛りつける声を根底から打ち破ってくださる、そして自由へと開放してくださるお方です。
イエスの教えと立法学者
今日お開きしたマルコの福音書には、イエス様が人々にこれまで一度も経験したことのない圧倒的な衝撃をもたらされた姿が描かれています。
一つ目のポイントです。自由への宣言としましたけれども、前回イエス様はガリラヤコのほとりで共に宣教の働きをしていく、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子とされました。
私についてきなさい。人間を取る漁師にしてあげようと。この招きに応えた四人と共に宣教の第一歩を踏み出されました。
今朝の二十一節、早速安息日に街道に入って、イエスは早速安息日に街道に入って教えられたとあります。
マルコの福音書らしい、よい早いテンポを感じる展開です。早速安息日に街道に入ってイエス様を教え始められました。
私はこの箇所を見るたびに、そんな飛び入りのように入ってイエス様を教えて大丈夫なのかといつも心配していたんですけれども、
当時のこのユダヤ教の礼拝においては、その日たまたま来た教師がそのまま教えるという習慣があったそうです。
なので突然来たイエス様が飛び入りで教えを語ること自体は珍しいことではありませんでした。人々は思っていたかもしれません。
ああ、今日もいつものように立法の退屈な厳しいルールの解説を聞かされるんだろう。
でもイエス様の教えは人々にとって雷に打たれたような衝撃をもたらすものでした。
22節
人々はその教えに驚いた。イエスが立法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。立法学者たちのようにではなくとありますが。
立法学者は神の言葉の専門家です。
誰よりも立法を学び、誰よりも守る第一人者です。
それなりに厳しい指導を受けてきていますし、神の言葉を歪めてはならないという強いプライドを持って厳格に教えていました。
しかし立法は本来、私たちが神様の御心に従って歩むために教えられている、与えられているはずです。
立法学者たちの教えは、やがて守ること自体に気を取られ、何々せねばならないという強制的なものになっていってしまいました。
立法学者の権威による教えは、人々を縛りつけるものとなってしまったのです。
こう抗わらねばならないというプレッシャーに囚われてしまうことは私たちにもあると思います。
それはいつしか、そう抗われていない自分、また他人を縛っていってしまうことになります。
しかしイエス様は違いました。何々せねばならないと正しさを強制する裁判官としてではなく、神の言葉そのものとしてイエス様は語られました。
神の御子の言葉であり、神御自身の権威に満ちた言葉でした。
イエス様は宣教の始め、1章の15節でこのように宣言なさいました。
時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
神の国とは、神の恵みの御支配です。
神の恵みの支配はもう始まった。
自分を縛っている、ねばならないという正しさの声から、この福音へと向きを変えなさい。
人々は今まで聞かされてきた立法の厳格なルールとは違う、圧倒的な権威の言葉に驚かずにはいられませんでした。
さて2つ目のポイントです。
穢れた霊とイエスの権威
愛の権威としましたけれども、このイエス様という圧倒的な権威の言葉を聞いて、その場に佇んでいたある存在がたまらず叫び出します。
街道の中にいた穢れた霊です。
23節24節
神を礼拝する場所に穢れた霊が潜んでいたというのです。
なぜでしょうか。
もしこの礼拝の場所が神の恵みではなく、何々せねばならないという正しさの声で満たされている場所であったとしたら、
そこは悪霊にとって居心地よい、悪霊が支配しやすい場所だったかもしれません。
礼拝の場においても心の内側には誰にも言えない重荷、自分は正しくあれないという恐れに固く縛られていた人が存在していたということです。
悪霊の目的、彼らの目的は今も昔もただ一つです。
それは、神と私との愛の関係を引き裂くことです。
お前は足りていない、神の前に立つ資格がないと私たちの耳元でささやき、神様との生きた交わりから私たちを遠ざけようとします。
しかし悪霊は叫ばずにはいられませんでした。
なだれの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。
イエス様の圧倒的な愛のご支配が訪れたことで、悪霊は人を固く縛りつけてきた偽りの支配が根底から打ち砕かれてしまうという恐怖をしたのです。
私たちがこうあらねばならないと自分を裁く声に縛られているとき、イエス様はただ一言を命じられます。
25節、黙れ、この人から出て行けと。
ここで使われている黙れという言葉、ギリシャ語でヒモシティと言うそうですけれども、
口に靴羽をはめられよ、二度としゃべるなというような意味があります。
二度としゃべるな、これは絶対的な命令です。
私たちを内側から苦しめ、神様の愛から引き離そうとする一切の自己否定の声に対して、黙れ、二度としゃべるなと。
イエス様はその言葉を一撃で打ち砕くことがおできになるお方です。
イエス様の言葉によって悪霊はこのようになりました。
26節、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげてその人から出て行った。
イエス様は私たちをこの縛られる声から枷とでも言うでしょうか。
自分を縛る声という枷から解放してくださり、真理の自由へと踏み出させてくださるのです。
この光景を見て人々は再度驚きました。
27節、人々はみな驚いて互いに論じ合った。
これは何だ、変異ある新しい教えだ。
この方が汚れた霊にお命じになると彼らは従うのだ。
イエスの評判と十字架の権威
今日の箇所には驚いた、人々が驚いたという言葉が二つ出てきていますけれども、
この27節の驚きの中には恐れが含まれています。
旧約聖書の時代、人は聖なる神をこの目で見たら死んでしまうとされていました。
人々のこの二回目の驚きは、悪霊を従わせるほどの
変異ある存在を目撃したということへの恐れが伴っていた驚きです。
この出来事を通して28節、
こうしてイエスの評判をすぐにガリラや周辺の全域至るところに広まったとあります。
これまで一度も経験したことのない圧倒的な衝撃をもたらしたイエス様の評判は
すぐさま噂され人々に広まっていきました。
結論に向かっていきたいと思います。
最初にも言いましたが、世の中でイメージする権威とは、
他者を自分に従わせ、上からコントロールし支配するための力かもしれません。
しかし、父なる神様から完全な権威を委ねられたイエス様は、
その権威をどのように用いられたのでしょうか。
イエス様は天皇王座からこの世界を眺め、
すべてのことをコントロールするということは簡単にできたはずです。
しかしイエス様はそうはなされなかったのです。
ご自身の権威をもって、私たちの悩み苦しむこの現場のただ中へと
自ら降りてきてくださいました。
ヨハネによる福音書、10章18節にこのようにあります。
前にも出ると思いますが、イエス様の言葉です。
誰も私から命を取りません。私が自分から命を捨てるのです。
私には命を捨てる権威があり、再び得る権威があります。
私はこの命令を私の父から受けたのです。
イエス様は地なる神様から委ねられた完全な権威を
罪人を愛し、買い取り、救い出すために
ご自分の命を十字架で捨てることへと
その完全な権威を使われました。
そして再び得る権威とありましたけれども
イエス様は死に討ち勝ち、よみがえりの命を
その完全な権威をもって
私たちに永遠の命を与えてくださいました。
イエス様の権威とは、私たちをどこまでも愛し抜き
命を与えるために使われる権威なのです。
この宗イエス様を信じるということは
自分自身をイエス様のこの完全な権威に委ねていくことです。
こうあらねばという恐れを手放し
神様の権威に丸ごとの自分を明け渡していくことです。
私たちを縛るすべての声に
黙れ、出て行けと命じ
ご自身の命をもって十字架と復活の身業をなしてくださった
そして私たちを真理の自由へと招いてくださるイエス様です。
今一度この恵みを共に受け取りたいと願います。
このイエス様の圧倒的な恵みの権威によって
私たちは今日からも生かしていただくのです。
お祈りをいたします。