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2026/09/27 聖日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第二 9:1-8


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サマリー

加藤満牧師が、サムエル記第二8~9章を通して「恵みの器」として生きる道を語る。神が求めるのは強さではなく、自分の弱さを知り、主の哀れみと導きに信頼する器である。ダビデは軍事力に頼らず、主の勝利を信じて周辺諸国を制圧し、神がアブラハムに約束した土地と、正義・公正に治める国を実現した。続く9章では、ヨナタンとの契約を覚えてメフィボシェテを探し出し、死ではなく財産の回復と王の食卓への招きを与えた。牧師は、受けた恵みを抱え込まず他者へ流すことを、映画『ペイ・フォワード 可能の王国』の「3人を無条件で助け、次の3人へ渡す」発想と重ねる。信徒一人ひとりが、神から受けた恵みを誰かに具体的に渡す責任を考えるよう促された。

強さではなく主の哀れみを満たす器
それでは一言お祈りを致します。 恵み深い愛する天の父なる神様、
尊い皆を心から賛美を致します。 今朝も私たち一人一人を主の御前へと招いて下さり、
あなたを仰ぎ礼拝ができます幸いを感謝を致します。 これが当然でないことをいつも思います。
ここに来たくても来れない一人一人がいることも覚えておりますけれども、
しかしあなたは私たち一人一人を恵みの身腕を持って確かに支え、この場所へと導いて下さいました。
あなたの愛は確かに私たちに表されました。 イエス・キリストの十字架の父よ、
それにより私たちの罪が許され、神のことされ、復活の命永遠の命が与えられ、
永遠なる死と共に生き続ける新たな生涯を開いて下さり、
あなたは自分の足で立つのではない、私の恵みによって歩みなさいと、
あなたの恵みの世界へと私たちを招き入れて下さったことを心から感謝を致します。
祈られたように、日本でまた世界で災害によって苦しんでいる方々、
ご家族を亡くして悲しんでおられる方々がいらっしゃることを覚えております。
増加者がお一人一人を慰め、そのところにあって、
あなたの癒しの御業、回復の御業をなおも人々を通して進めて下さいますように、
お願いいたします。
世界の異星者の間で先週は話し合いが持たれました。
一応またその異星者のうちにも、あなたが働いて下さいますように、
世界が滅亡ではなく和解へと向かうことができるように、
平和の主御自身が世界を治めて下さいますよう、
お願いいたします。
神様、ここに来たくても来れない一人一人の中に、
本当に深い憂きを持って日々憂いておられる方がいることを覚えております。
どうかその兄弟のうちにも、あなたが平安を与えて下さいますように、
施設におられる方、また心が弱ってここに来れない方もいらっしゃいます。
お一人ひとりを慰めて主の身元へと
また近づいて来て下さいますよう、お願いいたします。
あなたの御言葉に期待をいたします。
どうか主が御言葉を開き、私たちに今朝も悟りを与えて下さい。
あなたに委ねして、イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
私の新学校の恩師の一人に、もう召されましたが、
中澤隆一先生という先生がいらっしゃいます。
先生が校長をして下さったときに私は学生でしたが、
先生は様々な国会経験からいろいろなお話をして下さいました。
一つ印象に残っている話は、
先生があるとき、教会の御夫人の家に訪問に行かれた。
そしたらそこから、教会からしばらく離れている御主人が出てきたんです。
中澤先生と楽しくおしゃべりする中で、
エスカレートしてその方が牧師批判を始められたんですね。
いわく、最近の牧師は熱意が足りない。
弱々しい。
すみません、私。
でも精神的にもっと強くならないかんということを、
その方は先生に言われた。
先生はその方の話をゆっくり聞きながら、
でもずっと一つのことを考えておられたそうです。
それは、神様が御自身の器に求められるのは、
果たして強さなのだろうかということです。
神が御自身の器に対して求めておられるのは、
そのような頑強な弱音を吐かない人なのだろうか。
そのとき先生、御自身に示された聖書の言葉があったと言って
分かち合って下さいましたが、お読みします。
ローマ人への手紙の9章の24節というところの言葉。
ローマの9章の24節の言葉。
こういう言葉です。
この哀れみの器として、
神は私たちをユデイ人の中からだけでなく、
違法人の中からも召して下さったのですという言葉です。
神は私たちを哀れみの器として召して下さったと聖書にあるではないか。
神様が求める器というのは、強い器ではない。
むしろ主が求めておられるのは、
自分の弱さを知り、足りなさに嘆き。
しかし神の哀れみを求めながら、
精霊の力と導きを期待し、
信頼をする。
そのような哀れみの器ではないか。
皆さんは哀れみの器ですと、私たちによく言って下さいました。
皆さんは哀れみの器です。
皆さんという器に満たされるべきは、
何かができるという能力であったり、力であったり、強さではない。
あなた方に満たされなければならないのは、主の哀れみ。
それだけであると、おっしゃって下さいました。
それが主の願いであると信じますと、よく語っておられました。
別にこれは牧師に限らず、私たちということなのだと思います。
強さではない。
主の哀れみが満ちた器になる。
私たちは互いに強くありたいなと思います。
しかしなかなか、強くありたいと思いながら、
主の自分の様々な弱さを痛感することの方が多いかもしれません。
時に私たちは心や体調を崩します。
その時に、今まで強固だった神様との関係であったり、
強く信じていた神様の愛が、
自分からどこか遠のいてしまうような実感をするかもしれません。
時に自らの存在が重荷でしか感じられないことがあるかもしれない。
しかし、主の哀れみは尽きていないのです。
そういう時に私たちが覚えなければならないことは、
どれほど私たちが揺れ動き、その足元が崩れようとも、
神様の愛、神様の真実は決して揺らいでいないということです。
聖書はそのことを指して、
実は哀れみだとか恵みだとか、真実という言葉に訳される
へせどという言葉でそのことを表現いたします。
私たちがどれほど揺れ動こうとも、
神の真実は、哀れみは、愛は揺るがない。
そしてその哀れみや恵み、そのへせどに頼るように、
私たちを主は招いておられる。
恵みに、哀れみに、満たされなさい。
ダビデの勝利と主への信頼
先週私たちは第二サムエル記の7章までご一緒に見てまいりました。
実は第二サムエル記の7章にもへせどという言葉が使われております。
それは7章の15節、16節です。
これはダビデ契約、神様がダビデになさった契約のうちの言葉ですが、
しかし私の恵みは、私があなたの前から取り除いたサウルから
それを取り去ったように、彼から取り去られることはない。
あなたの家とあなたの王国は、あなたの前に常しえまでも確かなものとなり、
あなたの王座は常しえまでも堅く立つ。
この15節の恵みという言葉が、へせどという言葉です。
神様はここで、ダビデとその子孫に何があろうとも
私の恵みがあなたの家を常しえに建てると約束なさいました。
ダビデもこの神様の恵みに信頼をするように
ただただ招かれて歩んでまいります。
今朝はご一緒に見ていきます。
8章と9章を少し見ていきますが、
この8章と9章は、まさにその恵みを約束された神様と
そしてその恵みに信頼するダビデというタッグが
そこがそろったときに、どれほど主の御業が進展していくのか
そして主の恵みがそこに表されるのかということが描かれています。
ここから今朝は恵みの器と伝えさせていただきましたけれども、
私たちもまた主の恵みの器として歩んでいく
その道筋をご一緒に見出したいと思います。
2つのポイントで少しお話をさせていただきます。
1つ目のポイントは、恵みへの信頼に生きるということです。
恵みへの信頼ということです。
8章を少し見ていきますけれども、
8章ではここで描かれているのは何かというと、
ダビデのイスラエルの王国が周辺の地域を制圧していくという出来事が書いてあるのがこの8章です。
見るならばこれは東西南北、イスラエルを囲っていた国々を
ダビデが制圧していくというそのようなことが描かれます。
ことはさらっと書いてあるんですが、
実はこれはだいぶ歴史的な勝利が描かれている。
例えば1節を見ますと、その後のことである
ダビデはテリシテ人を撃ってこれを屈服させた。
ダビデはメテグ、ハ、アンマをテリシテ人の手から奪い取ったとあります。
テリシテというのは長らくイスラエルと争っていた国です。
イスラエルからした西方、海岸沿いの国ですが、ダビデはそれを制圧したと言います。
ここで出るメテグ、ハ、アンマというのはどこかよく分かりませんが、
ただ第一歴第一十八章の並行歌詞を見るならばこれは何かというと
ガテとソレに属するマチマチと書いてあります。
ガテとソレに属するマチマチ。
ガテというのは当時のテリシテの首都です。
そしてテリシテは五つの五大都市からなっている国として有名ですが、
ガテとその周辺の国々を制圧したというのは、
実質長くイスラエルと争っていたテリシテの力を無効化したということです。
歴史的な勝利をしたということを意味します。
そしてそのようにこの八章に出てきますのは、
二節には例えばモアブのことが書いてあり、
三節にはモアブというのは東の国です。
東のモアブ。
そして三節には北のトバ。
そしてこの十三節から書いてあるのはエドムですね。
エドムはイスラエルの国の南です。
まさに西、東、北、南。
それぞれイスラエルに敵対する国々を
ダビデ軍は一挙に制圧をしたということが短く書いてある。
でもこの八章の事柄ですね。
これは今までのイスラエルの力を考えるならば奇跡的な勝利です。
イスラエルは決してダビデになってから巨大な軍事国家になったということではありません。
イスラエルは実は小さい国で軍事力も大したことはないです。
これらの国々と長年拮抗した争いを繰り広げて引きました。
しかしこの時に至って東西南北全部の国々を制圧した。
軍事力に頼らず約束の地を得る
しかしその理由は何と書かれているかというと八章の六節の最後です。
八章の六節。
主はダビデの行く先々で彼に勝利を与えられたというのです。
これは十四節でも同じ言葉が繰り返されます。
十四節の主はダビデの行く先々で彼に勝利を与えられた。
主が勝利を与えられた主がなんですね。
ダビデ軍の軍事力は変わっていません。
しかしその勝利、その勝利の先頭に立って戦われたのは神様ご自身である。
このことを思う時に私たちはヨシア紀のエリホの城壁を思い出すような気がいたします。
勝ち目のない、立ち向かいようのない。
しかしそのようなエリホの城壁に立ち向かった時に
神の民がしなければならなかったことは軍事力を強めることではありませんでした。
彼らがまず神様の前にしたことは何か。
主の軍の将の前にあなたの履物を脱げでしたね。
あなたの履物を脱ぎなさい。
神の民には戦い方があるのです。
普通の戦い方とは違う戦い方がある。
自分で剣を握るのではなく、主の軍の将の前に履物を脱ぐということ。
そして主への信頼と礼拝によって戦っていくというその戦い方があるということを以前何度か見てまいりました。
皆さん戦いの場は今ですよ。
なぜなら神の民の力は主ご自身にあるということがずっと繰り返し語られるからです。
力は主ご自身にある。
ダビデもそのことを強く意識していたのだと思います。
8章の4節を見ていただきますとこういうことが書いてあります。
蕎麦に勝った時ですね。
ダビデは彼から騎兵1700個兵2万を取った。
ダビデはその全ての戦車の馬の足の筋を切った。
馬の足の筋を切った。
駅舎した馬の足の筋を切る。
筋を切られた馬というのは何を意味するかというとこれは軍事転用ができないということです。
自分の軍の武器として使えないということです。
ダビデがなぜそういうことをしたのか一つ考えられるのは聖書のちょっと前の箇所になりますが
神明記の17章の16節というところで
神様が王に求めるそのことを書いているその箇所がありますが
神明記の17章の16節
飛んで19節も読みますがこういうことを言っているからです。
17章の16節
旧約の346ページの下の段ですが
こう書いてあります。
ただし王は決して自分のために馬を増やしてはならない。
馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。
飛んで19節を見ると
途中から読むと
それは王が自分の神死を恐れ
この身教えのすべての言葉とこれらの掟を守りを行うことを学ぶためであると言います。
私たちの感覚ではちょっと理解しづらいかもしれませんが
馬というのは当時の世界における兵器です。
馬が何頭いるかというのがその国の軍事力です。
しかし王は自分のために馬を増やしてはならない。
なぜなら
力を増強していくということは
力への依存を生み出していく。
そしてその結果何が起きるか
王は神を恐れなくなる。
神様がいなくても生きていけるからです。
あらゆる力の所有は
神様への恐れを退ける誘惑になり得るということは
よくあることでありましょう。
しかしダビデはあえて馬の足を斬る。
それは
私の戦いの勝利を与えてくれるのは
得た兵器、軍事力、力ではない。
神ご自身が私に勝利を与えてくださるという
彼の信仰告白の行動です。
馬の筋を斬った。
ダビデは主の恵みに信頼をしていきます。
これらの勝利によって何が起きたか。
実はこの箇所をじっくり見ると
8章の9節から
ハマテの王が出てまいります。
ハマテの王トイが
北方のツオバをダビデが倒してくれたことの
感謝を言いに来て
三つ着物をするわけですが
これまた聖書の裏の地図の
地図5ってやつを見てくださったら
よくわかるんですが
ハマテという国とか
ツオバという国は
大体北でいうと
ユーフラテス川の南側まで至る国なんです。
そしてエドムを倒した。
エドムをその当時倒したというのは
エジプト川というね。
ナイル川とはちょっと別だと思います。
エジプト川と言われる
その川までの領地
北はユーフラテス、南はエジプト川です。
までダビデの支配領域が広がったということにする。
これは何かというと
創世紀15章に描かれている
神様の約束の実現なんです。
創世紀の15章で
神様はアブラハムに
約束の地を与えると約束しましたが
その約束の地
15章の18節というところには
こういうことがありますが
あなたの子孫に
私はこの地を与える
エジプトの川から
タイがユーフラテス川まで
ということを
神様はアブラハムに約束をしていました。
長かったですね。
イスラエルの民がエジプトから導き出されて
彼らはエジプトから約束の地を目指していく。
約束の地を目指して
カナンを占領せよと言われて進んでいった。
しかしその占領がここで完了する。
タイがユーフラテスから南の
エジプト川まで
ダビデの王国は土地は
そのダビデのもとに下る。
とうとう神の民は約束の地を得たというのが
この8章で描かれているわけです。
そしてこの約束の成就というのは
土地を得たということだけではありません。
15節以降を見ていただくと
8章の15節以降
何が書いてあるかというと
8章の15節だけ読みますと
ダビデは全イスラエルを治めた。
ダビデはその民のすべてに
裁きと正義を行ったとある。
裁きと正義を行った。
裁きというのはこれは
立法に基づいた公正な裁きでありましょう。
正義とはそれを執行する誠実さでありましょう。
神様による立法を通して実現することを願っていた
正義と公正がダビデの国によって
実現をしていくのです。
まさにご自身の民を約束の地に導き入れて
外敵に恐れおののくことなく
不正なものに苦しめられず
神の民がそこで安息を得られる約束の地
そこにとうとうダビデと共に至ったというのが
この8章で書いてあることです。
しかしそれらはこの聖書の言葉の流れでいうならば
7章に書いてあるダビデの契約の結実として描かれています。
主は神様はダビデに
私の恵みが常しえにあなたの王国を建てると
7章で約束されましたが
その土地も内政もすべてが
ダビデが何ができるではない
主の恵みによってすべてそれが
約束されていく、得られていく
そのことが描かれる。
ただここを見るときに思うんです
なんでこんなに時間がかかったのかなということで
アブラハムからダビデってだいぶ遠いですよね
しかしそれはなぜか
わかりやすく私たちは神明記から順に見ていたからわかると思います
神様はモーセを立てて
ヨシュアの後にカナンの地を征服したかった
しかしヨシュアの以降
神を知らない世代が起きた
あそこで計画が飛んだ
そしてその計画
主と共に心を合わせながら
主の恵みに信頼して
主と共に働いていく
その器が立つのはダビデまで待つしかなかった
そういうのかもしれません
主の御業というのは
いつも神の器と共に進みます
神様だけが何かやっているじゃないですか
主の恵みの御業というのは
いつも主の恵みを受け止めて
それを共に生きていく
主の器と共に進んでいきます
それは強さで自分を埋める傲慢な器ではありません
弱さがあって賭けがあって足りなさがあって
でも主をあなたの恵みによって私は勝利ができる
そう信頼をして立っていく器と
主の御業はいつも進んでいきます
ダビデのように主を恐れ
主こそ私の力であると真摯に跪き
主の恵みを求める器
その恵みの器と主の御業を進むのです
忘れてはいけません
器というのは牧師だけの話ではない
器というのは私たち一人一人です
主の恵みが私たちを通して表される
どうか私たちももう一度矢印を合わせていきたいなと思うのです
ヨナタンのゆえにメフィボシェテへ恵みを流す
そしてもう一つのポイントを見てまいります
それは恵みに信頼したダビデは同時に
恵みを流していくものになるということです
恵みを流すということです
柏生を見るならば
神様の恵みというのはまさに土地を獲得したり
社会正義を実現したりみたいな
国家レベルの話に見えますが
そうではない
これは私たち人間一人一人が
その相手にどう関わるかという
絶望的な人間に対する
個人的な愛としても表されていきます
それが描かれるのが
先ほど読んでいただいた九章
ダビデとミフィボシェテの出来事であります
八九の勢いによって
国が安定していったダビデ
しかしそのダビデが
一節でこのように言います
サウルの家のもので
まだ生き残っている人はいないか
私はヨナタンのゆえに
その人に真実を尽くしたいというのです
サウルの家のもので
まだ生き残っている人はいないか
そう聞いたし
オベはドキッとしたかもしれません
なぜなら当時の社会において
新しい王朝
いわばサウル王朝が退いて
ダビデ王朝が立ったときに
最初にするのは何かというと
前の王朝の血族の皆殺しです
基本的には家婚を残さないために
前の王朝の人間は皆殺しにするというのが
当時の鉄則でありました
しかしダビデは言うのです
サウルの家のものを探してきなさい
私はヨナタンのゆえに真実を尽くしたい
真逆のことを言い始める
ヨナタンのゆえにというその言葉が意味するのは
おそらく第一サムエル記の20章で描かれていることでありましょう
第一サムエル記の20章の14節から17節というところには
ダビデとヨナタンの契約について書かれています
そのところでヨナタンとダビデの関係は
もう皆さんよくご存知かと思います
ダビデがサウルに狙われたとしても
ヨナタンは父親を敵に回してでさえも
ダビデを助けた ダビデを守った
まさにそれは恵みですね
恵みに貫かれた友情という話を以前申し上げました
そのようにこの時にもヨナタンはダビデと
そうですね15節というところを見ると
しかしあなたの恵みを私の家から常しえに立たないでくださいと約束をしました
あなたの恵みを私の家から常しえに立たないでください
それはいわばヨナタンがダビデに対して恵みを与えたように
ダビデさんじゃあこの恵みを私が死んでも
私の家に注いでくださいということを彼はお願いをしていました
ダビデはそのことを思い出したのでしょう
そしてダビデはすでに神様の豊かな恵みのうちに生きていました
ダビデはヨナタンから恵みを受け
そして神様から恵みを受けた
受けた恵みをダビデは抱え込まないのです
抱え込まない
今度は私はサウルの家に恵みを流したいということを言うのですね
ダビデの部下がダビデに頼まれて探してきたのは
ヨナタンの息子のメフィボシェテという人物でした
メフィボシェテについては実はここに至る前に
四章の四節というところでちょっとだけ彼のことが書いてあります
四章の四節
さてサウルの子ヨナタンに足の不自由な息子が一人いた
その子が五歳の時のこと
サウルとヨナタンの秘宝がイズレールからもたらされ
彼のうぼは彼を抱いて逃げた
その時あまりに急いで逃げたので
彼を落としてしまった
そのために足の苗えたものになったのであった
彼の名はメフィボシェテといった
彼は足が苗えていたということが何度も繰り返し語られます
これが語られる理由は何か
体に欠損がある人物というのは王になれない
王族でありながらもう王になる可能性が閉ざされた
いわば何と言いましょうかね
彼自身はもしかしたらお荷物だと思っていたのかもしれません
彼は王家でありながら
王家としてふさわしくないハンディを抱えている人物でした
加えてこの時
ザビデにはいつ殺されてもおかしくないという立場に
彼は置かれていました
ですから彼が隠れていた場所は
九章の四節というところにありますが
九章の四節
王は彼に言った
その人はどこにいるのか
千葉は王に言った
お聞きください
ローデバルのアンミエルの子マキルの家におられます
ローデバル
これはヘブロ語をやっていたらわかる
ローというのは否定語です
デバルというのはダバルという言葉という意味です
これは言葉がないという意味です
言葉が出ないほど牧草のない荒れ地だったということです
荒れ地の中で彼は息を潜めて生きていた
でも未来は真っ暗ですね
そのような彼が
ダビデに見つかり
呼び出されるわけです
メフィフォシェテがまず意識したのは何でしょうか
死だったと思います
ああもう私はこれで殺されるしかない
しかしここでメフィフォシェテが経験したのは何か
死ではなく恵みでした
ダビデの前に立たされて
ダビデはメフィフォシェテにこう言います
七節
ダビデは言った
恐れることはない
私はあなたの父ヨナタンのゆえに
あなたに恵みを施そう
あなたの祖父サウルの辞書をすべてあなたに返そう
あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる
これちょっと注目していきたいと思います
恐れることはないというこの言葉は
実は聖書の中の定形句の一つです
これは神様が人間に対して使う言葉と全く同じ言葉です
聖書の中で一番使われる言葉
神様が使う言葉恐れるなと
しかしそれがダビデは全く同じ言葉を使う
恐れることはない
明らかに神様とダビデが重なって描かれている
そしてダビデは恵み深い神様と同じように恵み深い行動をします
一つは私はあなたの父ヨナタンのゆえに
あなたに恵みを施そう
あなたの祖父サウルの辞書をすべてあなたに返そうと言います
メフィボシェテに本来与えられるふさわしいもの
それは死でありました
しかしダビデがメフィボシェテに与えたのは
サウル家の全資産
土地や畑の返納です
それが意味することは
メフィボシェテがこれから命を得て生きていくためのものを
すべてダビデは返したということです
そしてもう一つダビデが言ったことは
あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる
これが意味することは何か
それはあなたが王家の一員のような名誉と地位を持って
ここで生きることができるということです
先ほども言いました
彼が何度も言われて足が苗いていた
足が苗いていたことによって奪われた王家の地位を
ダビデが回復させる
メフィボシェテは一体何が起こっているか分からない
死を覚悟したのに
私はそんなものを受けるに値しないのに
ですから8節で彼は言います
彼は礼をして言った
一体この下辺は何なのでしょうか
あなた様がこの死んだ犬のような私を
かえに見てくださるとは
私は一体何なのでしょうかという言葉は
これは実は7章のダビデ契約の後に
ダビデが神様に対して言った言葉とも重なります
主よ私は一体何者なので
あなたの恵みを受けるのでしょうか
あの時と一緒なんです
圧倒的な神様の恵みを前にして腰が抜けるんです
ええっ
そんなものを受けていいんですか
私はそんなことを受けるに値しないにもかかわらず
そんなものを私にくださるんですか
でもそれが恵みですね
受けるに値しないものに対して
ええっそんなものをいただいていいんですか
ダビデは恵みを受けました
そして恵みを受けたダビデは
同じことをする
受けるに値しない自分に神様が
すべてを備えて導き生かしてくださったように
私は受けるに値しないものに対して
ヨナタンのゆえに神様のゆえに
私はあなたをどんなことがあろうとも守ろう
どんなことがあろうとも恵みを持ってかかわろう
そのように決意をする
恵みを流していく
恵みはあふれ流れているものなのです
恵みを次の人へ渡すペイ・フォワード
一つのお話をしてもう終わりますが
皆さん2000年に公開された映画で
ペイフォワードという映画はご覧になられたことありますかね
ペイフォワード 可能の王国という
峯本さんが私勧めてくれて借りてみたんですけども
触りを言いますとこういう話なんです
ある学校の先生が生徒にこういう課題を出す
この世界をより良くするために
必要なアイデアを考えなさい
そしてそれを実行しなさいという課題を出す
この世界をより良くするために
必要なアイデアを考えなさい
そしてそれを実行しなさい
主人公の少年トレバーは一つのアイデアを考えます
それは何かペイフォワードというアイデアです
次に渡すというアイデアです
それは何かというと
彼はまず無作為に困っている人3人を選んで
全く理由もなくその3人を助けるんです
全く理由もなく3人を助ける
そしてその3人に言うんです
あなたは何の理由もなく私から助けてもらったんだから
次あなたは自分から見て
3人の人を選んで
その人を無条件で助けなさい
そのようにしていくと
1人の人間が3人を助けるわけです
そしてその3人はまた3人を
恵みが連鎖していくというか
やっていって
面白いですね
これが21回繰り返されると
計算上100億人に届くそうです
世界人口は80億人ちょっとですから
21回恵みの連鎖が続くと
世界は変わる
映画の中ではそう簡単にいかないな
ということが描かれるんです
しかし私はそれを見ながら
ふと思いました
3人という数字はリアルだな
そうでしょう
私たちが恵みを渡せるのは
おそらく3人ぐらいじゃないかなと思います
自主から恵みを受けた
私はいろんな人に支えられながら
いろんな人に恵みを受けながら
生きてきたということは自負しています
でもそれを誰に渡すんだろうか
それはこの人がどういう人物か関係ない
相手の状況なんか関係ない
この人がどういう人物であろうとも
その人はどうなろうとも
私はあの方から
神様から受けた恵みを感謝して
その人に恵み深く最後まで関わっていこう
その人を最後まで愛していこう
そう関われる
3人ってリアルじゃないかなと思います
3人って少なすぎてもっと関わっていただいたらいいです
1人しか無理
それでもいいです
自分の三人に真実を尽くす
でも恵みというのは
自分が受けて終わるために
与えられてるんじゃないんです
神様の恵みっていうのは
流すためにある
であるならば
皆さんの3人は誰でしょうか
相手が何者であっても
私は今までいろんなものを受けてきたし
神様に愛されてきたから
私はこの人を愛していこう
恵みは流れ出ていくものです
私たちの信仰が時々不健全になるのは
恵みが滞留するからです
自分のことしか考えないからです
そうじゃない
恵みは流すために与えられる
もし私たちの人生において
3人恵みを渡せるならば
それが次に繋がるか分かりませんが
しかし身心が天でなるごとく地でもなりますように
という祈りは
それは事ではなくなりますよ
私たちに水際にあらゆる責任は3人です
誰でしょうか
今朝ご一緒に心に留めたい聖書の言葉は
9章の1節です
ダビデは言った
サウルの家のものでまだ生き残っている人はいないか
私はヨナタンのゆえに
その人に真実を尽くしたい
その人に真実を尽くしたい
真実ってことはこれヘセドってことだ
これもヘセド
私は真実を尽くしたい
力の恵みに感謝をしましょう
私たちが倒れようとも
私たちがどれほど揺れ動こうとも
神様の恵みは変わりません
神様の愛は変わりません
そこの前にひざまずきながら
そしてふと私たちの人生を考えましょう
私たちはその恵みに生かされて
それを次に渡す
3人は誰なのか
そこに私は主のゆえに
あのイエス・キリストの十字架のゆえに
私を生かしてくださったあの人のゆえに
その人に真実を尽くしたい
私たちはダビルと同じように
この言葉に生きたい
お祈りをいたします
39:22

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