ダビデとサウルの人間関係
私のいのちは主が、と題して見言葉を取り継がせていただきます。
新学生の頃に、いろんな先生にお世話になりましたが、ある先生に、
牧師として一番大変なのは何ですかとお聞きしたことがあります。
私は、説教か祈りか何かが出てくるのかなと思いましたが、
その先生は即座に、人間関係だよと返ってきました。
人間関係が一番大変だよとおっしゃられました。
重たい言葉でした。ベテランの先生でしたから、重たい言葉だなと思って受け止めました。
ただ、これはきっと牧師に限らずそうだと思いますが、
私たちの心を大きく揺さぶるもの、それは人間関係の問題です。
何かの問題があっても、周りにでも私を助けてくれる誰かが
その周りにいるならば、私たちは大概どんな課題も一緒に乗り越えていくことができる。
しかし、その時が平穏であったとしても、
あの人との関係が著しく悪いという時に、
私たちはその人との関係において激しく消耗するということを経験をいたします。
それはおそらく私たちはお互い様なんです。
あの人だけが悪いなんてことはなくて、お互いに悪いところはあるはずなんですが。
しかし、その時に私が願った通りに相手が変わってくれるということは、
まあ稀なことではないでしょうか。
そういう時に私たちは我慢していればいいのか、そこで消耗し続けるべきなのか。
今朝お読みしたこの26章、特に今朝の24章から見てまいりますけれども、
そこには同じ苦悩を抱えているダビデの姿があります。
前々回17章を見ましたが、この17章から今回見る24章に至るまで一貫して変わらないことは、
ダビデの命を狙うサウルの必要さです。
ずっとサウルはダビデの命を狙い続けます。
かつてサウルが狂いそうになった時に、その心を慰めるためにやってきたのがダビデでありました。
しかし、一転してダビデが戦火をあげ、サウルは銭を打ち、ダビデは魔を打ったというあの歌を聴いた時から、
サウルの人生は徐々に狂い始めていきます。
彼は激しい怒りと嫉妬に苛まれ、それは殺意へと変わっていきました。
そして異常なのは、ダビデがサウルの元を離れた後も、ダビデがここで生きていると聞いたならば、
彼は兵をこぞってダビデの命を狙い続けていくのです。これは異常です。
しかし、サウルはダビデの命に執着し続けます。
そして大切なことは、ダビデはサウルに何も悪いことはしていないということです。
ここから分かることは、もはやサウルは話が通じないということです。
聞く耳も持ってはくれない。
それほどまでにサウルは固くなりになってしまいました。
もしかしたら私たちの周りにもそういう人はいるかもしれません。
今朝の24章から26章というのは、いわばサメエルキ第一のクライマックスに位置するようなものです。
ここにはそのサウルに対峙する、いわばダビデの信仰と知恵というものが現れています。
言い方を変えるならば、私たちにおいても、そのような人と向き合っていく上での知恵と信仰というものがここに表されている。
少しこの箇所からご一緒に聞いていきたいと思います。
神の裁きへの委ね
二つのポイントでお話をいたしますが、第一にそれは、ダビデは神の裁きに委ねたということであります。
神の裁きに委ねたということです。
今日は26章から見ましたが、ちょっと24章を見たいと思います。
24章には、エンゲディのホラー穴に隠れていたダビデの下に、サウルが精鋭3000人を連れてダビデの命を狙いに行くというところから話は始まっていきます。
しかし、皆さんご存知かもしれません。早くもダビデにはチャンスが訪れます。
彼が隠れていたホラー穴の入り口に、なんとサウルが用を足しにやってくるわけですね。
部下は言います。ダビデ様、今こそその時です。
敵の対象の命は目の前にあります。この幸運は神が備えたに違いない。だから、今こそこの時です。
しかし、この24章を見ていただくならば、ダビデはサウルの命をこの時に奪いませんでした。
代わりに彼がしたことは、サウルの上着の裾を切り取るということをするのです。
そのことにすらダビデは心を痛めたと、24章の5節には書いてあります。
なぜ、そんな命も取らずに上着の裾を取ることも痛めるのでしょうか。
6節、24章の6節には彼はこう言いました。
彼は部下に言った。
サウルがいかに愚かで話が通じなかろうとも、しかし、そのサウルを立てたのは神様であると。
その権威というのは、神に由来するものである。
そして王の権威というのは、神の立てた秩序でありますから、
自分の怒りで、自分がどう思うかで、その秩序を破壊してはならない。
そのように彼は信仰的に受け止めたのでありましょう。
ダビデはサウルを殺しません。
むしろこの後、彼はサウルの前に地にひれ伏して出てまいります。
そしてサウルにしたことは2つです。
まず1つは、サウルの目の前に彼の上着の裾をしっかりと見せつけるということです。
24章の11節、このように言います。
サウルはあなたを殺しはしませんでした。
それによって私の手に悪も背きもないことをおわかりください。
上着の裾をまずサウルに見せつける。
これはおそらく話が通じない、聞く耳を持たないサウルにとっては
一番冷静にさせられることだったではないでしょうか。
これはサウルとダビデが対等に話すための知恵なんですね。
そうではないでしょうか。
王よ、いつでもあなたの命は奪えましたということです。
いつでもあなたの命は奪えました。
しかし、私はあなたを生かしたのです。
殺さなかったのは、私はあなたと話したかったからですということです。
そしてこれは潔白の証拠ですよということを話すのです。
私はこのような知恵は今も必要ではないかなと思わされます。
これは余談かもしれませんが、人生で生きてきて
あふところにボイスレコーダーを仕込もうと感じたことは何度かあります。
そのぐらい、言った言わなかったを自分の都合で
無責任に変えようとする人というのは残念ながらいます。
そういう人は話しても話にならないということもあるでしょう。
しかしそのような時に、私はサウルの上着の裾は必要だと考えます。
それは相手の命を奪うためではありません。
冷静にあなたと話がしたいから私はこうしているんだということを
私は伝えなければならない、そう思うのです。
そしてダビデは自分で手を下さない。
その代わりに24章の12節にこのようなことを言います。
どうか主が私とあなたの間を裁き
主が私のためにあなたに報いられますように
しかし私はあなたを手にかけることは致しません。
ちょっと飛んで15節にも
どうか主が裁き人となって私とあなたの間を裁き
私の訴えを取り上げて擁護し
正しい裁きであなたの手から私を救ってくださいますように
本当に義なる方
全てをご存知である神が
このことに正しい裁きを下してくださいますようにと
彼は言います。
怒りに任せて復讐をしません。
そうではなく
ダビデの神であり
そしてサウルの神でもある
このお方に互いに出ていきましょうよということを言うのです。
そのお方こそが裁けるのだから
このお方の前に裁きを委ねましょうというのです。
そしてこのダビデの訴えに対して
17節から書いてありますが
命を守るのは主
サウルはこう答えます。
17節
お前は私より正しい
私によくしてくれたのに
私はお前に悪い仕打ちをした
お前に言っていることは正しい
お前の善に変えて私は悪をして返してしまったということを
後悔をするのです。
そしてここで彼は心からの反省を見せて
自分の家にサウルは帰っていったと書かれています。
さて私たちはこれで一件落着となれば
良いのですけれども
実は今朝読んでいただいた26章
というところでは
全く同じことが繰り返されます。
サウルは舌の根も乾かぬうちに
再びダビデの命を狙い始めるのですね。
しかしこの繰り返される苦難を通して
ダビデの中で強まった確信
ダビデに神様が与えた確信があります。
二つ目のポイントです。
それは命を守るのは主であるということです。
命を守るのは主であるということです。
26章の
今日は17節から読みましたが
26章の2節から4節というところをちょっと読みします。
こういう言葉です。
サウルは経って3000人のイスラエルの精鋭とともに
ジフのアラノへ下って行った。
ジフのアラノでダビデを探すためであった。
サウルはエシュモンの東にあるハキラの丘で
道の片割れに陣を引いた。
一方ダビデはアラノに留まっていた。
ダビデはサウルが自分を追ってアラノに来たのを見て
偵察を送り
サウルが確かに来たことを知ったと。
サウルが再び攻めてきた。
信じがたいことだったでしょう。
偵察隊を送りながら
ダビデは後悔をしたかもしれません。
ああ、あの時サウルを討っておけばよかった。
その苦悩はこの時のダビデの心情を歌ったとされる
詩編の54編。
詩編の54編はこの時のダビデの心情を歌った歌と
されてますけれども
その中で歌われています。
ちょっとだけ読みますけれども
詩編の54編の1節から3節。
詩編の54編の1節から3節を読みします。
こういう言葉があります。
神よ、あなたの皆によって私をお救いください。
あなたの力強い御業によって私を弁護してください。
神よ、私の祈りを聞いてください。
私の口の言葉に耳を傾けてください。
見知らぬ者たちが私に立ち向かい、
大胆な者たちが私の命を求めています。
彼らは神を前にしていないのです。
彼らは神を前にしていないという言葉は
ダビデの怒りがこみ上げてくるような気がいたします。
ダビデの復讐心
あの時互いに主の前に私たちは委ねたではないか。
しなのにサウルはその重さをなかったかのように
同じことを繰り返す。
このことへのダビデの怒り。
彼らは神を前にしていない。
しかしこの後の26章を見ていただくとよくわかりますが
ダビデはそれでもサウルの命を取らないんですね。
なぜそういうところに踏みとどまることができたのか
実はそこには神様がダビデに与えたこの直前の一つの経験によります。
25章に書いてあるナバルとアビガエルの出来事というのは
まさにダビデに一つの大切な確信を与えた出来事でした。
簡単に少し見ていきますけれども
25章に書いてあるのは何かというと
サウルとダビデが和解して別れた後に
ダビデはパランのアラノというところに下っていくのです。
そのところにはその地の有力な人だったのでしょう。
ナバルという裕福な人がいました。
このナバルという人が羊の毛の刈り取りのお祝いをしているということを
ダビデは耳にして
そしてダビデは今までナバルの羊を敵から守ってきたという
そういう経緯もあったということもあって
若者を使わして
あなたの祝いの食事を少し分けてくださいと頼みに行くんですね。
若者を使わして頼むのです。
しかしナバルはそのダビデの願いをあしげにして断ります。
25章の10節というところでナバルはこう言うのです。
ナバルはダビデの家来たちに答えて言った
ダビデとは何者だ。エッサイのことは何者だ。
この頃は主人のところから脱走する家来が多くなっていると。
私のパンと水それに羊の毛を刈り取る者たちのためにほふった肉を取って
どこから来たかもわからない者どもにくれてやらなければならないのかと。
ナバルはダビデを主人の家から逃げた奴隷のような人間だと
そのようにあしらうのですね。
このことを聞いてダビデは激動いたします。
彼の言葉は25章の21節からありますけれども
21節からダビデはこう言いました。
あらのであの男のものをすべて守ってやったので
その財産は何一つ失われなかったが
それは全く無駄だった。
あの男は善に変えて悪を返した。
もし私が明日の朝までにあの男に属する者のうちの小葉っぱ一人でも残しておくならば
神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。激怒ですよ。
なぜダビデがここまで怒るのか
それはおそらくナバルのしたこのダビデに対する仕打ちが
サウルがダビデにした仕打ちと同じだからです。
私は何も悪いことをしていない。
善を持ってあなたに仕えていたのに
善に変えてあなたは悪を返してきた。
そのやるせなさ、悔しさですね。
サウルは神が立てた王だったので主の裁きに彼は委ねました。
しかしナバルはそうではありません。
兵を率いてダビデは即座にナバルを殺しに行きます。
アビガエルの言葉
ただそのことを聞きつけたナバルの妻アビガエルという女性がいました。
彼女はこの25章の3節にありますけれども
アビガエルという女性は賢明で姿が美しい女性であった賢い女性でありました。
このアビガエルは夫であるナバルのしたことの重大さを即座に理解して
すぐに食料を作ってダビデのもとに届けに行くんです。
そしてダビデに即座に謝罪するんですね。
そしてこのアビガエルがダビデに語った言葉というのが
おそらく主がダビデに語りたかった言葉なんです。
怒りにまかせて復讐に行こうとしているダビデに対して
いやあなたはこの事実を知らなければならないという言葉です。
それは25章の24節から31節ちょっと長いですが
ちょっと早めに読みますので追っていただきたいと思います。
25章の24節からアビガエルの言葉です。
彼女はダビデの足元にヘレフして言った
ご主人様あの責めは私にあります。
どうかこの端田目が直に申し上げることを許しください。
この端田目の言葉をお聞きください。
ご主人様どうかあの横縞な者ナバルのことなど気にかけないでください。
あの者名の通りの男ですから。
彼の名はナバルでその通りの愚か者です。
端田目の私はご主人様がおつかわしになった若者たちにあってはおりません。
ご主人様今主は生きておられます。
あなたの魂も生きておられます。
主はあなたが血を流しに行かれるのを止め、
ご自分の手で復讐なさることを止められました。
あなたの敵ご主人様に対して害を加えようとする者どもがナバルのようになりますように。
今端田目がご主人様に持ってまいりましたこの贈り物を
ご主人様に付き従う若者たちにお与えください。
どうか端田目の背きを許しください。
主は必ずご主人様のために確かに家をお建てになるでしょう。
ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから、
あなたのうちには一生の間悪が見え出されてはなりません。
人があなたを追って命を狙おうとしても、
ご主人様の命はあなたの神主によって命の袋にしまわれています。
あなたの敵の命は主が石投げの窪みに入れて投げつけられるでしょう。
主がご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、
あなたをイスラエルの君主に認じられたとき、
理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐をしたりされたことが
つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。
主がご主人様を栄えさせてくださったら、この端田目を思い出してください。
ちょっと長く読みましたが、ポイントを抑えるならば、
アビガエルは言いました。
まず、ナバルは愚か者です。
愚か者などを相手にしないでください。
そしてもう一つ、あなたは主の戦いを戦われるお方でしょう。
特に29節の言葉は、この彼女の言葉でも中心ですね。
人があなたを追って命を狙おうとしても、
ご主人様の命は、あなたの神主によって、命の袋にしまわれています。
神はあなたの命を袋にしまうかのように、大切に守っておられる。
だから、あなたの敵の命に対しては、主が石を投げるのだ。
どうか、主が戦われるのですから、
あなた自身が血を流して復讐をすることなどやめてください。
主が戦われるのです。
神の裁きの信頼
このアビガエルの言葉を、ダビデは主の言葉として受け止めます。
32節を見ますと、ダビデはアビガエルに言った。
イスラエルの神主が褒めたたえられますように、主は今日あなたを贈り、私に会わせてくださった。
あなたの判断が褒めたたえられるように、またあなたが褒めたたえられるように、
あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。
イスラエルの神主は生きておられる。
主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。
あなたが止めなければ、ナバルのコアッパ一人も残らなかっただろうと。
そして、主は生きておられるのです。
この十日後に、ナバルの命は尽きます。
39節にダビデはナバルが死んだことを聞いて言いました。
主が褒めたたえられますように、主は私がナバルの手から受けた恥辱に対する私の訴えを取り上げ、
この下辺が悪を行うのを引き止めてくださった。
主はナバルの悪の報いをその頭上に返された。
主は生きておられる。
そしてその裁きは決して虚しくは終わらないということを、ダビデはこのことを通して経験をするのです。
さて、ダビデは再びサウルと出会います。
サウルは再びダビデの命を狙います。
ただ、今回ダビデは少し口調が変わります。
26章の10節から11節で、彼はこういうのです。
26章の10節から11節、ダビデは言った、主は生きておられると。
主は必ず彼を討たれる。
時が来て死ぬか、戦いに下った時に滅びるかだ。
私が主に逆らって、主にアブガラ注がれた方に手を下すことなど、絶対にありえないことだ。
ダビデは、主は生きておられるというのです。
そして、このサウルのことに関しても、主が必ず裁きを下されると。
そして今度は上着の裾ではなく、より如実な証拠である槍を取って、サウルに語り始めます。
王よ、私が何をしましたか。
どうして虫けらのような私の命を、ここまで必要に求めるんですか、と彼は言います。
そして、彼が語った言葉において大事なのは、23節、24節、今日の中心成句です。
第一サムエル記の26章の23節、24節。
主は一人一人に、その人の正しさと真実に応じて報いて下さいます。
主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は主に脂注がれた方に
この手を下したくはありませんでした。
今日、私があなたの命を大切にしたように、主は私の命を大切にして、
全ての苦難から私を救い出して下さいます、と。
23節の言葉は、互いに問われたいです。
主は一人一人の正しさと真実に応じて報われる。
私たちはよく、何が正しく何が間違っているかというのは、
その人だけの正義があるということをよく言います。
思い込みや主観によって、私たちの正義というものは形づくられます。
しかし、神の前に誰が正しいかということは、神ご自身が知っておられるのです。
そして、私は今日もあなたの命を奪わなかったのは、
サウルに対する敬愛の情からではないんですよ。
そうではない。
神の前に私は最後まで正しくありましたということ、
私は真実でありましたということ、
だから私はあなたの命を奪わなかった。
神の前に正しく真実であり続けたからこそ、
主が私の命を守って下さいます。
どうか、あなたの命を大切にしたことによって、
神の前に真実を尽くしたのですから、
私の命が神に大切にされますように、
全ての苦難から主が私の命を守って下さいますように。
主の生きている証
なぜなら、主は生きておられて、その裁きは虚しくは終わらないからです。
一つの話をしてもう終わりますが、
詳しい事情は少し割愛をいたしますが、
私の父はクリスチャンであります。
ただ父が会社を退職する際に、
働いていた会社から金銭面で不当に扱われたという出来事がありました。
私は穏やかな父があれほど怒る姿を見たことがありませんでした。
激怒ですね。
普段聞かないような言葉をバーッと言って、
最終的に父が言ったことは裁判を起こすでした。
ただ、私は法学部にもいたので、
父がこれから裁判によって負う労力と得られる対価ということを考えたら、
決してやるべきではないということを思い、
父と一緒にローマ人への手紙の12章の19節から21節の言葉を読みました。
皆さんよくご存知でしょう。
決して自分で復讐をするな。復讐は神のすることだということですね。
そして父に言いました。
どうか父さんクリスチャンでしょうと。
裁判はやめて神様に委ねようよと、その場で祈りました。
その後、会社の社長がですね、小さい会社なんですが、
会社の社長が私が奉仕している教会にやってきました。
実に大変な態度で、加藤の息子が牧師をしていると聞いてきたから挨拶に来たと言ってきました。
その社長もクリスチャンなんです。
しかし、父に対する謝罪は一つもなしに、
私に対しては自分がいかに会社を大きくしたかという自慢話ばかりするんですね。
私は黙って聞いていました。
最後に貸しおりを差し出されたときに言いました。
これは受け取れません。
私に会う前に父に謝罪してくださいと私は言いました。
すると社長は怒鳴り散らしてですね、貸しおりを私の手に押し付けて帰っていきました。
その貸しおりはすぐ捨てました。
その後、しばらくしてから父から電話がかかってきました。
みっくん、神様は生きておられる?
聞けば父の元に社長から電話がかかってきたそうです。
加藤くん、すまんかった。
必要な額は僕が弁償すると言って、
父はその時に電話先で思いの丈をぶつけたそうです。
ふざけないでくださいと。
一体僕はどんな気持ちになったと思っているんですか?
でもその後、社長は父に対して必要な額を振り込んできたということは聞いています。
主は生きておられるという言葉、
これは私たちが恐れながら聞かなければならない言葉だなということを改めて思わされました。
今朝の箇所から私たちは二つのことを覚えたいと思います。
第一に、今も主は生きておられます。
今も主は生きておられます。
神の裁きは確かにあります。
復讐と許しの重要性
ただその裁きというのは、誰かが討たれるとか死ぬとかだけじゃないかもしれません。
人の心に働きかけるということかもしれません。
何かを通して悔い得らための機会を与えるということかもしれません。
だからこそ、私たちは神の裁きは確かなのだということをもう一度覚えたい。
そして第二に、だからこそ怒りに任せて復讐をしてはならないということです。
神の裁きに委ねましょう。
神は裁きを下されるお方です。
復讐の怒りが沸いても、裁きは主の手の中にあります。
そして何度か申し上げますが、神が使徒を裁くというのは滅ぼすことを目的にはされないのです。
いつでもそれを通して悔い改めへと導くために主は裁きを下される。
しかし厳粛な事実として手遅れはあります。
そういう意味では、私たちはお互い様なんですよ。
お互い様である。
私たちもまたもしかするならば、裁きを主に委ねなければならないという時に、
もしかしたらそう祈る中で自分に何か示されるならば、
私たちがそこで主の御前に立たなければならないかもしれません。
でもそのようにしながら、確かなことは、
神はそれでも私たちをそのように悔い改めに導くために裁きをなされる。
私たちは互いに過ちを示され、主の御前に砕かれなければならないお互いであるかもしれません。
今朝はご一緒に清算式をこの後行います。
清算式というのは、分かりやすく主の御前に互いに出ていく場所です。
私たちは先ほどの話を聞きながら、サウルとダビデどちらに自分を置いたでしょうか。
でもはっきり申し上げます、これは私もそうですが、
私たちは互いにサウルでありダビデなのです。
だからこそ、私たちは互いに主の御前に許される必要があります。
主は生きておられます。
主は一人一人にその人の正しさと真実に応じて報いてくださると語っておられる。
一方的に不遇な立場に置かれているならば、主の裁きがなりますようにと私は一緒に祈りたいと思いますが、
しかし同時に私たちもまた、主の御前に正しさと真実が誰かではなくて、
私自身が主の前に問われているということを覚えて、ご一緒に十字架の血潮を仰ぎたいのです。
そういう私たち、矛盾ある私たちをも受け止め許し、
神のことをするために御子の血潮が流された事実をもう一度覚えたいと思います。
一言お祈りをいたします。