霧散の美学の探求
おはようございます、小松でございます。今日はですね、ちょっと先日少しだけ予告っぽくね、伝えた話なんですけど、あの霧散の美学っていう話をしたいなと思います。
霧散っていうのは、普段ね、なかなか聞くことの少ない言葉だと思うんだけど、霧が散るっていう風に書いて霧散っていうね、そういう言葉なんですね。
これね、坂本隆史さんが、前にこのボイシーでもね、喋ったですけれども、ダイアリーズっていう、亡くなる前後のドキュメンタリーのね、映画がね、先月というか、昨年末にね、公開されておりましたけども、
その時に、彼がですね、ちょっとメモをね、すごく独特の字でメモをすることが多くて、そこで霧散する音楽っていう言葉がね、あったんですね。前々から霧散って言葉すごく気になってたんだけども、坂本さんがそういう言葉を書いてですね、それで自分の音楽の在り方をちょっと意識して、その言葉を書いたんだと思うんだけど、
そこの霧散って言葉ね、すごく深いなと思ったんですよね。僕はね、霧散する音楽を解釈して考えるうちにですね、やっぱり表現者としてどうあるべきかっていうことにすごく思いを馳せるようになって、結局、霧散っていうのは透明な存在なんじゃないかなと思うんですね。
これはもう理想論でね、キザでね、そういうふうなところまで僕はたどり着くことが極めて難しいかなっていう話なんだけれども、霧散っていうのはね、日々の邪気とか執着ってあると思うんですよね。それを捨てて、目の前の世界に溶け込むということをね、やっていくっていうことがすごく大切だし、自我が強かったり欲があったりとか、人って生きてるとそうじゃないですか。
欲が消えたらもうあの世行きですよ逆にね、危ない危ない。そういうふうな理想でね、仙人になるわけじゃないけれども、執着がありまくったりとか、いろんなものにがんじがらめになって生活してるわけですよ。それをできるだけすごく一つずつね、一つずついろんなね、まとわりついたものをね、ほぐしていってですよ。
それで、どんなふうにありたいのかっていうね、Bとして存在したいのかっていうことなんですよね。やっぱり僕は表現者なので、そこを意識して生きていくことはね、もう本当に使命というか、そういうこと以外はないんじゃないかって思うんだけども。
僕は音楽やってますけどね、坂本さんにはもう及ばないとは思うんですけどね。及ばないとか別の方向性で言ってるよね。そこで出す音ですよね。それはね、やっぱり音楽でいうと表現というか演奏の音が消えた瞬間なんですよね。
消えた瞬間にこの世の世界がね、きざに言うとより美しく鳴り響いたりとかね、そのあたりの究極の表現を追い求めてるんだと思いますよね。そこはね、やっぱり僕はずっと音楽をやってきて思うのは、自分を消してですよ、響きそのものになるっていうことなんですよね。
僕はいろんな場所で、日本で言うと200ヶ所以上の公共空間の環境音楽を鳴らしておりますけど、それって自分の名前とか実績という固形物を残しているわけじゃないんですよ。その音の流れによってその場所の空気を整えたり、ちょっと清らかにするというか、落ち着かせるというか、ニュートラル、ニュートライズするっていうことなんですよね。
ちなみにニュートライズって言葉も最近すごく好きですね。中立する、中和するっていうことですよね。そういうことをやっていく目的、そういうことにありたいなと思うからピアノを弾くんですよ。そういうところの音ってまだまだ少ないしね。自分がとにかくそっちに行きたいからね。
現実の否定っていうことがあるじゃないですか。やっぱり表現するってね。現実にないものをやっぱり芸術家は出すわけで、それを表現をやっていくわけですよね。現実にないから自分がそこの部分の近くにありたいなと思って近づいて自分は演奏するわけですけど、そうすると音っていうのは目に見えないからね。霧のように形が変わっていくわけじゃないですか。
そしてその場所の空気を知らないうちに結果的に変えてしまいますし、場合によっては潤したりもするんですよね。僕は録音した音が現場で流れていることがめちゃくちゃ多いので、小松正文という表現者がね、消えていることは当然そこにはいないです。たまには見に行くよ、音が鳴ってるかなとかね、自分の音ってこうかなっていうそういう観察としてはいくけれども、現実はいないわけですよ。
そこに小松正文が作った環境音楽だけが自立してなっている状態なんですよね。それを目指しているし、僕はそれをできているのでめちゃくちゃ満足かなっていう感じですよね。
今、PICUの兵庫県の中の病院で実際に音を鳴らし始めててですね、ちょっと断片的にですよ。だんだんとそのあたりも形になってくるかなというふうに思いますね。
音楽の表現と消失
そして、執着の話しましたよね、さっきね。それをどういうふうに調律していくかって話を今度、今からしていきたいんだけども、しがみつく重力執着っていうのは本当に自分が息苦しくなったりとか空気を乱したりするわけじゃないですか。
それを捨てて軽やかになるっていうことが僕の理想でありますよね。だから誰かに捕まえられることも定義されることも嫌なんですよね。
定義はね、別にいいよ、僕自分で環境音楽家と言ってるから別にいいんだけど、捕まえられるのがすごく嫌で、ただ今ここに満ちていればいいっていうことなんですよね。
そして次の瞬間にどっか行くっていうね。先日の瞬発力、僕はすごいって言ってましたけど、瞬発力がすごいけども持続性が少ないからね。
そこは瞬発力があって持続性の短い中で活動して、瞬発力があるからそこで動いてでも持続力が少ないからその機会を増やしていくってことを前に伝えましたけどね。
そんな感じで演奏というか表現をしていくっていうことで、これが潔い豊かさになるかなと思いますね。
僕はそういう音を出していきたいなと思います。僕の音楽が鳴った後の世界っていうのは、鳴ってる瞬間、その過中でもいいと思うんですよ。
そこに訪れる前、そして僕の音楽を聞く前よりも少しその音を聞いた後っていうのは、この目の周りの、身の周りの多感覚、目で見るものとか感じるものあると思うんですけれども、
それがちょっとだけ澄んで見えていくっていうのが理想なんですよね。だから自分がここやりました、あそこやりました、こんな音楽作りましたじゃなくて、
そういう即席を残すんじゃなくて、その音楽は去った後というか、鳴った後とか、その施設から出て外に出るじゃないですか。
その瞬間に、あ、周りの風景ちょっと変わったなーっていうね、そういうことを感じていただくといいと思いますし、これがね、微かな余韻っていうことなんですよね。
それが置いていきたいなっていうふうに思いますね。僕の毎回の音声にしても、最近ちょっとまだ演奏できてないですけどね、ちょっと
お仕事がお忙しすぎてね、自分にお忙しいって言うなよなと思うんだけど、そういうものがね、演奏が終わった後とか、耳のトレーニング、耳取りをされた後とか、
僕の最近で言うところのね、耳を澄ませば世界が変わるって本出しましたけどね、読んだ?読んだ?まだ読んでない?読めよなーみたいなやつを、読んで絶対。
それを見た後ね、こんなこと言ったら誰も買わないよね。いいんだいいんだ。買わなくていいよ。
見た後に、ちょっとその何とも言えない静寂感というか、余韻だよね。そこをね、やっぱ置いていきたいんだよね。
死んだ後に余韻残すっていうことだよ。みんな余韻残すけど、まあなんか引き算じゃない?そう、なんかね、情報多いと思うんだよね。
僕を毎日配信してて、なんかすごい矛盾かもしれないけど、これ自分のために喋ってんのね。だからいいんですいいんです。
余韻ね、その情報が多い。そして、なんか、
なんかね、注意とか意識とかするところ多いじゃないですか、すごい。何にも考えないぼーっとした時間っていうのがね、
まあ何度も言ってますけど、そこで自分の本質とか美意がわかってくるんじゃないでしょうかね。
僕はそう思いますね。なんか、最近のこの、何回かの音声配信ね、静寂だね。喋ったとすごく僕、清々しいですよ。
そういうのやっぱりね、残していきたいなっていう。まあいずれ音楽また作っていきたいと思うし、演奏もね、特にプレミアムの方に聞いていただきたいなと思ってるので、
弾いていきますけどね。もうちょっと時間が、お忙しい仕事があるので、もうちょっとかかりますけれども。
まあもうちょっとしたそういうね、自分がこう、余韻を楽しんでいく。その余韻が周り巡って、皆さんにもこう、
余韻っていいなぁと思っていただけたらいいかなと思ってますね。 僕は前々からよくね、座右の銘にしているところがあって、
バーベル戦略もそうなんですけど、選択と集中ですね。僕の一つの価値観としてはね。いろんな選択たくさん世の中あります。
選択と集中の哲学
でもそこで一つか二つかに絞って選んで、選んだ後はそこを集中して行うっていうことなんですよね。
まあいろんなところに興味あったりするのはめちゃくちゃいいんだけど、本流で自分がやるっていうライフワークってあるじゃないですか。
そこはね、やっぱりこれでゴリ押ししていくというか、一つを深掘りしていくっていうか。
僕はもうピアノを弾くだけなんですけどね、その深掘りは決まっててね。そういう潔さっていうのが今日ちょっと伝えたね、この透明な存在というかね、無参に近いところじゃないでしょうかね。
こだわってもいいんだけど、こだわりすぎると泥沼にはまるよっていうことなんだよね。
なんかこんなつぶやき、参考になるかな。