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2025-09-02 21:37

音の返歌② -『音ってすごいね。』から21年後のジブンデザイン-

21年前に上梓した自著『音ってすごいね。』を道標に、著者が自身の文章に「返歌」を詠むように語りかける。当時と今とで「音」の捉え方はどう変わったか。変わらないものは何か。音と自分を巡る思索の旅へ。

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サマリー

今回のエピソードでは、21年前に書かれた『音ってすごいね』という本が電子書籍化されたことを受けて、原風景や仮想劇音の重要性について深く掘り下げています。特に、日常生活における音の体験と、その体験がもたらす心の平穏について考察されています。このエピソードでは、浜田が音のワークショップやSNSの影響について話し、自身の音を通じた体験の重要性を強調しています。また、子供心を失わずにいるための生活習慣についての考えもシェアされています。

原風景の重要性
この第2回目というか、21年前に書いた、音ってすごいねっていう本を電子書籍化するんですよ、今回ね。
それの第2回目というか、たぶん6章まであるので、全部で7通この放送やると思うんですけど、
全員へも自分の一人言ですね、完全に。誰に聞かれなくてもいいぐらいの感じで伝えていこうかなと思ってね。
目的が文字化なので、第1章なんですけれども、1つの章の中に4つぐらいかな、当時のエッセイを入れてるんですよ。
変化というのは、自分に変身する歌のことですね。そんな感じでやっていこうかなと思います。
最初1章が、原風景について書いてるんですよね。現在進行形のね、よりどころの原風景ね。
これは、僕は21年前に原風景をですね、過去のノスタリジーじゃなくて、現在進行形のよりどころっていうふうに定義したんですよ。
そのことが今どうなのかっていうね、関係は続いてるかっていうか。続いてますね。
続いてるんだけれども、なんか過去のこととか、そのあたりって記憶がどんどん、どういうのかな。
すごく客観化されないというか、フィルターがどんどんかかってくるじゃないですか。
良いことはね、より鮮明によく思う、そして悪いことは忘れるっていう忘却本能っていうのはね、多くの人にあると思うんですけど。
だからね、ある種いびつになってる感じ。でもいいところの美味しいエキスは、よりエッジを立ててですね、よくなってるんじゃないかなというね。
ゆっくり原風景を感じる時間がないっていうことを前回伝えましたけど、だからこそ短い時間であっても、良い部分のエキスが思い出されやすい状況が原風景にはあるので、
効率的というか、ちょっとね、風景、自分がこの風景いいなとか、この音風景すごくいいなっていうふるさとの場面があるじゃないですか。
そのあたりをちょっと思うだけで、心が満たされるっていうようなね、忙しくなった反面満たされるっていうことがあるので、
過去の音との付き合いは変わらず、より効果的に自分を後押ししてくれるなっていう感じがしますね。
そして、原風景を当時ね、前に進むために一度はね、ノスタルジックな原風景を括弧に括って決意したんですね。
その決意は正しかったと思うかというかね、なんか若気の至り、馬鹿気の至りでそうなったんだけど、
結局は何しようが、自分で意識的にその記憶とかそのものに対して何かやったとしても、結局残るものは残るし、残らないものは残らないっていうことですね。
だから何してても大事な部分のエッセンスはほぼ自動的に浮かび上がってくるっていうことがありますね。
そして、原風景をね、単に美しく懐かしいものではなくて、混沌とした生命力に満ちたね、地味猛涼の世界というふうに表現したんですよ。
で、それが今も同じか、魔物のような音と少しはそういうものは手懐けられるようになったのかっていうのもね、今の話と近いよね。
なんかフィルターが良い、ポジティブフィルターがかかっているので、地味猛涼はどんどん無くなっていると思います。
で、良いところのエキスが上積み、その辺りが出てきている。
それが年を取ることによる良さというか、決して年を取るのは悪いことじゃないなっていうのがあるので、
そういうものとして原風景がより、まあ、歪かもしれないけど、ちょっと歪んではいるかもしれないけれども、
良い部分のエキスがよりこう増したなという感じが原風景とか原風景の音としては感じてますね。
仮想劇音とその影響
で、続いて仮想劇音ですね。
当時はウォークマンをたくさん聴いておりましたけど、今はスマートフォンと高性能のイヤホンでより完全に世界を遮断できる時代になったわけなんですよ。
で、当時天の橋立ての波音を無視していた若い自分にね、今の僕だったらどんな言葉を投げかけるかというね、好きにすればっていうか、
昔も今のね、そんな高尚な部分で動いているわけではないので、好きなようにしたらっていう。
で、その習慣が本当に魂に良かったらそれは続くし、悪かったら消えるじゃないですか。
当時は中学校、高校とかその辺りでは今の音楽再生プレイヤーみたいなもの、CDプレイヤーだったけど、それ聴きながら通ってましたけどね。
波音が周りにあるのにね、美しい日本産系天の橋立ての波音があるのにそんなことやってて、別に叱りもしないしいいんじゃないみたいな。
そのうち分かることがあればね、取ってくると分かるものがあるんじゃないかなっていうことは伝えたいかなと思いますね。
そして、その仮想劇音に効くものをアクティブにさせる威力があることを21年前から見出したんですよね。
今って情報量が爆発的に増えてるし、あらゆるものが大声で注意を引こうとする現代じゃないですか。
この時に仮想劇音の威力っていうのはやっぱり今の方が重要になってるんじゃないでしょうかね。
しかもその価値を知るというか感じる人は多分潜在的にはいるんだろうけれども、そこに気づけない人がものすごく多くなってくるんじゃないかなと思うんですよ。
前回ねデジタルデトックスみたいな話しましたけど、そこを意図的にしないとそれが分からないぐらいねバカになってるんでしょ現代人。
だからそのバカに対して、分かるやつは分かるし分からないやつはそれでいいんじゃないっていうことなんだけど、自分の中で言うとやっぱり心を平穏にしてね、平安にして動いていきたいじゃないですか。
だから本当に僕SNS最近ほとんどは自分がどこ行ってあそこ行き飯してみたいなね、どこどこでご飯食べましたこと一切書かないですけど、そういうとこが現れてるんじゃないでしょうかね。
爆発的に増えててもそれに反応してそれだけの人生になるから、そこからはめちゃくちゃ距離を置きたいなと思うんですよね。
もう大声で注意を向けようとする人ばっかりじゃないですかね。そこからどう距離を持てるか立ち切るかっていうね、やっぱりなんかそのあたりの自分への厳しさというか自問自答の部分が大事になってくるんじゃないかなと思いますね。
そして、音を巡る旅っていうのは結局当たり前の身近な音をありのままに聞くっていうことなんですけど、そのシンプルな行為への回帰だったっていうのもすでに21年前に結論を続けてるんですよね。
僕は研究とか活動表現をやってきて、このシンプルな行為の奥に新しい発見っていうか、シンプルな行為であればあるほど継続できると思うんだよね。長続きできる。
劇のあるものっていうのは特に若い時にはそういうものにすごく反応しがちだし、今は年取ったとしてもメディアの情報の出し方っていうのが、やっぱさっき言ったように大声に対して注意を向けさせるっていうことがどんどん当たり前になってて、不干渉になってますよね。
だから知らず知らずのうちにきついこと、しんどいことっていう情報による精神的な疲弊っていうのが、ちょっと分かんなくなってきてるわけですよ。鈍くなってるね。そういうふうになっちゃうと何もしたくないみたいな、継続的に自分が心から大事にする魂みたいなものの、
よりどころの活動みたいなのができてない状態になってしまってるから、そういうことを避けられるんじゃないかな、シンプルな行為。ただ僕音楽を弾いてるだけ、音を聞いて散歩してるだけですから、よりそれが大事になってきてるんじゃないかなっていうふうに思いますね。
音のインタープリターの役割
21年前ちょっと言うの早すぎた、本当にもうね。今だったらこれね、自信持って言えるなっていうふうに思っておりますね。そして3番目というか、次のページというかになるんですけど、サウンドツーリズムみたいなことを伝えたんですね。
僕、観光でやるツアーとツーリズムって区別してたんですよ。観光の消費的なものじゃなくて、ツーリズムって身の回りのことをめでるというかね、そういう日常生活自体が旅っていうふうなものだっていうふうにちょっとね、やったんですよね。
で、この考え方はね、21年経った今ね、まあ変わんないですよね。変わんないけれども、それが結局現代で言うとマイクロツーリズムとか、暮らすような旅とかね、そういうので結局またそれがSNSに上がってね、広告になってほら、あのお越しくださいとかね、いいでしょみたいな、今だったら安いよっていう商業ベースの中での
ツーリズムになっちゃってるから、そうなのかそうじゃないのかっていうのをやっぱり自分の中で見極める必要があるんじゃないでしょうかね。
まあ早い話、お金かけないでもできるツーリズムが最高だということですよ。そこにお金かける何か消費のところがあるっていうふうになると、やっぱり仕組みがあるわけで、作り手の、儲ける作り手の仕組みがあるわけじゃないですか。だからそこを見極める感性が大事なんじゃないかなと思いますね。
そして音のインタープリター、これインタープリターって媒介者って意味なんだけど、そういうインタープリターの必要性を当時解いてたんですよね。で、この21年間ね、自分自身がやっぱり役割になってきたと思います。大学の中、そして社会の中でね。
で、まあ多くの人がね、そういう僕の耳取り含めて感覚をね、開いていく、いかれるっていうね、まあこれ聞いてる人もそうだと思うんだけど、あのどういうのかな、その良さは伝わってはいるんだけど、まあその時はいいんですよ。その講演会来たりとかね、来てそれでああなるほどなとかね。
で、毎回僕言うんだけど、これ半年とか1年とか続けてよって、継続してよって言うんですよ。それが多分難しいんだろうなっていうのは分かりながらやってるからね、革新派としてね。そういうところが一番難しいんじゃないですか。これを自分ごとのようにして、音の世界とか音以外の感覚世界にね、あの脅威を向けるっていうことを続けていく人はいいんだけど、
まあ結局それもまたこう、あのどういうのかな、リカレントというか学び直しみたいなことの流行りで、何でも聞こうかなみたいな、まあそういうふうな、まあ言ったらDoなんですよこれ、大体がやってる人。Bに変えていったらどうっていうね、まあそこの辺りですかね。
だからBにはなりづらいんじゃないか、Doのままでそのインタープリターで例えね、音の世界の大事なものを伝えたとしても、そこなんですよね。僕はTipsみたいな形でボイシーとか音声配信やって、そりゃあそこで聞かれる方いると思うけど、自分ごとね、続けるっていうのは、まあこれ言ったらあかんけど、所詮難しいなと思うんですよね。
そこの分水嶺の辺りみたいなのがインタープリターとしては難しいなと思いますね。
そして音風景100選っていうのが96年に環境省から提案されてるんですけども、それは静的な点、静かな点として捉えるだけでは不十分と、そういうことを言ってました。
そして今の状態では、今の未来に残したい音を選定するとするならばどのような音を選ぶかっていうね、なかなか当時はね、新しいテクノロジーとかね、いろんな都市の変化もあるかもしれないですけれども、
僕はね、やっぱり日常生活の中で、その人をどういうかな、コブするというかバックアップするような音風景みたいなものができたら自然的な音があったらいいんじゃないかなっていうふうに思いますね。
それは都市の中の公園でもいいんですよ、全然。それでもいいんだけれども、だから大自然のとこまで行ってそれを探していきましょうみたいな音風景100選みたいなことになると、商業ベースと絡み合ってね、結局儲けの手段になっちゃうわけですよ。
今いる生活の中でツーリズム的にそういうものがあればそれでいいんじゃないかなっていうか、それはね、やっぱりあんまり目立たないしお金ならないしすぐ忘れ去るような音なんですよ。そこが変わらずね、ビートしてコブしてくれる音が大事なんじゃないかなと思うので、
音のワークショップとSNSの影響
そのためにやっぱりね、新しいテクノロジーを使うとすれば自分でそれを録音して自分で聞くっていうことを最近できるじゃないですか、スマホで。その本新しく今別のところで書いてますけどね、野外録音を始めようみたいな。そこだよね、自分でそれを認識して、それを収録してね。
自分のために聞かせる。人のためとかSNSでバズるからやるんじゃなくて、自分のためにまずそれを生かしてほしいなと思いますね。
そして最後、音のワークショップの話を書きましたね。浜田は島根県。ワークショップの体験から参加者同士が気づきを共有したりね、勇気が循環することの尊さを書いたんですよ。
今やね、SNSが発達してコミュニケーションの形が大きく変わった時代において、もうこの魂の循環を起こすために当時と今とで何が一番違うと思いますかっていうね。
違うものはあんまないんじゃないかな。なんか基本的に人って動物の一種だから基本変わんないと思うんですよ。
見せ方によってこう、いろいろこうなんていうかな、派手にしないとそれがわからないとか、やっぱりその活動を欲しがってる潜在的なユーザーさんがいらっしゃるけど、そこに届けばいいんだけど届かないよね。
いや届かないと思うわ。だから、そういうことに賛同いただくインタープリターの方がね、聞いていらっしゃる中で生まれたらいいと思うんですよ。
その方がまた会を作ったりとか、僕はもう当面外には出ませんからね。今回のね、9月7日の日で、僕は最後だなと思ってるんですけど、こういうワークショップね。
だから僕はもう外には出ません。だからそれをできる人がやったらいいんじゃないかな。そういうふうに、開催したいっていう方が自分たちでされるような感じの展開がいいんじゃないかなと思います。
他にも似たようなものがあるから、やっぱりね、これが本当にいいのか悪いのか本当にどうなのかっていうのを見極める感性がいるんじゃないかなという感じでしょうかね。
そして、その当時ね、浜田の参加者の言葉にね、心をえぐられたっていうことを伝えたんですね。音風景という言葉によって見えない檻の中へ封じ込まれているという通説な自己批判を僕はしたんですよね。危険的なね。
ノスタルジーという感じで当時思ってたんだろうかな。そのようにどのように乗り越えたかっていうことなんですけれども、専門家で僕は音の研究はやってるけれども、一人の人間として思うことはですね、やっぱり自分の生活の中の活動の状況が変わってきて、いろんなことが起こるじゃないですか。
家族が新しくできたりとかっていうこともあるし、あとは仕事の方がね、ドゥのお役目がめちゃくちゃ増えたことがありますよね。そういう時に、若い時って結構割と短絡的とか好きとか嫌いとかカッコつけたがるんだよね。僕もそうなんだけど。
そのあたりのなんか表面的な目立ちたがり屋っていうところが僕はあったと思います。それをそういう小手先みたいなことと関係ない形でいろんなことが押し寄せてくると、そのカッコをつけるとか表面的じゃない本質の美の部分っていうのがどんどんやっぱり大事だなっていうふうに僕は気づき始めたんですよね。
そういうことをしていくと、やっぱり音風景の本質的な良いところにやっぱり人は助けられているし、そういうものがあれば当面この人生を生きていこうと思うその勇気をもらえるんじゃないかなっていうような、なんかね、より純粋に音風景とか周りの感覚的なものを捉えることができるようになったかなっていう感じですね。
だから葛藤というか、変な若い時のノイズみたいなものがどんどん削り落とされて、やっぱり本質が見えて、音風景を聞いたら自分がただある、例えば稲町の波の音とかね、そういうのを聞いたときに、これ瞬間で思うだけで聞かなくてもいいですよね。
瞬間思うだけで、ちょっと心が平穏になったりとか、今の生きている状態をメタ認知できるとかっていうことになってくると思うので、なんかね、変なノイズが削り落とされた感じがしますよね。はい、という感じですね。
そして、今回最後のところですね。活動の原点、いろんな音活動。子供心にある、これセンスオブワンダーの話なんですけどね。今僕がですね、研究者とか教育者とか音楽家としてキャリアを重ねてきましたもん、20数年間ね。
で、最も根源的で無垢な子供心をね、どうすれば失わずにいられるのでしょうかというね、守り続けることは当時より難しくなりましたかっていうことなんですけど、これもね、子供心を持てる人は持てるし、持てない人は持てないっていうことなんじゃないかな。
努力してそういうものが出るっていうのは、努力って結局Doのことだから、Bとして自然と出てくる、なんか今日どっか行きたいなとかね、今日は自由に野山駆けずに回りたいなっていうのは、守るという感じじゃないよね。自然と出てくるので、その辺りの心持ちが大事なんじゃないかなと思います。
で、もっと具体的にね、ティップスはあんまり言いたくはないんだけど、言うとですね、やっぱり日頃の生活習慣をしっかり持つことが大事かなと思います。基盤をね、そういう子供心を持ってる、みんな持ってると思うんですよ。大成小成ね。
それをうまく発揮するためには、よく眠るとか、美味しくご飯食べるとかね、気のおけない人と話すとかね、別に好き勝手喋るってことですよ。そういうことをやることによって、魂ね。
魂の定義はいろいろ人にもあると思うけど、僕は身体と心理的なものを超えたところの世界観というかね、その重持ちっていうふうに僕は思うんですけど、そこを整えること、つまり調律することですよ。自分の心身を調律するっていうことをやっていけば、最も根源的で無垢なね、子供心というのは失われずに済むんじゃないかなっていうふうに思いますね。
そんな感じで、本当にね、これ読んでよかったなというかね、後世今やってるんですけど、音ってすごいね、やっぱなんかね、今自分で見るからこそ良いなっていう、やっぱり21年前の自分をリスペクトしたいなという感じでね、自家中毒の配信でございました。
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