1. 小松正史『耳の保養』
  2. 音の返歌⑥ -『音ってすごいね..
2025-09-03 19:24

音の返歌⑥ -『音ってすごいね。』から21年後のジブンデザイン-

21年前に上梓した自著『音ってすごいね。』を道標に、著者が自身の文章に「返歌」を詠むように語りかける。当時と今とで「音」の捉え方はどう変わったか。変わらないものは何か。音と自分を巡る思索の旅へ。

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サマリー

このエピソードでは、『音ってすごいね。』という書物を21年前に作った背景や目的について語り、ディープリスニングを通じて得られる体験やスローサウンドの重要性を探ります。また、耳鳴りとの共存や音を出すことで心地よい環境を作る方法についても触れています。さらに、21年間の音の表現について振り返り、テクノロジーと人間の関わりが語られます。また、音を聞くことと録音機の併用によって、より深い音の体験が得られることが強調されています。

ディープリスニングの体験
小松でございます。シリーズになっておりますけれども、
『音ってすごいね。』という書物を21年前に作りまして、
その電子書籍館ともなって、各章の変化を伝えているような回となっております。
これ、目的は文章化するための資料作りでしゃべっているだけなんですけれども、
ひとりごと今日もやってまいりましょう。
今回、第5章になりますね。
魔法使いという項目なんですね。ちょっと不思議な名前ですけれども。
まず、大きな耳について伝えたところがございます。
これ、ディープリスニングをやってですね、
瞑想状態で周りの音を聞くというか、感じるというか、
響きを体に取り込むということをやる、そういうワークショップをいまだにやっているんですけど、
そのことを書いたんですよね。
この目的は、21年前も今も同じなんですけど、
近くの音ばかりに現代人は意識を向けていることが多いじゃないですか。
そういう耳のあり方をですね、ちょっと器具をして、
それだけじゃなくて世界全体を聞くというか、
周りの遠くのものも含めた領域で大きな耳を取り戻す訓練をしたいなということで、
こういう大きな耳とか、音が溶けるとか、音溶かしという言い方をやったりもするんですけども、
そういうことをずっとやってきてですね、
これは21年間ずっとやってきました。
特に学生に対してやってきたんですけど、
学生が大きな耳を取り戻した瞬間に、その人たちの存在感、
Bが変わるかどうかということなんですけど、
やっぱり見てると子供の顔になりますよね。
いろいろなものをですね、まだ若いからそんなにはかなりきつい状態の
社会的な適合性にはならないんだけど、
でもやっぱりちょっと就職とか就活とか、周りの友達との比較とかね、
また最近はSNSで周りの情報がたくさん入ってきて、
自分軸がすごくグラついてる学生がめちゃくちゃ多いんですよね。
そういう中で、この大きな耳というか音溶かしをやってるとですね、
なんかホーンみたいな、自分自身の過去とか、
今ここにいるっていう状態を取り戻す瞬間に巡り合えるんですよね。
これマインドフルネスの一環かもしれないんですけども、
するとですね、なんかだんだん眠くなったとか、
昔の時に聞いた音が蘇ってくるとか、
なんかそういうふうに、今ではないどこか、
これは幼少時代なのかな、過去の時代に戻っていくようなね、
そういうことをおっしゃる学生もいるわけなんですよね。
大体が寝たり、寝るまでもないけれども、ぼーっとするんですよね。
このディープリスニングは時間があれば90分やります。
お昼寝タイムとか言いながらね、
こまちゃんのゼミはお昼寝してたよとかよく噂になるんだけど、
いや、昼寝というよりもこれディープリスニングやってるんだよみたいなね。
暗くしてね、室内でやるところもあるし、
テラスに出てね、すごく気持ちの良いテラスがあるので、
真夏とか真冬は無理ですけどね。
春とか秋の良い季節なんかは、みんなで寝転がってぼーっとするようなことをしますよね。
そうするとやっぱり素直になるというか、もともと素直な学生多いんですけど、
純粋な状況になるということを毎回毎回目の当たりにするので、
これはもう人間としての自我根っていうのはすごくあって、
いろいろな社会的な情勢、あるいはメディアの情勢によって、
かなり自分軸をぐらつかせられるような、
そういう頻度が高くなっているかなというね、
そこにまず気づいていただくことが大事かなという、
ますますこのワークショップね、大事なものなんだなっていうのをね、
強く実感する次第でございますね。
スローサウンドの考え方
そしてスローライフな音楽というのは、
スローサウンドについての話もしたんですよね。
その時に僕が収集論文で、
フィールドワーク、サウンドのフィールドワークをね、
沖縄の八重山の鳩間島というところでやったんですけども、
そこで収録したリーフにあたる波音があるんですけど、
それをですね、作品として収集論文に出したんですよ。
その時に長いフェードインで、
フェードインってだんだん音を大きくしていくっていう手法なんですけども、
それによってですね、リスナーとか自分自身も含まれてなんですけど、
スローライフ的な時間の感覚へとね、誘ったんですよね。
このスローサウンドの考え方っていうのが、
音楽制作以外で自分の日常生活とか、
講義とかいろいろやってるんですけど、
音楽制作以外で、
自分の日常生活とか講義とかいろいろあるけど、
あるいは社会への提言として、
実践していったかどうかっていうことなんですけど、
もうこれはね、耳トレですよね。
耳トレで音が消える瞬間を感じましょうっていうことでTシャツ買うんだけど、
もうそこですね、
そればっかり1万回とか2万回とかね、やるんですけど、
そういう音を最後まで聴くことによって、
全意識から意識に昇る瞬間っていうのが、
こういう理論とかでは言ったりはしますけれども、
実感として受講者が感じるんですよね。
その感じるパターンとしては、
音が消える瞬間を感じる、注意を向けることによって、
部屋の中の音がどんどん感じられるとか、
存在は実はしてたんだけれども、
認知されない音っていうのがありますよね。
知覚はされる。
知覚っていうのは脳の中に周りの音が自然と入るというか、
インプットされるわけですけど、
そこからその認知、これは何の音かとか、
自分にとって重要な音なのかどうかっていうのを、
自分で精査して上げていくっていう、
そういう段階があるんですよね、認知。
そこまでがなかなかいかないんですよ、いろんな理由があって。
それができるようになったっていう。
ああ、世の中はこんなに音がたくさんあるのだっていう風なことを
感じていただく方が今までたくさんいらっしゃったので、
耳トレでこれは実践をしてきたなと思って、
今はこう繋がりましたよね。
耳鳴りとの共存
そして3番目なんですけど、
音の宇宙を漂う困難ということで、
生きてるといろんな良い音、悪い音ありますよね。
特にこの21年前の本では、
耳鳴りを僕は結構書いてたんですよね。
友達のお母様は学校の先生なんですけど、
その方がP君っていう名前をつけて、
共存していたというエピソードを紹介したんですよ、
この本の中で。
ここ結構大事だな、
共存していくっていうことがめちゃくちゃ最近大事というか、
ずっと耳鳴りに応えられずに、
耳鳴りにお悩みの方に対して伝えるのは、
共存していこうよって僕よく言ってるんですけども、
昔はそういうものを排除しようとか、
克服しようっていうような悪者とか悪い要因に対して、
何か負担をしていくような状況があったんですけどね。
そうじゃなくて、一緒に暮らしていこうみたいな、
そういうことを実感していただく方が、
結果的にストレスなく生活できるんじゃないかなと、
僕は思っています。
それが21年間で、
この聴取回避の回路ということで、
これ今でいう、
繊細さん、Higher Sensitive Person、
HSPという方、
そういう言い方されますけれども、
そういう感覚過敏の方とかいらっしゃいますよね。
特に発達障害の傾向のある方っていうのは、
そういうHSPの傾向とかそういうのがあったりして、
なかなか周りの音とか、
五感の刺激に対してすごく苦手だったり、
避けたりするっていうような、
そういう傾向のある方がいらっしゃるわけですよね。
そういう時に、共存していこうっていうことをやる時に、
やっぱりすごくそこが問題というか、
大事な部分になってくると思うんですよね。
なので、そういう方に対しては、
音を聞くというよりも、
自分で音を出していく。
自分の出す音に対しては、
やっぱりHSPの方でも寛容なんですよね。
発達障害の方でもね。
そういう自分が音を出すことによって、
とりあえずこう紛れるというか、
ただ聞いても嫌だっていうよりも、
逃げるというか、
場所をそこから移動する。
もうそこの場所に閉じこもって、
そこの嫌な音を聞くというよりも、
ちょっと身体的にそれを移動して、
自分なりに音を出していくということをしていくと、
すごくいいんじゃないかなというふうに思うので、
音を出すことをよくやっています。
例えば耳トレの中で、
新聞紙を用意してもらって、
一緒に破ったりとか、
ビリッと長いことを破るとか、
大きな音を出すとか、
そういうこともしたり、
自分の音を聞く、
耳トレって音を聞くだけじゃなくて、
自分で音を出すとか、
身体を使って耳を、
結果的に音に対する耐久性というか、
耐性を作っていくという、
あまりセンシティブに聞きすぎないということですよね。
鈍くさせるということも大事なんじゃないかということで、
あとは伝えているのは、
呼吸の音、
自分の内側の音を聞こうという、
これBに近いよね。
Bとして自分の中で、
今まで生きてきている中で、
耳を内側に持っていく。
一番いいのは耳タブに自分の指を入れて、
ゴーっていう音を聞くというようなことをよくやりますけども、
自分の内側、身体から出ている音を聞くっていうことが、
割とこの聴取回避回路につながるのかなと思っているので、
敏感に聞くこともめちゃくちゃ大事なんだけども、
音を入れて、
耳を入れて、
耳を入れて、
耳を入れて、
耳を入れて、
耳を入れて、
めちゃくちゃ大事なんだけども、
嫌な音を回避したりとか、
ネガティブな心理状態になった時に、
どういう風にそれを克服するかっていうのは、
常日頃から対策を取っておくことが、
めちゃ大事かなというふうに思っていますね。
そして4番目、僕の中の何者かについてのね、
僕がどうして音楽を作るかとか、
クリエイティブ創作活動をしているかというか、
その辺りの話をしたんですよね。
これは極めて個人的なあり方のBの話なんですけれども、
それをね、Doにすることによって、
葛藤や喜び、いろいろあると思うんですけど、
これはですね、一言で言うと、
安全地帯っていうのかな、
そういうのがありますよね。
音の表現と社会との関わり
名前忘れたな、ちょっと今思いついたんだけど、
安全地帯ね、
玉城浩二の安全地帯じゃないよね。
昭和のネタになってますけどね。
セーフティーネットだったか、
セーフティーゾーンか、思い出しました。
セーフティーゾーンね。
セーフティーゾーンで考える、
僕はやっぱりそういう自分の内側にこもって、
ひとりっ子でもあるし、
そういうところに身を委ねた方が、
楽って言ったら楽なわけですよ。
でも、せっかく社会の中にいるし、
社会の中で何か貢献したいとまでは言わないけど、
関わろうとすることによって、
自分の至らないところとか、
自分の知らない世界を他者とか周辺の環境が
示してくれることってめちゃくちゃ多いじゃないですか。
そういう時に、
やっぱりね、
セーフティーネットの中だけで演奏してるのとは違う、
そういう領域、
自分がストローになるとか、
クダになるっていうことをよく思うんですけど、
そういう自分を超えたものと、
やっぱり接合というか、
つながれる瞬間ってやっぱりあるんですよね。
ちょっと自分の殻を破ることによって、
勇気と行動力と忍耐力がいりますけれども、
それによって他の人とか、
社会と分かち合うっていうことになってくる
ということになるので、
それはめんどくさかったり、
もうなんか嫌だったりはするんだけど、
やりすぎも良くないよね。
でもちょっとだけBの中に図を混ぜることによって、
よりBが深まるというか、
そういうことですよね。
何かね、
働くっていうこともそうですよね。
自分の中だけで、
家の中でこもるだけじゃなくってね、
それをちょっとこう、
他者目線でいろんなことを考えてみるっていうことで、
ほぼほぼ多くの人がそういうふうに実践してるわけなんですけども、
自分のクリエイティブな音の表現についてもですね、
自分のセーフティーネット、
セーフティーゾーンの中でいるんじゃなくって、
やっぱり自分を超えた何者か、
それは他者であったり、環境であったり、
あるいは神様なのかもしれないですけどね。
その辺りと関わることによって、
自分の予想外に行けることがね、
予想外に行こうっていうことが多分出てくるんですよね。
その予想外に対して、
僕はやってきてですね、
この本を出した後の21年間、
すごくいい宝物をたくさんいただきましたね。
テクノロジーとの共存
いろんな人のご縁もあるし、
思わぬところでたくさんの曲作れたし、
こんな僕って潜在的にポテンシャルあるんだって思いましたしね。
21年から2000の音声配信もそうなんですよね。
何かきっかけでやろうかなと思って、
岡田さん、ボイシーの一緒に出演した中で、
ああ、ボイシーってあるんだと思いながらやって、
パーソナリティーになって、
いまだに喋ったりしてますけれども、
ちょっと自分の殻を破るような瞬間があることによって、
次の地平が見えてきたなというふうに思うので、
両方ね、葛藤もあるし喜びもあるし、
それがセットとして存在してるんだなっていうのを感じましたね。
そして5番目、機会を捨てまして、
そして5番目、機会を捨て町に出ようっていうね、
これは寺山修司の書を捨て町に出ようっていうことを
ちょっと文字ったんですけど、
機会を捨て町へ出ようという呼びかけ、
これ実はですね、
ちくま書房の教科書になってるんですよね。
数年前の教科書、高校生が国語の教科書で
僕の本、僕の文章を読みになったり、
これ散々いろんなところでね、
模擬試験とかで使われたり、
入試でも出されたんじゃないかなというね、
そういうね、ものすごい、僕としてはこう、
意外な展開になった文章なんですけど、
その呼びかけ、21年後のね、
今スマホという万能機械を手にした私たちにとってですね、
より切実なものになったわけですよね。
この機会を捨てるという具体的な実践を通して、
我々がですね、取り戻すべき人間本来のね、
世界との関わり方っていうのがね、
やっぱり僕はあると思うんですよね。
なので、詳しくはその本を読んでいただいたらいいんですけども、
両方やっぱりいるから、僕最近思うのは機械を使って、
つまりスマホかなんかの録音機を使って、
周りの音を聞くことによって、感じることによって、
よりその環境音ね、あまり訴求力がないと思われている環境音に対する、
すごくリスペクトというか、新たなコンテンツ作りにもなってくる。
気づけるんですよね。
それがね、面白いと思うんですよね。
意外と僕は21年前は、機械丸々捨てて待ちんでよっていう風に言ったんだけど、
それでも、それは機械を使う録音機もあるよと、選択だよっていうことですね。
絶対にもう捨てようじゃなくて、併用しようってことを実は言ってたなと思います。
それがね、いまだにというか、今でこそ併用感覚っていうのが、
より録音機がすごく一般的になったりね、
みんなボイスメモで録音できるじゃないですか、割といい音で。
だからね、両方の意識を持っていくことが大事。
だからこれ前の回にも言ったかな、4章の時にも言ったんだけど、
音を聞く、まず聞けよって言ったでしょ、聞けよっていう。
聞くプラス使おうよっていうか、両方なんだね。
両方が両輪の関係性みたいな感じになって、いいんじゃないかなという風に思います。
だから機械を捨てるモードもあれば、機械を使うモードもあると。
そのバランスはやっぱ考えなくちゃならないじゃないですかね。
バランスがね、機械ばっかりになりがちなんですよね。
インスタに映えるために写真をバカバカバカバカ撮ってる人いますけど、
それは別に否定はしないけど、じゃあ別に機械、カメラとかスマホを覗いて、
目の前の風景見てみろよみたいな感じですよね、音を聞いてみろよっていうね。
やっぱり全然改造と違います。
自分の体を機械にしてって書いたんですよ、機械。
機械っていうのは録音機っていう庇譲ですよ、庵譲ですけどね。
それを機械のような自分として取り込んでみようっていうような。
だから結局21年前も同じことを言ってたってことがわかりますね。
機械的に、道具としての機械も使うし、自分を機械のようになっていたら変ですけど、
機械を使わずに自分の身体を信じて、リスペクトして音を聞きましょうよっていうね、
この2つのパラレルワールドによってですね、
音への関心、そして音を感じる喜び、歓声っていうのはすごく磨かれていくんじゃないかなという風に思ったので、
そんな風なところで変わるもの、変わらぬものみたいな、
そういうところでね、僕そういう曲ありますけど、今回もですね、ちょっと喋ってみました。
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