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2024-12-11 10:00

【イタい大学論】そもそも大学の存立意義って何なのか、の話

大学が最近技法や各論にばかり目を向けて総論が少ないのではないかと言う話をしました。自分と対象との関係性や立て付けをしっかり認識し、言語化する姿勢が大切であると強く感じます。
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皆さん、おはようございます。小松正史です。今日は大学の研究室、久しぶりに研究室からボイシー収録してるんですけれども、周りがみんな帰ってきましたね。僕だけ遅いって感じですけど。
今日はかなり1年生の実習がグループワークして、60人ぐらいのグループを10個ぐらい分けてヘロヘロになったという感じで無事に終わったので、今から帰る前のこの時間帯に収録したいなと思っております。
今日は大学論をおしゃべりしたいなと思っておしゃべりしております。結局、大学の存立意義って何なのかっていうような、結構根本論というか、全く音に関係ない話なのかもしれないですけど、
最近、大学事情っていうのが皆さんもお気づきだと思います。どんどん変化してる。新しい学部が生まれたりとか、聞いたこともないようなネーミングの学部ができたりとかっていうところで、ちょっと感じるところがありまして、シェアさせていただきたいなと思ってます。
結論は、大学の存立意義っていうのは、なかなか表に見えづらいというか、理想論っていうか、そこをちょっとしゃべるしかないなと思うんですけど、それとは逆の方向行ってるんじゃないかなって僕は思うんですよね。
これどういうことかというと、大学と、良い意味で、専門学校を悪く言うつもりはないんだけど、専門学校との境が分かんなくなってるような大学のカリキュラムとか、内容が多いかなっていうふうな気がします。
これ、つまり何言いたいかというと、スキルとか技法とか知識みたいなもの、そういうものを中心に伝えようとしてるような学部が増えているんじゃないかなっていうふうに思います。
具体的には、画像が編集できるとか、音源編集できるとか、安直に作曲ができるとか、そういう、わりと短期間で道具を使えるようになるっていうような、そういうことを歌った学部がどんどん増えてるなって気がします。
それってどうなのかなっていうか、これは科目によって、大学の専門領域によって多少はそれはあっていいと思いますよ。
僕はもともと出身、農学部なので、農学部だったら僕何したかというと、ダムの作り方とか、あとは緑地っていうか、そこにある町があったら、どんな木をどんな分量でどんな肥料を元に植えていったらいいのかとかね。
そういう具体的な総論と格論といったら格論ですよね。意味わかりますかね、総論と格論って。格論っていうのはそれぞれの具体的な個別的な技法みたいなもんですよね。
総論っていうのは、ちょっとメタ認知的に俯瞰して緑地をする場合には、いろんな人類の幸せのために作るみたいな、そういう全体感を言ってるのが総論なわけなんだけど、格論総論のバランスはめちゃくちゃ大事なんだけどね。両方大事ですよ。
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めちゃくちゃ両方大事なんだけど、最近は格論ばっかり言ってるような、しかも受け狙いというか、こういうものを作ったら高校生が飛びつくんじゃないかみたいなものを、そういうのをボンボン出してるようなところが増えてるのが、ちょっとどうかなっていうふうに思ったりしてます。
それで、我が成果大学っていうのは、もともと芸術学部と、その後で英文学部の専門ができて、そして人文学部になったんですけど、割と学問というか、そもそも学問するって何とか、どうしてこの研究をするの、自分と研究との立ち位置、立てつけというか、その位置関係は何なのかっていうようなことを、
すごく真摯に自分ごとのように捉えていって、これちょっと難しく言うと、対象の客体化してるところが結構あったんですよね。これ一見回り道だと思うんですよね。
例えば音楽、僕ピアノ弾きますと、ピアノ弾いて気持ちいいな、このコードが素敵やな、いいなとかね、そんなふうに作ること、演奏することもあるんだけど、そもそも人間にとって音楽とは何とか、作曲行為っていうのはどういうものとかね、作曲、人間の立ち位置と、例えば神の立ち位置と、自然環境の立ち位置っていろいろあるじゃないですか。
その中で音楽の流通はどうなってるのかとかですね。あと表現というのは限界があるとか、限界は確かありますよね。自分主体でやるのか、それとも受け手主体でやるのか。音楽っていうのは物質的なものじゃなくって、割とメンタル精神的なものがあるけれども、なんでそもそもそういうことが可能なのかっていうね。
これもうちょっと深掘りしていくと、ピアノとかトランペットとかは有形物じゃないですか。それが心体的にそこに絡まって演奏してると、物で表現しているんだけど、物から超越した世界観とか、そういう状況のところで音が奏でられる。
いつの間にかそういうね、人とかそのあたりを超越した音になっていることもあるじゃないですか。それってなんでそうなるのか。そもそも表現って何なのかみたいな。これね、ちょっと何言ってんだっていう思われるかもしれないけど、哲学とか感性学とかね。
エステティックって感性学って言うんだけど、そういうところと対話しながら、なんで演奏するんだろう。そもそも何なんだろう。人間って何なんだろうみたいな。そういうところを扱いながら、答えのないところ。でも自分としてはこうあるんだっていう仮説が立てられるんだと思うんですけどね。そういうところまで持っていかないとずっと研究とか表現って僕できないと思うんですよね。
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そういうんじゃなくて、そこめんどくさいじゃないですか。いつ終わるかわかんない。こんなね、教養的なものって。そもそもそれで飯食えるとかね。それで動画の一本でも作れるのとか言われそうなんですけどね。YouTubeでできるのみたいなね。
でもね、それってね、ずっと僕思うんだけど長期投資みたいなもんで、なんかもう短期短期で完結したり次々っていうような状況のところって押しやすいし、しかも人が引き付けられやすいですからね。そういうのがたくさん満員してるんだけど、それでは良くないんですよね。
そもそもさっき言ったように、道具を使う人間の存在って何とか。長期的なメリットはあるのかとかね。そんな風まで考えながらやっていくっていう、そこ大事かなって思います。
で、僕このね、オーストラリア人でよく言ってるのは、自分が今やってることとかね、そういうのをちょっと客観的に見ていくっていう、メタ認知が大事なんじゃないかって言ってますよね。メタ的に見ていく。メタっていうのは、多重の二重のっていうことで、つまり今やってることをもうそっくりそのまま自分がその架中にいるんじゃなくて、距離を持って見つめ直していくってことを大事って言ってますよね。
で、それがですね、次の何かちょっとつまずいたりとか、長期的に何かこうやっていく分ではですね、振り返りっていうのかな、それがすごく大事なんですよね。お金ならないかもしれないけど。いや、お金にならないこそ大事なものって思うんですけどね。それをやっぱり伝えないと大学の意義ってないと思うんですよね。
専門学校は専門学校の良さがある。別にディスってるわけじゃ全くない。でも大学の意味ってそこに修練されていくのっていうことですよね。専門学校的な部分で収まっていいのかっていうね。やっぱりね、立ち位置役割分とは違うと思うので、そこはね、やっぱりしっかりと僕、一応技法的な授業をたくさん教えてるんだけど、最初に言いますよね。そうするとみんなね、こう考えるんですよ。
そうなのかな、みたいなね。それは一言で言うと、メタ認知とかメタ知ですね。知とか知恵とか知性とか知識とかあるじゃないですか。その知識って何なのかっていうことを見つめ直すというか、自分と知識との間にある関係性とか立て付けを認識していくっていうことがやっぱり大事かなと思って。
そういうことを最初に言ってくださる先生じゃないと僕信用しないというか。いきなりはい、アドビを立ち分けましょうとかね。はい、ここでアドビのこちらの操作をするとこんな絵が描けましたみたいなね。それはいいんだけど、その前の助走期間、助走的な作業をしっかりと伝え合うというか、納得し合うというね。
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最後に究極言うと教員の立ち位置も伝わる必要あると思いますね。何でここで教えてるのか。研究と自分との立ち位置は何なのか。学生に何を教えたいのかみたいな。そういう態度というか、そこがないとやっぱり大学としてはちょっと存立しないんじゃないかなということで、今日はですね。そもそも大学の存在意義って何なのかみたいなそういう根源論をね。
ちょっと超メタ人数じゃないね。主観的な感じでお伝えしてみましたというね。そういう大学事情のお話でございました。ここまで聞いていただきましてありがとうございました。バイバイ。
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