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2024-06-18 20:53

ながらcast3/238 学校の勉強って役に立たない?

「役に立つ」って何だろう?短期的な視点なのか?長期的な視点なのか?かつての「読み書きそろばん」を現代風にした「IT」をやっていればいいのか?「教育」の目指すものは何か?「勉強」とは違うのか?そんなことは全く触れずに、役に立ってないように見えても実は役に立ってるんじゃないか?という話をします。
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はい、sasayukiです。ながらcastを始めます。 この番組は、自分大好き60歳の私、sasayukiの声のブログ、声の日記です。
通勤途中に歩きながら収録してますので、息がはぁはぁ上がったり、周りの雑音、騒音、風切音などが入ったりしますが、何卒ご容赦下さい。
ちょっと雨が降ってからの、日が差してきたって感じで、
蒸し暑くなりそうな予感ですね。 天気予報だと、朝だけ傘マーク、あとは日が照ってる日になってます。今日は日曜日。
父の日ということですね。 僕も父であり、自分にも父がいてっていう感じなんですが、割といつも淡々と過ぎていっております。
お聞きの皆さんどうでしょうかね。 何となくそういったものをするしがちな
自分なんですけどもね。
今日はですね、 本当に脈絡もないんですが、
あの
学校教育って、 結構バカにされがちじゃないですか。
そのことについてちょっと 話してみようかなと思います。じゃあ行ってみよう。
まあちょっとこれは僕の、 本当に先入観というか、本当に思い込みかもしれないんだけど、
結構いろんな場所で、学校教育って役に立たないよね。 っていう話って聞きません?
別にそれがメインじゃないんだけど、 なんかの時にちょっとしたことでそういうことを言って、
役に立つのは算数ぐらいかなとか、 よくそういう
感じで言われてて、 全然役に立たないことを勉強させられたっていう感じで話されることが。
なんともね、まあそんなしょっちゅうじゃないんだけど、 なんかの時に割と耳にしちゃうんだよね。
書き言葉で、ちゃんと書かれてっていうよりは、 なんかのコメントの中とかね。
メインの話題があった時に、そこにちょっとコメント挟む時に、 そういうものを、なんだろう、エクスキューズ的にというか、
ちょっとレトリックというか、 ちょっと追加的に言うようなことが多くて、
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で、割とそれ誰も否定しないもんで、 なんか共通の感覚みたいに思われちゃってるところがあるのかな。
学校教育、役に立たないじゃん、説っていうのは 割とはびこってるような気もしてるんだけど、
僕にはそれに異を唱えるものです。
まあこの漢字ってどちらかというと、 自分のポジションを示すために枕言葉的に 使われているのかなっていう気もするんですよね。
つまり僕は学校教育とかに対して 価値を置いてないよっていうような言い方。
逆に、じゃああなたどういう教育がいいと思うんですかって 聞かれたら別に考えないと思うんですよ。
せいぜい社会に出て役に立つような教育をすれば いいんじゃないですかぐらいのことしか多分言えないんじゃないかなっていう気はするんですね。
ただまあそれはそれでいいんですが、 そういったものがちょっと蔓延する場合、それを間に受ける人も出てくるので、
それがちょっと僕が危惧している部分で、 親とかがそういった考えを鵜呑みにしちゃうと怖いなっていうのもある。
もう一つは、いまだにはびこっていると思うんですけど、 学歴返上主義みたいな、
勉強できるっていうことが人間の価値みたいなふうな価値観に縛られてしまうと、 確かにそれはおかしな話になっていくとは思うんですね。
だからそういう考え方を批判する、 もしくはバランスを取るっていう観点で、
まあそんな学校の勉強なんて大したことない、 価値がないみたいなことを言うっていうことはあるのかなっていう気はするんですけども、
いや本当にね、じゃああなたどういう教育がいいと思うんですかみたいな部分って結局すっぽ抜けていて、
批判のために批判しているみたいなところもある。
で、これ何で読んだかちょっと忘れちゃったんだけど、 教育を変えるってすごく大変な話で、
時間をかけて変える。 検討にも時間がかかる。
しかもその成果が現れるまでにも時間がかかるっていう代物なので、
基本もうちょっと手をつけたくない、つけられないっていうものだっていうのを、 誰かの本で読んだ覚えがあって、
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まあ僕もそうだなと思うんですけど、 ここ良くない、じゃあこうしてみよう、こうしようって言って、
変えたとしてその効果の測定ってどうするんですかっていう話になるわけですよね。
だからある意味すごくふわっとしたもので、 それを変えるって言ったとしても、その検討そのものも、
それは海外の事例とかも研究したり、 教育を研究している人たちもいるので、
そういったことは十分に検討した上で変えたとしても、 その測定に、効果の測定に時間がかかるっていうことで、
そもそも変えるのが難しいっていう部分はあるんですよね。
ただそれはさておき、 学校の勉強に価値がないみたいなものの言い方はいかがなものかって、
もう一回振り出しに戻ってきたんですけども、 そこを何だろう、ことさらに言うっていうのも、
なんとなく俺はあんまり良くないなと思っていて、 もうちょっとこの話を進めていこうと思います。
そもそもの疑問として、
学校教育って世の中に出て役立つからしているのかっていう、 割と根本的な問いがあるわけですよね。
ここも議論の余地があるし、 むしろ役立てばいいっていうスタンスも、
どうなのかなっていう気はするんですよね。
その論でいけば確かに役立たないものはやらなくていいって話になるんだけども、
どこを学校教育と見るかっていう話も出てきますけどもね。
僕は主に小・中・高あたりの勉強のことを言っていて、
特に高校時代かな、大学受験のためにやってるようなところもあって、
受験が終わったらもうキレイさっぱり忘れちゃって、役に立たないよねっていうのは確かに一応あるかなっていう気はしますけど、
全面的に賛成ってわけでもないんですよね。
ちょっと切り分けていかなきゃいけないかなとは思うんですけども、
今の間疑問を一つは提出しておきたいっていうことと、
義務教育の小・中のところにおいては、基礎力を養う、培うっていう意味では、
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やっぱり僕は価値があると思うんですよね。
結局高校の勉強の基礎にもなりますし、例えば算数一つとっても、
今電卓があるからいいじゃんみたいなのってめちゃくちゃ短絡的だと思うんですよね。
極端なし、計算力っていらないじゃんみたいな話も言えなくもない。
結局、俺の中では例えば手で計算してちゃんと答えを出すっていうのは、俺の中では基本中の基本だし、
そういう細かい部分に目を向けないといけないし、注意力とかもないと間違いだっていう。
環境の中でそこを磨くというか、身につける、そういう部分って実は大きいなって思うんですよね。
だから単に計算力をつけてるっていうだけじゃないっていうところですかね、僕の中では。
さっき繰り返しになるけど、要は細かいところに目を向けないと間違うっていう中で学ぶ、勉強するっていうことは、
やっぱりそういう力を養ってるって思うわけですね。
だから電卓があればそれをやらなくてもいいかっていうと、そうだとは思わない。
それから例えばちょっと変な、これは別の話になるかもしれないんだけど、
国語の授業を批判的に見てる人なんかもいて、その時書いてた人って、僕の同業者の人だったりするんですけども、
なんだろう、国語の文章の中で、それとかって言葉が出た時に、よくそれとは何かっていうような問題って出ましたよね。
なんか懐かしいんだけどさ、それが何なのか答えよ。それが指すもの。
あれとかそれとか、文章の中で、どっかい問題というか、そこまででもないけどね。
でもそういうのって、国語の問題って割とそういうものが多いじゃないですか。
どこで段落を切ったほうがいいとか、いろんな基本的な部分で、
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それを割と、それが何を指してるかなんて、くだらなくないみたいなさ、
そんなものいちいち教育でやる必要があるの?みたいなニュアンスだった気がするんですけども、
やっぱそれも大事だなって俺なんか思っちゃうんだよね。そういったものを。
いや、わかる人はいいんだよね。特にすらすら解ける人もいるだろうけど、
つまずく人も間違いなくいると思うんで、そういう人たちにとって、
そこを学ぶっていうのはやっぱり、結構大きな意味があると思うんだよね。
そんなわけで、今日は、「巷で時々耳にする学校の勉強は役に立たない。」
っていう言説について、ちょっとそうじゃないんじゃないかという立場で話をしてきました。
まあでもこれは本当に別に正解があるわけでもなくて、ケースバイケースだなぁとも思うんで、
俺はそう思わないよっていうだけの話ではあるんですけどね。
もう一つ言うと、
高校の勉強って、基本大学に入ってからやってないと困るんだよね。
これはまあ自分が実感した部分でもあるんだけど、結局なんだろう。
僕は理系の科目苦手なくせに、
そっち方面に行って、
ちょっと苦労っていうほどじゃないんだけど、ちょっと大変だったっていう部分はあるんですけど、
結局数学とか物理っていうのを、大学でもう一度やり直す
羽目になって、基礎がない部分っていうことが漏停してしまって、
大変だったっていうところがあります。
教養2年、専門2年、1、2年生の時は教養、3、4年生で専門に行って、
4年生で研究室に入って、卒論を書くみたいな全体の構成だったんですけども、
1、2年生で教養科目を取って、僕にとっては結構そういう勉強は嫌いだったんだけど、
知らない部分のことをいろいろ学べたっていう意味では、すごく価値があったと思うんですけども、
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結局、ちゃんと大学でマナーボードすると、それまでの蓄積がないと困っちゃうってことなんだよね。
だから、合格すればいいやっていう、あとは遊んで暮らそうって、
そういう時代で、僕もそういう学生だったんで何も言えないんですが、結局は苦労したなと思います。
だからある意味、大学でしっかり学んだり、
自分の研究、いきなりそんな立派な研究ができないにしても、
専門の勉強するっていうことを真剣にやった人、あるいはやろうとしている人にとっては、
その高校レベルの勉強って、やっぱりマストなんじゃないかなっていう気もするんだよね。
まあ、結局受験勉強で詰め込んでみたいなところの弊害はあるし、
必ずしも今がベストな教育だとも思わないし、いろいろ問題はいっぱいあるんだけど、
ただ学校で学んだことは役に立たないって断言することもない。
ということで、逆に大学でちゃんとあんた学んだのって聞きたいと思います。そういう人にはね。
結局そこをきちっとやってないと大学で困るし、さらに言うと専門に進んでさらに困るんだよね。
だからまあ、そういう大学レベルで
学んだり研究しようとしたりすればするほど、要は真剣にやればやるほど、
高校時代までの学びの上にまた乗っかってくるもんだから、よりレベルの高いところへ行こうとしているわけですよね。
っていう風に考えると、やっぱり、
まああんた大学で遊んでばっかりいたからそのことを言ってるだけで、苦労している人間にとってはね、やっぱりそこでちゃんと学んでなかったっていうのは、
結局これはね、ずっとそこは後々も苦労したんで、
もうちょっとちゃんと学んでおくべきだったなぁとは思いますね。
そのときに数学関係かなぁ、なんかそう、
ベクトルとか行列とか、まあそういう話が出てきたり、微分析文もやっぱり出てくるし、
っていうところでね、やっぱりこう、
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そこの、なんだろう、
レベルがちゃんと大学レベルまで行ってなかったっていうのでね、僕はちょっとやっぱり行き詰っちゃったっていうのはありますね。
だからまあ、 役に立たないわけじゃないよっていうことでね。
ちゃんと学ぼう、研究しようという人にとってはマストだし。
結局そういうのって積み上げだから、もう小学校から始まってるっていうふうに考えればね、
あの本当、
やっぱり学び、教育って大事だし、そんな簡単に、なんていうか、
いらないとは言えない。いや、 その時になって学びたくなってから学べばいいっていう考え方も
一理あるように見えるんだけど、 まあ俺もそれは否定できないんだけど、
そっから戻ってやるのってまあまあ大変なんだよなとも思います。 だからまあ、
論点としては、特に義務教育の時の勉強って直接何かの役に立つっていうよりは、
算数で見落としなく何か計算をするとかね、
そういう細かいところに気をつけないといけないみたいなところを養うとか、
国語でね、それとかっていうのをきちっと理解する。
それによって理解力、読解力ってやっぱり 身についていく部分があると思うんですよね。
さっきその話途中になっちゃったんですけども、 確かにそれを馬鹿にする気持ちもわかんなくもないんですけども、
やっぱそれによってしか底上げできないというか。
まあ、わかる人はわかるし、そんなことをやって何になるっていう立場もあり得るんだけど、
やっぱりその文をきちっと読み解いて、 理解できるようにする、そういう力を養っておく。
そういう手段、方法をやっぱり身につけておくっていうのはものすごく大事だと。
僕なんかは思っているので、
役に立たない、なんて言い方は決してできない、したくないなと思った次第です。
というところで今日は終わりです。最後までお聞きいただきましてありがとうございました。
ではまたね。チュース。
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