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031.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.15~研究所設立
2025-07-14 30:37

031.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.15~研究所設立

前回に引き続き、日本の細菌学の父・北里柴三郎をご紹介していきます。

今回のエピソードでは、陰謀、報道のバッシング、そして辞職。すべてを背負いながら、北里柴三郎が私立研究所を設立するまでの、情熱と行動力を追います。

シーズン2
「ノーベル賞に最も近づいた最初の日本人、北里柴三郎」
の参考図書は

ドンネルの男・北里柴三郎
山崎光夫
東洋経済新報者

北里柴三郎 感染症と戦い続けた男
上山明博
青土社

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00:06
生命科学の冒険者。
ようこそ、生命科学の冒険者へ。
MCの金沢秀明です。
アシスタントの山崎愛子です。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
前回ね、伝染病研究所が内務省から文部省に移されちゃうっていう。
そうですね、はい。管轄が移るというですね、東大の青山先生がですね。
陰謀でですね、そのようなことになってしまったというところですね。
北里はですね、所長を辞任するということになりまして、また弟子たちとかですね、
あと伝染病研究所の書員もですね、北里に続いてですね、辞任するということになります。
はい。どうなっていくのかなっていうところが気になるところなんですけど。
そうですね。北里先生はですね、本当に不滅の闘魂という感じなんですけれども、
伝染病研究所をですね、去った北里に対してですね、新聞記者たちからですね、今後どうするのかというふうに質問を受けてですね、
はじめから国に頼らず独立して研究を続けていれば、今回のようなことは起こらなかっただろうと。
今後は気を見てさらに新しい私立の研究所を起こす計画だと答えてるんですね。
で、国民はですね、このニュースがやはり格好の、なんていうんですかね、世間の目を引いてですね、特に北里に世間は同情したんですね。
よかった。
よかった。そうですね。気持ちは我々と同じ感じですよね。
なぜかというとですね、当時日露戦争の戦費調達ですね。日露戦争を戦うために非常に国債をですね、海外で発行してですね、それを戦費調達してましたので、
これを返すためにですね、非常に税金が重くなってました。
かつですね、ロシアの公明な外交によってですね、日本は短期決戦を狙ってましたので、戦争継続はもうできなかったんですね。
なので向こうがもう絶対に賠償金を払わないというところで、当時負けた国の方が戦争の賠償金を払うっていうのが普通だったんですけれども、
ロシアは絶対にそれを払わないというところで、それで講和をしろというところだったんですね。講和ができないというふうになるとですね、お互いに飲めないというふうになると、またじゃあ戦争を続けようかという話になりますので、
03:03
日本としてはもうどうにもその戦争の費用が、もう武器とかも作れないというギリギリの状態でしたので、その講和を飲まざるを得なかったというところで、
結局のところその負担は国民に行ってしまったということになります。
こういうふうな重税があった中で、政府が変なことをやってるわけなので、それで北里に同情したというようなところになります。
政府への反感が高い時期だったんですね。
そうですね。今の感じとちょっと似てるかもしれないですね。財務省解体論とか出てますんでね。
ちなみにこの当時ですね、時代は第一次世界大戦の最中になりまして、日本は日英同盟をイギリスと結んでましたので、連合国側だったんですね。
チンタオにですね、ドイツは植民地を持っておりました。
チンタオビールはですね、ドイツがいたからこそですね、ドイツのビール制度の技術を使って出来上がったビールでもあるんですけれども、
そのチンタオをですね、日本は攻撃してまして、この戦争のニュースよりも北里のニュースのほうがですね、わりと世間では騒がれたらしいですね。
政府はですね、北里柴桜を毒殺したっていうふうな形でですね、新聞は見出しをつけてですね、政府と兵隊を攻撃したと。
すごい、新聞社がそれをつけたってことで。
なかなかキャッチーな見出しですね。
えー、強いな。
強いですね。
でですね、北里はですね、まずですね、素早く動いていくわけですけれども、
まず田畑がですね、病院経営から貯めてくれていた30万円ですね。
こちら、現在の相場では30億円ぐらいの規模になりますけれども、それでもちょっと足りないかもしれないということでですね、
自分の資産を整備して、さらに資金を増やそうということでですね、妻のトラに相談をします。
そうするとですね、トラはですね、もちろん全て売り払って、研究所の資金にすればいいじゃないというふうに言ってくれたみたいなんですね。
心強い。
心強いですね。
すごい支えている。
トラちゃん本当に支えてくれてますね。
それでですね、快諾を得てですね、大喜びでですね、皇帝の北島に電話をかけてですね、
大喜びでですね、君大丈夫だというふうにですね、伝えてですね、新研究所の創設に踏み出します。
06:06
で、次にですね、研究所を建ててもやっぱり運営資金をどうするかというところを考えます。
で、病院経営だけではですね、養生園の収入だけでは研究所を維持できないなということで、
決製とワクチンを製造販売したいというふうに考えます。
一度はですね、国に分け渡したわけですけれども、もう一度自分たちで製造してそれを販売すると。
この当時はですね、この製造許可がですね、警視庁が管轄してたみたいなんですね。
厚生省がなかったのかな、ちょっとすいません、そこら辺がちょっとよくわかってないんですけれども、
すいません、ちょっと調べてなかったですね、すいません。
で、北島はですね、内務省のですね、貿易課長を兼任してたんでですね、
このルートを使ってですね、素早く許可を取り付けることができました。
新しい研究所のですね、名前も考えようというところでですね、
国保研究所とかパスする研究所に並ってですね、第3の研究所と、
世界で第3の研究所というところでですね、先生ぜひ先生のお名前をつけてくださいというふうにですね、
言われてですね、最初はちょっとなんかいやいやってちょっと恥ずかしがってたみたいなんですけれども、
新しい研究所の名前は北里研究所という。
ちゃんと名前が出た。
はい、名前にすることにしました。
はい。
で、病院の運営資金30万円とですね、あと北里個人名義のすべての資産をですね、プラスしました。
でですね、北里の指導を受けたですね、いろいろ全国に講習生たちがいましたけれども、
そういった人間が自発的にですね、北里研究所講演同窓会というのを結成してくれたらしいんですね。
で、みなさん寄付をしてくれたらしいです。
えー、すごい。なんか温かいですね。
温かいですね。
教えたちが。
もうかつての弟子たちがですね。
すごい、慕われてたんですね、やっぱ先生は。
すごいですね、本当に。
で、あと政府のですね、理不尽に同情したですね、多くの国民からもですね、寄付が集まったそうです。
もうなんかクラファンみたいな感じですよね。
そうですね、この当時も。
で、非常に潤沢な資金が集まりまして、北里はですね、かなり立派な研究所をですね、建築の依頼をしたみたいなんですけれども、
この建物が出来上がりますというところで、北里研究所にはですね、3棟の建屋がありまして、
09:08
本館はですね、広報研究所を模様してですね、真似してドイツバロック風を基調にしたモダンな装いに作られます。
で、中央にですね、八角形の塔が建っていて、その両翼にですね、木造2階建ての建物が配置されていると。
で、車寄せの屋根の正面にですね、北里は世界的な研究者へとですね、押し上げた破晶風巾と月経時を図案化した紋章があしらわれたという形で。
すごい、この紋章、破晶風巾だったんだ。
そうですね、あの紋章の真ん中にですね、破晶風巾、マッチ棒みたいな形のものがですね、抜点に配置されていますけれども、
これ、北里をですね、世界的な研究者に押し上げてくれた破晶風巾を模したものになります。
で、その両翼に月経時がありまして、その下にですね、ちょっと北っていうですね。
そうですね、北って書いてますね。
名前になってますね。
ちなみにちょっと建屋の写真を見せるとですね、こんな、見せるとというか、あいこさんにだけ見つけてるんですけど。
立派な建物。
はい、塔がありまして、車寄せがあってというような形で両翼広がっております。
薄グリーンっていうのかな。
そうですね、薄いグリーンで、本当非常にモダンな建物で。
屋根で。
こちらですね、この建物はですね、ちなみに愛知県稲山市にあるですね、博物館明治村っていうところに移築されております。
行ったことある、そういえば。
ということは見たことがあるはずですね。
見たことあるね。
そうなんだ。
えー、そっか。
おしゃれ建物がいっぱいあると。
ちょっと今印象がなかったかもしれないんですけど、また行くことがあれば是非、これかと思っていただければと思います。
そうですね、これ行くときは要チェックしてきます。
私はちょっとまだ行ったことないんで、是非ちょっと見に行きたいなと思ってます。
で、この建物はですね、窓の配置に非常に気を使いました。
窓は全部北窓からの斎口という形で、光を取り入れるところは北窓という形にしました。
これはですね、太陽光の変化を少なくするということでですね、北里はもう顕微鏡観察に、これが非常に最近を見るために重要だということで、
当時の顕微鏡はですね、光を鏡で収集してレンズに集めるタイプですので、
あまりにも部屋が明るくなったり暗くなったり激しいと見え方が変わってしまうのでですね、
なるべくあの光が変わらない、変化が少ないという北窓を採用したようです。
12:07
面白い。
そうですね、面白いですね。当時の本当実験道具のためにっていう形ですね。
普通北窓はなんかね、良くない気がしますけれども。
あんまりね、そういうイメージがありますけど。
本館裏手にはですね、血清室とか培養室、あと化学室などの平屋があってですね、
さらにその奥に大講堂とか講義室、それから実験室が入った等が並んだということになります。
とにかくあの潤沢な資金でですね、一気に大きな私立の研究所を建てることができたということです。
立派な。本当に。
1915年、大正4年のですね、12月11日ですね。
事件が起こってから約1年ぐらいかけてですね、立派な建物、2500坪の敷地ですね。
これ、津久川岡養生園のほぼ正面に建てられたそうです。
この12月11日というのがですね、北里の省にあたります広報の誕生日だったので、
この日に合わせてですね、開所式を盛大に挙行するということで、
この開所式にはですね、2000人もの関係者などが詰め掛けてですね、
力士たちがですね、会場のお世話をしてくれたりとかですね、
客寄せ的な感じでですね、力士たちも手伝ってくれたということが書かれておりました。
すごいですね、盛大に本当に。
でですね、北里はですね、開所式で挨拶して、その際にですね、後藤新平が祝辞を述べております。
この祝辞がですね、なかなかちょっと面白かったので、ちょっと抜粋してですね、ご紹介させていただきます。
電線病研究所を国に移管した場合、国は北里を免職するかもしれない。
その時はどうするというふうに福沢雄吉に詰め寄られたことがありました。
その時に福沢雄吉はですね、自由民権運動に関わっていたんですけれども、
自由民権運動に関わるとですね、ここまで国を信用できなくなるのかと福沢に対して呆れてしまいましたと。
私はそんなことは決してないでしょうとその時答えましたが、福沢先生には先見の命がありました。
自分の不明を詫びたいというふうに言っております。
そしてですね、ところでこの式は大隈総理や市議文部大臣の姿がないが、なぜ彼らは祝辞を述べに来ないのだろうか。
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来ない理由は賢明な皆様のご想像にお任せしますという形で祝辞を締めくくったみたいですね。
なかなか面白いです。
闇が効いてますね。
会場からは当然万来の拍手が沸き起こったそうです。
そうですね、きっといろんな野人も飛んだでしょうね。
でしょうね。
北里がですね、去った後の電線病研究所ですね。
東京帝国大学の方のですね、下に着いたという形になりますけれども、こちらの研究所はですね、帝国大学の教授陣が引き継ぐということになります。
ただですね、問題がありまして、彼らの中にですね、有効な免疫血清を製造できる、そういった能力を持った人間が一人もいなかったんですね。
で、これはですね、これを国民が知ればですね、さらに責任問題というかですね、大変な騒動になるだろうということで、青山はですね、非常に慌てまして暗躍をします。
でですね、かつての教え子でですね、今は北里の右腕となっているですね、北島大一を何とか引き抜こうとします。
で、研究所所長の椅子とですね、大学教授の兼任という条件を散らかせればですね、十分に協力するだろうというふうに見てました。
まあなんか、人間は立場に弱いだろうから、それでいけるだろうというふうにですね、考えてるっていうところがちょっと浅はかだなと思うんですけども。
本当ですね、青山さん。
本当なんかちょっと、まあ名誉欲に取り憑かれた人っていうのは、他の人もこういうもんだろうって思うんですかね、自分の考えの範疇でですね。
そうなんですね、きっとこの感じを見てると。
でですね、この引き抜きをですね、森凛太郎に依頼するわけなんですけれども、ただですね、この引き抜き策はですね、あっさりと北島が断ることでとんざしてしまいます。
そりゃそうですよね。
井野一番に、私ついて行ってやめますって言ってる人ですからね、ついていくわけないんですよね。
いやーすごい、読みが甘いというかなんというか。
いやー読みが甘いですね、本当に。
ただですね、この青山の危機をですね、救ったのも森凛太郎になります。
彼陸軍の軍医ですけれども、あの伝染病研究所はですね、感染症医療のですね、技能を高めるということでですね、各種の講習会を行っていたんですけれども、
ここにですね、陸軍も軍医を派遣してまして、陸軍軍医の中にはですね、血清製造技能をですね、講習で習得してたものがいました。
18:00
その2名をですね、伝染病研究所に送り込んであげるということで、血清製造にあたらせてですね、青山の危機を救うことになりますという形ですね。
まあだから、逆に言うと北里はですね、訳隔てなく、誰が来てもですね、きちんと技能を習得するまで教えてたんだなということになります。
そういう意味では素晴らしいですね、本当に。
そうですね、まあそういう意味では素晴らしいですね。
大正8年のですね、6月11日ですね、長代又郎がですね、訪問してくるということがありました。
長代又郎はですね、長代仙才の息子さんになります。
ですので北里からすればですね、小さい時から知っている、そういう人間になりますけれども、
彼はですね、ちょっと前回も言ったかと思うんですけれども、帝国大学のですね、病理医学の教授になってました。
非常にやっぱり長代仙才同様優秀だったんだと思います。
かつですね、北里とは非常に家族ぐるみの親しい間柄ということになります。
彼自身がですね、実は伝染病研究所のですね、所長に任命されたということで、北里に挨拶に参ります。
伝染病研究所をですね、運営するにあたってですね、北里と亭内とのですね、このいざこざというか、ある程度ほぐしておきたいと、
自分が干渉罪になるべきだろうというふうなところでですね、訪ねてきまして、
責念の恨みがあるでしょうけれども、ぜひ先生、私の所長就任式に挨拶に来てもらえませんかというふうにお願いをします。
北里も大きいですね、喜んで出席するよというふうに伝えます。
6月26日ですね、帝国ホテルでその就任式が開かれまして、北里先生以下ですね、元伝染病研究所の北島とか志賀なども同席をします。
遺憾事件以来ですね、初めての両関係者の同席だったという回だったそうです。
志賀三郎はですね、祝辞を述べます。この時にはですね、もうその遺憾問題には全く触れずにですね、
長代戦災以来の自分と長代家の関係を語ってですね、招待を受けた謝辞と、今後の研究所のですね、発展を記念する旨を祝したということです。
当時はですね、やはり新聞もですね、この回はもう本当にどうなるんだろうということでですね、ワクワクして取材に来てたと思うんですけれども、
21:09
新聞ではですね、長代はおつなことをすると、それを受けた北里も大きいというふうな内容でですね、褒めたたえたそうです。
すごい繋ぐ役として頑張ったんですね。
そうですね、本当に長代がですね、東大側に立場的にはいてしまったわけですけれども、気持ち的には北里の心情はもちろん非常によくわかるところで、
干渉罪としてですね、一生懸命頑張ってくれたのかなというところですね。
北里ですね、最後の仕事と言っていいところに取り掛かっていきます。
北里はですね、ずっと福沢にですね、恩を返したいというふうに考えておりました。
慶応大学にですね、医学部を創設するというような話が立ち上がります。
慶応大学ですね、文系の学部しかなくてですね、ただですね、そのおかげでというか、卒業生たちの中にはですね、実業家として成功したものも多数出てきててですね、
当時いろいろな技術が重要だと、逆に言うと技術は金になるっていうことがわかってましたので、
わかってきたっていうんですかね。ですので、次は技術者の育成をしないといけないっていうふうな形の、そういう機運が高まってきたんですね。
そんな中でですね、医学部も、工学部とか理学部っていうのが話は先に進んでたわけですけれども、
医学部も立ち上げようというような話になりまして、逆にですね、医学部の場合は病院を併設すればですね、運営費も出せるでしょうというところで、
どっちかというとこちらの話がどんどん進んでいきます。で、その運営の人間がですね、これを誰にお願いしたらいいだろうっていうふうに考えたときに、
出てきたのが北里ということになりまして、北里にですね、ぜひ慶応大学医学部創設をするので、そこの取り回しをしてくれないかということで依頼して、北里としてももう、
くずわに恩を返したいっていうのをずっと思ってましたので、もうこれは喜んでということで、これを受けます。
で、教師陣はですね、北里研究所のスタッフを派遣するということで、まあ兼任してもらうということになります。
で、土地はですね、品の町の方に確保しまして、大正8年4月から生徒の受け入れを始めまして、事業を始めます。
で、大正9年にはですね、すべての建物が完成して、いよいよ本格運用ということになっていきます。
24:02
すごい、大学の方にも作ったんですね、医学部を。
そうですね、私学の医学部をですね、立ち上げるというところで、ちょっと亭台とは違う流れを作りたいというところがあったのかなと思います。
私学の医学部としては初めてってことになるんですかね。
私学の医学部としては別に初めてではないですね。
この前に紹介したイギリス系の海軍のお医者さんは東京時計医大の前身になるところを作ってられるので、
私学はあちゃこちゃあったんじゃないかな。ちょっとすいません、そのあたりちゃんと調べてないですけれども。
1920年ですね、大正9年の11月6日ですね、北里67歳になってます。
慶応大学医学部と病院ですね、慶応大学病院の学生式が行われまして、その際挨拶に立ちました。
要は福沢文科ではないけれども、先生に恩恵をこむったことは文科生以上である。
ゆえに不詳、何かお返しはできないかと進んで、この退任を引き受けました。
この新しい医科大学は多年の医学界の悪い習慣で各科の仲間割れがあるが、これを防ぎ、
基礎医学と臨床医学との連携を緊密にして、学内は融合して一つの家族のごとく全員が研鑽に努力することを目指したいと、
そういった挨拶をしてくれております。今でも結構あるなと思うんですけれども、
基礎医学と臨床医学ですね、まあまあ仲がよろしくないなと。
現場と研究は違うんだというような。
臨床系が予算取りすぎているとかって言ってですね、怒ってたりとかですね、する基礎研究者の人も結構いらっしゃいますけれども。
このようなところですね。
柴田さんはですね、低台系が陥っているようなですね、こういう権威主義とか硬直した組織の弊害をですね、避ける大学運営を目指して、
すでに伝染病研究所で培ったですね、組織の運営方式をですね、慶応大学に当てはめるということをいたします。
権威主義を発したものを作っていたんですね。
そうですね。
そんな感じで最後のお仕事をしたというような感じだったんですけれども、1925年、大正14年6月15日ですね、北里72歳の時なんですけれども、スキャンダルが沸き起こります。
27:04
北里家の長男ですね、春太郎がですね、日光でですね、赤坂の芸者と侵入をします。
なんてこと。
夜中にですね、田端が呼び出されてですね、震える声で北里からちょっと後処理を依頼されるということですね。
2人はですね、帯で固く体を結んで水中に身投げしたらしいんですけれども、春太郎は泳ぎが得意でですね、死にきれずにですね、たまたまそこに漁師が通りかかってですね、
2人を救い上げたんですけれども、もうすでに芸者の方は死んでしまっていてですね、息子1人助かったみたいなんですね。
新聞はですね、大災禁学者の息子のスキャンダルを面白おかしくかき立てるということになります。
そんなことが。
しばさぶろはですね、全ての公職を辞任するというふうに言います。責任を取ってというところですね。
そうしたところですね、慶応大学の医学部のですね、学生たちがですね、そこに猛反発いたしまして、学生代表11人がしばさぶろを宅に押しかけます。
で、親父本当に辞任されるのですかと、親父は不認状ですと、我々を見捨てないでくださいというような形でですね、次々に留任を訴えかけられます。
最後にはですね、もうみんなで撤回してくれるまで、もうこの家に楼上するというようなですね、そう言い出す始末でですね、
これにですね、北里は感動してですね、泣きながら留任を撤回することになります。
こんな感じでですね、慶応大学の医学部でも非常にですね、生徒たちからも愛された存在だったのかなというところで。
まあね、偉大な先生だったんでしょうね、きっと。でも、雷親父とも言われてましたけどね。
そうですね、雷親父、どんねる親父ですね、と言われて、非常に突然怒り出すんで、みんな恐れたそうですけれども。
まあとはいえ、すごいしっかりと教えてくれた先生なんでしょうね。
そうですね、本当にそうだったという形になります。
はい。
というところで、今回は締めたいと思います。
はい。
はい。
いやー、ね、初めてちょっと息子さんの話が出てきましたけど。
そうですね、ちょっとね、この息子ちゃん、何やってくれちゃってんのよって感じですよね、本当に。
本当ですね。なんかいろんなことが、いいことももちろんありますけども。
はい。
いいこともあり。
まあ本当、でも、タバタは金も集めるし、こういう裏仕事もちゃんとやってくれるという形で。
はい。
本当、ありがたい人間を、もうそばにですね。
そうですね、ちゃんと。
雷父は置いてくれたんだなというところですね。
30:02
一番ですし、裏切らずにもちろんちゃんとついてくるっていう。
ついてくるっていう感じですね。
はい、ありがとうございます。
はい、じゃあ次回はまたどうなっていくのかというところで、楽しみにまた聞いていただければと思います。
今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
30:37

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