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032.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.16~献身の軌跡と最期の瞬間
2025-07-21 28:35

032.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.16~献身の軌跡と最期の瞬間

北里柴三郎の物語は今回で最終回です!

慶應医学部創設、家族の支え、最愛の妻の死、そして最期まで研究に尽くした北里柴三郎。知られざる晩年と、彼を支えた人々の物語をご紹介していきます。

シーズン2
「ノーベル賞に最も近づいた最初の日本人、北里柴三郎」
の参考図書は

ドンネルの男・北里柴三郎
山崎光夫
東洋経済新報者

北里柴三郎 感染症と戦い続けた男
上山明博
青土社

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00:06
生命科学の冒険者。
ようこそ、生命科学の冒険者へ。
MCの金澤秀明です。
アシスタントの山崎愛子です。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
前回、CCで北田と研究所を建てて、今度は副材を基準のためにというところで、
慶応大技術大学の美学部を創設というところまで。
そうですね。本当に年をとっても、あちこちで活躍すると。
2つ研究所、研究所と医学部を立ち上げるという大仕事をやってのけて、
そんな折に長男が、下者と自殺するという、
自殺、未遂というか。
未遂という状態だったんですけれども、
その後始末をしてくれた田畑の妻、牧が、
1926年、大正15年の5月、北田と73歳の頃に、脳一血で死去してしまいます。
田畑さんの妻、46歳という若さだったそうなんですね。
前年の春に、軽い脳一血の発作に襲われて、
それが再発して半身不遂に陥っていたそうなんですね。
その後、一心一体を続けていたそうなんですけれども、
息を引き取ってしまってですね、本当に46歳、若いですね、今の感覚でいうと。
ただ当時は本当、50歳まで生きれる人も結構少なかったので、
割と寿命だったのかなという気もいたします。
とはいえ、北田と先生、73歳ですけどね、すごいですね。
そうですね、すごいですね、本当に。
鉄人ですね。
年頃に弔ってやれということでですね、
しばらくの休みを田畑に与えます。
田畑はですね、ご遺体をですね、
車で実家のある埼玉県の率軍小川町までですね、
運んで葬儀と埋葬を終えてですね、それで東京に帰ってきます。
北里がですね、研究所にもですね、養生園にも戻ってきたにもかかわらず、
出勤してなかったのでですね、
ちょっとお休みいただいてましてありがとうございますということで、
挨拶に行くためにですね、北里庭園に出向きました。
そうするとですね、線香の匂いがあったらしいんですね。
で、何だというふうに思って奥に入っていきますと、
しばさぶろうが落胆していたそうなんですが、
虎が亡くなっていたんですね。
03:00
ここまでずっと支えてくれた虎さんが。
虎ちゃんが亡くなってしまったんですね。
虎はですね、4年前よりですね、心臓を悪くしてまして、
病院に入退院を繰り返してたそうです。
去年59歳だったということですね。
たまたま自分の妻が亡くなって、
寂しいから虎を呼んでしまったんじゃないかというふうな形でですね、
ちょっと自分を責めたりもしたそうなんですけども、
そんなことはあるもんかというふうに北里はしっかりつけたそうなんですが、
とにかくですね、虎も亡くなってしまったというところですね。
で、結婚後ですね、いきなり6年間ですね、
1人、日本で北里の帰りを待つと。
そうでしたよね、もう長いこと。
長いことですね、いきなり6年間ですね。
で、4男3女を産みということでですね、
子供さんたくさん生まれてますね。
7人。
7人ですね、もう毎年のように妊娠してたのかなっていうぐらいな感じですよね。
うちのおじいちゃんも11人兄弟の末っ子だったので、
当時は、まあそうですね、こういう時代。
そういう時代だったのかなと思いますね。
で、北里ですね、ちょっと紹介をしてないんですけれども、
芸者と沖縄を流してですね、
そういう報道が出たこともあったんですけれども、
虎は特に咎めもしなかったみたいですね。
で、変わらず支えて続けたというところですね。
で、伝染病研究所のですね、遺憾問題が出た時にはですね、
北里が落ち込んでた時に、じゃあもう熊本に帰りましょうというふうに言ってですね、
逆にですね、北里を奮い立たせたというような形ですし、
あと家族で持ってたお金もですね、すべて研究所の運営資金にするというところで、
寄附を許してくれたという、非常に太いですね、
本当に北里を心から支えてくれた素晴らしい奥さんだったのかなと思います。
北里はですね、帰ってきたばかりの田端にですね、葬式の段取りをお願いすることになります。
いやーすごい献身的な奥様が。
亡くなってしまいますね。
それからですね、北里はですね、5年ほど生きた後ですね、
1931年、昭和6年、昭和になりましたね、昭和6年の、
6月13日ですね、北里が亡くなります。
いくつになりました?
70…
06:00
書を書くの忘れてた。
78歳ですね、78歳です。
まあ78、すごいですね、この時代。
すごいですね。
死因はですね、やはり脳一血ですね。
東京の麻布の自宅でですね、亡くなられたんですけれども、
夜寝てですね、朝いつまでも起きてこないということを不審に思ったお手伝いさんがですね、
寝室に見に行ったところ、すでに生き絶えていったということです。
でもこの感じだとこう、ピンピンコロリというのか、なんていうのか。
そうですね、多分本人死ぬと思ってなかったでしょうね。
なんか病弱な感じもなく。
そうですね。
だからその前日まで全然元気に働いてたみたいですね。
というところで、虚勢立つという感じですけれども。
北里はですね、素晴らしい世界的なですね、
研究をやってのけた人物だったわけですけれども、
その弟子たちもですね、なかなか素晴らしい人たちがいっぱい揃っておりますので、
北里先生がですね、育てた弟子をちょっとご紹介したいと思います。
はい、お願いします。
まずこれはちょっと途中でもう一回紹介しましたけれども、
シガー・キヨッシーですね。
シガー・キヨッシーは1897年にですね、セキリ菌を発見します。
この発見でですね、
セキリのですね、治療法の確立に寄与することになります。
彼はですね、ドイツ留学中にですね、
エール・リヒの下でですね、免疫学や科学療法を学びまして、
帰国後は慶応技術大学のですね、医学部教授陣としてですね、
細菌学を教えることもします。
またですね、その後日本東地下のですね、朝鮮ですね、
今の北朝鮮と韓国になりますけれども、
朝鮮の京城帝国大学医学部ですね。
京城ってどこだ?
朝鮮でってことですね。
朝鮮の医学部の創設に尽力いたします。
そしてですね、医学教育の発展に貢献をしますということですね。
朝鮮の方の近代医学の父と言ってもいい人物かなと思います。
もう一人ですね、二人目になりますけれども、
ハタ・サハチロウですね。
この人物はですね、1910年にですね、
ドイツのエール・リッヒ・ハクス氏と共同で、
梅毒の特効薬ですね、サンバル酸を発見いたします。
この薬ですね、当時、
09:05
化学的な薬、化学的な薬っていうのはですね、
なかなか新規で作るっていうのは難しかったんですけれども、
とにかくですね、いろんな化学物質を実験動物に与えてですね、
それでどれが梅毒だけに効くのかっていうのをですね、
突き詰めたというところで、
初めてですね、化学で薬を作った、
エール・リッヒと共に薬を作った人物という形で、
化学療法のですね、本当に基礎を築いたという形になります。
本当にずっと治らなかったですね、
生患・腺症になりますけれども、
梅毒の治療に革命をもたらしたということになります。
すごいですね、ほんとに。
彼はですね、またあのペストの研究とか、
血核予防協会の設立にも関与してですね、
感染症の区別とかにも尽力をいたします。
彼もですね、ノーベル賞候補に上がるほどだったんですけれども、
結果的には受賞にはいたっておりません。
次ですね、何度も出てきました、
第一部長ですね、北島太一になりますけれども、
彼はですね、ハブドクの血清療法を確立しまして、
重要な成果を挙げます。
彼はですね、フランスのパスツール研究所で開発されたですね、
コブラドクの抗血清の製造法を応用して、
ハブドクに対しての血清を作るということをいたします。
これはですね、当時沖縄とか天海軍島でですね、
明治政府によって日本が、
沖縄とかも含めてですね、日本に統一されていきますので、
その中でですね、頻発してたハブによる死亡事故ですね、
これをですね、何とかしなければいけないというところで、
血清を作り上げたということになります。
沖縄のですね、
何て言うんですかね、死亡者を一気に減らした、
大変な功績をなさった方なのかなということになります。
この当時はきっとそういうのが頻発してたでしょうから。
そうですね、今よりもさらに自然が豊かだったでしょうから。
彼はですね、慶応技術大学の医学部で衛生学の講義をして、
また公衆衛生学の発展にも寄与したという人物になります。
何人目になるかな、3人目?4人目ですかね。
宮島美樹之介ですね。
彼はですね、寄生虫学とか熱帯病の研究で知られた人物です。
12:02
やはりですね、沖縄でですね、マラリアがありましたので、
そちらのですね、研究に尽力をいたします。
またですね、宮島というところってですね、
ツツガムシ病、リケッチア感染症というものがありますけれども、
それのですね、病態解明に取り組みます。
これはですね、日本の南方とかですね、
あと東南アジアで広く見られる感染症でですね、
その研究と予防、それから治療に貢献をするというところですね。
先ほど、最初ちょっと紹介したマラリアの研究なんですけれども、
これも宮島でですね、マラリアの媒介がですね、
蚊だということを、まあ、突き止めまして、
その蚊のですね、に関する研究を行います。
で、マラリアの流行のメカニズムを解明したということですね。
特にマレー半島とか八重山諸島でですね、調査をしまして、
マラリアの対策に寄与したということになります。
でですね、まだまだあります、この人。
はい、すごい。
日本重血急中症の研究ですね。
これもですね、この長田らしい日本重血急中症というですね、
起こす帰省中ですね、の研究に取り組みまして、
感染経路とか予防策の解明に貢献するというところですね。
で、この研究が基礎となって撲滅に至ります。
今はもうほとんどない病気ですね。
そうですね、あまり聞いたことがないんですが。
本当に宮島にはいろんな病気があったんですけど、
あとですね、ワイル病の研究ですね。
これレプトスピラ症という病気なんですけれども、
これも細菌性の疾患のですね、病原体であるレプトスピラの研究を行いまして、
この感染症のですね、診断と治療に役立つ知見を提供したということですね。
南方の病気をほとんど取り組んだんじゃないかというぐらい、
いろいろ取り組んだ方になります。
宮島美紀之介さんですね。
そしてですね、有名な野口秀夫も北島文科の一人になります。
彼はですね、バイドクスピロヘーターの純粋培養に初めて成功しまして、
バイドクの病原体を特定します。
これを治すサンバルさんをですね、発見した方とですね、
並んで、もともとのその病原菌がわからなければですね、
それに対する対抗策も出てこないので、
バイドクですね、本当に画期的な研究をされた方ということですね。
15:04
彼はですね、この成果によってですね、
ノベル賞候補にですね、3度上がるほどの業績になったんですけれども、
途中ですね、大熱病の研究に海外に行って、
自身が大熱病に感染してしまって、命を落としてしまうということになります。
惜しい人材が。
惜しい人材ですね。
一度はですね、大熱病の原因菌を見つけたというふうに発表したりとかですね、
あとオロヤ熱っていうののですね、病原菌見つけたとかって言って発表したりとかしたんですけども、
これはですね、実は今ではウイルス感染症だということがわかっておりまして、
顕微鏡では発見できなかったんですね。
なのでちょっとこれは間違いの研究だったというところにはなるんですけれども、
バイドクに関しては非常に成果をあげた方に。
すごい北島先生の文化性が優秀なのがすごいわかりますね。
本当ね、大台には世界的な人間はいないっていうふうにですね、
その当時ちょっと揶揄されましたけれども、
北島文科生にはですね、本当に優秀な人たちがこれだけいたんだなというところになります。
もうこの人たち一人一人をですね、また別途紹介していきたいんですけども、
そんなことやってたら時間なくなっちゃうので。
そうですよね、もうそれぞれ一人一人いろんな人生模様があって。
なのでちょっと今簡単にご紹介させていただきました。
ありがとうございます。
で、これがこのですね、北島先生のスクリプトを書くにあたって、
ちょっと参考となった本を2冊ですね、ご紹介したいと思うんですけれども、
一つがですね、ドンネルの男北島柴桜ですね。
これは山崎光雄さんという方が書かれておりまして、
東洋経済新報社から出ております。
こちらはですね、割と小説風な仕立てになってまして、
読みやすくて、もちろん小説風な仕立てなので、
どこからが作り事で、どこが本当なのかっていうのが、
若干ごっちゃになるところあるんですけれども、
それなりに文献をあたってですね、作られてますので、
なかなか物語が好きな方には面白いのかなと思います。
で、もう一つがですね、北里柴桜のですね、
感染症と戦い続けた男という形で、
これは上山明意二博士、なんて読むのかな。
明意二博士ですね、上山さんが書かれております。
制度社、青い土の社ですね、から出てるものになりますけれども、
こちらはですね、徹底的に一時文献をですね、
当たりまくって書いてる、作れてるものになりまして、
18:02
当時の新聞とかですね、
あと、いろいろな人の日記だとか、
そういったところから拾ってきているので、
ほぼ正確な内容になっているのかなというふうに思います。
どちらかというと、論文というか、
事実をガーッと書いてくれてますので、
正確な事実を知りたい方はですね、
こちらは非常にお勧めになるかなというところですね。
タイプの違う2冊を参考に。
このタイプの違う2冊をですね、行ったり来たりしながら、
とりあえずこちらのスクリプトを書き上げましたので、
どっかに間違いもあるかもしれないんですけども、
そこを多めに見ていただいて、
北里の北里と柴倉のですね、この人生を楽しんでいただいてですね、
ちょっとさらに調べたいなと思った方はですね、
調べていただければと思います。
いやーありがとうございます。
北里先生の功績ということで、
78歳ですね。
たぶん走り続けてたのかなーなんて思いながら聞いてましたけども。
そうですね、本当に走り続けてましたし、
僕全然歴史結構好きだったんですけれども、
北里、柴倉に対して注目を、バイオの世界にいながらですね、
あんまりしてなかったんですね。
で、今回しっかり調べてみて、
福沢諭吉もですね、あんまり正直知らなかったんですけれども、
ここまで日本のために貢献してくれてたのかというところですね、
改めて福沢先生のこともですね、
しっかり調べてみたいなと思いました。
こんなに2人がそういう密接な関係性にあったっていうのが、
私も知らなくて。
全然つながってなかったので、
今回ちょっと調べてみてですね、非常に面白かったですね。
だってどっちかが欠けてもなり得なかったっていう。
そうですね、本当にもうどちらかが欠けてもなり得なかったですし、
また長代先生という方もですね、
僕全然知らなかったんですけれども、
こんだけ北里を支えてくれた人がいたんだなというのも、
ちょっと非常に驚きました。
いや本当ですね、ちょっとやっぱり見た目が変わるとね、
森鴎外先生ももちろん偉大なんですけども、
やっぱりちょっと違う方向から見るとまた違うふうに見えたりだとか。
そうですね、森鴎外ってそんな悪い印象なかったんですけれども、
なんか結構やなやつだなこいつみたいな。
と言いながらですね、北里留学中にはですね、
石黒からお前あっちの研究所行けって言われた時にですね、
取り成してくれたりとかもしてますし、
最終的にはちょっとなんか嫌な感じですけれども、
そういう側面もあったのかなというところで、
21:03
人間なかなか一面だけでは捉えられないですけれども、
ただ陸軍軍医として、
数の兵隊をですね、自分の説に固執して殺してしまったっていうのは、
これはちょっとなかなか許しがたい事態かなというふうに思いましたね。
そうですね。
いろんな北里先生がたどってきた道のりっていうところで、
ずっときちおめにきちおめに研究を重ねて重ねて、
実績を作って、でもなんか選ぶるわけでもなくっていう、
しっかり後世に伝えていってるっていうところがすごいですよね。
すごいですね、本当にとにかく一生懸命、
後の世の役に立つようにというところでですね、
教育にも非常に力を入れて立派な弟子を多数残しているというところも、
本当に素晴らしいところかなと思います。
そうですね、ちゃんと患者さんというか、人のためにという、
治すところまで追っていくっていう。
当時、細菌をハンティングするっていうんですかね、
病気の細菌を見つけるっていうところに非常に重きを置かれてたんですけれども、
彼は治すところまでやるんだというところですね。
そこがね、やっぱり見つけるのが好きな人、
自分が先に見つけるんだっていうところに情熱を傾ける人と、
やっぱりちょっと分かるのかなと思いながら聞いてたんですけど。
そうですね、だから名声を求めるだけでは決してないというところですね。
やはり患者、治してこそ難波だというところですね。
そこに目を向けたというところが、やっぱり彼のさらなる、
業績の一助になったのかなというところですね。
あとね、いろんな誘いを断って日本のためにっていうところも、
すごいひたすら新しい世界を感じましたね。
ですね、本当にアメリカからも40億出すから来いよって言われて。
ね、なんか普通ならフラフラって喜んでみたいな。
そこでいっぱいいろんな研究ができるんじゃないかとかね、
やっぱりいろいろ計算してますもんね。
計算しちゃいますよね、当たり前ですけどね。
いい暮らしもできるでしょうし。
ね、いや、そんなことも思っちゃうところも、
すべてしっかり自分の見定めたものはぶれずに。
ぶれずに、本当まっすぐやりつく。
やってですね、政府に邪魔されても東大に邪魔されても、
もう我が道を行くというところがかっこいいですね。
いやーすごい、本当にそう思いました。
なんかこう、男の嫉妬を見てしまったなっていう、
そういう回でもあったなと。
まあね、いろんな多分感情が蠢いた、
世界情勢的にも多分不安定な時期だったと思うので、
いろんなものが見つかる中。
24:01
逆にね、なんかちょっと今の本当、
このトランプ就任後、またロシアがウクライナに攻めてっていうような形で、
世界的にちょっと不安定化してるっていうところですね。
なんかこの時代背景を見てても、
なんかすごい似たような状態になってるなっていう気がしましたね。
そうですね。
なんか、なんていうのかな、何だろうな、何が理由かちょっとわからないですけど、
そういうふうに動いていくっていう。
そうですね。なんかこう、どんどんどんどん世の中が、
なんていうのかこう、ギスギスというか、
なんか余裕がなくなってきちゃったなっていうのがすごい感じますよね。
まあ、そんな中でですね、
当時、こんな偉大な研究者が出てきたというところでですね、
本当にそれをお届けできてよかったと思います。
はい。ありがとうございます。
次回は何か予定を。
そうですね。はい。
次回ですね、考えておりますのがですね、
このコロナでですね、皆さん本当に非常に苦しみましたけれども、
そのコロナの感染者をですね、発見する手法として一躍注目を浴びたですね、
PCRですね、こちらの発見者のですね、
1993年にですね、ノーベル科学賞を受賞しているですね、
キャリー・マリス博士をですね、
次回からはお届けしたいなと思っております。
非常に一風変わったですね、研究者ですね。
一言で言うと、チャラいって感じなんですけど。
チャラい。
チャラってかっこいいんですよね、この人が。
また北里先生とはちょっと違ったタイプの。
違ったタイプですね。
結構正反対かなっていう方なんですけれども。
ただ偉大なですね、このPCRを発見しまして、
本当私はですね、バイオテクノロジーの業界で生きてますけれども、
まさにPCRでですね、人生が変わったという感じですね。
本当にあの学生の時にPCRの原理を聞いて、
本当にすごい感動しましたし、
研究補助員っていうのでですね、
研究者の下で実験助手をやってたことがあるんですけれども、
その時はもう毎日のようにPCRを毎日やってたという感じですね。
で、この原理を応用してですね、
DNAの配列、DNAシーケンスっていう機械なんかも作られてますし、
ありとあらゆる今の分子生物学のですね、
基礎となるような技術かなと思いますので、
27:01
今、高校生とか生物学を専攻する方は、
PCRの原理なんかを習うっていうのも聞いてますけれども。
えー、そうなんだ。
だからもう、ほんと今ですね、
我々が、我々がって言っても、
あいこさん大分僕より年下ですけれども、
私が学生の時に習ってたですね、生物とはまるで変わってるんですね。
もうこの20年30年で技術はもう圧倒的に進歩してまして、
教科書の内容もどんどん変わってきてます。
なので、基礎知識としてですね、
知るべきところを知らない大人と知ってる子どもたちみたいなですね、
そういうもう格差が生まれてるのかなと思いますので、
ぜひこの基礎技術であるPCRですね、
皆さん知っていただきつつ、
このキャリー・マリス博士のですね、
面白い人生をですね、
視野できればなと思っております。
いやー、楽しみです。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
今回でね、北沢先生のお話は終わりですけども、
またぜひ次回もキャリー・マウス先生のお話も聞いていただければと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
28:35

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